(3)
「バレンタインは女性から男性にチョコレートをあげる日だってみんなは思ってるかもしれないけど、そんな決まりなんてどこにもないよ。べつに女性から女性に渡してもいいんだ。想いを届けるのに性別なんて関係ないんだから」
それは、まあ、そうかもしれないけれど。
わたしだってやったことがある。前の日に約束をして、チョコレートを溶かして固めてかわいくデコレーションをして、何人かの友だちと交換しあったりした。
女の子から女の子に渡すチョコレート。
それっていわゆる、
「友チョコってやつじゃないの?」
「そんなの気持ち次第だよ」
リョウはわたしの腕を掴んだままこたつから出ると、ぴったりと体をくっつけてきた。一ミリの隙間も許さないほどの密着。なぜだか自分でもわからないけれど、わたしの心臓は信じられないくらいにドキドキと大きな音を立て脈打っていた。
「ちょ、リ、リョウ、近い、近いわよ」
「そうだね。近いね」
「わかってるなら、少し離れて……」
「嫌だね」
即答だ。うう、と情けない声が漏れる。
「こんなに近いと、ドキドキするよね。……早都子の心臓の音、こっちにまで伝わってくるよ」
耳もとから、くすりと笑うリョウの声。いつも隣から聞こえてくる聞き慣れた声なのに、どうしてか今は体の奥をぞくぞくさせる。
脚が微かに震えるのを、スカートの裾をぎゅっと握って堪える。
「バレンタインデーは、好きだと思っている人に甘い想いを伝える日だ。それはわかるね」
「ん、んぅ……」
「そう。つまり、好きだと思うならチョコをあげる。なんとも思っていないならあげない。それだけのことなんだ。簡単だよね」
リョウがなにかをささやくたびに、耳たぶにくちびるが触れてくすぐったい。今にも甘噛みされそうで、気にしないようにと思っていてもそこにばかり意識が集中してしまう。
そんなことをしているうちに、手が、頬が、体が、燃えるような熱を帯びていく。自然と呼吸が荒くなり、胸が大きく上下する。こくりと唾を飲み下し、心の中のざわめきを必死に堪えていた、そのときだった。
「早都子」
「ひ、ぁんっ」
慌てて口を押さえた。リョウが耳に息を吹きかけたのだ。思わず変な声を出してしまった。……恥ずかしい。
「……い、いきなりそういうことするの、やめて」
「かわいい声を出すね。もっと聞きたくなっちゃったな」
「絶対嫌よ。いい、今度同じことをしたら二度と口を聞かないから」
「二度と?」
「二度とよ。目だって合わせてあげない。本気だからね」
……なんて、いくら強気なせりふを吐いても、あまりの恥ずかしさに涙目になっていたのでは格好がつかない。
それをわかっているのか、リョウは意地悪そうにくちびるに笑みを浮かべていた。
むっとしたり、笑ったり、今日のリョウは表情豊かだ。いつもこんなふうならいいのに、ほんと。
「目も合わせてくれないのは嫌だな。うん、仕方ないね。じゃあ我慢するよ」
「そうして」
「でも、我慢できないこともある」
ほっとしたのもつかの間だった。
わたしがなにか言う前に、リョウはすぐにこう言った。
「早都子の手作りチョコレートはどうしても欲しいな。……本当は、早都子を丸ごと食べちゃいたいけれど」
それは無理なお願いだ。わたしを丸ごとなんて、なにを考えているのだろう。
……ていうか、食べるってどういう意味?
