遠ざかる月を見ていた

須藤未森

***

 眠ろうと布団にもぐりこむとき。あかるい表情を作ろうとするとき。夕日が落ちるころ、バスに乗っているとき。

 日常の端々にある、感覚をうまく〝変化〟させなくてはいけない瞬間。矢筒桜子はむかしからそのタイミングが苦手だった。眠気もないのに、身体をなんとか説得させて眠ろうとしなくちゃいけないとか。思ってもいないのに誰かに、優しそうに笑って見せなきゃいけないとか。

 そしていま――昼から夜へ空ばかりが難なくシフトしようとしている茜色の下、満員バスのなかで桜子はそっと目を閉じた。どうしてこうも、私は息苦しいほど死にたくなるんだろう。

 今日は特に一日が長くてしんどかった。なぜか担任の先生は朝から不機嫌だし、小テストが朝からみっしり詰まっていたし、興味もない先輩とか先生とかアイドルとかの話にたくさん相槌を打たなきゃいけなかった。極めつけに、今日は仲のいい図書室の先生もインフルエンザでお休みだった。

 そろそろ何かいいこと、降ってこないかな。ため息をつきそうになるのを桜子は何とかこらえた。

 正直なところ、もう高校に行くのは苦痛で仕方ないと彼女は思っていた。それでもなんとか十代の健全な女の子として生きていくためには、やらなければいけないことが山積みになっていた。今日明日のうちに、どうにか課題を終わらせて、友だちにいくつかメッセージを返信して、模擬試験の料金をコンビニで振り込まなくてはいけなかった。

 忙しいことは幸せなこと。

 この言葉は時たま聞くし、確かにそうなのかもしれないと桜子は納得もしていた、はずたった。

 もしその言葉通りだとしたら。自分は、どうしてこんなにどす黒い気持ちでいっぱいになっているのだろう。

 親はまじめでまっとうな人で、友だちや先生も全然悪い人じゃない。いじめられてもないし、ほどほどに偏差値のある学校にも通えている。私は、不自由のない女の子。

 そうだ。重い病気や飢餓に苦しんでいる人とかのほうが、絶対にたぶん恐らく比べ物にならないくらいしんどい。きっと本当は、私には苦しむ権利さえなくて、弱音を吐こうなんて考えること自体が贅沢に違いないのに。

 彼女はふつふつと思った。終わりのない考えに浸るとき、どうしても、どうしても、世界の裏側か月の裏側か、どこかへふいっと消えてしまいたくなる。

 突然、涙がしみだしてきて耐えきれなくなった彼女はバスを降りた。ちょうどそこは駅前のバス停で、帰宅しようと足早な大人や、金曜の夜だと浮かれている大人で溢れていた。行くあてもないので、少女はなじみのある本屋をめざした。この街でいちばん大きな駅前の本屋だ。知っている作家の新刊は出てないか、あの漫画の続きなんだっけと思いつつ、桜子はうつむき気味に歩いた。

 通り過ぎようとした、香水ブランドの派手なショーウィンドに、知っている人影が映っていた。気をとられて目をむけたほんの一瞬にあちらも気づいたらしく、目をまるくした。

「あれ、さーちゃん?」

「うん」

「さーちゃん電車組だっけ?」

「ううん、バスなんだけど。今日は本屋に寄りたくて途中で降りたの」

「ふうん」

 クラスメイトの藤原あかりは興味なさそうに言った。それもそうか、と桜子は気に留めないふりをした。なにせ藤原あかりはクラスのなかでも中心グループに属していて、すごく目立つ、という感じではないけど、誰にも卒なく接することができる有能な人だった。たぶん事件で殺されるとかして、テレビのインタビューが桜子たちにきたら、周りのみんなに明るくて良い子でしたと残念そうに言われるタイプだ。部活は華道部。まあ、それはともかく。読書みたいな根暗な趣味から無縁そうな人、というのが桜子の認識だ。

 そんなわけで桜子が、早々と立ち去ろうとすると、あかりは食い気味に尋ねた。

「ねえ、それよりさーちゃんも見てたんでしょ?」

「え?」


 さして仲がいいわけでもないのに、桜子はなんとなくあかりの話に流されてしまった。適当な理由をつけて逃げてしまえばよかったのだ。そのまっすぐな目を見る前に。

 桜子はつくづく自分が嫌になった。胃の底が少しむかむかして、そのくせ大して話をしたこともない同級生を放っておけないと思った。こんなことしても、なんにもならないとわかっていながら。やっぱり消えてしまいたい、と彼女は再び願ったが、それは先ほどよりもどうにも薄っぺらで儚く、涙するほど苦しいものではなくなっていた。

