思いきり噛んで、抱きしめて

藤枝伊織

第1話

 夜はいつだって神経を逆なでするような静けさがある。それはうるさかった教室が、教師の一言で静かになるのに似ている。作為的な静けさ。睦月はベランダの手すりに背中をあずけ、月を仰ぎ見た。空は黒いのにそこだけぽっかりと白い。まばらな星は青かったり赤かったりさまざまな色をしているのに、蛾を焼く外灯のような月だけが明るく、嫌に作りものめいている。中秋だからだろうか。

 本物はどこにあるんだろうね。

 睦月はふう、と息を吐きだした。それは白く滞りゆっくりと闇の中に消えた。口の中が熱い。どこかが疼く。

 夜は好き。なにも見えなくなれば自分という存在の境界も曖昧になる。そうすれば、きっと寂しくない。藍の闇は優しい。

 彼女は無気力に垂らしていた腕を、意識して持ち上げた。そして自分の指先の感覚を確認するように握りしめ、開く。寒さで青白い指先に、わずかながらも赤みが戻ってきた気がした。人差し指を緩やかに折り曲げ、その背を口に含む。舌先で舐ると唾液が指を伝い、爪の先から零れた。期待に体温が上がり始めていた。ゆっくりと、指に歯を立てた。

 睦月は恍惚とした表情を浮かべ、指を何度も噛んだ。顔をのけぞらせ、身体の奥から湧き上がってくる甘い感覚に意識を静めようとしたそのとき、ベランダのアルミ製のドアが開く音が聞こえた。

「睦月、いる?」

 睦月の意識は、その声によって現実に引き戻された。

 もう少しだったのに。いつもはなは邪魔をする。

「やっぱり、またしてる。ずるい」

 ため息交じりに言うその声にも熱が含まれている。睦月よりも頭一つ分背が高い彼女は背をかがめるようにしてドアをくぐり、睦月の正面に立った。睦月が口に咥えていた手を引き、やや乱暴に睦月の視線を固定した。

「先に一人ではじめないで。ずるい」

 彼女の夜にも似た瞳の中に睦月が映りこむ。

「はなぁ、うぅん、おかえり。英」

 睦月は口に溜まった唾液を飲み下し、彼女に笑顔を投げかけた。英は口角をあげるだけの笑みを返す。彼女は、目線はそのままに睦月の手を包み、指に残る噛み痕をなであげた。

 優しいその指先は睦月を気づかっているようにも思える。けれど、そんなもの睦月はほしくなかった。ほしいものはいつだって決まっている。

「噛んで」

 睦月は焦る声を抑えながら、英に指を差し出した。そのとたん英は目にいたずらっ子のような幼さを浮かべた。ゆっくりと弧を描き睦月の手を口元にあてがう。英の少し大きい前歯が月光を受けて白く光る。

「はやく」

 はやく噛んでほしい。その様子を嘲笑うかのように英は目を細めながら、歯で皮膚を引っ張るように噛んだ。睦月はこらえきれずに嬌声をあげた。膝が震えていた。先ほど睦月がつけた痕をなぞるようにして、英はなんども指を噛んだ。腹よりももっと奥から、甘い痺れが徐々に上へと登ってくる。冷たいはずの夜風が二人の頬に温く当たって周囲に溶けた。周りの気温も心なしか上がったような感じがしていた。

 睦月は熱しか感じていなかった。咥えられている指。弾力のあるざらつく舌。固い歯。皮膚が破られる感覚とそこから出ている血。すべてが熱い。このまま火傷してしまいそうだ。どうせなら身を焦がしてしまいたい。

 もっと、噛んで。

 しかし、英は唐突に噛むのをやめた。まただ。英は血の出た指を口から離すと、愛おし気に眺めはじめた。

「やめないでよ」

 睦月の弱々しい言葉は英にはとどいていないようだった。盛りあがった皮膚を歯や爪を使い逆剥けさせ、よりいっそうの出血を誘っている。睦月は痛みに顔を歪めた。噛んだことによる出血は甘美だが、それ以外の痛みはただの苦痛でしかない。

「や……、噛んで……噛んでよ。それ以外は嫌」

 ただ噛んでほしかった。噛むという行為だけがほしい。それに付随する痛みはなくとも構わないのだ。噛まれているという実感は、睦月にとって生きているという実感そのものだった。それならばできるだけ強く噛んでほしい。

 噛むという行為は親密。口に入れるものは、自らが納得したものしか入れない。以前、睦月は何人かの恋人関係になった男たちに噛むことを要求したことがあった。しかし、だいたいは噛んだと思えないほど弱々しいか、戯れの甘噛みのようなものだった。そうじゃない。見本を示すように睦月が相手を噛むとなぜか多くが怒りだし、そのまま別れを切り出していった。

 思いっきり、噛んで。噛みしめて。

 睦月は懇願する。

 その想いを体現してくれるのは英くらいだ。

 英は噛むことではなく、流血が好きなだけだ。血を見るための手段として、睦月が「噛む」ことを指定しているから噛んでいる。そのため英は血が出るまで噛むことをやめず、血が出ると噛むことをやめる。

 一緒に住み始めてからの三ヵ月というもの、何度このやり取りをしたのだろう。

「わかったよ。噛むから、泣かないで」

 結局はいつも英が折れる。

「……泣いてない」

 気丈に言いながらも、英に唇で涙をぬぐわれ睦月は頬を染めた。

「さすがに寒いね」

 背中に腕を回された腕にもたれながら、睦月は促されるまま寝室に向かった。



「菅谷さん、新しいの入ったから見て行かない?」

 胸に『梁井』とネームプレートをつけた店員が水色のブラを手にした睦月に言う。彼女とはこの店で一番話しをする。短くカットした髪に、すらりとした手足。ボーイッシュな彼女はまるで雑誌から抜け出てきたモデルのようだと思う。きっと、どんな服でも着こなすだろう。

「じゃあ、せっかくなので見せてください。何色?」

「水色とパープル、あとピンク。菅谷さん水色好きでしょ」

 彼女は睦月の好みを把握しており、的確なものばかり進めてくる。そのためついつい薦められただけ買ってしまう。この店の常連となったのも梁井がいたためだ。彼女との会話は楽しい。感性が似ているのかもしれない。

 これ、と言って差し出されたのはベビードールだった。サテン木地らしく肌触りもいい。フリルが多すぎないところも気に入った。肩に合わせてみると、丈は膝より少し上くらいだ。

「ぜひピンクを着てほしいけれど、やっぱり水色?」

「ピンク似合わないもの。私には可愛すぎる」

「着てみればいいのに」

 そう言って彼女はピンクのものも睦月に渡した。ピンクといってもサーモンピンクで、それほど派手なものではない。やや気後れしそうになるが、これくらいの色なら着られるかもしれない。睦月は「じゃあ、たまには」とその二色を腕に抱え直す。

「そういえばこの間言ってたの、決まった? 家出同然に一人暮らし決めたから家がないって言ってたあれ。まだ彼氏さんのところ?」

「決まらない。彼氏も、ちょっとあって別れちゃった」

「そうなの? 今はどうしてるの。友達のところ? なんだったら家来る? 安くするよ」

 声も、その表情も冗談めかして言ってはいるが、その瞳だけがやけに真剣だった。睦月は期待に顔が緩むのを感じた。誰よりも好感が持てる彼女との同居。その誘惑は甘い。

「そんなこと言っちゃって。私、冗談がわからないんです。本気にしちゃいますよ?」

「私はそのつもりで言ったんだけど。私も一人は寂しいんだよー。一緒に住もうよ」

 その声に、頷いたことは間違っていない。



 朝起きると、もう英はいなかった。体のあちこちに走るかすかな痛みと小さな歯型に英の名残を見出すしかない。足元に落ちていた下着はあのとき買ったものだった。だから、夢に出てきたのかもしれない。ピンクのベビードール。

 睦月の腕には赤黒い痕がたくさんついていた。そのうちの半分は睦月自身が噛んだものだ。しかし、残り半分の英が噛んだもののほうが明らかに傷が深い。睦月は手首に残る、いっそう濃い色をした噛み痕に唇をつけた。ベルベットのようにすべらかでやわらかい唇と固い歯。口腔にわずかな血の味を感じたのと同時に、足の間がじんわりと濡れた。

 その余韻が消えると、目の端に壁かけのカレンダーが映りこみ、現実に引き戻された。

「学校、行かなきゃ」

 重い体を持ち上げ、クロゼットまで歩く。服は英の趣味で統一されている。買ってくれるのは英だから文句を言わずにそれらに袖を通す。奥のほうにはコーラルピンクのツイードにフリルがたくさんついたコートがしまってある。ほかにも生地はさまざまだが同じような大きなリボンと濃いピンクの服が数着あった。それらは英の機嫌が悪いときに着る用である。

 白いシャツとライトグレーのカーディガン、これは睦月のお気に入りの一組でもある。クロゼットにはスカートがたくさんある。睦月に穿いてほしいと英は言うが、睦月はスキニーパンツのほうが好きだった。しかし、パンツは極端に少ない。口を尖らしながら黒に近いグリーンのスカートを出した。英が買ったにしてはしごく地味で好きだ。

 睦月が居候しているこのマンションは学校からそれほど離れていない。腕に時計をつけ、時間を確認した。今から出ればまだ間に合う。今日は雨も降っておらず、走るに適している。


 講義の始まる一分前に教室に滑り込んだ。いつもどおり、後ろから三列目の右端の席に座る。出席をとると教科書を開きルーズリーフを準備する。必修であるため真面目に受けようと考えているのに、気がつくとシャーペンをにぎりしめて寝そうになっていた。一番入りやすそうな学科だったから文学部に入ったが、そこでなにか学びたいものがあったわけではなかった。睦月にとって、学校は家を出る口実だった。夢はない。将来なんて知らない。とりあえず、講義を聞いて、レポートを提出して単位さえもらえれば、そのうちなんとかなると思っていた。

 国語史が嫌いだというわけではない。ほかの科目に比べたら好きなほうではある。ただこの教授の話し方が眠気を誘うというだけのことだ。大きな教室に教授の低い声が響く。よく見るとなかなかに教授は顔立ちも整った男性である。おそらく教授を眺めたいがために講義をとっている学生も多いのだろう。時折、教室の端々で学生の話し声が聞こえた。そのたびに彼はいちいち真面目に注意をする。その都度講義の進行が妨げられるのが厭わしい。だからこそ余計に眠くなる。

