ゆるやかな、ハンバーグ・ステーキの時間

フカイ

掌編(読み切り)




「おまたせ」


 といって、笑みを浮かべたママが、わたしのテーブルに今日のディナーを出してくれた。


 ママの店の今夜のおすすめは、和牛のハンバーグ・ステーキ。


 あつあつのハンバーグが、大ぶりの白い皿に盛られている。深いえんじ色のデミグラスソースには白いクリームがかかっている。


 付け合せはニンジンのグラッセと、茹でたブロッコリ。バターコーン。


 ナイフとフォークを両手に持ち、ハンバーグを切り分ける。正式なマナーブックではNGなのかもしれないけれど、先に食べやすい大きさに切り分けてしまい、あとはフォークだけで食べるのがわたしは好きだ。


 表面がすこしだけカリッとして、ナイフを入れると澄んだ肉汁と白い湯気がほろりとのぼる。とってもキレイで品のいいハンバーグだ。


 フォークで刺したその一片をお口にほおばる。


 すこしだけ酸味の効いた、コク深い味わいのデミグラス・ソース。そして口の中でとろけるようなやわらかいハンバーグの肉質。噛みしめるごとに、黒コショウとナツメグの香りが広がって、キリリと味の輪郭を整える。


 とても上出来のハンバーグ・ステーキだ。


 ふた切れ食べて、ボディの重い、赤のグラスワインを飲む。


 ライスはとらずに、ハンバーグと付け合せの温野菜、そしてワインだけで、わたしひとりの静かな夕食は進んでいく。


 ハンバーグをこうして外で食べるなんて、とても久しぶりの気がする。


 家族とファミリーレストランに行けば、わたしはパスタか、カロリーの低いチキンを選ぶことが多い。


 でもこうして、ママの店に来た日には、だいたい「今夜のおすすめ」をいただくことにしている。





 夫と娘には、今夜は残業だと伝えてある。

 残業だったのは嘘じゃない。定時より、すこしだけ遅くまで仕事をした。


 でも、こんな時間まで、ずっと働いていたわけじゃない。だからわたしは、家族にはすこしだけ嘘をついてここにいる。


 けど、不倫や浮気をしてるわけじゃない。ここにはそんな、恋人の姿など、ありはしない。


 ママの店は、口コミだけで客を増やした、素敵な隠れ家。


 往復六車線の幹線道路沿いにある。

 広い歩道。高層オフィスビルの一階。コンビニやパン屋が並ぶ飲食店街の一角に、この店はある。


 昼間はこのビルの会社員達がランチを食べにやってくる。ランチタイムには、彼らの胃袋を手早く満たすためのメニューが出ている。わたしは昼間には、この店に来たことはない。


 けど、夜になると店の性格は一変する。


 大人数でかけられる昼間のテーブルは、クロスを外されて、ふたりがけの小さなテーブルに分離される。


 すべてのテーブルは程よい距離を保って置かれ、店内に入りきらないテーブルたちは、奥に片付けられる。


 余裕ある空間は、となりの客との適度な距離を作り出してくれる。


 昼間はフロア係と厨房に複数の店員を擁するママの店だけど、夜になるとシェフ役のママと、アシスタントの女性のふたりだけで店を回す。


 夜のこの店は、都会で仕事をする女たちの、静かな憩いの場所。


 すくないテーブル数は、ママの目が行き届くだけの数。品数は決して多くはないけれど、どれも手が込んで、なおかつヘルシーなメニュー。


 男性同士の来店は断り、多くが女性客か、男性の一人客。女性同士のにぎやかなおしゃべりも、ここでは聞かれない。


 ママのコンセプトは、大人の女が、気兼ねなく、ひとりでリラックスできるための店作り、だ。


 ふたりがけのテーブルにひとりで腰掛け、お酒を少しだけ飲み、美味しい食事を食べて帰る。


 ママも余計な口をきかない。問われれば愛想良く話はするけれど、ひとりの時間を楽しむ多くの常連客は、みな一様に、文庫本や雑誌を見ながらワインを飲み、「今夜のおすすめ」である子牛のソテーやスズキのハーブ焼きやハンバーグ・ステーキを静かに食べる。


 道ゆく人の目線よりすこし高い位置にある大きな窓からは、広い六車線道路と対岸の街の様子が良く見える。ひとりの女達は、読書に疲れると、ママセレクトのワインを口に含み、その香りを楽しみながら、街の夜の景色を眺める。


 渋滞する六車線を埋め尽くす、タクシーや乗用車。磨き上げられたクルマのボンネットに、夜の街が逆さ写しで流れていく。


 ニンジンのグラッセはほのかな甘さ。

バターコーンは口の中で粒がはじけ、甘みがほとばしる。


 街頭の明かりに照らされた広い歩道を、揃いの色のセーターを着た年若い恋人達が、腕を組みながら歩いてゆく。


 ハンバーグは家庭料理という気がするけれど、こうしてママの店でたべると、とても高級な逸品に感じられる。


 腕時計を外し、もう一杯、ワインを舌に転がして。



 ●



 仕事場でもなく。


 家庭でもなく。


 かといって、バァやカフェ、あるいはアフター5のちょっとした教室や、はたまたパーティーなどでもなく。


 わたしがゆっくりと羽根を伸ばせる場所。


 気の効いた料理と、静かな時間。


 大柄で、笑顔の可愛らしいママ。40代後半の、深みと余韻のある微笑。マスコミの取材も全て断り、自分のコントロールできる範囲の中だけで、この貴重な雰囲気をきちんと維持している。


 何人もの、口をきいたことのない、わたしと良く似た女達。


 わたし達はここで、窓の外の様子を見るともなく見ながら、ゆるやかな、ハンバーグ・ステーキの時間を買う。


 こういう場所にめぐり合えた幸運を、ひそやかに噛みしめながら。


 店から出て、iPhoneで聴きたいのは、《ジュリー・ロンドン。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン》。甘く、トロけるような大昔のスタンダード・ナンヴァー。


 地下鉄の階段を下りるわたしのトレンチコートの裾はきっと、軽やかにスィングするだろう。


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