第4話
「じゃぁ…。」
と花笠さんが指定したのは、夏に花火を見た土手の上だった。
目の端に映る、古びた洋館越しに夕日が沈むのを見ていると、ほんの少し気持ちも落ち着いた。
日が落ちてずいぶんと肌寒くなってきて、コートの前を閉じる。いつも汗だくで、お茶を何度もおかわりしていた花笠さんを思いだして、ほっと頬が緩んだ。
風が吹くたびに、首元が心もとない。
マフラーを取りだそうか迷って、バックにいれたままにした。花笠さんが寒いね、といったら差しだせるように。そのときに私が巻いているものより、畳まれている方が良いだろう。
薄暗くなるほどに少しずつ増す緊張を、寒さのせいにして押し込んだ。
震えてしまうのも、寒いから。
指先が冷たいのも、寒いから。
今日できっと変わる。
何もかもが一新される、その始まりなのだから。
「…美夏ちゃん??」
背後で声がして、思わず背が揺れた。
それをおかしそうに笑って、花笠さんが隣に腰かけた。
その瞬間から、ふわりと空気の温度が変わって花笠さんの体温を感じる。それに心臓が跳ねて仕方なかった。
「そんなびっくりしないでよ。悪い事しちゃったかと思ったよ。」
「すいません。ぼーっとしてしまって。」
「はぁーー、冷えてきたね。どうぞ。」
差しだされた甘い缶コーヒーを、ありがとうございますと手で包んだ。ほんのりと暖かくて、冷たかった指先が温まる。
私が手の中で暖かみを感じてる間に、さっと飲みほした花笠さんは、ふう、と大きなため息をついた。
「…お疲れ、ですか?」
「え?…うーん。まぁ、忙しいしね?色々。」
「…もうすぐですもんね、結婚式。」
「そうなんだよー。けどよかったよ!!、沙緒も少し体調落ち着いてきたし、式の日はなんとかなりそう。」
沙緒。
花笠さんから、その名前が出るたびに息が苦しくなった。私の前で、彼女を呼び捨てにしたことなんかなかったんだ。
結婚をみんなに報告した席でさえ。
あの人は裏切り者なのに、とギリギリする奥歯を何とか抑えた。
「あの、お話が!」
ん?と首をかしげる、その表情がもうすっかり陽の落ちた今は、あまりちゃんと見えない。
暗さに慣れた目と、少し遠くにある街灯。それだけを頼りに、じっと花笠さんを見た。
「沙緒さん…沙緒さんは。あの人にとって大事なのは、花笠さんじゃないんです。」
「…。」
「私、あの日見たんです。花火の日。沙緒さんが別の人と抱き合って…キスしてたの。騙されてるんです。
沙緒さんが、好きなのはあの人。あの人なんですよ??朗さん優しいから、それに付けこんで嘘ついてるんです…!!」
必死になって、まくし立てた。それでもなるべく落ち着けと、自分に言い聞かせた。
きっと、驚きで呆然としてるだろう朗さんは、何も言わない。
それが余計に苦しく、ぎゅっと心臓が締め付けられる音が聞こえるような気がして、思わず拳を握った。
沙緒さんが悪い。あなたは被害者なんだから、とさらに続けてしまいたかった。今すぐにでも朗さんが傷つけば、沙緒さんとの話は終わるはずだから。
終わる。
朗さんは‥その時悲しむのだろうな。
その躊躇いでもう一つの疑いを、ギリギリで飲み込んだ。
トドメを刺すだろうその一言を、私は迷ってしまった。傷ついて裏切りに気がついてくれたらと思うくせに。
バックの中から手さぐりで出してきたハンカチを、握り締めた。薄暗くて見えない朗さんの、流れるだろう涙を、これでと差しだそうとした。
でも。
「…なんだ。見てたの??」
朗さんは、気怠くそう言った。
「…で?それ。誰かに言った?」
「…いえ、そんな。誰にも。」
「言ってない?ほんと?」
「言ってません。」
そっかぁ。と立ちあがった朗さんは、パンパンと勢いよく服についた芝を払った。
「そこでしょ?花火の日、あの洋館の前。知ってるよ。俺も見たもん。」
「‥‥なら。」
「美夏ちゃんさぁ、今の話誰かに言って、沙緒が泣くようなことあったら。
多分、この辺に居られなくなるよ?
