06 指でなめてフォークで刺して包んで食べて

がらんとした部屋の中は寒かった。

暗い部屋にバッグを置き、窮屈なスカートのホックを外すと冷蔵庫を開けた。

1人分とは思えない量の食材が詰まった冷蔵庫。

いくつかのタッパーにはメモが書かれたマスキングテープが貼ってあった。ひじきの煮もの、ポテトサラダ、豆とキャベツのサラダ、鶏ハム、大根の煮物etc.

出て行く前に作っていたのか、と気づくまで少し時間がかかった。ビールの缶とポテトサラダが入ったタッパーを取り出す。

缶のプルトップを開ける小気味の良い音が静かな部屋に響いた。一口、飲む。独特の爽快感が喉を通っていたけれど、寒くてブルリと体を震わせた。

タッパーを開ける。箸もフォークも手元にない。取りに行くのがめんどくさくて、指ですくって食べた。慣れた味。指じゃやっぱりうまく食べられない。のろのろと腰を上げて、キッチンにスプーンを取りに行く。

耳にぶら下がったピアスが揺れるたびに重い。雑に外して流し台に置いた。


昨日、恋人が出て行った。

別れたいと言い出したのは私だ。もうなんだか好きじゃなくて。一緒にいてもドキドキしなくて。

仕事もできて、料理もできて、見た目はゴリラみたいな彼とお別れしたことを、友達はみんな「もったいない」と言った。

「もったいない」ってなんだ?

『そのまま結婚しちゃえばよかったのに』

『どうせ結婚したら好きとか言ってられないんだから』

『どっちかっていうとあんたのほうが中身はゴリラだからね?』

うるさい。失礼な。知ったような顔で偉そうなことを言わないで。


あれだけ愛した人のことをなんとも思わなくなる。それは私にとっては恐怖だった。

恋って終わるんだ。愛って終わるんだ、と思った。


彼は物分りのいい人だった。

私が別れたいと言ったら、「どうして?」とは聞いた。

「もう好きじゃないの」

「そっか」「じゃあ、近いうちに荷物をまとめて出ていくよ」「しばらくは実家に戻ろうかな」「君の部屋にもともと転がり込んだようなものだったし、今まで狭かったよね、ごめん」

ゴリラのくせに妙に気遣いができる人だ。だから途中から気遣いゴリラって呼んでた。ひどい呼び名だ。

出ていくときも、あの人はさわやかなものだった。

「またね」

付き合い始めのころ、デートの別れ際にも同じような顔で言っていた。あのときは、もう少し一緒にいたいなあ、とか、なんで同じ家に帰れないんだろう、などとよく思ったものだった。


昨日は――。

昨日は、どうしてこの人は私に「またね」って言っているんだろう、って思った。

だってあなたの家はここでしょ?

「別れたい」と言ったのは私なのに、この家から出ていけって言ったようなものなのに、なんて自分勝手な女なんだろう。


一本目のビールはもうカラになっていた。スカートとシャツを脱ぎ捨てて、ベッドに脱ぎ捨ててあったジャージとモコモコのパーカーを買う。モコモコのパーカーは彼が買ってくれたものだ。こういうのって洗濯するたびにヨレッとしていくからいらないと言ったのだけれど、なぜか彼が洗濯するとモコモコのままだった。あったかい。ホッとする。

明日朝起きたら、シャツにアイロンかけなくちゃ。アイロンってどこだっけ。いつもアイロンをかけてくれていたのは彼だった。

鼻の奥がツンとして、慌てて唇を噛みしめた。冷蔵庫から2本目のビールを取り出す。妙に酒の量が多い。私が普段買わないような高いビールも入っている。あと、飲みすぎるとダメだからって買ってくれなかったストロングゼロも入っている。そういえば、作り置きされている料理もつまみになるようなものばかりだ。私が今日、飲んだくれてやろうと企んでいたのを予想していたのだろうか。


やっと部屋の電気をつけた。行き届いた掃除。2人で行った旅行先で買ったスノードームはテレビ台にちょこんと乗ったままだった。ほかにも、思い出の品は全部残っている。俺には一切、未練がないということなのか、それとも……。


バッグの中でスマホが震える音が響いた。乱暴に缶をテーブルに置いてバッグの中を探る。いつもバッグの中が散らかってるからすぐに必要なものが取り出させないんだよ、というあいつの声が聞こえる。そんな私の行動が分かってくれているかのように、スマホは我慢強く鳴ってくれたので間に合った。いや、間に合わせてくれたのか。


「も、しもし」

『おー、トモ。呑んでる?』

「呑んでるよ。作り置き、ありがとう。あと、お酒も」

『うん、どうせ飲んだくれるんだろうなあ、と思って』

「本当に気遣いゴリラなんだから」

『しょうがないじゃん、お前のこと、分かっちゃうんだもん』


本当に腹立つ。私が家に帰ってくる時間も分かっていて電話をかけてくるのも腹立つ。きっと全部あいつはお見通しなんだ。


『寂しいんじゃないの?』

「は? まだゴリラが出て行って丸1日も経ってないし」

『でもさあ、3年も一緒に暮らしていたやつがいなくなるとさすがに違和感あるでしょ』

「……そんなことない」

『本当に? 俺は寂しいんだけど』


こんなふうに素直に自分の気持ちを口にするあいつが憎い。だから私は言えなくなるんだと心の中でいつも逆恨みをしていた。


『じゃあ話を変えよう』

「もう切るよ」

『米、食いたくない?』

「本当に話を変えたね?」

『ちらし寿司食いたくない?』

「なにそれ」


ゴリラの作るちらし寿司はおいしい。レンコンとか、ゴボウとか、野菜がいっぱい入っていて、次の日はそれを煮た薄揚げの中に入れてお稲荷さんにするともっとおいしい。お弁当にして持っていくのが好きだった。


『一緒に食べよ』

「1人で食べればいいじゃん」

『やだよ、トモと食べようと思って作ったんだよ。もう家の近くに来てるし』

「なにそれ、もう別れたの、分かってる?」

『俺、別れるの了解してないけど』

「なにを……」


いや、待て。確かに私は別れると言ったけれど、ゴリラは「そっか」と言っただけだった。


『俺、トモのこと好きだし』

「でも、出て行ったじゃない、実家に戻ったじゃない」

『手狭だったのは確かだし、そろそろ2人で引っ越しかなと思っていたんだよね』

「…………」

『トモが毎回、ダダこねるからさ。1回、懲らしめてやろうと思っただけー。俺がいること当たり前になりすぎ』

「なによ、私、馬鹿みたいじゃない」

『まあ、しょうがないよね。トモがなんて言ったって、俺はトモが好きだもん。結婚するし』

「私はもう好きじゃないし」

『はいはい』


この感じ、腹立つ……でも。


「5分」

『えっ?』

「あと5分以内に来たらうちに入れてあげる」

『わかった』


電話が切れる。きっと息を切らして3分以内にうちに来るだろう。

それまでに、ゴリラの分の箸とお皿も用意しておいてやろう。


ところで、電話を切る前にずいぶんと大切なことをサラッと言っていたような気がする。

そういうセリフはもっときちんと言ってもらわないと聞いてやんない。


Fin.

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