 睦月が睡魔と果敢に戦っていると、後ろのドアからそろりと美知留が入ってきた。

 美知留と仲良くなったのは、入学してすぐあったガイダンスでとなりの席に座ってたことがきっかけだ。それ以来、必修科目では、睦月のとなりに彼女が座ることが多かった。

 彼女は睦月に気づくと舌を出して笑う。睦月が一つ席をずれると、先ほどまで睦月が座っていた席に美知留は座る。ちらりと腕時計に目をやると開始から三十分が経っていた。

「寝坊しちゃってさぁ、どこまで進んだ?」

「教科書の一二二ページのとこ。そんなに進んでないよ」

 美知留は明らかに安堵の表情を浮かべた。なぜか美知留はこの教授の講義だけ真面目に受ける。不思議に思い、以前理由を訊いたところ、教授が若いからだと答えた。

 美知留が真面目に講義を受けているてまえ寝ることもできず、ひたすらノートをとっていたらすぐに終わった

「ねえ、睦月、今日ヒマ?」

 講義終了後、教科書を鞄にしまっている睦月に美知留が訊ねた。

「ん、内容による」

「えぇっとね、みんなで飲みに行こうかなって。睦月も来ない?」

 一瞬、睦月は眉をしかめた。飲み、と言いながらも美知留が誘うのでは、どうせ合コンのようなものだろう。

「珍しいね、美知留が誘ってくれるなんて」

「べつに珍しくないし。睦月、その顔やめて。ふだん睦月が来ないだけじゃん。もう、ほんとつれないんだから。前に部屋貸したんだからさー、一週間だよ! 一週間も! かつての同居人にさ、恩を返すと思ってさ。たまには一緒に来てよぉ」

「……毎食作ってくれればそれでチャラって言ったじゃん」

「それはそれ。これはこれだよ! 行こうよ。たまには睦月と飲みたいよ。うちにいたときだって全然飲まなかったじゃん?」

 睦月は、以前の彼氏と別れ、英と今の家に暮らすまでの間、カラオケボックスに入りびたっていた。毎回の出費と体力的な限界を感じたときに苦渋の選択の末、美知留に頼み込んで居候させてもらったのだ。あくまで寝る場所を提供してくれるだけで、家事一切は睦月がやっていた。

 そういう美知留も家ではあまり飲まなかった。睦月に遠慮していたというよりはもともと、彼女がそれほど強くないのだろう。家主が飲まないのに、居候が飲めるわけがない。

「……どうせ、人の予定確認しもしないで、店に予約入れたんでしょ」

「うん。ばっちり、睦月も頭数としてカウントしてあるよ」

 美知留は笑顔だ。

「私がどうしても行けないって言ったらどうするつもりだったのさ」睦月は恨みがましい目を向けるが、美知留の笑顔は崩れなかった。美知留の口ぶりだと二、三人の飲みではないのだろう。大人数になるのだったら、一人二人くらいなら誤魔化せそうなものだが、ここで行かないと言い張るのも疲れる。

「わかったよ。……行くよ。行かせてもらいます」

 睦月はため息とともに答えた。

「じゃ、決まりね。後で概要送るね」

 美知留は楽しそうにひらひらと手をふった。

 次の講義もあるらしい彼女が足取り軽やかに階段を登っていくのを見送ると、睦月は食堂に向かった。今日は午後にあと一コマだけだ。

 空いている席を見つけ、ミートソースの乗ったトレーを机に置いた。座りながらスマートフォンを開くと、学校の近くの居酒屋の名前と時間が送られてきた。仕事がはやいのはありがたい。店の名前を確認して、なぜ飲み会が開かれるのか納得した。今日は金曜日である。この店は金曜日だけ飲み放題が安くなる。

 今日はことさら地味な服を着てきてよかった。心底それだけは自分を褒めたい。できるだけ人の目に留まらないほうがさっさと帰れる。もし、女子にでも捕まると話が長くて面倒くさい。たいてい彼女たちは「その服可愛いね、どこで買ったの?」から話をはじめる。

 一緒に住む前にはあるほど服の話をしたのに、今、英とファッションについての話はしない。英が普段着ている服は彼女に似合う服だが、彼女が求めている服ではないのだと知ったからだ。英に似合う服こそが、睦月の好みなのだが。

 そう、思考が英へと移り、彼女に連絡を入れなくてはいけないことに思い至った。

(あぶない、あぶない。少し、浮かれていたのかも)

 睦月は深呼吸をした。落ち着け。英を、もっと丁重に扱わなくては。そんなついでに思い出すのではだめだ。

 英の考えの中核には睦月がいる。睦月もできるだけ英を中心として物事を考えるようにしていた。

 これからしなくてはいけないこと。睦月はメモをとる気分で、文字として脳裏に思い浮かべた。第一に、英に、連絡。次に、お金を、おろすこと。

 スプーンを使い、フォークにスパゲティを巻きつける。ラーメンやうどんのように伸びてしまう心配がないからなおさら動作がゆっくりしてしまう。

 今財布にはいくら残っていただろう。先ほど食券を買うために開いた財布の中身を思い出す。たしか、千円札が二枚あった。いくら安い日だからと言っても飲み会の会費がそれだけで足りるとは思えない。

 考えながら食べていると後ろに流していた髪が垂れてきた。ヘアゴムを持って来ればよかったと思いながら睦月はスプーンを置き、髪を耳にかけた。髪は、英が伸ばしてほしいというから切らずにいた。英と一緒に住むようになってから一度も切っていない。そろそろ美容院にも行きたいと思っていたところだ。睦月の髪は腰くらいまである。後で英の許可をとらなければならないとため息をついた。英はいささか少女趣味が過ぎる。お人形遊びがしたいだけなのだと前々から睦月は気づいていた。フリルとレース。ピンク色。英が睦月に買い与えるものはいつも可愛らしい。睦月は落ち着いた色合いのもののほうが好きだった。似合わない自覚もあった。けれど、英が喜ぶのならできるだけ好みに合うようにしてあげたい。その思いでできるだけ文句を言わないでいた。

「ごちそうさま」

 食べ終わると、睦月は口元を拭き、静かに立ちあがった。


 に、と笑うと尖った歯が剥きだされる。乳白色の歯が大小さまざまに並ぶ中で、幅広のやや湾曲したほかより長い歯が目立って協調を乱していた。歯が邪魔なのか、引きつったように彼は笑う。

 睦月の視線はその歯から離すことができなかった。

 美知留が企画した飲み会は二十人ほどが来た。彼女は顔が広いらしい。男女比もやや女子が多いくらいだが、大差はない。はじめ、美知留は彼のとなりに座っていた。だが、酒が進むにつれ、サークルの友達だろう、睦月の知らないグループへと消えていった。

 彼のとなり、空いた座布団を眺めていたところまでは覚えている。しかし睦月は、気がついたときには彼のとなりに座って酒を煽っていた。先ほどまではたしかに味のしたモスコミュ―ルもただの水と変わらなくなっていた。もっと度数の高いお酒がほしい。彼のことしか考えられない。考えたくない。ほかはすべてわからなくなりたい。

 どうかした? と一音ごとに歯が見え隠れする。もう少しでなくなりそうな睦月の手の中のグラスを見て、なにか飲むかと彼は訊ねた。

「日本酒ってなにあったけ?」

 睦月はメニューを受けとると、「これ」と項目の一つを指さす。彼は困った顔をする。カルーアミルクを飲む男の前で、睦月は透明な液体を傾け、グラスを空けた。

 睦月は彼が美知留の彼氏だということを知っていた。たしか、黒崎といったか。

 学部がちがうために今まで話したことはなかった。食堂や図書館そうしたところで彼を見たくらいだ。彼がどこの学部なのか睦月は知らなかった。知りたいとも思わなかった。美知留は自分の家には男を入れないらしく、彼女の家にいたときに彼と鉢合わせするようなことにはならなかった。

 遠目から見たことはあったけれど、近くで見たのははじめてだ。

 きれいな男だった。色褪せたメッキみたいな色の髪。垂れた小さい目。首から肩にかけての形がきれいだった。滑らかで、程よく盛り上がった肩。なにかスポーツでもやっているのだろうか。全体的に小さいのに胸だけが大きくて、白っぽい傷んだ髪を巻いている美知留と並んだら、見た目はとてもお似合いだろう。

 なにより、きれいな八重歯だ。美知留に嫉妬したくなる。ふと過去の人がフラッシュバックする。かすかではあるが胸に亀裂が走るような痛みがよぎる。あれは誰だ。一瞬死んだ父の顔を思い出した気がしたけれど、このタイミングで思い出したことに笑ってしまった。たぶん、原因は歯だ。八重歯。睦月の父もひどい八重歯だった。しかし、黒崎に対して抱くのは懐かしさではない。

 あの歯は美知留を噛んだことがあるのだろうか。きっと痛い。もし思いっきり噛んでもらえたのなら、どれほどの快感を得ることができるだろうか。

 一度そう考え始めるととまらなかった。

 ああ、噛まれたい。噛んでほしい。

 黒崎が心配そうに睦月の顔を覗き込んだ。少し開いた口から垣間見える八重歯が愛おしい。

 この歯がほしい。肌に突き立てて、痕を残し、泣くまで噛みしめてほしい。潤んだ目で黒崎を見つめると一瞬だけ彼も睦月を見つめ返した。

 ほどなくして、いつの間に注文してくれていたのか徳利とお猪口が睦月の目の前に置かれた。お猪口に注がれた液体はうっすらと黄色がかっている。お猪口の底に描かれた二重の円を凝視したのち、空いたグラスに視線を移し、また黒崎に戻す。

「八重歯」

「え」

「すごい八重歯ね」

 黒崎が面食らったような顔をした。しかし彼は笑いながら、「コンプレックスの一つだよ」と言った。

「でも私は好き」

 睦月は彼に笑顔を向けた。これほど意図的に作る笑顔も珍しい。内心で苦笑しながらも口角をあげる。可愛く見えるだろうか。魅惑的に見えるだろうか。彼女の心配も杞憂だったのか、黒崎もすぐに笑い返した。

 カルーアミルクは先ほどからあまり減っていない。睦月は日本酒を煽った。卓にカンッと打ち付けるとおのおの話し、盛りあがっていた周囲が睦月を見た。

「菅谷さん、大丈夫?」

 そんな心配の声が聞こえてきた。

 おそらく、ここにいる誰よりも酒に強い自信があった睦月は、冷静に微笑んだ。

「すみません、手が滑りました。大丈夫です。問題ないです」

 これくらいで酔うわけがないだろう。

 しかし、周囲を見渡すとすでに出来上がっている人がたくさんいた。顔を真っ赤にしてうずくまる人、なんてことないようにしゃべっているが右手だけがずっと痙攣している人。心配すべきは自分ではなく彼らではないだろうか。それともオレンジ色をした明かりが余計に酔って見せているだけだろうか。

 英も日本酒を飲むことがある。彼女も酒に強いため、なん杯飲んでもなかなか酔わない。以前、一升瓶が彼女の足元に転がっているのに平然としていたことがある。

 ここに英はいない。となりに座るのは酒に強い英ではなく、カルーアミルクをちびちび飲む男。

 睦月は彼の膝に手を置いた。固い筋肉が張り詰めている。緊張しているのだろう。

「ここ、熱くない?」

 酔ったことを装いながら彼の耳元で囁くと、彼はこくんと頷いた。

 黒崎は周囲を見渡した。みんなそれぞれいい感じに酔いが回っているらしい。どこを見ても赤い顔が並んでいる。

「悪い。俺ちょっと風に当たってくるわ」

 黒崎のそれがいいわけだとすぐに気づき、睦月も「私も行ってくる」と言い立ちあがった。外へ出ると、冷たい風が音を立てた。寒いかと思ったが、火照った体にはちょうどよかった。空は夜を纏っている。いつぞやのように真っ暗闇なわけではなく、灰色の雲がかかっている。星も月も見えない。お店の看板周りにライトがあるけれど、ここでの光源はそれくらいだった。すぐとなりに立つ黒崎の顔は見えるけど、周囲から二人はぼんやりとしか見えないはずだ。睦月にとってそれは都合がよかった。

