ゆるやかな、ハンバーグ・ステーキの時間
フカイ
掌編(読み切り)
「おまたせ」
といって、笑みを浮かべたママが、わたしのテーブルに今日のディナーを出してくれた。
ママの店の今夜のおすすめは、和牛のハンバーグ・ステーキ。
あつあつのハンバーグが、大ぶりの白い皿に盛られている。深いえんじ色のデミグラスソースには白いクリームがかかっている。
付け合せはニンジンのグラッセと、茹でたブロッコリ。バターコーン。
ナイフとフォークを両手に持ち、ハンバーグを切り分ける。正式なマナーブックではNGなのかもしれないけれど、先に食べやすい大きさに切り分けてしまい、あとはフォークだけで食べるのがわたしは好きだ。
表面がすこしだけカリッとして、ナイフを入れると澄んだ肉汁と白い湯気がほろりとのぼる。とってもキレイで品のいいハンバーグだ。
フォークで刺したその一片をお口にほおばる。
すこしだけ酸味の効いた、コク深い味わいのデミグラス・ソース。そして口の中でとろけるようなやわらかいハンバーグの肉質。噛みしめるごとに、黒コショウとナツメグの香りが広がって、キリリと味の輪郭を整える。
とても上出来のハンバーグ・ステーキだ。
ふた切れ食べて、ボディの重い、赤のグラスワインを飲む。
ライスはとらずに、ハンバーグと付け合せの温野菜、そしてワインだけで、わたしひとりの静かな夕食は進んでいく。
ハンバーグをこうして外で食べるなんて、とても久しぶりの気がする。
家族とファミリーレストランに行けば、わたしはパスタか、カロリーの低いチキンを選ぶことが多い。
でもこうして、ママの店に来た日には、だいたい「今夜のおすすめ」をいただくことにしている。
●
夫と娘には、今夜は残業だと伝えてある。
残業だったのは嘘じゃない。定時より、すこしだけ遅くまで仕事をした。
でも、こんな時間まで、ずっと働いていたわけじゃない。だからわたしは、家族にはすこしだけ嘘をついてここにいる。
けど、不倫や浮気をしてるわけじゃない。ここにはそんな、恋人の姿など、ありはしない。
ママの店は、口コミだけで客を増やした、素敵な隠れ家。
往復六車線の幹線道路沿いにある。
広い歩道。高層オフィスビルの一階。コンビニやパン屋が並ぶ飲食店街の一角に、この店はある。
昼間はこのビルの会社員達がランチを食べにやってくる。ランチタイムには、彼らの胃袋を手早く満たすためのメニューが出ている。わたしは昼間には、この店に来たことはない。
けど、夜になると店の性格は一変する。
大人数でかけられる昼間のテーブルは、クロスを外されて、ふたりがけの小さなテーブルに分離される。
すべてのテーブルは程よい距離を保って置かれ、店内に入りきらないテーブルたちは、奥に片付けられる。
余裕ある空間は、となりの客との適度な距離を作り出してくれる。
昼間はフロア係と厨房に複数の店員を擁するママの店だけど、夜になるとシェフ役のママと、アシスタントの女性のふたりだけで店を回す。
夜のこの店は、都会で仕事をする女たちの、静かな憩いの場所。
すくないテーブル数は、ママの目が行き届くだけの数。品数は決して多くはないけれど、どれも手が込んで、なおかつヘルシーなメニュー。
男性同士の来店は断り、多くが女性客か、男性の一人客。女性同士のにぎやかなおしゃべりも、ここでは聞かれない。
ママのコンセプトは、大人の女が、気兼ねなく、ひとりでリラックスできるための店作り、だ。
ふたりがけのテーブルにひとりで腰掛け、お酒を少しだけ飲み、美味しい食事を食べて帰る。
ママも余計な口をきかない。問われれば愛想良く話はするけれど、ひとりの時間を楽しむ多くの常連客は、みな一様に、文庫本や雑誌を見ながらワインを飲み、「今夜のおすすめ」である子牛のソテーやスズキのハーブ焼きやハンバーグ・ステーキを静かに食べる。
道ゆく人の目線よりすこし高い位置にある大きな窓からは、広い六車線道路と対岸の街の様子が良く見える。ひとりの女達は、読書に疲れると、ママセレクトのワインを口に含み、その香りを楽しみながら、街の夜の景色を眺める。
渋滞する六車線を埋め尽くす、タクシーや乗用車。磨き上げられたクルマのボンネットに、夜の街が逆さ写しで流れていく。
ニンジンのグラッセはほのかな甘さ。
バターコーンは口の中で粒がはじけ、甘みがほとばしる。
街頭の明かりに照らされた広い歩道を、揃いの色のセーターを着た年若い恋人達が、腕を組みながら歩いてゆく。
ハンバーグは家庭料理という気がするけれど、こうしてママの店でたべると、とても高級な逸品に感じられる。
腕時計を外し、もう一杯、ワインを舌に転がして。
●
仕事場でもなく。
家庭でもなく。
かといって、バァやカフェ、あるいはアフター5のちょっとした教室や、はたまたパーティーなどでもなく。
わたしがゆっくりと羽根を伸ばせる場所。
気の効いた料理と、静かな時間。
大柄で、笑顔の可愛らしいママ。40代後半の、深みと余韻のある微笑。マスコミの取材も全て断り、自分のコントロールできる範囲の中だけで、この貴重な雰囲気をきちんと維持している。
何人もの、口をきいたことのない、わたしと良く似た女達。
わたし達はここで、窓の外の様子を見るともなく見ながら、ゆるやかな、ハンバーグ・ステーキの時間を買う。
こういう場所にめぐり合えた幸運を、ひそやかに噛みしめながら。
店から出て、iPhoneで聴きたいのは、《ジュリー・ロンドン。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン》。甘く、トロけるような大昔のスタンダード・ナンヴァー。
地下鉄の階段を下りるわたしのトレンチコートの裾はきっと、軽やかにスィングするだろう。
ゆるやかな、ハンバーグ・ステーキの時間 フカイ @fukai
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