 桜子は人の多い大通りを、あかりについてすたすたと進んだ。今夜は風が音を立てるほど強く、身体が芯から冷える夜だった。見上げると雲の流れも速く、一等星だけがまたたいている。そんな空の真下、桜子の目の前で街灯に照らされるあかりの黒くて長い髪が、時折きらきら光った。ああ、この子は私よりずっと綺麗だ。前を行こうとする後ろ姿に桜子は素直に感嘆した。

「もうすぐだよ」

「藤原さん、これ見つかっちゃわない?」

「大丈夫、大丈夫」

「もし見つかったら?」

「おんなじ方向にカラオケがあるから、そこへ入ろうとしてると勘違いしてくれるのを祈る」

「い、祈る……」

「うん」

 二人の視線の先には、たえることない人波、そのなかに見知った男性の背中があった。

 英語の非常勤の先生、崎津先生。桜子が苦手な大人の一人だった。しゃきしゃきとした理屈っぽい教え方で、生徒の授業態度に厳しくて、桜子の本音をぶちまけると、自分は優秀なのだ、だから生徒は自分に従うべきなのだとどこまでも思い込んでそうな人。見た目は、なよっとして頭の良さそうな五十くらいのおじさんという感じ。生徒からの人気は肯定派、否定派の真っ二つで、教え方が好きだという人からはとても慕われていた。

「さーちゃん、そういえば崎津にチョコあげた人?」

 唐突にあかりは尋ねた。

「あげてないよ」

「よかったー。そうだと思ったからつい誘っちゃったんだけどさ」

 てへっとあかりは無邪気そうに笑った。

 そういえば今日はバレンタインデーというやつだった、と桜子はしみじみ思った。女子から人気の高いあかりはチョコレートのいっぱい入ったトートバッグを提げていた。きっとあかり自身も友チョコというのをたくさん配っただろうし、きっと彼女のことだから意中の男子にもちゃんと渡したんだろう。

 ちなみに桜子はチョコを誰にも配っていない。まず彼女はお菓子が好きではなかった。ついでに、人でごったがえし、甘い匂いが充満する教室にいるのが嫌で、休み時間は図書室でつぶしてしまい、いくつか友だちからもらってもホワイトデーに返すとだけ言っておいた。こうしたイベントというやつが好きになれないのは、熱っぽいからだと桜子自身は思っている。みんながみんな楽しそうに騒ぎ、頬を上気させ、熱がはなたれる。熱はつめたかったはずの身体を侵食して、頭のなかをトロリと満たしてしまう。その感覚に慣れることがいつまでもできないだけ。

 あかりは、人混みのなかでも迷わずにどんどん歩いていく。やっぱり目的地がどこにあるか明確に知っているらしい。

「あたしも崎津にはあげなかったけど、好きなひとは好きだよねー、あの先生。美佳ちゃんとか本命渡してた」

「うそ」

「ほんとほんと。まあ人の好みにあれこれ言う気はないけど」

「……教え方、好きなのかな」

「たぶんね。ああ、でも、ぜったいにそれだけじゃないと思う」

「そうなの?」

 気に入られたいんだろうね。桜子にも、あかりが言いたいことはわかっていたが、会話を無駄に増やすのが嫌でいい子ぶって黙っておくことにした。

「うん」

 あかりは、桜子が想定した通り自信ありげにしっかりうなずいた。きっと、この人は私よりよほどいい子だ。そう思い至ると、桜子は少し悲しくなった。

 と、ここで、前をいく崎津がちいさな交差点を右へ曲がっていった。桜子とあかりはおしゃべりをやめ、慎重に後を追う。通りが細くなり、人が減る。ほどなくして崎津が足をとめた。ちょうどそこはファストフード店の前で、すぐに一人の女の子が店から出てきた。

