固定電話の横にあるような

三津凛

第1話

「子どもがね、このマークってなんなのって聞くのよ。ショックよね」

困ったように美雪は言った。でも幸せそうだった。

「受話器ってことが、分からないの?」

「そうみたい。うちは固定電話引いてないしね」

ふうん、と頷きながら液晶画面に浮かぶ受話器のマークを眺めた。久し振りに会った美雪との会話は半分が子どもに関することで、あとの半分は旦那に関することだった。

「じゃあ公衆電話のかけ方とかも、分からないんじゃない?」

「そうでしょうね、そもそもあんまり見ないけど……」

独身のままの私とは必然的に話題が合わなくて、私は彼女をつまらない女になってしまったなと感じた。

子どもの話も、旦那の話もどれもこれもが温くて欠伸が出そうだった。学生時代は頭の切れる女の子だったのが、ちまちまと家計のやりくりにその頭を使っているのが何だか切ないと思った。

不妊治療でようやく授かった子どものことが可愛くて仕方ない様子がありありと分かる。

「なんだかね、子どもといると不意にあぁ私って歳を取ったなぁと感じるの」

「私にはその感覚がよく分からないけど……若い子といるとよくそれと似たことは思うなぁ」

「紀代は今は人事部でしょ、偉くなったわよね」

「ううん、そうでも。上は相変わらずおじさんばかりだしね」

「すぐそう捻くれたこと言う」

美雪が笑う。

私が捻くれてるっていうよりか、現実の方が歪んでるだけなんだけどな。以前の美雪なら、なんて言っただろうかと考えてしまう。

家庭にほだされて、彼女はすっかり緩くなった。それが母親になることなのだろうか。全てに大らかで怒らず、良くも悪くも鈍感な。

私は美雪を尖った目で見ている自分に薄々気づいていた。でも止められない。

「……私たちの周りって、みんなバリキャリでしょう?結婚してる方が少ないくらい。自然と疎遠になっていくのよね。話も合わなくなっていくし……紀代だけよ、私に付き合ってくれるの」

「珍しく哀しいこと言うのね」

私は半分聞き流しながら言った。美雪は少し上目遣いになる。

30後半になると、誰だって粗の目立つ顔になる。そして更に残酷なことはこれまでの生き様が皺になって刻まれていくことだ。

美雪は年齢よりは若く見える。でも若い頃にはなかった皺が静かに浮かんでいる。それは彼女の育ちの良さや人の良さを表す綺麗なものだと私は思った。

根っこでは、美雪はちっとも変わってはいなかった。ただ、優先するべきものが変わってしまっただけなのだ。

「誰にだって、ライフステージがあるでしょう。やるべきことって、その時々で変わるもの。そういうことで切れてしまう縁なら、所詮その程度だったってことね、割り切ることよ」

「大人ね」

「美雪が変なところで学生を引きずってるからじゃない?」

「え?」

「人間って、何を得るかよりも何を捨てるかの方が難しいじゃない」

「そうね」

美雪はちょっと難しそうな顔をした。

彼女は家庭を取って、別の何かを捨てたのだ。好むと好まざるとに関わらず、両手いっぱいに持てるものは決まっている。

「私は家庭を取ったけど、紀代は何を取って捨てたの?」

「さあ、月並だけどキャリアとか?捨てたのは恋愛かな……」

「あら、妙に歯切れ悪いのね」

美雪が笑う。

私は曖昧に頷いてごまかした。分かってもらうつもりはない。

「それで、旦那のことなんだけどね……」

美雪が口を開く。長くなりそうな気配に備えて、私はワインを一口飲んだ。内容はあまり聞いていなかった。私の中のあるところが、一層美雪を憎く思っている。それをできるだけ透かして見ようとした。

それは目の前の美雪を越えて、まだ見たこともない旦那に辿り着く。随分前にもこれと同じ思いをしたことがあると。

美雪が初めて男と付き合った時だ。男になびく女を越えて、嫉妬の錐はそのまま男へと向かっていく。

私が憎んでいるのは美雪じゃない。その旦那に向かっているのだ。

私は笑った。

美雪は何か深刻な話をしている途中みたいだった。珍しく憮然とした表情を向けられる。

「ねぇ、ちゃんと聞いてる?真剣な話なんだけど」

その真剣さが、どれだけ不満を言おうが旦那への愛情の深さを裏返すようで勘に触った。

「聞いてるわ」


本当は2人目が欲しい。年齢的にももうぎりぎりだ。不妊治療のことを考えたら金銭的にも今しかできなさそうなのに。旦那は美雪には興味がなくなったのか、冷たい。どこかに女でもいるのか、最近やたらと見た目を気にして出世したわけでもないくせに帰りも遅い。


よくあることじゃないの、という言葉が出かかった。父親になりきれない男。いつまでも若い気でいる男なんてたくさんいる。ある意味幸せで、ある意味では不幸なのだ。自分の姿を知らないまま、歳を取っていく。

