07 三日月の夜、ぼくは迷子になった。
慣れない街はどこか冷たくてそっけない。
あちこち見て回ろうとウキウキしていた気持ちもどこへやら。あっというまに心はしぼんでいく。
1ヶ月前まで住んでいた町が好きだった。
駅前の餃子屋さん。どこの餃子よりもうちの店のが一番大きいんだと自慢していた。
その隣に焼き鳥屋さんがあって、またその隣には行列のできるコロッケ屋さん。帰り道に店の前を通ると決まっておなかがぐうっと鳴った。
1日中、おいしそうな匂いがしていた。好きだった。
この町は女の子が並ぶようなかわいくて甘いお店はたくさんあるようだったけど、ぼくのおなかは反応しない。あと、華やかで少々まぶしすぎる。
薄暗いほうへ、できるだけ暗いほうへと足が向いてしまう。
路地裏の換気扇は食べ物の匂いが混ざり合っていた。どちらかというとこの匂いのほうが親しみがあって落ち着く。
そんなぼくを見て、彼女はよく「暗いところが好きなんだね」と言った。
「違う、好きとかじゃなくて落ち着くんだ」そう訴えてみたところで彼女は理解してくれなかった。どうして彼女はここに引っ越してくることにしたんだろう。
細い路地を歩いていると、裏口らしきドアから若い男が出てきた。見覚えのある顔にホッとしたけれど、彼はぼくをチラリと見たあとため息をついた。
「今日も気楽そうだな、お前は」
この町で初めてできた友人と言えそうな人だった。ゴツゴツとした指の先は荒れて赤くなっている。
「そっちこそ、今日も暗い顔してるね」
「まぁた店長に怒られたよ。皿割っちまった。割るたびに俺の給料が減る」
「皿を割らないような仕事に就けばいいんじゃない?」
「でも、俺にはこれしかできないんだ」
もう一度、大きなため息をつくと、彼はぼくの背をポンと軽くたたいて「お前もしっかりな」と言って戻っていった。
料理人を目指しているという彼はこの町に来て2年目だという。先週、食べさせてもらった小難しい名前のついた魚の蒸し料理はなかなかおいしかった。まかないとして作ったそうだが、普通に店のメニューとして出しても良さそうだと思ったのに、店長はダメだと言うらしい。
彼の落ち込んだ表情を見たせいか、ぼくの心も重くなっていった。
これ以上、無理をしてひとりで夜の散歩をしたところで楽しめそうにない。
こういう夜はさっさと彼女の元に戻るのがいい。
歩き出して、ハタと気がつく。
ここから彼女の家にはどうやって帰ればいいんだっけ。
どうも地図が苦手だし、方向感覚、というものがぼくには備わっていないらしい。料理人の彼の店があそこだから……いや、彼の店の裏側に回ったのは初めてだった。どうも普段と勝手が違った。歩き出した方向が合っているのか間違えているのか、さっぱりわからなかった。
そうだ、こんなときは月を見上げて歩けばいいのだと恋人が言っていた。月を追って歩いているうちに、会いたい人の声が聞こえるから、その声に耳を澄ませていればやがてたどり着くと。
そんな話、本当はちっとも信じてはいなかったのだけれど、今日は試してみたい気分だった。
ツンと澄ました三日月を見上げて歩き出す。
ときどき障害物に足をとられそうになるけど、問題ない。転んで泥だらけになるのは慣れている。
飲食店が並ぶ賑やかな通りを抜けると、すぐに住宅街だった。人の声も、車の音もしない。静かだ。耳をすまし、彼女の声を探す。
この時間なら、彼女はもう部屋のベッドでゴロゴロしているだろうか。狭いベッドで彼女と戯れる時間が何より好きなのだが、彼女が先に寝てしまうこともある。
ああ、でも今日は大丈夫みたいだ。まだベランダにいる。
彼女の鼻歌が聞こえる。
きっとタバコをくゆらせながら、お気に入りの歌を歌っている。
そうそう、この道は知っている。
ここの角を右に。
少し歩くと古びた眼科の看板が見えて、その2軒隣が彼女の住むアパート。
1階角部屋のベランダ。
ベランダの柵にひょいっと乗っかると、彼女は呆れたように笑ってタバコの火を消した。
「どこをほっつき歩いてたの。すぐに部屋から抜け出すんだから」
-君が窓を開けっ放しなのが悪いんだよ。
「ごはんは食べた?」
-食べてない。
「その様子はおなかが空いてるみたいね。ほら早く入って」
「にゃあ」
僕を抱き上げた彼女からはぼくの大好きな匂いがした。
****
「おい、お前また店の外で猫と遊んでただろ」
「えっ、見てたんスか」
「誰かと喋ってるのかと思ったら、猫に向かって、ブツブツと……俺の悪口を言うなら店のそばでやるな」
「……すんません」
「そうだ、この前まかないで作った鱈の蒸し料理、もう1回作ってみろ」
「え?」
「前回と同じ味に出来上がったら、メニューに加えてやる」
「……はい!」
Fin.
六畳フローリング、パソコンの前 ふくだりょうこ @pukuryo
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