「黒崎くん、私の名前、知ってる」

「す、菅谷……さん」

「よかったぁ。黒崎くん、美知留しか目に入ってないのかと思ってた。それと、下の名前がいいなぁ。睦月って呼んで」

 自分の声が耳の奥で反響している。頭は正常なのに、声だけが高い。黒崎は「美知留」の名前に一瞬顔を引きつらせたが、すぐにとろんとした目つきに戻った。

「俺も、君付けとかいらないから」

 正也でいいよ、と彼は照れたように顔を伏せる。睦月は彼の頬を手の甲でなであげながら無理やり正面を向かせた。

「笑ってみせて。八重歯が見たいの。くろ……正也の八重歯が」

 睦月は彼の唇に触れた。ゆっくりと彼が口を開く。

「八重歯が好きだなんて、はじめて言われた。物好きだね……、睦月」

 八重歯が唇の合間からのぞく。

「すごい……。ねえ、」

 噛んでみて。

 睦月は興奮が抑えきれなかった。手のひらを上に向け腕を差し出し、薄いカーディガンをまくりあげる。彼女の腕は夏でもさらすことのないため真っ白だった。それは、病的なまでに白く、細い。もはや哀れに見えるほどであった。血管が浮き出たその腕には英が昨晩つけた痕が残っていた。まるで点滴をなんども受けたかのようにも見える。睦月は自分の腕が好きだ。英の噛み痕。自分がつけた痕。黒崎の、はっと息を飲む音が最大の賛辞に聞こえた。

 黒崎は恭しく睦月の腕をとると、指の腹でなであげ、肘の裏のやわらかいところに親指を置いた。の、の字を書くように指を動かす。

「噛むの?」

「そう、噛んで」

「これは、自分で噛んだ痕か?」

 黒崎の問いに睦月はただ微笑んだ。

「なんで、こんな……」

 痛まし気に顔をしかめながらも彼はそこに顔を寄せた。やわらかいけれど、少し荒れた唇の感触。キス。わずかに開いた唇から舌が垣間見える。しかし、睦月が望んだ八重歯は見えない。

 焦らしているのだろうか。ちがう。噛んでほしいのに。

 ゆっくりしている時間はないのだ。もしかしたら二人のように誰かが夜風に当たりに来るかもしれない。

「やめて」

 睦月は思わず声を荒げ、腕を引いた。

 黒崎はいつになっても噛もうとせず、キスばかりする。ほしいものは伝えてある。それなのになぜ黒崎は噛んでくれないのか。

 睦月は黒崎の腕を掴んだ。彼のシャツの袖をまくり、現れた筋肉質な腕に噛みつく。してほしいのはこうなのだと見本を示すように、深く噛む。

 久しぶりの『噛む』快感に身をよじらせる睦月の下で、黒崎は悲鳴をあげた。

「私は噛んでって言ったの」

 睦月が強い口調で言うと、黒崎は眉をひそめた。

「意味わかんねえ……いきなり噛むかよ」

「……痛みを与えたいわけでもないの。ただ、噛んでほしいの。噛みたかっただけなの」

 睦月はさすがに申し訳ないと思い彼の唇にキスをした。黒崎の細く尖らせた舌が、唇を割って入ってきたので彼女はされるままに受け入れた。薄い唇越しに八重歯の感触がある。これがほしい。肌に。


 家のドアを開けると、睦月の視線に英がまっすぐ飛び込んできた。その顔は涙でぐしゃぐしゃであった。後ろ手でやっとの思いでドアを閉めた。しかし抱きしめられてそれ以上身動きがとれない。背中をドアにあずけていなかったら、英に押し倒されているところだった。思わず逃げようと体が動いてしまった。英は敏感にそれを察し、拘束をさらにきつくする。

「どうしたの……英」

「睦月、睦月。なんで今日こんなに遅かったの? 昨日のうちからわかってたことなの? なんで教えてくれなかったの」

「私、ちゃんと連絡入れたよ? 見なかったの?」

 睦月の口調がいらいらと厳しくなっていく。

「文字じゃ安心できない。言葉にして! 声に出して!」

 英も激高を隠す様子もない。

「なにが気に入らなかったの。わからない。ねえ英」

「朝になってそういう嘘を思いついたとも限らなきじゃない!」

 一瞬、それがどういう意味かわからなかった。英のすすり泣きを聞くうちに、ゆっくりと理解した。英が恐れているのは、睦月が出て行ってしまうことなのだ、と。

「私もここ以外に住む場所なんてないよ」

「そんなこと信じられない。友達のところでも、男のところでも、探せばすぐ見つけるくせに。睦月は私じゃなくてもいいんでしょ」

 英は睦月を抱きしめたまま、首元に顔を埋めた。そのまましおらしくしていると思ったら、襟のボタンを乱暴に開き、首筋を噛まれた。突然のことに睦月は悲鳴とも喘ぎともとれぬ声をあげる。先ほど黒崎は噛んでくれなかった。だからこそ期待に満ちた肌が、やっとのことだと喜びを歌い始めている。腰が砕けてしまう。

 英の支えがなかったら立っていられなかっただろう。彼女はその状態の睦月の靴を脱がすと、寝室まで引きずっていき乱暴にベッドに転がした。睦月に覆いかぶさり、胸に顔を埋める。

「……捨てられたのかと思った」

 睦月は英の短い髪を掻き上げた。英は涙で濡れた顔をあげる。その顔が可愛らしくて睦月が微笑むと英はまた首筋に噛みついた。

 私が英を捨てるはずがないのに。

 喉元まで出かかった言葉を、睦月は飲みこむ。捨てられるとしたら自分のほうだ。英よりも五つも年下で、住むところから着ているものまで厄介になっている。睦月が気まぐれでしかアルバイトをしないこともあって、結局このマンションの家賃はあれから一度も払っていない。お金はあるときでいい。ただ一緒にいてくれればそれで構わない。柔和に微笑んだ英の顔を思い出す。たかだか数か月前の話なのに、ずいぶんと遠いところまで来たかのような錯覚があった。なぜ英に選んでもらえたのかいまだにわからない。

 英はゆっくりと顔を下へとずらしていき、鎖骨に歯を立てた。

「ごめんね、英。ごめん」

 なぜ謝っているのか睦月は自分でもわからなかった。それは告白のような、懺悔のような。謝ることで救われるなにかがあるのだと信じているかのように、睦月はなんどもなんども繰り返した。

 ああ、英、離れないで。そのまま噛んで。そうして一体化できればいいのに。そうすれば一人じゃない。

 一人になることだけは避けたかった。

 英が睦月の膣にいくら指や舌を埋めても、いくら性器を擦り付けてきても、女同士である睦月は孕むことができない。英が睦月を捨てずにいてくれる確証は一切ない。繋ぎとめる術は、英が望む、流血でしか得られない。痛いのは嫌。それでも血を流せば流すほど英が一緒にいてくれる期間が延びるなら。英に噛んでもらうためにはなんだって耐えられる。睦月はそう信じている。

 睦月を溺愛していた父は死んだ。それをきっかけに母の精神も壊れた。そんな母と家にいることが耐えられなかった。そうして睦月は一人になった。

 嫌だ、嫌だ。もう、それは嫌だ。一人にならないためなら、なんだって耐えられる。耐えてみせる。

 噛まれたい。噛まれて、生きている。

 生きているのだと、実感できるのは噛まれているときだけなのだ。

 睦月は頭をのけぞらせた。こんなに気持ちいいことがあるだろうか。こんなにも、生きたいと叫んでいる。

 ぐちゃぐちゃ、頭の中。もっと、乱してよ、英。

「英、噛んで。もっと、もっと、いっぱい!」

 そして、たくさんの血を流して。

 そのまま睦月は英の名前を呼びながら果てた。



「私のお人形」

 英は眠りについた睦月の額にくちづけを落とし、囁いた。

 どこかで陶器が割れる音がする。あれは、過去だ。

 ベージュのドレスを纏った気品あるビスクドールの額、右目のすぐ上が小さな三角に陥没していた。顔の中心を二分割するように走ったヒビが痛ましい。ドレスと同じ色のボンネットの下から緑色の瞳がのぞいている。その瞳は恨ましいと涙を流すことはない。乱れた金の巻き毛が一房、顔にかかっていた。

 家に睦月の姿がなかったときは、奪われてしまったのかと取り乱してしまった。奪われてなるものか。奪われるのも、壊されるのもごめんだ。

――壊すのは、私だ。

 やわらかく、しなやかな白い姿態は艶めかしく、この姿を見られるのは自分だけなのだという優越感に英の口が緩む。寒いのか毛布を引き上げて体に巻き付けようと睦月はもぞもぞと動いた。その姿が小さな子どものようで思わず英は睦月を抱きしめた。心臓の音が鮮明に聞こえる。その音は血を全身に送りだす音。睦月が生きている証拠。英にとっては安心と苛立ちを同時に覚える音であった。不思議な感覚だ。人のぬくもりは涙が出そうになるくらい優しいというのに、そうして常々求めているものだというのに、いざ腕の中にそれがあると苛立つだなんて。自嘲気味に英は口元を歪めた。

『なんて、似合わないのかしらねお前』

 母の声。自称女優だった母。母をテレビで見たことはない。雑誌でもない。それでもテレビに出て大口を開けて笑っている女たちよりもずっと美しい母。彼女はソファにぐったりと横たわり、時折思い出したように体をもたげ、タバコを吸った。タバコは嫌いだ。眉間にしわを寄せながらタバコに口をつける姿は美しいが、母は次第に息切れを起こすことが多くなった。はじめのころは人形ににおいがつくからと家の中で吸うことはなかったのに、次第にそうした母の中の取り決めも無効になっていった。

 母は英に自らの衣装を一枚選んで着てみるように言った。喜んで着た英を見て、母は言う。

『まるで女装ね』

 タバコの煙を英の顔に向かって吐き出す。

『お前は私の娘なのよ。もっと美しくあって当然でしょう』

 母の視線はもう英には向けられない。視線の先にあるのは背の高い棚の上に置かれたビスクドール。

 幼い英が人形に憧れたのは当然のことであった。母は英を褒めないが人形の美しさについてはいつまでも語っていた。こうなりたいと望んでしまうのは仕方ないことだろう。

 人形に触れたのはただ、触れたかったからであった。決して笑われたことへの仕返しではなかった。

 フランス製の金髪のその人形は、触ってはいけないものとして大切に飾られていた。以前は横長のキャビネットの上に置かれていたが、英が触ることを恐れた母がもっと高いところへと移動させてしまった。高いところから英を見下ろすそのさまはまるで教会にいる聖母像だと幼心に思った。これは神聖なものなのだ。こんなにきれいなものがこの世には存在するのだと、感嘆した。手を伸ばしてはいけない存在というものにほど、人間は強く惹かれるらしい。英は背伸びし、遠くに御座す人形のドレスの裾をつまんだ。

