第6話
「こんにちは。」
いつもと同じように、いつもと同じように。そう意識すればするほどいつもと違う気がして、手汗を隠すように拳を握りしめました。
「フウコちゃん、こんにちはいつもありがとうね。」
「いえ、ぜんぜん! 」
エレベーターのボタンを何回も押して、愛想笑いを浮かべます。
あなたは私のことを悪だと思いますか? 夜にここから抜け出したところで朝が来て光に当たれば最悪、死んでしまう少年を連れ出すことを、悪だと思いますか?
そうなれば私が彼を殺したことになるとわかっているのに、そんなことをする私を、あなたは許してくれますか?
海の幸せは私の幸せのはずなのに、海が望めばどんなことだってできるはずなのに。
私は海にここを出て欲しくないです。
海が死ぬのが嫌だから。
今日は部活を休んで私服に着替えてから来ました。
夜に街を歩いても補導されないようにするためです。
それと、小さい頃から貯めてきたお年玉を全額おろして持ってきました。
軽く10万円は超えています。8年分の私の努力です。
月の光でいいから自然光を見たい
海のその願いが叶ったら、昨日の夜に予約しておいた安いホテルに、二人で泊まるのです。
確かチェックアウトの時間は昼の11時。
その時間になったら近くのインターネットカフェで夜まで時間を潰して、病院に海を送り届ける。
それが私のプランです。
「海。」
私が声をかけるとすぐに海が起きあがりました。
その動作も以前よりいくらかゆっくりとしていて、相変わらず真っ白な肌は闇に浮かぶようでした。
「荷物、まとめた? 」
小さな声で聞くと、海はこっくり頷きました。
あぁ、みて、首が細い。今にもボキッと折れちゃいそうなのに、どうして外に出たいなんて言うの。
訳の分からない病気になる前の、真っ黒な肌、瞳、髪の毛。私は忘れないけど、でも、それでも、今の海も充分素敵だよ。
そんなこと、口に出せやしませんでした。今、あなたには言えても、あの時海には言えませんでした。
「去年の誕生日に母さんにリュックサックを頼んだんだ。なるだけたくさん物が入るやつ。クリスマスには夏物の服と帽子を何枚か買ってもらってた。ベッドの下、見てみて。」
海はなんだか嬉しそうでした。いつもそんな事しないのに急にバーッと話すと、私をせっせとせかし、ベッドの下に隠しておいた黒のリュックサックを見せました。
「中にその服が。父さんが作ってくれた俺の通帳も。あとはええと、ウォークマンとフウコがくれた漫画。まあ、とにかく、必要なものはほぼそこに。」
海は今、何年ぶりかの幸せを味わっているようでした。
「海。」
声をかけたけど、もう聞こえていないみたいに海は言いました。
「どうせ死ぬなら、最後に一回だけ自然の光を浴びたい。ネオンとか電気とかじゃなくて、病気になる前に毎日浴びてた、月や太陽や星の光。」
寂しい横顔でした。
カーテンに遮られた光がもしも彼の顔を照らしていたならば、私はきっと泣いたでしょう。
「そっか、そりゃそうだよね。誰だってこんな真っ暗なところで死にたくなんかないもん。」
私は海に死んで欲しくはないです
すごく。
だって彼が死ねば、彼が死ねば、彼が死ねば、
私は何者でもなくなってしまう。
でも
だけど
それでも
海の幸せは私の幸せです。
私は大事なことをずっと無視していました。私の気持ちよりも遥かに大事なことを。
朝が来て海がいなくなってしまうのがとても怖いです。
でも、それは私の気持ちなのです。
私の気持ちより大事なもの……
それは海の気持ちであり、海の幸せなのです。
「あれ聞こうよ。ドビュッシーの、月の光。」
「うん。」
夜が来て月の光が地球に届くまで、私達はずっとクロード・ドビュッシーの作った美しい旋律を、ただそれだけを聞いていたのでした。
月の光 木々 たまき @koparu
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