「あっ……」

「ね。言ったでしょ」

 物陰へ急いで隠れながら、あかりはふふん、と得意気に笑った。桜子といえば、わかってはいたのに、言葉を失ってその光景を見つめるしかできなかった。

 ファストフード店の自動ドアから出てきた女の子は、あきらかに桜子と同い歳か、もしかするとそれよりも歳下に見えた。制服ではなく、白のダッフルコートに小花柄のワンピースをのぞかせている。遠目では、よく見えないけれど恐らく化粧もしている。だけど、たぶんあれは〝大人〟ではない。直感した僅かな時間、桜子は見知らぬ少女に共振した。彼女の幼気な雰囲気を、まるで刃物に刺されるように感じとった。

 白いコートの女の子は嬉しそうに崎津の手をとると、ためらいなく指を絡めた。自分よりもずっと身長の高い男の顔を見上げて、何か言っている。それを聞く崎津の口端がゆっくりと満足げにあがる。手をつないだまま、二人は身を寄せ、むこうへ歩いていく。

「見てて。そこのホテルに入っていくのわかるから」

 あかりは低い声で言いながら、コートのポケットからスマートフォンを出した。

「藤原さん、まさか」

「うん。そのまさか」

 あかりは、スマートフォンのマイク部分をふさぎながら、パシャパシャと二、三枚の写真を撮った。画面の右側にラブホテルの看板を見上げる男と少女が仲良さそうに映っている。当たり前ではあるけれど、週刊誌で報じられる写真とそっくりだった。こうも簡単に現実は手に取れる形になってしまうのか。完全に記録となってしまったそれを見て、桜子は急に焦りを感じた。一緒に確かめようと言われただけだったから、ここまであかりが行動に移すことを彼女は考えていなかった。

「ふ、藤原さん。それ、どうするの?」

「べつに。どうにも」

 あかりは画面に目を落とし、なにか操作したまま返事をした。

 そのとき。

「あ」

 やらかした、と桜子が思ったときには遅かった。ホテルに入る直前で辺りを警戒するように見回していた崎津と、彼女は目を合わせてしまった。崎津の表情は引きつり、彼は驚いたように口をわずかに開けるのがハッキリとスローモーションになって見えた。

「ふ、ふじわらさん……」

 震えるような声で桜子はやっと声をしぼりだした。あかりがすぐに視線をあげる。息をのむ音が桜子の耳に届いた。

 しかし、行動に出るのに一秒もかけなかった。あかりという少女は。

「ふ、……!」

 息ができない。

 なぜか桜子の目の前に、透明な鏡のように光る、あかりの瞳があった。反射のように逃げようとしても、いつのまにか腰と頭に手を回され、身体が完全に硬直してしまっている。心臓がバクバクと爆ぜるように音を立てる。あたたかく湿った吐息が頬にかかった。まったく状況がつかめないまま、あかりのふっくらとした赤い唇が桜子に重ねられようとしていた。桜子はぎゅうと力強く目をつぶった。時間が止まったような感覚、というのを彼女は初めて味わった。

「しーっ」

 おそるおそる桜子が目を開けてみると。あかりは彼女のほうではなく、崎津のほうを見ていた。口もとに人差し指を立て、にっこりと笑う。そのくせ目は威嚇でもしているかのように爛々として、さかりついた猫のような凄みがあった。彼女はさらに畳みかけるようにウィンクまでやってのける。崎津は見るからに、あわあわと戸惑っていた。とどめとばかりに、あかりは鼻先で桜子の頬をなぞり、腰に回していた手を臀部へ下ろし、ゆっくりと撫でた。崎津は、影を縫い留められたように立ち尽くしてから数秒、やっと目をそらし、ぎこちなく身を翻した。

「それでいいのよ」

 吐き捨てるようにあかりが言った。声音は少しだけ、笑っていた。崎津はきょとんとした顔の白い少女をつれて、ホテルへ入っていった。桜子はただ黙って、三人を見ていた。そうすることしかできなかった。


「いやー! ほんっとにごめん!」

 崎津への尾行を終えて、駅へと戻る間にあかりは何度も謝った。

「あの、もう大丈夫だよ」

「キスとかまでする気は全くなかったから」

「ほんと?」

「うん。あれはとっさの思いつき、というか」

「最初はカラオケに入るふりをするって話だったのに」

「うー、それは完全に忘れてた。ごめんっ」

 あかり曰く。

 こっちもいちゃついてるから、そちらはそちらでどうぞ、お互い見なかったことにしましょう、と伝えるつもりだったらしい。それがきちっと伝わっているか、確かめるすべは一つもないが。