 触ってみたかっただけ。もし、できることなら正面から美しさを堪能したかっただけなのに、落下してしまった。あれほど近くで見たいと願ったそれは、顔が割れた無慙な姿を英の前にさらしていた。それにしても金髪のなんと美しいことか。きりりとした眉、ふっくらと桃色の唇は理想ではないか。

 ああ、壊れてなお美しい――。

 母の表情を想像した。あの美しい顔を歪めるだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。

 壊してみたくなったのかもしれない。その美しさがどの時点で損なわれるのかを知ってみたかった。

「私だけの……」

 英は呟いた。

 あのころ憧れていたお人形。私はそれを見つけたのだ。

 いつ、壊れるだろうか。英を信頼しきった寝顔はこんなにも美しい。

「最高だよ」

 家は大切なものだけをしまうおもちゃ箱なのだ。服も、睦月も、大切にしまっておかなくては。乱雑に扱うと、すぐに壊れてしまう。それではつまらないではないか。

 枕元にある睦月のスマートフォンが点滅していた。メールでも入ったのだろうかと英はそれを開いた。睦月はロックをかけていたが、英はやすやすとそれを解いた。睦月が好きなブランドメーカーの音を数字に当て嵌めただけの単純なものだった。メールは美知留からのものであった。どうやら飲み会があったというのは本当のようだ。次も行こうという内容だった。英はそのままスマートフォンの設定を開いた。

 光源がこんなに近くにあって眩しくないだろうかと途中はっと気づいたが、睦月はなにも知らない顔で昏々と眠っていた。

 英は睦月を起こさないように静かにベッドを抜け出すと、ベランダに行きタバコを吸った。煙はあのとき母に吐き出されたものと違い、もっと甘い香りを放っている。眉間にしわを寄せながら、一口ひとくちを味わった。

 大切に、大切に愛でていないと、壊れたときの喪失感は得られない。

「ずっと、ずっと、大切にしてあげるから……」

 ふぅと紫煙を吐き出した。



 秒針がチ、チと音を立てながら回る。時計の針が重なる。聖書によるとたしかに安息日である。だからといって一日中寝ていてよいというわけではないはずだ。睦月はいらいらと英の寝室のドアをノックする。昨日は睦月も同じベッドで寝た。だが、カーテンの隙間から漏れくる光の眩しさに一人さっさと目を覚ましたのだ。朝食も二人分すでに作ってある。

 ひとことかけてドアを開ける。そこにあったのは盛りあがった毛布。

 睦月はベッドからなかなか出てこようとしない英に焦れ、彼女の毛布をまくりあげた。寒いという抗議の代わりに英は体を丸めて、睦月に背を向けた。

「英。ねえ、英、はーなーぁ」

 英を揺すりながら、より子どもっぽいのはどちらだろうと思うと愉快になり声をあげて笑った。こんなくだらないことで、純粋に笑ったのはいつ以来だろう。

「髪、切っていい?」

 やっとのことで体を起こした寝ぼけ眼の英に対し、睦月は小首を傾げながら上目遣いをした。睦月にとっては出来得る最大限の『可愛いポーズ』だった。

 もう、一刻もはやく髪を切りたかった。一種の願掛けだ。髪には運気が宿るという。それならばいっそのことバッサリと切り、運を開きたい。願い事は決まっている。いつだって己の欲望には忠実なのだ。美知留くらいの長さなら、ちょうどいい。

 学校で黒崎を見ることが何度かあったがいつも彼のとなりには美知留がいた。黒崎は美知留を見つめ笑いかける。そのたびに八重歯が見え隠れし、睦月は胸が締め付けられるような思いを味わった。あの歯がほしい。しかし、どんなに願ってもそれは叶えられない。黒崎は美知留の彼氏なのだと諫める声がどこかから聞こえてくる。それを打ち消すかのように噛まれたいと叫ぶ心があった。この間の飲み会は人数が多かったことと、誰よりも先に美知留が酔ってしまったためにばれていない。別段、睦月は隠すつもりはなかったが、わざわざ人に言うものでもないだろう。

 美知留のようになれば、もしかしたら黒崎に選んでもらえるかもしれない。そうすれば。それはなんて甘美な響きなのだろう。英の前だというのに睦月は瞬時、その響きに酔った。

「なんで?」

 英の声は固い。その反応は睦月が想像していた通りだった。

「なんでって、いいかげん邪魔なんだもん。髪くらいいいでしょ」

「……美容院、予約しといてあげるね。十四時くらいでいいでしょ?」

 それ以上彼女はなにも言わなかった。ただただ睦月の髪に顔を埋めている。それは別れを惜しむかのようで、睦月は嫌だった。だが、ここで文句を言い、英に髪を切ることを禁止されてしまっては元も子もない。黙っていることが懸命だ。英は「いいよ」とも「許す」とも言わない。怒っている、正しくは悲しんでいるのだと睦月はよくわかっていた。たかだか髪くらいで撫ぜ英はこうも憤るのだろう、と睦月は心の内で失笑する。

 睦月のすべてを英の好みに合わせたいのだろう。もしかしたら、英は自分の容姿だけが好きで、性格や意思はどうでもいいのだろうか。考えてもわからないことに時間を割くのは無駄なことのように思えた。

「ありがとう、英」

 素直に礼を言い、睦月は英の頭をなでた。するとは彼女は顔をあげて訊いてきた。

「どれくらい切るの?」

 少し考える。美知留の長さはどれくらいだろう。

「これくらい」

 睦月は肩よりも少し上に手を当てる。英の眉がみるみる下がり、眉間にしわが寄った。

「今日のご飯なに」

 不機嫌なことには変わらないらしい。それでも食欲があるらしいことに睦月は安心し、にっこりと答えた。

「トマトと卵の炒め物。今日はちゃんとトマトも残さず食べてよね。卵だけ食べたら許さないから」

 睦月の言葉にやっと英も口角をあげた。「仕方ないなぁ。睦月に怒られちゃったからちゃんと食べるよ」とダイニングに向かった。

 その晩、英はばっさりと切られた睦月の髪をさんざんなで、露わになった白いうなじに新しい噛み痕をつけた。




「うっそ。睦月?」

 食堂でランチを終え、トレーを片付けようと列に並んでいたら背後から美知留に肩を叩かれた。雨の日だというのに彼女のテンションは高く、声が大きい。

「ねえめっちゃ髪切ったねどうしたの? どういう心境の変化? あんな長かったのに」

「美知留うるさい」

「ねえってば。すごくない? 私とおんなじくらいじゃん」

「ちょっと、重かったっていうか」

「なんセンチ切ったの? 思いきったことするね」

「えっと、四〇センチくらいじゃない? よくわからないけれど。前は腰まであったわけだし。もっと切ってるかもしれないけれど、少なくともそれくらいは切ってると思うよ」

 それで納得しどこかに行くかと思ったが、美知留の目的は髪の話をしに来たのではないようだった。ほかにも並んでいる人がいるというのに睦月のとなりをずっとキープし続けていた。

「ねえ、睦月。傘持ってる? 折りたたみでもなんでもいいんだけど」

「え、なに。傘? いいや、わかった……ちょっと待って。そこ、柱のわきの席とってあるからそこで待ってて。私の荷物もあるからそれ見てて。仮に持ってても今すぐには出せないでしょ」

 睦月が言うと、「はぁい」と間延びした返事をして美知留は睦月が示した場所へとかけて行った。

 トレーを置いて、ゆっくりと戻ってみると彼女は睦月が座っていた席で頬杖をついていた。椅子の上に置いていた鞄はテーブルの上に置かれていた。一つのテーブルにつき椅子は六脚ある。それなのになぜわざわざ鞄をどかしたのだろうと首を傾げながら睦月は美知留に声をかける。そのとたん美知留は、ぱっと顔を明るくし笑顔で言う。

「睦月、おかえり」

「さっき、なんだっけ。あ、傘か。もしかして持ってこなかったの美知留。馬鹿なの? 今日降水確率八〇パーセントだよ」

 睦月は美知留の向かいの椅子に座り、鞄を引き寄せた。折りたたみ傘を鞄からとり出し、美知留に渡す。白い地に青い水玉模様。これはいつも入れてあるのだが、今日はあらかじめそれなりに降ることがわかっていたため大きめの傘を持ってきている。

「いや、あのね。今日ね帰り遅くなるからさ、それまでにだったらもし降っても、さすがにやむかなって思ったんだけどさ。なんか不安になっちゃって」

 美知留がもごもごと言い訳をはじめた。

「あれ、今日なにかあったっけ? 彼氏さんはどうなの? いつも一緒にいるけれど待っててくれたりとか?」

「今日はサークルの反省会で強制参加なの。いつもサボってても特になにも言わないのにさ、こういうときだけ参加っていうのも意味わかんない。あー、正也は、先帰ってって言ってある。だってさ、いつ帰れるかわからないのに。それにあいつ、今日はもう授業入れてないみたいだし」

 今日は、睦月ももう講義はない。いつもならあと一コマ入っているのに、教授の私用で休講になっていたのだ。

 美知留の愚痴に少しだけ付き合い、彼女が席を立つのを見送った後に睦月は学校を出た。

 近道をしてしまっていいものか。近道をすると本当にすぐ家に着いてしまう。遅刻間際のときは心強いが、こんなときはあの道を使いたくない。家に帰っても、まだ英はいない時間である。この寒い中を一人寂しく家で震えているのは嫌だった。

 サアアアァと雨が降る。涙みたいなしずくが見て確認できるくらいならよかったのに、あまりに細かくて針のようだ。刺さりそう。水色の傘を肩の上でくるくると回す。細かい雨は音すらあまり立てないい。寒気が肌の水分をとっていく。まだ秋だというのに震えながら睦月は早足になった。

 あのときの飲み屋の前を通る。中は賑わっているようだが、通りには誰もいない。いつも美知留と帰っているあの男はこの近くに住んでいるはずだ。家は知らない。

 睦月は水溜まりを避けながら歩いているのに、車は水溜まりに飛び込むような勢いで走って来て、睦月に水を浴びせかけるとそのまま去って行く。歩道を歩いているのにかかったことに憤りながらもとりあえず歩くしかない。今日はせっかくのお気入りのコクーンワンピースを着ているのに、濡れてしまった。オリーブ色がさらに濃くなる。

