第5話


(朗 あきら)




あぁ、そうか。


気がついたときには、もう引き返せるところにいなかった。


それなのに、どうしてだろう。


どうしようもないはずなのに、あんまりにも綺麗で。


綺麗で。








「あ!またこぼした!お前…女の子でしょうよ…」

「カズくん、おかあさんみたい。」


やたらと食卓に散らばった塩を、カズが手でぬぐってるのを見て、つむぎは唇を尖らせた。

この小さなお姫様は、俺が持ってきたワンピースに着替え、カズが好きだから…と買ってきたはずのアジフライを、美味しそうにほおばっている。


おかあさんみたい。

つむぎのその、なんてことのない一言に俺は思わず肩がこわばったけれど、カズはふっと目じりを下げた。


「そっか。そりゃぁ、そうだろうな!!お前のかあちゃんの兄貴なんだから!似るわ!いや!似てるのはそっちだわ。」

「そっかぁ。叔父さんだもんねぇ。いいなぁ。おかあさんんと似てるんだ。」


しんみりとした口調で、そんなこと言うくせにもぐもぐと動かす口は止まらない。その様子に、俺とカズは顔を見合わせて笑った。


「つむぎは、ホントそっくりだよ。おかあさんとよく似てる。」

「ほんとう?」

「うん!!この桃見たいなほっぺも、沙緒そっくりだよ。」


つむぎの頭を撫でた。濡れたままの髪が、少し冷たくてその分胸を冷やす。愛おしい我が子。

この子は遠くにやらなければ。ここにいさせてはいけない。


そう、どうしても思う。




沙緒を知ったのは、高校でカズと同じクラスになった時だ。


狭い地域ではあるけれど、川を隔てた先にある大きな工場の息子だとはまるで知らなかった。

どこかいつも寂し気で、笑ってるのに目は冷めていて、喉の奥でいつも言葉を砕いて捨ててる。

俺がカズに抱いた印象はそんなだった。

駅前で、別々のバスに乗る俺らはコロッケ買って、くだらないことばっかり話してた。いつのまにか、カズが腹から笑うようになっていって、それが嬉しくて嬉しくて、やたらちょっかいを出してた頃。


「あ。これ、俺の妹ね?」


高校を見学に来ていた沙緒と出会った。

こんな簡単なものだろうか。

そう思うくらい、一瞬で落ちた。


多分。

「お前、受かんの?ここ。」

「失礼だなぁ。おにいちゃんと変わらないと思うけど、成績。」

「うそつけ!!」

コン、と沙緒の頭を小突くカズがあまりに優しい顔をしていて、ぷうぅと膨らませた頬で兄を睨みつける沙緒もカズに甘えきっていて。


欲しい。


そう、思ったんだ。









「よかったよなぁ、つむぎ。っていうことは、お前俺にも似てるんだぞ。」


変わらず食の細いカズが、数本のそうめんを怠そうにすすってニヤッとした。

つむぎの小さな手には、少し長すぎる箸で同じようにそうめんを口にいれながら、つむぎはうーん、と考えるように上を向く。


「つむ、カズくんに似てるかなぁ?おとうさん、似てる?」

ごくん。

と、飲み込んだそうめんは、一気に味を無くしてく。おとうさん、と呼ばれる度にほんの少しだけ苦い。


「賢いところは似てるのかもね。だから、つむはどこへだって行けるよ?いろんなことができる。」


何したい?

どこへ行きたい?


つむぎにそう言って、何度だって言い聞かせる。

ここにいなくていいんだよ、俺とカズから逃げていいんだよ。

沙緒ができなかったそれを、つむぎは叶えていいんだよ。


きっとそんな俺の想いなど、見透かしてるのだろうカズは、へっと言ってアジフライに醤油をドバドバとかけた。





高校を出てカズとは別の大学を出た。

そのまま、地元を出て就職し数年ぶりに地元近くにできた営業所に配属された。


ちょうどよかった。

打算は見事にハマって、カズのところとの契約はすんなりと進み、おかげで会社でも好成績を残していた。

花笠以外の窓口なら、この仕事は受けない。


カズが出した条件はとても簡単なもののように思えた。


伊東精密とのパイプなら花笠に。


そう、固定されたことで、転勤族だったはずの俺はここに根を張る結果になっていた。


「花笠。あのさ、あんた…うちの沙緒、嫁にしない?」


カズがそんなこと言いだしたのは、そんな頃だった。


願ってもない。


淡い恋心が残ってた俺は、あわよくば伊東精密との仕事が続くことで、また沙緒に会えるかもと、こっそり思ってたから。


久しぶりに会った沙緒は、あどけなさがなくなって艶やかな女性になっていた。やっぱり、カズは沙緒をとても大事に大事にしていたし、沙緒もカズを信頼しきっていた。

カズが言うのならと、他に働きに出ることもなく、カズの下で経理をやっていると言う。


「あんたなら安心だから。だって、沙緒をどっかに連れていこうなんて、しないでしょ?」

「どういうこと?」

「そういうことだよ。あんた、ウチがつぶれない限りウチの専門なんでしょ?そしたらどっか行ったりしないじゃん?そういうこと。」




あぁ、そうか。


気がついたときには、俺は沙緒に落ちていた。


手放せるわけがなかった。


例え、沙緒の心に俺がいなくても。



沙緒の心の中のあの人と俺は、沙緒をどこにもいかせたくない、そんな願いのためだけにそろえられたパーツだとしても。






「ねぇ、おとうさん。」

「うん?」

「つむね、大きくなったら何になるのかな?どこにでも行けるんだったら、なんにでもなれるんでしょ?迷っちゃう。」


本当に困った顔をするから、お腹抱えて笑った。

まだ小さなつむぎの世界に、この狭い場所以外の景色はない。

でも、きっと、この子は大丈夫。


「じゃぁ、つむ!今度の日曜日、遊園地行こうか。楽しいこと一杯知ってるとね、ワクワクするものが見つけやすくなるよ。」

「遊園地!?」

「うん!いこう!行くよね?!カズも!!」


下を向いて、苦く笑ってたカズが仕方なさそうに、つむを撫でた。


「贅沢だなぁ、つむぎ。お供二人も連れて歩くのかよ。」

「違うよ??つむ、高いとこ怖いからね?それはおとうさんとカズくんで乗るのよ?そしたら寂しくないでしょ?」


ククッとカズが口元を隠して笑った。

笑って、笑って、目尻をすっと人差し指でぬぐうと、ごちそうさまでしたー!と食卓を離れたつむぎの背をみて、頬をあげた。


沙緒を見ていた時のように、ただ優しく。


「…花笠。」

「ん??」

「ありがとうね。」

「何が?」

「…沙緒、好きになってくれて。つむぎ、愛してくれて。」

「カズ程じゃないけど?」


ズズッっとすすった最後のそうめんが、喉の奥に落ちた。

ふう、と小さく息を吐くと、やっぱりつむぎが散らかした食卓の塩を、カズは手で拭っては布巾に乗せる。


「ねぇ、カズ。」

「うん。」

「つむぎを、幸せにするんだからね。」

「わかってる。」


こぼれた塩は、ザラザラとあちこちに散らばっていた。

白い粒は、いつかどこかで甘くなるのだろうか。


いや。甘い甘い、甘ったるいこの世界はいつかきっと塩になる。

その日まで、あと10年。





多分、その時にやっと泣けるのだと思う。

沙緒を想って。




ただ、好きだったんだと言えるのだと思う。






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