「明日からすごく怯えた目で見られそう」

「ええー。そうだとしたら、してやったりなんだけど」

 あかりはぺろっと舌を出した。無邪気な様子は相変わらずだ。それなのに、どこかなまめかしい。桜子は――珍しく、立ち入ったことを――思い切って切り出した。

「あの、ね。藤原さんはあの子を助けたかったの?」

 すると彼女の予想とはまったく違う答えがすぐに返ってきた。

「いや。全然」

「え」

「それは偶然でね。あの。うん、こういうことしたのは、もっと単純でダメな理由だよ」

「……好奇心、とか?」

「うんうん」

 照れたようにあかりはうつむきながら笑った。

「一か月前、これもたまたま、今日さーちゃんがいたところで崎津が電話してるのを見たの。すんごい甘ったるい声で。正直、気持ち悪かった。それで、ぴんとひらめいたことがあって。前に、あのホテルのある辺りで、崎津が誰か待っているように立っていたのを思い出して、ああこれはもしかしたら逢引きするんじゃないかなって。

 で、そこからは好奇心。ついていってみたら、あの子がいるの。一か月前も、先週も、今日も。今日はこれもたまたま、さーちゃんがあの場所にいて。……やっぱり心細いから巻き込んじゃった、って感じで」

 馬鹿だなっては思うんだ。あかりは、最後に消え入るような声で告げた。しおらしくて、あきらめたように目もとを緩ませるのが、とても悲しそうに桜子には見えた。

「でも、先生があれは悪いよ」

「まあ」

「私たちと変わらない女の子をああやってつれこむのは、先生が悪い」

「さーちゃん、ごめん」

 桜子が慰めようとすると、そうなんだけど、とあかりは口ごもった。しばらく、うーんと唸って、彼女はついに立ち止まった。駅前の交差点。知らない大人たちが何人も通りすぎ、雑踏が耳を支配するなか、桜子はさっきとは一転、あかり晴れ晴れした声を聞いた。

「あの、ね。ほんとのこと言うと、大人のくせに、こんな悪いことしてるんだって見せつけてやりたかった。本人に。

 ただそれだけなんだ。正義感、みたいなものはなくて。悪いことしてるの、あたしはわかってんだからって。大声で言ってやりたかった。それだけなんだ」

 駅前の巨大な噴水を囲んだ、青やピンクのイルミネーションに照らされて、あかりは美しく微笑んだ。やさしくて、悪意のある顔つきだと桜子は感じた。

 と、同時に、そう言葉に思いのたけをすべて変換できる彼女を羨んだ、というか心から嫉妬した。ずるい。そうやって、黒々とした、人に隠すべき奔放な気持ちとか誰かを傷つける悪意を、きちっと素直に言葉にできるなんて。それも、こんなただのクラスメイトにむかって言えるのはずるい。ずるくて、憎い。私だって、大人のくせに……、ってことたくさん思ってきたのに。どうして、彼女だけがまっすぐに言えるのだろう。どろどろした感情をかみ砕くように、桜子は質問を重ねた。

「あの写真は、どうする?」

「そのまましまっておくつもり。先生を悪者にする気は今のところ、ない」

「あれは犯罪だけど」

「それを言えば、あたしも悪いことしたんだし。あの、つれていかれた子も全然嫌がってなかった。これだけじゃ完全な証拠には、ならないと思う。誰に言ってもまともにきっと取り合ってもらえない。それに、やっぱり人にはみんな事情があるから」

 人にはみんな事情がある。彼女の言葉は桜子の内に嫌というほど響いた。彼女はあかりに意地悪く笑いかけた。

「藤原さんって、思ったより優等生じゃないのね」

「うん」

 えへへ、と言いながらあかりは桜子に抱きついた。

「わっ」

「もしかして、それは、さーちゃんもみたいだね。あたしのこと、全然責めないんだもん」

 密着してくる彼女の身体はあたたかかった。消えたい、と桜子はまた思った。胸が内側から圧迫されているように苦しく、何もかも失ってしまいたかった。あかりのことを嫌いだと思った。鼻につくほど無邪気な奴で、そのくせ無視することもできない。

 さっき見た、崎津のことはもっと嫌いだった。あんなに毎日えらそうに教壇に立っているのに、買春?かもしれない事してるなんて、許せない。大嫌いだ。どうしてこんなやつが私の近くで息をしているんだ、早く死んでしまえばいいのに、とさえ彼女は思った。