わかるでしょ?」
薄暗い中でも、わかる。
私を見降ろす朗さんに一切の笑みはなかった。
そこに落ちてる、空缶でも見るようななんの温度もない視線。
ただ、「わかるでしょ。」とい言ったその一言だけは、ぞくりと背筋が震えた。
あ。
と思ったときには遅かった。
「こどもは!!」
歩いてく花笠さんに必死に私はそう叫んでいて、
「…沙緒さんのお腹の、あの子は!あの、花火の…」
「知ってるよ?それが、何。」
ハンカチを握りしめた私に、ふっと花笠さんは笑った。
笑って、「ほんと、バカだよね。」と呟いた。
去ってく背中は、あっという間に見えなくなる。
暗闇になのか、震え切った体のせいでか、そんなのはわからなかったけど。
ただ、花笠さんが、なぜここを指定したのかやっとわかった。
誰にも、見られたくなかったんだ。
私といるところを。話しているところを。
どこかのお店に出も入れば、きっと、この狭い集落のことだから、すぐに沙緒さんの耳にはいるだろう。
彼は、一つの落ち度も作りたくなかったんだ。
それから。
沙緒さんの裏切りを、誰の耳にも聞かせないためなのだろうと、
消えてく背中を見ながら、やっと気が付いて。
気が付いて、泣くのを忘れた。
ほんの少し、お腹がふっくらとしたのは重ねた花嫁衣装のせいで、ほとんど目立たなかった。
その姿を、若社長は目を細めて見ては「綺麗だわ。」と微笑んでいた。
雪こそ降らなかったものの、その日はずいぶんと冷え込んでいて、お年寄りも多い会場には花笠さんの配慮で本来メニューに無かった、暖かい飲み物が用意され、暖房もこまめに調整されていた。
年末だというのに、このあたりで一番大きなホテルの、一番大きな会場は招待客で埋め尽くされていた。
伊東精密の取引先は、花笠さんの会社を初め肩書のある人ばかりが並び、その誰もが彼の細やかな配慮を話題にしていた。
一応は招待客であるはずの私は、受付や接待などで座る暇もなく動き回っていたが、それで都合が良かった。
ゆっくりと二人が並ぶ姿を見ずに済んでいることが、折れてしまいそうな気持ちの、ほんの少しの支えだ。
式が終われば、沙緒さんは新居へと行く。
事務所の方にかかわることもきっともうない。
少なくとも取引先の家庭なのだから、伊東精密の真ん中には、もう沙緒さんは入らないだろう。
顔を合わせることも、まずないのが救いだった。
幸せそうな二人を見ようと、きっとこの先赤ちゃんを見たって、罵ることがしか浮かばない。
そんな自分が、沙緒さんの視界にはきっといない方がいい。
「美夏ちゃん、お疲れ様!!」
葉山さんが、ぽんと私の肩をたたいた。すっかり涙ぐんだ目元が、嬉しさで下がってる。
「お酌やら、疲れたでしょ。そろそろ私たちもお祝いにうかがいましょうか。」
「いや、でも。まだ…。」
「何言ってんの。ほらほら!行くわよ!」
引きずられて高砂に行くと、沙緒さんはにっこりと微笑んだ。
かわいい、綺麗、こんなに大きくなって!と大はしゃぎする葉山さんの影で、睨みつけそうになるのをぐっと堪え一応の一礼をすると、沙緒さんは私を呼び、手をそっと握った。
「…おめでとう、ございます。」
「ありがとう。事務所、お願いしますね。」
「そんな。私なんて。」
「ううん。葉山さんもだけれど、美夏ちゃんのように支えてくれる人がいるから、お兄ちゃんも頑張れると思うの。私はお嫁に行っちゃうし、伊東の力にはもうなれないから。」
ぎゅっと力のこもった手に、沙緒さんを見た。
柔らかな笑みだった。
凛として、とても静かな。
「…今、幸せですか?本当に?」
思わず尋ねた一言に、花笠さんがこちらを見たのが分かった。
でも、止められないで沙緒さんを見つめ返した。
私の手をそっと離しながら、沙緒さんは驚きも怒りもしない。
悲しそうに眉を下げるわけでもなく、困ったように首をかしげるのでもなかった。
ただ。ただ、一言。
「そうね。与えられる範囲でなら。」
そう言った。
そう言って、でしょう?と微笑んだ。
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