05 色のない顔

『期待外れだったよ』


カフェの窓際のカウンター席で思い出すのは小太りな男性上司のニヤケ顔。

品が感じられない口元を脳内でズームアップしてしまい、気が滅入る。


『もっとできると思っていたんだけどね。普段の業務についてもイマイチ、社内での人間関係もうまくいってないんだって?  君は一体、何ができるの?』

『正直、給料と働きが見合ってないんだよねえ』


「……うっさい、馬鹿」


ポツリと言うと、隣に座っていた男性が腰を上げた。あなたに言ったわけじゃないの、でもここでそれを弁解することに大した意味はない。


――言われたその場で言えたらスッキリしただろうし、仕事も辞められたかも……いや、それは無理か。

ほかの社員の前で注意を受けたことで頭に血が上り、カーディガンの裾をぎゅっと握って俯くしかできなかった。ヒールの先っぽが少しハゲているのを見つけてまた悲しくなった。私って何もかもダメだ。


行きたくない。そう思ったら、駅の改札から足が動かなくなった。会社までは歩いて10分。仕事ができない分、みんなの雑用ぐらい引き受けなければといつもは始業の1時間半前には出勤するようにしている。

でも、今日は、嫌だ。


たまになら始業ギリギリに行ってもかまわないだろうと駅の近くのカフェに入ったらそこから動けなくなった。ウインドウに映った私の顔は輪郭もぼやけて心もとない。ふうっと吹けば消えてしまいそうだ。

上司の言葉が頭の中で繰り返し響き、息がしづらくなってくる。

給料と働きが見合っていないなら辞めさせてほしい。でも、仕事を投げ出すなんて無責任だ、と言われてしまいそうだ。あの上司が薄ら笑いで言うのが容易に思い浮かべることができる。


私なんて用なしだいらないんだ苦しい苦しい苦しい消えたい消……。


「あっれ、珍しいね。水野!」


聞き覚えのある声に体を固くする。視線を上げると、同僚の岩永がいた。


「ここで会うの初めてじゃない?」


当たり前のように岩永は私の隣に腰掛けた。ゆるく束ねた栗色の髪がふわりと揺れる。


「なんだよ、浮かない顔してんじゃん」

「そんなこと……」

「もしかして昨日、北山さんに怒られたのまだ引きずってんの?」


この女にはデリカシーがない。思ったことはズケズケというし、空気を読まない。上司にだって平気で口答えをする。


「引きずってなんかない」

「うっそだあ。会社に行きたくなくてここでウダウダしてたんじゃないの?」

「……そういうんじゃないったら」

「いいじゃん、行きたくないならサボっちゃえ」

「は?」


まともに仕事ができないのに休んでいいわけがない。

適当そうに見えて、人の三倍ぐらいの仕事をサラッとこなしている岩永には私の思考など想像もできないだろう。

いや、この人は他人の思考を想像するとか、気持ちを慮るとか、そういうことが自分の行動の選択肢にないんだった。


「行くよ、会社。休んだっていいことないし」

「なんで行くの?」

「なんでって……行かなきゃいけないから」

「誰が決めたの? 会社に行かなきゃって自分が決めただけでしょ。サボったって死にはしないよ」


彼女が何を言っているか分からない。

ぬるくなったブラックコーヒーを一口飲む。不味い。


「水野はさあ、素直に言われたことを受け入れちゃうから、北山さんとしては嬉しくなるんだと思うなあ。ああ、この子は俺の話聞いてくれてる! って。あの人の話なんて聞き流しときゃいいんだよ」

「でも、私が仕事ができないのは事実だし」

「本当に? 北山さんの仕事の振り方が悪いだけだよ。今の業務が水野に合ってないだけ。もっとクリエイティブなもののほうがいいんじゃない?」

「私が、クリエイティブ?」

「そそ。前に私の企画のアイディア出し手伝ってくれたことあったじゃん? そのときすごく助かったんだよ」


そういえば、新規のクライアントへの企画案を考えてる、と相談されたことがあった。

なんで私に聞くんだろう、と首を傾げながらも何気なく思いついたことを口にしたのだけれど、後日、私が出した案が採用されたと岩永が報告してくれたのを思い出す。

嬉しくなかったと言えば嘘になるけれど、それが何か私の得になるわけでもないのですっかり忘れてしまっていた。


「だいたい水野は人と話すのが苦手なんだから、クレーム担当とか無理だって」

「でも……北山さんが私にはそれぐらいしかできないって」

「北山さんに見る目がないとか思わないの? 部下の適正も見抜けないポンコツ上司だって」

「ポン、コツ……」


考えたことがなかった。上司の言うことは全て正しくて、言われたことを素直に聞いていれば間違いない。そう思って仕事をしてきた。


「今、あんたが見てる世界が全てじゃないんだよ。毎日、あんなふうに言われてたらそんなふうに考えるのも難しいだろうけど」

「…………」

「私はこんなもんじゃない! ってタンカ切ってやればいいじゃん。もっと私が活きる仕事を寄越せ! って」


私が活きる仕事? そんなものがあるんだろうか。

上司がそれを見極めて仕事を振ってくれるものじゃないの?


「……あんたさあ、彼氏にも言われたい放題なんじゃない?」

「えっ」

「甲斐甲斐しく世話をして、いい男もダメな男に仕立て上げそう」

「そんなこと……」


言い返そうと思ったけれど、図星だったので次の言葉が出てこなかった。

付き合い始めたころは優しかった恋人も、次第に私を雑に扱い、命令ばかり。私が悩んでいても話も聞いてくれない。今の恋人も、今までの恋人もみんなそうだった。もしかしたら、あれは私のせいなのか。


「ま、こんなことを言うのは私の勝手だけどね。あんた見ててちょっとイライラしたから」

「…………」

「自分が『何もできない』ことばっかり気にして、自分が『何かできる』場所を探しに行かないのは怠慢じゃない?」


そう言いながら、岩永は腰を上げた。時計の針は、8時45分を少し過ぎたところだった。私もカラになったカップを持って立ち上がる。


「あれ、行くの? 会社」

「……行くよ。北山さんに怒られたから会社休んだって思われたくないし」

「ふーん」

「岩永さんのおかげで少し気分が変わった。ありがとう」

「どーいたしまして」


ふふんと笑った彼女の唇には真っ赤な口紅が引かれている。

今日は仕事を定時に上がって、口紅を買いに行こう。真っ赤じゃなくていい。私に似合う口紅を買おう。


Fin.

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