 でも。人にはみんな事情があるから。

 みんな、ひどい。事情があるから、私はみんなを受け容れなきゃいけない。みんなのことが嫌いなのに、少女として生きていくためには、いい子な顔して誰に対しても、そういうこともあるよねって考えなくちゃいけない。何かに悪意を持つべきではないし、大人の悪いところは知らないふりをしているのが吉。ちゃんと勉強して、ちゃんと望まれる進路を自分でも好ましいと納得させて、ずんずん進まなくちゃいけない。そうすることで、やっと大人たちに褒められる生き物になれる。認めてもらえる、気がする。

 それなのにどうして「悪いことをした、先生に見せつけてやりたかった」と堂々と言う女の子を、私は突き放して考えられないんだろう。どうしようもなく……、好き、だと思ってしまうんだろう。

 桜子は胸が、苦しくてたまらなくなった。

「……藤原さん意外とスキンシップ多めなのね」

「あっ、ごめんごめん」

 よく言われるんだけど、と彼女はまた桜子に謝った。ぱっとすぐに離れていく体温。

「あのね」

「なに?」

「あの写真、しまっておくって言ってたけど。いつかは、消しちゃうの?」

「……証拠持ってたら、先生がもし、もしこっちを上手く脅してきたときに困るかなとは考えた。けど、やっぱりずっと、とっておく」

「そうしてって私も言うつもりだった」

「うん、ちゃんと二人でみたことに変わりはないもんね」

「二人だけの秘密だね」

 かっこつけたつもりで桜子が口にした言葉に、あかりはゆっくりとうなずいた。


 ずいぶんと帰るのが遅くなってしまった。駅を歩く人の数は増え、騒々しくなっていく。これは帰ったらママに叱られるなと桜子は覚悟した。本屋で立ち読みしていたら夢中になってしまったことにしよう。

「バス停はこっちだっけ?」

「うん」

「それじゃあ、その前に」

 はいっ、と元気よく、あかりはトートバックのなかから、二月十四日らしいキュートなお菓子の袋を取り出した。それも三つ。なかには、それぞれココアのカップケーキが二つ入っていた。

「こんなに?」

「妹と一緒にたくさん焼きすぎて余らせてたから。それにたくさんお礼がしたくて」

「ありがとう。えっと、……私つくってないからホワイトデーでいい?」

「もちろん。ありがと! あ、でもその前に」

「なに?」

「今度、カフェにでも遊びに行かない?」

「カフェ?」

「さーちゃん、本好きでしょ。ブックカフェのおすすめあるし、もっとしゃべりたいなって思ったから」

 桜子は急に自分の頬が火照るのを感じた。どうしてそうやっていつもまっすぐな態度がとれるのだろう。不思議でならなかった。それにわざわざテンションも趣味も違う自分を誘ってどうするんだ、まずなんで私が読書好きなの知ってるんだろう、という疑念も色々あったが、口をついて先に返事が出てしまった。

「わかった。じゃあ、また今度」

「うん」

 背をむけて、バス停を目指す。空を見上げると、相変わらず雲の流れは速く、その合間に大きな月がのぞいていた。満月にあと何日か足りない月。あんなに遠くの世界へ行けたら、どんな気分になるだろう。戯れに考えようとして、やめた。

 疲れたなと桜子は目を閉じた。たぶん、帰ったら、また学校が、自分のことが嫌になってしまうだろう、と思った。それはもう逃れられない決まり事みたいなものだった。最近はどうにも涙もろくて、ふとした折りに何もかも全部が嫌になってしまう。

 何か、変わるだろうか。桜子はもらったお菓子の袋を眺めた。モノクロでハートが描かれた女の子と言わんばかりのデザイン。おもむろにその一つを開けて、カップケーキを取り出した。強い夜の風に、甘ったるい香りがほんのわずかに混じる。桜子はぼんやりとした気持ちでケーキにかぶりついた。目をつぶると前をずんずんと歩いていた彼女の後姿がまなうらに浮かんだ。それから、必死になって私を抱きしめ、妖艶に崎津を脅す様子が。それらをぜんぶ飲みほそうとすると、飾り気のない、ただ甘くてほろ苦い味がしつこく舌にまとわりつく。

 秘密の味だ、と桜子は思った。誰も知らない、ぬるくて食べきれない気持ちが少女の心をトロトロと、かき回した。


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