 湿った服が気持ち悪い。可愛いが、ヒールの高いショートブーツは雨の日には適さない。

 再び、道路を走る車が水しぶきをあげた。今度は避けようとして、足をもつれさせた。倒れる、そう思ったときにはすでに遅かった。

 傘が所在なく投げ出された。ここまで全身びしょ濡れになってしまうと、苛立ちよりもあきらめが先に来る。髪が顔に張りついた。

 突然、影がおりた。驚いて見上げると、黒崎が傘をさして立っていた。

「やっぱり睦月だ。大丈夫か?」

 美知留はいない。

「……無理」

 睦月は小さく息を吐いた。またうつむくと、黒崎が手を差し伸べた。少しだけ悩み、睦月は心に素直に向き合った。

 大きな手は暖かい。ここにいるのは睦月と黒崎だけだった。世界にたった二人きりのような静けさと寂しさ。今すぐ、熱で温め合いたい。お互いに同じことを考えただろう。睦月が彼の手をとり立ちあがったのち、自らの手を黒崎のあごに伸ばした。黒崎も抗うことなく受け入れた。かすかなざらつきを感じとった手を彼の唇へとさ迷わせる。

 唇が睦月の名前を呼ぶ。

 この瞬間、通じ合っていた。

 永く静かな時間、見つめ合い、その緊張の糸を切ったのは黒崎だった。

「寒いね。……俺の家すぐそこなんだ」

 彼の言う通り、十分と離れておらず、すぐに彼の住むアパートが見えた。小さくて白くて四角いその建物。飲み屋を分岐点に、睦月の住む英のマンションとは反対方向だった。

 黒崎の家に着くなり、憎いブーツを睦月は乱暴に脱ぎ捨てた。ワンルームの小さな部屋。そこは想像以上に整理整頓がなされていた。

「寒いだろ、それ。どうする? 乾燥機使うか?」

 黒崎が睦月の濡れた服を指さす。睦月は笑顔で頷いた。

「うん。とっても、寒いの。さっさと脱いじゃいたい」

 嘘ではない。寒い。温まりたい。

 睦月は彼の目の前でワンピースを脱ぐと、それをそのまま黒崎に渡した。黒崎もそういうつもりで言ったはずだ。だが、緊張しているのか、目を見開き、顔をわずかに赤くした。

「しないの」

 胸を見せつけるように彼に近づいた。

 ぎらついた目に、広がった鼻孔。あともうひと押しだと、囁く声がする。

「美知留が理由なら、私を悪者にしていいから。したくない? ううん、言い訳はしない。私が、してほしいのだけど、それじゃダメ? 私になにをしてもいいし、私があなたにしてもいい」

 それは本当に睦月が言ったものなのか、彼女はわからなかった。頭の中に白いもやがかかる。風邪にうなされるように、口が動く。身体は冷え切っているのに、奥から溢れ出る熱がある。この熱が睦月を支配していた。

「なにをしても……」

 黒崎が復唱した。そして自分が睦月の服を握りしめていることを思い出したのか、睦月に少し待つように手で合図をした。

 一分とせずに戻ってきた彼はきちんとワンピースを乾燥機に入れてきてくれたようだ。

「で? 睦月はただヤリたいんじゃないだろ? 噛めばいいんだっけ? それとも俺が噛まれる?」

 ベッドの上に腰掛けながら彼は、ゆっくりと足を組んだ。黒崎の視線は、ピンク色のブラと睦月の唇を行ったり来たりしていた。

「私はどっちでもいいけれど。でも、正也には噛んでほしい。あのときは、だって、噛んでくれなかったんだもの」

「なんでも、って言ったな?」

「いいよ。噛む以外の痛い行為じゃなければなにしても」

 睦月が答えると黒崎は八重歯を剥きだして笑った。彼の手招きに従って、ベッドに横になる。黒崎はブラの上から胸を覆った。大きな手に、彼女の胸はすっぽりと覆われてしまう。そのまま、形を確かめるように丹念に揉んだ。不意に揉むのをやめると、シフォンのレースに顔を寄せ、ブラごと睦月の胸を噛んだ。手の熱がゆっくりと、冷えた肌になじんでいく。

 ああ、もう少し。はやく、剥ぎとって。じれったい。乱暴に噛んで。

 思いが高ぶり、睦月は自分の足をこすり合わせた。

 黒崎は、やけにゆっくりした動作で背中に手を回すと、ホックを外した。解放された胸の上に乗っているブラを掴むと背後に投げ捨て、彼は顕わになった乳首を口に含んだ。

 英みたい。母性本能というやつなのだろうか。こうやって胸に必死になって顔を寄せられるのは嫌いじゃない。舐められるのも嫌いじゃない。でも。

「噛んで」

 睦月が叫ぶと、黒崎は歯を立てた。残念ながら前歯だったけれど。ああ、でも噛んでくれた。思わず彼の頭を抱え込む。背中をそらせ、彼を押し付ける。黒崎は、反対の乳首を親指と人差し指で弄り、爪を立てる。一度噛んだところを舌先で優しく舐め、ふ、と息を吹きかける。くすぐったさに睦月は身悶えする。黒崎はなんども同じところを噛んだ。回を重ねるごとに、噛む力が強くなっていく。そう、もっと。

 少し深く咥えこんだとき、彼の八重歯が当たった。

 やっと。

 腰が浮いた。黒崎は噛むのをやめない。もっと。足がピン、と伸びる。もうひと押し、とばかりに彼は八重歯で乳首を噛みしめた。

「ほんとに、噛まれるのが好きなんだな。これだけでイけるとか」

 黒崎はジーンズのジッパーをおろし、ベッドの縁に腰掛けた。睦月は、ずっと焦がれた八重歯の感触の余韻に浸っていた。

「睦月、噛んでやっただろ。俺の希望も叶えてよ。なんでもしてくれるんだろ」

 黒崎はそう言って、起き上がって近くに来いと身振りで指図した。噛んでやった、という大仰な言い方に少し引っ掛かりを覚えたが、彼の言う通りではある。睦月は一人で達したが、彼はまだだ。これから要求されることをある程度予測しながらも、彼の横に座った。

「睦月、今、ちょうどゴムないし。美知留はやってくれないんだ。なあ咥えて、俺の」

 黒崎は足の間を指さしながら言った。自分からやったことはなかった。でも、いつも英がしてくれていることを思うと、そう嫌悪感は抱かなかった。

「いいよ」

 睦月はベッドからおり、彼の足元に座った。膝がしらに手を置き、彼の足を開かせる。鼻先に触らなくてもわかる確実に勃起したものがある。くらくらするようなにおい。英とちがう。どうしようか迷った挙句、彼にボクサーパンツを脱ぐことを提案した。脱がせてよ、意地悪く彼は言う。一度立ちあがってもらうと、睦月は以前、英にやられたように下着の中に手を入れ、お尻側から太ももをなでるようにしてジーンズごと脱がせた。

 英が現れてから、睦月は男を必要としていなかった。

 そそり立ったそれを緊張しながら口に運ぶ。

「歯は立てるなよ。もし噛んだらもう二度とお前のこと噛んでやらないからな」

 黒崎の声も緊張している。しかし次があることを前提とした言葉に睦月は思わず腰が浮きそうになった。それから気を引き締めて、おそるおそる鈴口に舌を当てて舐めてみた。汗のようなしょっぱさ、でももっと濃い苦さ。黒崎の表情を伺いながら根元まで咥えこむ。口の中が彼でいっぱいになって咽そうになった。独特のにおいが鼻孔に充満し、窒息しそう。深く入れすぎて、のどの奥が痙攣した。それが気持ちよかったのか、彼は声をあげながら、睦月の頭を押し付けたり、遠ざけたりする。鼻や唇に陰毛が擦れて痛い。しばらくすると、彼は睦月の口にペニスを深く突き刺したまま、精を吐きだした。

 喉元まで吐き気がせり上がってきた。気持ちが悪い。黒崎は睦月の頭を、髪の毛を引っ張ってそらさせる。まだ彼は口の中にいた。粘っこい汁が口から零れ、裸の胸に落ちた。

 飲みこめない。睦月は彼を突き放そうとした。しかし、彼は解放してくれなかった。その状態のまま、手を伸ばし、ベッドサイドの引き出しを探っている。

「……痛くはないと思う。まあ、痛かったら言ってよ」

 引き抜かれたと思ったとたん、代わりに口の中に入れられたのは卓球のボールだった。

「噛みつぶすなよ」

 閉じられない口の端からは白い粘液が零れた。黒崎はボールギャグを模しているのだとわかった。突然の展開に睦月は驚いていた。黒崎は睦月の手首をとると、背中に回し、淡々と縛りはじめた。ちらりと見えたのは白い綿ロープだった。

 なにをされるのか身構えていると、黒崎は一度その場を離れ、また戻ってきた彼の手にはデジカメが握られていた。先ほどと同じような体勢で、少し高いところから彼はそれを構えた。その位置からだと睦月は床に縋りついているように見えるだろう。

「いい格好じゃん、睦月。めっちゃ似合う」

 彼はそれだけ言うと、シャッターを押した。どれくらい時間が経ったのか、黒崎はシャッターの音に興奮しているように見えた。

 再び大きくなった彼のペニスから勢いよく精が飛び、睦月の顔にかかった。

「次は目隠しも必要だな」

 彼は手を伸ばし、枕元のティッシュを数枚抜きとり、睦月の顔を拭きながら呟く。その後もなかなか黒崎は睦月の腕を縛るロープを解こうとしなかった。まじまじと彼女の全身を眺め、口を開いた。

「睦月ってさ、彼氏いるの?」

 一瞬、睦月はなにを言われたのかわからなかった。行為をした相手に言うことではない。どういう意味か訊ねたかったがいまだ口の中には卓球のボールがある。もがいていると、彼も気づいたらしく、ボールをとり出した。

「痛かったか?」

 睦月は声を出そうとして咳きこんだ。原因はボールではない。口をすすぎたい。

「……痛くは、ない。……彼氏なんていないよ」

「だってそれ噛み痕だろ? 内腿とか、ふくらはぎとかさすがに自分じゃ噛めないだろ?」

 先ほどあんなにじっくりと見ていたのは、そんなことを考えていたからなのか。感心のような呆れのような感情を覚えた。

 以前のように笑ってみた。だが、誤魔化せるわけがない。

「それとも……同居人?」

 睦月の顔から笑顔が消えた。それは肯定の言葉以上の答えだった。

「……なんで、知ってるの? 美知留がなにか言った?」

「うん、まあ。睦月が年上の女の人の家に一緒に住んでるのとかはたしかに聞いた」

「ほかにもなにか聞いたの?」睦月がそう訊ねると黒崎は首を横に振った。

「ほかはないけどさ。なに? サドなのか、その同居人。それとも睦月がマゾか? さっきもそれほど嫌がってなかったし」

「……だって噛んでくれる条件でしょ。私が出した条件を私が破るわけにはいかないよ。私は……まあ、これがマゾだっていうんならそうかもしれないけどね。噛んでほしいだけだし、噛みたいだけ。それ以外は好きじゃない。英は、あ同居人、英って言うんだけど、ちょっと……あれだ血を見るのが好きなだけ。利害の一致ってやつ」

