第3話

早く、早く。




早くしなきゃ。









「美夏ちゃん。これよろしくね。」


はい、と受け取った納品書の束を綴じて行く。どんどんかさばるそれを、受注番号順にまとめながら、ふいにため息が出た。


「どうしたの?寝不足?若いね。」

「何言ってんですか。‥残暑にちょっと、体調が良くないだけです。」


経理の葉山さんに言い返すと、面白そうに笑われた。私の母ほどの年齢の葉山さんは、ひとしきり笑った後、


「美夏ちゃんも、若社長も。ほんと若いのにねぇ。浮いた話が無さすぎて、おばちゃん心配よ。」

と、さっきの私より深いため息を吐いた。


浮いた話、と言うのにかすかにビクリとしながらも、「なかなか、出会わないものですよね。」と話を合わせていた。


秋の入り口。

でもまだまだ、暑さが残る。


扇風機は伝票を飛ばさないように、明後日を向いていて、誰もいない若社長の席あたりに風を送っていた。

葉山さんが叩く電卓の音がバチバチと鳴り始め、その音にホッとして綴じ終わった伝票を、棚に並べた時だった。


事務所のドアがあいた。


「‥‥沙緒、さん。」


静かに隙間を空けて、覗くように顔を出す沙緒さんに、葉山さんが「あぁ、沙緒ちゃん!ごめんねぇ。」と駆け寄った。


「葉山さん、すみません。全然、事務所出てなくて。」

「いやいや、いいのよ。体どう?無理させてごめんね?」


開いた椅子に沙緒さんを座らせると、葉山さんは机にもどりいくつかの書類を持って沙緒さんの隣に座った。


「美夏ちゃん、お茶いい?」


「あ、はい。すみません。」


慌てて2人にお茶を出し、自分の机に着くと納期を確認しながらチラチラと沙緒さんをのぞき見た。

葉山さんの後ろ姿越しに見える沙緒さんは、葉山さんの質問に、ああそれは、と丁寧に答えている。

どうやら、経理の引き継ぎをしてるようだった。


「お兄ちゃんにも、一応伝えておきますから。私がふせっている時でもわかるように。」


と、いろいろと書き込みながら説明をしていた。


少し痩せたかなと思うその顔は、穏やかに微笑んでいてとても、花笠さんを裏切っているようには見えなかった。

2人が並ぶと、きっとお似合いなのだろう。


綺麗な横顔。

可愛らしい笑み。

甘い声。


けど、この人は裏切っている。


ギリギリと奥歯が痛くなる。

ずるい。


「そうそう。この間、朗君が挨拶に来たのよ。」

「え、ほんとう?」

「照れちゃって!可愛かったわよー!無理言って誕生日に式をってワガママ言いましたって。沙緒がプレゼントなんですって!ほんと、愛されてるねぇ。沙緒ちゃん。」


まくし立てる葉山さんに、沙緒さんは困ったように眉を下げた。


「ねぇ!美夏ちゃん!照れちゃってねぇ?」


ぱちりと沙緒さんと目があった。


「そう、でしたね。」


沙緒さんから、視線を外せなかった。


「素敵ですよね。あんな一途な気持ち、男の人がわざわざみんなにお話になるなんて。」


沙緒さんは、やっぱり眉を下げたまま。


「きっと、“生涯、ひとりだけ”と決めた人なんですね。沙緒さんが。」


でも、彼女も。


「そうね。きっとあの人は、生涯ひとりだけのひとなんだわ。ずっと、これからもずっと。」


やぁだ、最近の人たちは甘いわねぇ!と葉山さんが笑う。

あんな小さかったのに、おばちゃん年取るはずだわぁ、と。

けれどそれはとても遠くに聞こえてしまうほど、


私から目を逸らさなかった。


扇風機はやっぱり誰もいない方を向いていて、まだまだ暑さが残る今、私のこめかみに汗が流れた。


ぽたっと落ちた音がやけに耳に響いて、ハッとして伝票を拭う。


顔を上げた時、沙緒さんは微笑んでいた。


桃色の頬を緩やかに上げて、幸せそうに。


「朗さんは、優しいから。」


と、呟いて。

そっとお腹を撫でた。





あぁ。


この人は。



沙緒さんの“ひとりだけ”は‥花笠さんじゃないんだ。

あの人だ。


壊れそうな洋館の前で、しがみつくように抱き合ってキスをしていた。


あの人だ。


目を丸くした私に、沙緒さんはまたにこりと微笑んだ。











早く。早く。

花笠さんを、逃がしてあげなければ。


沙緒さんから。



けれど、花笠さんが事務所に来る事はめっきり減っていった。

沙緒さんの体調が良くない日が多く、式の準備を彼と伊東の奥様がしているらしい。電話だけは何度も若社長にかかってきていた。


淡々と日々が流れてく中あの人が、もうすぐ悲しむのかと思うと、進む式の準備もあまりに残酷に思えた。


次会えたら、と待ってる余裕がどんどんなくなってく。



みどりのハンカチは、バックのポケットに入ったままだ。

暑さが引いて、長袖を着るようになってきた今。


私が真実を伝えたら、花笠さんの事だから泣いてしまうかもしれない。

優しい人だから、苦しんでしまうかもしれない。


取引先の社長の妹ととの結婚。


それをやめるとなったら、仕事も出来ないかもしれない。


そうしたら、このハンカチで涙を拭いてあげよう。

何があっても、私はそばにいますと。

あなたが1から始めるのなら、共にここから出ましょうと。


花笠さんとなら、私はどこへでもいきます。


そう言えばきっと。



彼は苦しくても笑うだろう。


美夏ちゃんがいてよかったと、

ありがとう、と


あの光る笑顔を私に見せてくれるのだろう。




葉山さんが休みの日、若社長が職人さんたちと話し込んでいる間に、電話をかけた。


「お世話になっております。

‥そちらの、花笠さんをお願いします。



‥‥‥‥あ、あの伊東精密の‥‥えぇ、はい。美夏です。


すみません、あの、今日は仕事ではなく。



花笠さんに、お話があります。

お時間いただけますか‥‥



‥‥‥‥沙緒さんのことで。」





口元を隠した、くぐもる声は私の緊張を美味しく変えた。

沙緒の?と聞き返した彼の声に、ピリッと苛立つのも、きっともうすぐ甘い思い出に変わる。



結婚式は、来月だ。



早く。早く。




もっと早く、こうすればよかった。

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