どう答えるべきかといろいろ考えを巡らせながら、返事もせずにただじっと黙っていると、リョウはわたしに抱きつく力を少しだけ緩めた。それからうつむき加減になると、今までとは打って変わって寂しげな声を出す。
「うん、大丈夫。早都子をもらえないのはわかってるよ。早都子があたしのものにならないことも、ちゃんと知ってる。だからせめてチョコレートだけでも欲しいんだ。早都子の作った本命チョコが。……もし早都子があたしを好いてくれているのならね」
言い終えて、リョウは静かに顔を上げた。抱きついたままの格好で、わたしの目をじっとのぞき込む。今にも吸い込まれそうな深い漆黒の瞳に囚われて、視線すらそらせない。
「ねえ、早都子」
いつもみたいに無表情だけど、でもどこか真剣な顔つきで、リョウは言う。
「早都子は、あたしのこと、好き?」
一点の曇りもない澄んだ瞳。幼い頃から今まで、リョウはずっとその目でわたしにそう問いかけてきた。そのたびにわたしはその言葉を軽く聞き流して、てきとうにうなずいていたのだ。それが生返事だとしても、リョウはいつも喜んでいた。表情に変わりはなくても、まばたきひとつでリョウの気持ちは読み取れた。
……でも、今の状況ではそれができない。
だって、こんなに真剣なリョウを見たのは生まれて初めてだったから。
もしここでわたしがリョウにチョコレートを渡せば、それは『わたしもあなたが好き』という意味になる。そして渡さなければ、『わたしはあなたをなんとも思っていない』となるのだ。チョコレートたったひとつで、この関係はどうとでもなってしまう。
ふと、数分前のリョウの言葉を思い出す。
『――もしかしたら、その人はきっと、優しさだけでチョコレートを受け取ってしまったら、のちに後悔すると思ったのかもしれないね』
はっとする。わたしは、ああ、と思った。リョウの言っていた言葉の意味に今さら気づいた。
そうか。だから、わたしの好きなあの人は、わたしのチョコレートをもらってくれなかったのだ。
チョコレートは想いだ。
応えられない想いは、たやすく受け取ってはいけない。
……たとえそれが、優しさだとしても。
「……そっか」
ぽつりとこぼす。一度だけ、ゆっくりとまばたきをする。わたしはリョウから向けられたまっすぐな視線をしっかり受け止めた。
「……あんたって、ほんとにずるいわよね」
「そうかな」
「そうよ。ずるくて、賢い。……好きかどうかを聞かれちゃったら、わたしがどう答えるかなんて決まりきってるじゃない」
目を細めて、睨みつけるようにリョウを見る。
小さな頃からどんなときでも一緒に過ごしてきたから、わたしが『睨みつける』という仕草をするときは恥ずかしいときや照れているときにするのだということを、リョウはきっと気づいているだろう。
だって、わたしが返事をする前に、リョウはすでに幸せそうな顔で微笑んでいたのだから。
「わかった、わかったわよ。……これ、あげるわ」
ずっと手に持っていたかわいいラッピングの施された茶色い小箱を、わたしよりもはるかにふくよかなリョウの胸に押し当てる。
わたしは、わたしの想いを、リョウにあげた。
甘い想いを食べてほしくて、全部リョウに託した。
「ありがと、早都子。大好きだよ」
「はいはい。……わたしも、好きよ」
リョウの腕からやっと解放されて、ふうっと息を吐く。
リョウは早速小箱を開けると、わたしが昨日一生懸命想いを込めて作った生チョコレートをひとつ指でつまんだ。それからまるで見せつけるようにそれを持ち上げて、くすりと笑う。
「早都子の本気は、あたしがひとつ残らず食べてあげる」
桜色のくちびるにココアパウダーをくっつけて、リョウはチョコレートを舌の上に乗せ、転がした。
「……甘い」
ちゅ、と指先を舐めて、妖艶に笑う。
幼なじみの口の中で、ゆっくりとろけていくわたしの想い。
甘い空気に当てられて心も体も変になる。なんだかこのまま、わたしまで溶けてしまいそうだった。
「物欲しげな顔つきだね。早都子もチョコレート、食べる?」
無意識に見つめてしまっていた。慌ててかぶりを振っても、もう遅い。
わたしの視線に気づいてすぐ、リョウはくちびるにチョコレートをはさんだ。それからわたしの腰をぐいと引き寄せて、至近距離で向かい合う。
わたしはこくりと息を飲んだ。
「ほら、口を開けて」
甘い声と、甘い香り。
わたしはもう、諦めるしかない。そして、認めるしかない。
幼なじみの甘いおねだりに弱い、誰よりも甘いこんなわたしだから、今夜は太陽が昇るまでは、熱で溶けたチョコレートみたいにべたべたになりながら互いをむさぼり合うのだと思う。……たぶん、きっと。
(「melting」終わり)
melting 彩芭つづり @irohanet67
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