「よくわかんないけどさ。まあ俺も彼女いるわけだし、追及はしないけどさ……噛んでくれればほんと誰でもいいんだな」

 ふぅん、と黒崎は頷いた。彼が納得しているかどうかなど睦月は気にならなかった。ただ、喉が渇いて仕方なかった。

「正也こそ、どうなの? サド?」

 今の行為に不満があったわけではない。なにをしてもいいからと、頼んだのだから。

「ちげぇし。けどさ、やってみたかったんだよね。一度だけそれとなく言ってみたら美知留にすっげー拒否されたし」

 美知留の話をするときだけ彼の眉は少し下がる。おそらく黒崎自身は気づいていないだろう。美知留が嫌がったというのはフェラについてのことかと思っていたが、行為全体を指していたらしい。睦月は舌打ちをしたい衝動に駆られた。

 どうせ、互いに誰かの代わりなのだ。

 もっと噛んでほしいが、今日は期待できなさそうだ。黒崎の眼はもう睦月を見ていない。次がきっとあると自分に言い聞かせた。睦月は理想とする八重歯を横目に見ながら、ため息を吐いた。

「ねえ、そろそろ腕、解いてもらえる?」


 睦月はまだ満足していなかったが、黒崎がすっきりとした顔をしていたためにさっさと帰ることにした。ワンピースの裾を伸ばす。雨はかなり小降りになっていた。傘を差すか少し迷い、とりあえず広げてみた。先ほど落としたせいだろう、骨が一本だけ歪んでいた。仕方ない、このまま帰ろう。不格好な傘を差し、足早に歩いた。

「ただいま」

 睦月は見慣れた家のドアにそっと呟いた。

 ブーツを脱ぎ、靴箱にしまう。そこに英の靴はない。まだ帰ってきていないことを確認すると、安堵のため息が出た。真っ先に脱衣室に行き、先ほど着たばかりのワンピースを脱ぎ、ルームウェアに着替えた。ピンクのそれはもちろん英が買ってくれたものだ。

 睦月はソファに腰掛け、テレビをつけた。なにか面白い番組でもやっていないかとザッピングしたが飽きてすぐに消した。英のお気に入りのクッションを抱きかかえ、そのまま横になる。精一杯伸びをすると、睦月の足がなにかをソファから蹴り落とした。体を起こし確認してみると雑誌だった。英の仕事の雑誌なのだろう、なんども開いた跡がある。ぱ、と開いたページにはシースルーランジェリーを身につけた女性が見開きで横たわっていた。薄いピンクは英の好きな色。そのデザインも英が好きそうなものであった。英はこの少女たちを見てなにを思うのだろうか。睦月は思案する。白いが、明らかな健康体であることを示す肌。睦月の肌とは正反対だ。

 ページの端が撚れていた。特にこのページを開くことが多かったのだろう。新作のランジェリーなのかもしれない。この雑誌に掲載されているものの多くは英が働くランジェリーショップに売っているはずだ。最近は英が買いそろえてくれるため行くこともなくなってしまった。睦月はそのことをとても残念に思う。あそこは雰囲気がとても好きだった。

 睦月はモデルの嘘っぽい大きな胸に爪を立てて閉じた。

 肌がむずむずした。痒みなのか疼きなのかわからない。

 睦月はソファから立ちあがり、クロゼットのとなりに立てかけてある鏡に自分を映した。

 襟を少し開き、そこからのぞいた胸に爪を立てる。細い月が白い肌に赤く咲く。爪は少しだけ歯に似ている。でもやはりちがう。睦月の左手は身体に爪痕をつけながらルームウェアを脱がす。自分の肌を愛撫しても、楽しくない。これは爪であって、歯ではない。

 裸の胸にはうっすらと黒崎がつけた噛み痕がある。鋭利な三角形をひとなでする。

 指先に唾液を纏わりつかせる。首筋、胸、腹。いつも英が噛んでくれる順に指を這わせ、湿り気を与えた。左手を追うようにして、右手で爪を立てる。じれったくなって身につけているものを全部脱いだ。自分以外の誰も見ていないと言い聞かせ、あられもなく両足を開く。鏡を見据えて、薄いピンク色をした突起に爪を立てる。しかし睦月は達せなかった。

 重い意識だけが存在する。触っているそこに熱は存在するのに、そこだけで留まっている。快感は訪れなかった。


 温かいシャワーを浴びていると気分が落ち着いていくのを感じた。自分のつけた痕を流すようにお湯が肌の上を流れていく。なにをしているのだろう。恥ずかしさからか、不満からか睦月は指を噛んだ。今は、感じない。指を噛む快感を得ようとするのは罪悪のように思えた。

「やっぱり、だめだ」

 なにが、ということではない。自分という人間そのものが。

 髪を乾かしながら夕飯はなにがいいか考えた。買い物はこの間学校帰りにしたばかりである。冷蔵庫の中をのぞくとひき肉も玉ねぎも牛乳も卵もあったことからすぐにハンバーグを作ることが決まった。あとはパン粉さえ探せば完璧だ。時折、あまりに面倒に感じると外ですませてしまうが、だいたい睦月は自分で作っている。淡々となにも考えない、ただの作業。そこに美味しいものを作ろうという思いはない。ただ食べられればいい。作るのは好きだが、それは単純な作業だからだ。

 睦月は、自分が美味しいものを作れると思ったことはなかった。英は美味しいと言って食べてくれる。もちろんうれしいが、家事が全くできない彼女に言われているということを思うと複雑な気持ちになる。

 料理に限らない。

(だって、私なんかが作ってるんだもの)

 手にした玉ねぎにごめんと謝る。このところ気が滅入って仕方ない。英の不安定さが移ったのだろうか。

 ハンバーグを作り終えてもまだ英は帰ってこなかった。まだ五時にもならないのだから当たり前ではある。とりあえず皿にきれいに盛り付け、洗い物を先にすることにした。

「痛っ……」

 英の帰りがいつごろになるだろうかと時計を見ようと思ったのがいけなかった。なにかをしながら同時にほかのことができないのだ。それなのに包丁を洗っているときにちょうどそういう行動をとってしまったものだから、案の定手を切ってしまった。左手で柄を、右手でスポンジを持っていた。左手はこれ以上の被害を避けるためいったん包丁を水切りに移していた。

 右手の人差し指から新鮮な血が零れる。

 英。

 こんなこと、痛いだけだ。指先に膨らんだ血は流れる水ですぐに消えていく。それはまるで包丁ではなく血を洗っていたように見えた。

 このまま自分の中の血がすべて流れていけばいい。

 そうすれば、それは睦月であって睦月ではない。古い容れ物の中をすべて除いてしまえばあるいは別物として存在できるのではないだろうか。噛み噛まれなければ快感を得られないような欠陥品ではなく、もっと普通に生きてみたい。解決策はそれしかないように思えた。

 水の冷たさが傷にしみる。

 ずっと流水にさらしているため血はとまる気配がない。

 流れろ。流れ続けろ。そのままゆっくりと。最後の一滴まで。

 血はとまらない。洗い物はまだ残っている。

 せめて、包丁は最後に洗うべきだったなと睦月は思った。人差し指の傷は小さなものだ。そこから流れ出る血液もごく少量。これではあまりにも時間が掛かりすぎるか。以前風呂で剃刀を使っていて誤って肌を傷つけたときはもっと赤かった。どくどく、どくどく、脈打つ心臓を感じた。だが今はただ手が冷たくなっていくだけだ。痛みは熱に似ている。冷たさも痛みに似ている。人間の感覚は思っている以上に鈍感なのかもしれない。冷たさは父を思い出すから嫌いだった。

 睦月は目を閉じる。別れ花に埋もれた父は冷たかった。あまりしっかりとは見ていない。父の死因は階段からの落下だ。その衝撃はあごへ集中していた。

 棺の中の父の顔は化粧をし、きれいに整えられてはいた。しかし顔だけがどうも歪んでいた。耳のすぐ横に白いユリの花を刺した。冷気を放っていたのは恨みからか。

 眩暈がする。父が死んだときすぐ近くに睦月はいた。

 父親の重い財布から抜き出したのは十万ほど。その金を持って睦月は、はじめてできた彼氏の元に行った。それが処女をもらってくれることと引き換えに出された条件だったからだ。自分の小遣いでは少し足りなかった。それならば二、三ヵ月分の小遣いを先にもらってしまえばいい。睦月はそれくらいの軽い気持ちで行動していた。

 彼女の父は企業家でそれなりの地位ある男だった。金を盗んだことが父にばれ、二階にいた父は朝帰りした睦月を叱ろうと階段を駆け降り、そこから落下して死んだ。今になって思えば父はその日、体調がすぐれないのか顔色が悪かった。明らかに事故だ。だが、原因の一端を睦月は背負ってしまった。

 母親はその音に目を覚ました。そして床に倒れた父を見つけると絶叫し、倒れた。すぐに病院に連れて行かれた。退院するまで日はかからなかったが、それ以来、手足が震えるようになった。頭痛がすると喚くようになった。睦月はいまだ父の死以前の母ほど穏やかな人を知らない。その差に耐えられなくなった。そうして睦月は母親とも上手く話せなくなった。

 胃がきゅっと縮まるような感覚がある。

 白いユリの花言葉は威厳、純潔。どっちも睦月には似合わなかった。純潔を失うために行動し、その結果父は死んだ。いま指から血を流しているこの姿に威厳があるとは到底思えない。

 睦月は罰だと思っていた。愛咬とはちがう。睦月にとっては噛むことが、噛まれることが目的なのだ。想いが高ぶり相手を噛んで愛情を示すような可愛らしいものではない。それが、普通ではないことは知っている。

「ごめんなさい」

 罰だ。

 父が脳裏に浮かぶ限り許されていないのだと思い知らされる。罰は死ではない。こんな少量の流血では死ねない。罰は悔やみ続けること。

 再び思いだすようになったのは、黒崎と出会ってから。あの素晴らしい八重歯を見てから。噛まれることを強く望んでしまったことがいけないのか。わからない。

 噛まれたいと思うとき、噛みたいと思うときどこかで懺悔をしている睦月がいた。生きる実感を得ることは苦しい。胸が締め付けられる思いがする。出口のない洞窟に閉じ込められ、入り口をふさがれたたような気分だ。永遠にないとわかっている出口を探さなくてはいけない。明かりもない場所で手にした白いユリだけが見える。

 懺悔の声がその中で虚しく木霊した。

 睦月は自分が探しているものがわからない。それでもなにかを求めているのだ。誰かの歯をこの肌に受けたい。この歯で誰かの肌に痕を残したい。苦しみでもがいているというのに、それだけはやはり思うのだ。とてつもない矛盾を正当化しようとするからより歪さが目立ってしまう。


「ただいま」

 英はドアを開け、声を張り上げた。いつもならすぐに奥から睦月の声が聞こえてくる。水音がする。洗面所をのぞくと使った痕跡はあるが、睦月はいなかった。

「あれ、睦月。どこ。キッチンかな」

 キッチンへ向かうと、睦月を見つけた。「睦月、帰ったよ」声をかけながら近づく。しかし反応がない。さらに近寄ろうと一歩踏み出すと、足が滑った。下を見ると、床が濡れている。

