第二話 はじまり
後日、クラスメイトから彼女の名を聞いた。
「
老若男女問わず、彼女のことを「美しい」「可愛い」「綺麗」「可憐」だと、その容姿を称えるそうだ。
学年は同じで所属としては隣の隣のクラス。
しかし、彼女は病弱で学校に来ることがあまりなく、お目にかかることはなかなかできないらしい。
一年生の時はよく登校していた時期もあったり、全く来ない時期もあったりと、やはり体調によるのだろうか。
新学期になって一度だけ登校していたみたいだが、それはおそらく初日に俺が彼女を見た日のことだろう。
もう一度だけでも、彼女をこの目に焼き付けたいと思い、それを原動力にしていた春はとっくに過ぎ去ってしまっていた。
季節はもはや夏。
期末考査も今日で終盤になり、最後の教科のテストがたった今終わった。
全国共通の例のチャイムが鳴り、クラスメイトたちは大きく伸びをし、テストが回収され、下校の準備を始める。
「あー。待ちに待った夏休みがあと一週間で始まる。浮かれるのはいいんじゃが、羽目を外し過ぎるのには注意してくれ。補導されたとか、マジ勘弁じゃけぇな」
帰りのホームルーム、椋先生が相変わらずの調子で夏休みに向けての話をする。
「特に、森本。お前とかな」
「えぇ、俺っすか!?」
足を組んで野球部特有のセカンドバッグに頬杖を付いていた森本が、急な名指しにビクリとした。
他のクラスメイトたちはそれを見て笑っている。
「そんな、はっちゃけることしか考えてないお前たちにこの夏おすすめのイベントがある!」
壮大な前フリに「おぉ」「何々」と期待の眼差しを浮かべる生徒と、話のオチを見越して「またやってる」という冷めた顔をする生徒に二分する。
「
「……」
「いや、マジで誰か参加してくれぇぇ」
沈黙と溜め息が入り混じる教室に、椋先生の悲哀が吐露される。
たしか6月の頭から最初のアナウンスがあった気がする。定期的に何度か告知され続けていたけれど、参加者はまだ2人しか決まっておらず募集定員の5人には、残り3人足りないそうだ。
何故こうも、椋先生が必死に参加を懇願しているのかは分からない。アルバイトの募集、俺は特に興味はないが、そんなに参加希望がいないものなのか?
高校2年生的には、アルバイトでお金を稼ぐより、部活に精を出したり、勉強することの方が大切なのだろうか。
下校の時刻となって、俺も学校に留まる理由はなく帰宅しようと席を立った。
「おい、
教壇に項垂れた椋先生が、ゾンビが生きた人間に縋りつくように俺の腕を掴んで来た。
「なっ、なんですか」
驚いて、相手が先生だと言うことを忘れて振り払おうとしたが、椋先生の手の力に負け、そのまま立ち止まってしまう。
「ちょっと、残ってくれ」
「い、嫌です」
「だめだ。拒否する」
少しの睨み合いの後、俺は他のクラスメイトが出払い、二人だけになった教室で椋先生と対峙していた。
「頼みがある」
「嫌です」
「早い、早いよ! まだ何も言ってないじゃろ」
「言わなくても分かるから断ってるんですよ」
ジト目で椋先生を見る。
「あぁ。いいんだな、お前。後悔するぞ」
ニヤニヤと含みのある表情を浮かべる先生。
「朗報だ。参加を希望している二人は女子だ。6泊7日。一週間、女の子と屋根の下で一緒に過ごせるんだぞ」
「あー。いいっすねぇ」
適当に返事をする。
「そうだろう? お前みたいな奥手男子でも、このアルバイトに参加すれば女子とお近付きになれるチャンスがきっとあるはずだ」
女の子に興味がないと言えば嘘になるけれど、俺が求めているのは、あの日一目惚れをした「十文字英莉菜」さん、ただ一人だ。
「余計なお世話ですよ」
苦笑いで返す。
「ほお。まさか、彼女とかいるわけではないじゃろ?」
「いない、ですけど」
勿論、彼女なんていなし、いたこともないけれど、言い方が少し鼻につく。
「じゃあ、決定な。『
勝手な判断で椋先生は手元に置いていたプリントに俺の名前を書く。
「ちょ、ちょっと」
ペンを持つその手を止めようと腕を伸ばすも、瞬発力の高さで交わされる。
「お前は、親戚のお兄さん相手にそんなことしていいと思ってるんか?」
「いや、その言葉そっくりそのままお返ししますよ」
「何だよ。お前夏休みに、一つでも何か予定入ってるか?」
疑いの眼差しを向けてくる。
「ない、です」
自ら見栄を張ったわけではないが、何故か自分が隠し事をしていたかのようで、少し恥ずかしく、声が小さくなった。
「じゃあ、行け」
椋先生の目付きが変わった。
「お前は夏休みをなめ過ぎなんだよ」
初めて見る目付きだった。
今までの緩い椋先生ではない。そう思った。
「何もせず、何も目標も持たず過ごしたら後悔するぞ」
『後悔』
俺はその言葉にドキリとした。
後悔なんて、数え切れないほど抱えている。
それに、いつだって俺は後悔と共に生きている。
変わらなきゃいけないと思いつつも、あの頃から何か自分が変わったことなんてあるのだろうか。
「やってみないか。たった一週間じゃけぇ」
たかが、アルバイト。働いたからといって、一体何が変わるというのか。
俺が抱える後悔は何をしたって消えることはない。
それでも何もせず坦々と日々を過ごしていいのだろうか。
「きっと、喜ぶと思うんだがなぁ。十文字と、
夏休み。旅館のアルバイトかぁ。どんな内容なんだろう。体力のない俺がやっていけるのだろうか?
「ん? 今何て言った?」
聞き間違いでなければ、今、椋先生が言ったのは……。
「あ? どうかしたか?」
「今、『十文字』って言った」
女子が二人、参加が決まっていると、椋先生は言った。
まさか、まさか、まさかまさかまさか。
「あぁ、参加希望の女子は、2組の十文字と五月女だぞ」
十文字なんて珍しい苗字、彼女しかいないだろう。
「やる。やります!」
つい、柄にもなく大きく声を張ってしまっていた。
「お、おう。急にやる気になったな」
少し引き気味に、椋先生は苦笑いを浮かべた。
「よし、よし。やる気が変わらない内に、ほら、ここに名前を書け」
先生が既に苗字まで書きかけの、参加希望のプリントを差し出される。
「はい」
俺は『英佑』と、今の自分の名前をそこに書いた。
不確かな僕ら 入川軽衣 @DolphinIsLight
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