「床、びしょびしょだよ。どうしたの。睦月らしくない」

 睦月の肩に触れる。すると、怯えたように肩を震わせた。

「大丈夫?」

「……私らしいって、なに」

「え」

 英は睦月をのぞき込んだ。蛇口から流れっぱなしの水、洗いかけの食器。指先からの出血。

「睦月、なにしてるのっ」

 英は手を伸ばし蛇口を閉めた。睦月の手に触れると芯から冷え切っていた。

「どうしてこんなんになってるのさ。ほら、あったかくして」

 睦月の反応は薄い。手を引かれるままに動くさまは操り人形のようだ。従順な姿に英の心は踊った。

 まるで人形みたいじゃない? 人間に対しこんなに愛しく想える日が来るとは思いもよらなかった。

「睦月、好きだよ」

 英は睦月の首の後ろに手を添え、うなじをなであげた。

 睦月は驚いたような顔をして、ひと呼吸ののち答えた。

「うん、私も」

 英に抱きしめられながら、睦月は好きとはなんだろうと考えた。



 これでより理想に近づいてきた。英はほくそ笑む。三ヵ月もの間愛で続けた美しく未分化であった彼女はいわば蛹だった。それが、生まれようとしている。羽ばたかせてあげるものか。愛でて、愛でて、ゆっくりと鱗粉をすべてとり除いてあげよう。翅はあるのに飛べなくなったことに絶望すればいい。きっと英しか頼れなくなる。その姿はどんなに美しいだろうか。

 腕の中に捕らわれている彼女は英から逃げようとはしない。思わずその赤い唇に自分のそれを寄せた。これも、すべて手に入る。時間をかけた分、同じようにじっくりと壊そう。この唇は英という名前さえ呼べればそれでいい。

 今日は睦月をこれ以上ないくらいに甘やかしてあげようと決心し、彼女を抱きなおした。こうしてしまえば緩んだ顔を睦月から隠すこともできる。胸の奥から沸き起こるなにかがある。母に名前を呼ばれ微笑まれたときに感じたものに似たなにか。ずっとこの腕の中にあればいいのに。

 所有欲、独占欲。なにが近いかわからない。ほしいものは、睦月だろうか。今はそうだと信じている。

 食事はすでに冷めてしまっている。それならばもう、いつ食べても同じだ。それよりも優先すべきは睦月だろう。ここで抱きしめ噛んでやるのとベッドへ行くのとだとどちらが彼女を喜ばせるだろうかと考える。

 壊すときは近い。英はそのときが楽しみで仕方なかった。夢にまで見た人形が、もう少しで手に入る。




「睦月、ここ座っていい?」

 食堂で夕飯をすませている睦月の元に美知留がやって来て言った。

「たぶん、もうすぐ正也が来ると思うんだ。それまで暇だから、睦月と一緒にいる」

「勝手にして」

 答えるより先に美知留は睦月の向かいの席に座った。手にしていた教科書が入ったバッグを自分の席を主張するようにとなりの席へと置く。美知留は満足したのかいつもの笑顔を浮かべるとスマートフォンをとり出した。

「正也、課題提出してから来るんだって……」

「……ま……黒崎くんって学部どこだっけ」

「えっとね、情報工学だったと思うよ……あれ、電子工学だっけ? とりあえず工学部だよ」

 理系科目が嫌いで消去法の末に文学部へ入った睦月は「すごいね」と笑って頷くことしかできなかった。課題の内容を訊ねても美知留も睦月も理解できないのだろう。

 幸せそうに、美知留は黒崎について話す。睦月はスパゲティを食べながらそれを聞く。黒崎は、美知留には優しく彼女のペースに合わせて接しているのだろう。そうでなければこれほど彼女は黒崎の優しさを説かないはずだ。睦月の視線は自然と美知留の手首に移った。白く細いそこにロープで縛られた跡はない。長袖のニットの下に隠された睦月の手首にももう跡は残っていない。だが、縛られたという事実はあった。

 求められているのがどちらかなどと醜い争いをするつもりはない。だが、美知留に勝っていると喜ぶ自分がいることも否めなかった。美知留にはつけない痕を睦月には残している。どうしたって二つのものを並べてしまった時点で勝負になってしまう。簡単なことだ。選ばれれば勝ち、選ばれなかったら負け。

「あ、正也! こっち」

 美知留の声のトーンが上がり、片手を軽くあげた。そのすぐ後に色褪せたメッキのような頭が見えた。彼は背中のリュックを背負い直すようにして小走りになった。

「わりぃ、美知留……待った? あ、むつ……菅谷さ、ん……だっけ……?」

 黒崎の顔にも声にもありありと困惑の色が浮かんでいる。美知留と向かい合える睦月のとなりに座るか、それとも美知留のとなりに座るか悩んでいるようにも見える。結局、彼は座らずに四角いテーブルのわきに立っていた。

 睦月は最後の数本のスパゲティをフォークに巻き付ける。

「……美知留、この後用事はなんかあんの?」

 その問いに美知留は「んー」と視線を左のほうに向けた。「べつにこれといってはないかな。どこか行くの?」

 口の中のものを嚥下する。水で流し込む。さっさと席を立ちたかった。

「ううん、聞いただけ。じゃ、お先に」

 睦月は口元をぬぐい、トレーを持って立ちあがった。

「睦月、行っちゃうの?」

 一緒にいられるわけがない。睦月は無性にいらいらとした。

「帰るわ。ごゆっくり」

 黒崎と視線が合う。彼の唇が動く。「後で」とそう読みとれた。



 睦月はカフェで時間をつぶし、陽が傾きはじめたころに黒崎の家に行った。今日でちょうどはじめて会ってから一週間が経つ。

 ドアのノブを前にすると少し緊張する。インターホンを鳴らし、中から黒崎がドアを開ける。

「入って」そのひとことには、誰にも見られていないかという疑いのような響きが潜んでいた。そこまでして隠したいか、黒崎の必死さを見れば見るほど睦月は笑いだしそうになった。

 教科書が入ったトートバッグを机の上に置く。いつも通り、部屋はきれいに整っている。他愛無い会話をしながら、睦月と黒崎はお互いに服を脱がせた。

 黒崎は睦月の肩を押しやって足の間に座らせる。下から見上げられているというその姿は彼の支配欲をかきたてるようだ。はいはい、理解していますとも、ご主人様。睦月は彼の要望に応えるように、彼のパンツを脱がせ、現れた勃起したそれを咥えた。黒崎は荒い呼吸のまま睦月の髪を掻き上げる。上顎に、舌にそれはこすりけられる。睦月は放出された精をあますことなく口で受け止め飲み下す。

 疑似ボールギャグを口に含まされ、手を縛られる。目隠しをされ、写真を撮られる。撮影されることにも慣れてきた睦月は体を丸め、ポーズをとった。彼はおそらく痛ましい姿のほうが好きなのだろう。顔を歪めるのも、噛んでもらうため。

『カシャ』

 いつものカメラにしてはやけに高い音がした。

 声をあげたくても口はふさがれ、目も見えない。

 睦月がいつもとちがうことに気づいたことに、黒崎も感づいたようだ。

「大丈夫」耳朶に息がかかる。

 黒崎は一人で達し精を睦月の顔にかけた。そして目隠しや腕を拘束するロープを解くことなく睦月を押し倒す。冷たい指先が愛撫を繰り返し、首筋や胸にいくつもの歯形をつける。睦月は成すすべなく快楽の渦に飲まれていった。


 睦月の気がついたときにはシャワーの音が遠くでするのみで、となりに黒崎はいなかった。そのことを一瞬だけ寂しいと感じてしまった。相手が美知留であったら、目覚めたとき彼はとなりにいるのだろうか。

 睦月は手くしで髪を整え、投げ出されている衣服を身につけた。念のためバッグの中身を確認する。なんの変化もない。大丈夫だ。睦月はそうして黒崎がシャワーから出ない内にひっそりと帰った。

 少しずつ暗くなるのがはやくなってきている。季節がもう少しで巡るのかと少し物足りない気持ちになった。秋は寂しい季節とはよく言ったものだ。こんなにも心の隙間に秋風にも似た乾いたものが吹き荒れている。しかし、冬はもっと嫌だ。冬は孤独だ。青々としていた草が枯れ、葉が落ちた木には花の代わりに雪が積もっていく。丸々と枝先にぶら下がったそれはやわらかい綿が木に生っているようにすら見えるのに、触ると冷たく、そうして溶けていってしまう。いらいらがなにから来るものなのか睦月は歩きながら考えた。

 英のこと、黒崎のこと、美知留のこと。彼らの顔が浮かんでは脳裏の片隅へと落ちていったがそれらは些細なことだ。答えが出ないことにさらにいらいらが募っていく。だんだんと早足になり、しまいには走り出していた。

 いらいら、する。なぜ黒崎のとなりにいられるのは彼の家だけなのか。もっと、噛んでもらいたい。こそこそとではなく、堂々ともっと頻繁に。

 なぜ堂々とできないのか。真っ先に思いついた理由は美知留だった。美知留に言いたい。彼が噛むのは自分なのだと。彼の美しい八重歯は睦月のためにあるものなのだと。

 だが、言ってしまったらすべてが終わる。美知留は黒崎と睦月を失い、黒崎は美知留を失う。黒崎はきっとそんな睦月を許さないだろう。そうしたら、噛んでもらえなくなる。

 でも。言いたい気持ちも大きかった。お気に入りの宝物を誰彼構わず自慢する小学生のような気持ちだ。

 電子音が鳴った。メールを受信したことを知らせるものだ。睦月は足をとめ、鞄からスマートフォンをとり出した。

 黒崎からのメールだった。一文しかない内容に眉をひそめる。

   ちゃんと記憶しておけよ

 どういう意味だろうかと考える前に添付フォルダに気づいた。開いた。

「え」

 それは、さきほどの写真だった。睦月自身、黒崎とのそうした記憶がなければすぐに自分だとはわからなかっただろう。こんなにも弱々しく見えるのか。

 これが黒崎から見えている睦月の姿なのだと、知った。ボールを咥えた口からは唾液か精かわからないものを垂らし、頬にはまるで涙のようにかけられた精が飛び散っている。全身を濡らし、睦月の腿の間をどこよりもうるおい透明な液体が伝っている。

 これを覚えておけというのか。知っているのと知らないのでは恥ずかしさもちがう。次があるとすれば、睦月は縛られ撮影されるたびに、この写真を思い出し、それにより自分の菅とを見てしまうことになる。それが目的なのだろう。

『カシャッ』

 いつものカメラとちがう音。あれは、

 睦月の中で合点がいった。あれは、スマートフォンのカメラの音だったのか。なぜわざわざ別の媒体で写真を撮ったのかが気になったが、訊ねる気は起きなかった。いままでの写真も、勝手にすればいい。睦月が家に来ることすら警戒しているような男がなにかできるものならしてみればいい。ネットにあげたければ好きにしていい。

 噛んでくれたのだから。

 不意に悪い考えが浮かんだ。美知留はこれを見るだろうか。黒崎は真っ先に彼女に見せるべきだ。本来、彼はこういう愛し方をするのだと、見せつけて教えるべきなのだ。

 電話を開く。

 美知留の名前をタップし、それを耳元に持って行く。

 すぐに彼女の声が聞こえた。

「美知留、私楽しかったよ、美知留と一緒に過ごすの」

『いきなりどうしたのさー、そんなあらたまって』なにも知らない彼女の話し方は、まさに睦月を友達だと信頼しきったものであった。

 でも、と付け加えた。これからそれは過去のこととなる。さあ、憎め。睦月は別れの言葉を切りだした。

「ごめんね。私、正也のセフレなんだ。写真あるから後で正也に見せてもらいなよ。じゃあね。それだけ」

 美知留は息をすることを忘れているようだった。電話口からなにも聞こえない。死んだのではなかろうかと一瞬だけ不安になったが、すぐに過呼吸のように喉から息だけがヒュと漏れた音が聞こえた。

「さようなら」

 重ねて、言った。大好きだった楽しい日々に。

 いつぞや父が入っていた棺のようなものにこの思い出を入れよう。

『睦月!』

 美知留の声は、心なしか涙に濡れていた。

『睦月は……睦月は私のこと嫌いだった? 私は睦月のこと好きだったのに……。なんでなの? なんで正也なの? お願い、切らないで。お願い正也をとらないで。彼が好きなの。本気で。ねえ、睦月……』

「ごめんね、美知留。美知留のことは好きだったよ。楽しかった。……なんというか、なりゆきなんだ。私にもわからない」

 ごめんね?

 そして睦月は美知留の懇願を無視し、電話を切った。

 優越感に浸れるかと思っていた。美知留に、黒崎に選ばれたのは自分なのだと見せつけ、選ばれた上で相手を捨てるのだ。それなのに、心の中にヘドロが溜まっていくだけだった。

 睦月はスマートフォンを握りしめたまま、道路の分岐で足をとめた。英の待つ家に帰るつもりでいたが、足は家とは反対方向へと繋がる道を選んでいた。気がついたときには駅前の花屋にいた。美しい花が並ぶさまを見て、ようやくなぜ自分がここに来たのか理解し、睦月は白いユリの花を一輪だけ買った。

 思い出の別れ花に。



「え」

 メールの添付されていた一枚の写真に英は声を失った。

 目隠しをつけ、口には卓球のボールを咥え、両手は背中で縛られている。

 睦月の写真だった。

 睦月に来るメールはすべて自動で英に転送されるよう設定し直した。

 まさか、このようなものが送られてくるとは。

 英の中で、最近美しさを増し、英の理想に急速に近づいた睦月の姿が浮かんだ。あれは、自分が愛した結果ではなかったということか。

 怒りとも、悲しみともつかない感情が英の中に沸き起こった。愛していた。精一杯愛していたのに、なぜ睦月がああなった原因はべつにあるのか。

 壊すのは、自分だと思っていたのに――

 捨てられないこの気持ちをどうすればいいのだろう。丸めてごみ箱に捨てられればどれほど楽だろう。捨てられないから苦しむのだ。自分から苦しみたいと願う人間はいない。どんなに被虐趣味の人間でもその苦しみの裏に喜びや快楽がなければ。楽に生きていたい。

 この感情を捨てるくらいならば、感情を抱かざるを得ない原因を消してしまったほうが楽だ。楽なほうに楽なほうに流されていく。

 どうせ、いつか壊すつもりで愛しんできたのだ。今、破壊してしまっても変わりないだろう。


「ただいま」

 声がする。睦月。英が愛する人形。自分以外の痕をその身に残しているなんて。

「英、あれ、……どこいる?」

 愛しい声がする。三ヵ月、たかだかそれだけの短い間、彼女を抱くたびにこの声で鳴いた。

 まだ、愛に酷似したものがある。捨てられない。

「英? 寝室かな……」

 睦月は不穏な空気を感じた。いつもなら飛びついてくる英がなかなか来ない。どうしたのだろうと彼女を探す。彼女の名前を呼びながら念のため部屋を一つひとつ確認した。やはり寝室に人の気配がある。ドアを開けると英はベッドの上で寝転び、スマートフォンを眺めていた。

「英、どうしたの? スマフォなんて見……て」

 近づき、彼女が見ていたものを知った。

 先ほど黒崎から送られてきた写真だった。

「え……英、なんで、その写真……」

「転送したの。睦月のところに来るメールはすべて」

 これは、どうしたの。

 静かに、問うた。睦月には答えられなかった。英の顔を見るのが怖い。

「睦月は、どうしたかったの?」

 どう、したかったのか。答えは、いつも同じ。

「……噛んで、ほしかった」

「本当に、それだけ?」

 幼児に優しく訊ねる母親のような。

 睦月はゆっくりと顔をあげた。英はどんな顔をしているだろう。もしかして、怒っていないかもしれない。

 だが、そんな都合のいい幻想はありえなかった。彼女は微笑んでいる。だがその瞳はさまざまな感情を映している。

 一番前面に出ているのは怒り。次が哀しみ。喜びが垣間見えるのは英の加虐性からだろうか。英の怒りはいつも激しかった。噴火。今回はちがう。地の奥深くで沸々と地表に出ることを待ちわびるかのようなマグマ。たしかにある熱が地面に阻まれ隠される。

 それはいつもの噴火以上に恐ろしかった。

 英は睦月を手招いた。おそるおそる近寄ると、突然英に手を引かれた。バランスを崩したところを押し倒され、気がつくと英が馬乗りになっていた。

 ユリの花が睦月の下敷きになり、においを放っていた。

「髪を切ったのも、関係あるの?」

 睦月は迷った末に正直に頷いた。英は眉をひそめた。

「そう」

 一言、そして身をかがめると首筋に英は歯を立てた。いつものように深くしっかりと噛むのではなく、浅くなんども噛み直し、どう噛めば痛いかを考えているようであった。

「やだ、その噛み方」

「わかったよ」

 英は口を離すと、手を睦月の頭の後ろに当て、乱暴なキスをした。いつもはこんなキスはしない。深く噛みつくようなキス。息継ぎができない。少し口を開いたとたん舌を入れられた。かき乱される。思考。

「睦月、あの写真のときはもっといい感じだったのに、もっと乱れて」

 英は睦月のブラウスを脱がせると胸を噛み、その間も手はスカートをまくりあげている。英は自分の服は一切乱すことなく、睦月を脱がせた。下着の中に手を入れ、最も湿ったその奥を指で突いた。睦月が鳴いた。

「こんなんじゃないでしょう。もっと、もっと」

 英は睦月の足を広げた。睦月の手はどうしていいのかわからず所在なく宙をかく。拒否しようと思えばできる。噛んでくれないのなら嫌だ。それでも拒否できないのはなぜだろう。英の行動が読めないことも一因かもしれない。

 英の息が上がる。しかし、睦月はそうなれなかった。

「ねえ、睦月は楽しくないの」

 英の手が睦月の唇に触れた。その指は湿っている。返事をしようと開いた口の中に指を入れられた。舌を掴まれ息ができない。

 睦月は、英の手を噛んだ。

 睦月が英を噛むことはたまにあった。だがいつも英は笑っていた。いまは、表情が消えていた。

「もっと、乱れられるでしょう。男の前だとしたんじゃないの? 写真送ってきたの男でしょ?」

 睦月は答えない。すべてを言ってしまうのと、言わないのではどちらのほうが英の逆鱗に触れているのだろう。

「答え……ないの」

 英の手が睦月の喉にかかった。

「言うことは、ないの?」

 抜け落ちた表情の中、目だけが生気を帯びていた。英の手に力がこもる。睦月は苦しみに喘いだ。

 罰は死ではない。それは父に対する罰。英に対する罪の対価に英が死を望むなら、睦月はそれでもいいと思っていた。

「もっと、乱れて」

 英は、だらしなく開いた口から唾液を溢れさせる睦月を眺める。足を使って睦月の足の付け根を刺激した。英のスラックスが睦月で濡れる。

「足りないよ」

 英は睦月の喉を絞め続けた。睦月は空気を求めて口を開く。

「……じゃ、な」

「睦月、言う? なあに、聞いてあげる」

 英が力を緩めた。それでもまだ手は喉元にあてがったままだった。

 急激に入ってきた空気に睦月は咳きこんだ。

「私は……ちがうよ……。私は、本物じゃないの。誰にとっても本物になんてなれないんだよ」

「言うことは、それ? ちがうよね。睦月は私の可愛いお人形なんだから」

 英は再び力を込め始める。

「ちが……。人形じゃない……私は、人形にも、なれな……い」

 本物になれるのなら、人形になってもよかった。英が人形を求めていることは知っていた。以前から睦月に着せたいと言って買ってくる服。可愛らしいピンクの下着。すべて、英の望む人形の衣装なのだと。

 本物になれないのなら、それが罰だというのなら、もう、

「死んでも……いいわ」

 英は体重を腕にのせた。睦月は言葉とは裏腹に英の手をどけようともがく。

「一緒に不幸になれるんだったらこれって幸せなんじゃないかな」

 そう言い英は弱々しく笑った。薄れゆく視界の中でも睦月にもそれがわかったため笑い返そうとしたが、こわばった筋肉がわずかに痙攣しただけだった。不幸の中にしか幸せを見い出せないというのなら一緒に堕ちてあげてもいい。

 そして次第に、抵抗する美しい人形は静かになっていく。

 死は優しいでしょう。




 睦月が目を覚ましたとき、英の姿はなかった。

 自分は死んだと思っていた。あのまま英の手にかかって。

 上手く息ができない。ゆっくりと吸う。吐く。

 時間が経ち、睦月はやっと満足に呼吸ができるようになった。ベッドから立ちあがろうと手をつくと、潰れたユリの花に触れた。

 服を直そうという気も起きない。

 睦月ははやる気持ちを抑え、英を探す。まずは自分の部屋をのぞいた。そこには英が買ってくれたたくさんの服が散らばっていた。睦月が朝家を出たときはきちんと閉まっていたクロゼットが全開だった。

 よく見ると、服は切り刻まれていた。英が愛した可愛いものたち。

 嫌な予感しかない。英は睦月が意識を手放す寸前になにか言っていたような気がする。なにかは聞こえなかった。風呂場にもいない。ベランダから身を乗り出し、下を確認した。姿はない。安心と不安でいっぱいになる。腰が抜けたのか、その場に座り込んだ。

 どこにいるの。探したが、家の中にはいなかった。

 睦月は英の交友関係を知らない。スマートフォンで英本人に電話をかけたが繋がらなかった。

 ねえ、どこにいるの。

 噛んでよ。

 噛んでくれないのなら、もう、英に興味はない。

 英には聞こえない。英の声も聞こえない。睦月は一人、遭難してしまいそうだった。ベランダに蹲った。気がつくと頬を涙が滑り落ちていた。

「わああああああああああ」

 頭を抱え、髪を掻きむしった。睦月は自分の指を咥えた。赤ん坊のように人差し指に思いっきり吸い付く。しかし、そこに歯を立てることはできなかった。あごが震え、嗚咽が漏れた。

 睦月は声をあげて泣いた。

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思いきり噛んで、抱きしめて 藤枝伊織 @fujieda106

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