女はその点敏感で、悲観的すぎるほど嘆いてしまうものなのだ。

「馬鹿ね、美雪と旦那は」

美雪は考え込むような目つきをした。私はその悩ましい頭を撫でた。よく梳かれた髪は指の間を容易くすり抜けていく。私はその心地よさについうっとりした。

彼女に恋していた頃をふと思い出した。私には子どもも結婚もないから、自分が歳を取ったと感じるのはこういう時だった。

遠くまで隔たってしまった、純粋な自分の背中をより一層遠くに押しやる。そのせいで泣き続けて、傷つかないために私は私を尖らせるしかなかった。

「私だったら、そんなつまらないことで美雪を悩ませないわ。だってその勝手な旦那よりも、私の方が美雪のことを好きだったんだから」

美雪は咄嗟に身を硬くした。だが体温から嫌悪感は感じなかった。私は頭を撫でていた掌を次第に下ろして、涙の滲んだ目尻を指で拭いた。

私がまだちゃんと美雪に恋していた頃は、私も美雪も瑞々しかった。今の美雪は少しだけ疲れて、あの頃とはまた別の弱さをまとっている。独りきりで歩いて行けるほど、その脚は強くない。だから彼女はどこまでいってもヘテロセクシュアルでしかあり得なかった。

「ねぇ、レズだったの?」

「うん、気持ち悪いって思う?」

美雪は一瞬だけ、逡巡した。生々しい傷痕に触れるのを避けるような悩ましさ。

「……なんとなく、そんな気がしてた。分かる気がする。男とセックスしてるところなんて想像できないってずっと思ってたもの」

美雪は一気に喋った。その後で、あからさまな好奇心でこちらを見つめてきた。

「好きな人はいるの?」

この世界で、同性愛者になることの滑稽さを多分彼女は一生分からないままだ。

「本当、馬鹿になったわね」

馬鹿な子ほど愛おしい。

私は半分愉快に思いながらそう言った。



私は電話が大嫌いだ。不躾と卑屈を音にしたような、あのベル。

「私ね、電話が嫌いなの」

「どうして?」

美雪とはあれからたまに会った。彼女はもっとあけすけになり、私も同じくらい遠慮がなくなった。

大人になった美雪は小狡くなったと、肌を合わせるたびに私は思うようになった。

「……一度ね、学生時代に美雪に告白をしようとしたことがあるの」

直接言うだけの意気地もなく、手紙を偲ばせるほどの根性もなかった。

だから、電話で告白することにしたのだ。何度か迷った挙句、息を止めながら美雪の家のダイヤルを回した。

彼女の両親は多忙で、家に帰ってくるのは夜遅くだったから多分電話を取るだろうと私は踏んでいた。

それなのにちっとも受話器は上がらなかった。学校帰りに出歩く子ではない。

ちょうどその頃、美雪に告白してきた男子がいて私は嫌な予感がしていた。結局受話器が取られることはないまま、私はあの単調なベル音を延々と聞き続けた。

不躾と卑屈。

私は受話器を置いて、部屋の机に戻った。空は黄昏ていた。昔だったら、物の怪でも出てきそうな空だと思った。電柱が影絵のようにくっきりと映えている。

「一度だけ、電話をかけたのよ。憶えてないでしょ」

「……そうね」

美雪は告白してきたその男子と付き合っていた。私は抜け目なく彼女の話しを聞き出して、友達のふりをした。嫉妬も憎悪も隠したまま。私が電話をかけた頃合いに、美雪は半ば犯されるようにして男子とベッドに包まっていたのだ。

それから私はきっぱりと、美雪への恋を辞めた。



美雪はちょうど良い発散相手を見つけたようだった。

同性ならどれだけ一緒にいても怪しまれないし、言い訳ができる。それに、本当に道を外していてもこれはノーカウントだと自分に言える。

純朴だった自分が今を見たらなんと言うだろうか。頰を張られるかもしれない。

大人は必ずしも、正しいことをするとは限らない。

私も美雪も同じ。

「あぁ、すごい……」

私は望まれるまま、指を動かして舌を使った。大地に雨が沁みるように、美雪は瑞々しくなっていった。女っぽくなっていく妻に旦那は何も思わないのかしら、と私は考える。

美雪の身体は柔らかい。歳を感じさせないしなやかさ。陶冶された工芸品のように美しい。これが憧れていた肌だった、と自分から擦り寄る。

下腹のあたりに掌をおくと、不思議な感覚になる。この人は妻で母親で、まだまだ女だった。

その三者から、この人は一体真っ先に何を取るだろう。

美雪は真っ先に母親を取るに違いない。何かの拍子にのめり込んで、女を取るような人を私は好きにはなれなかっただろうと思う。

「……紀代は今付き合ってる人いるの?」

「いるよ」

「へぇ、どんな子?可愛い?」

「すっごく歳下の子、今年入ってきた一番やり手の子ね。顔も可愛いわ」

「ふうん」

美雪は目を細めた。

私は美雪とは違う熱狂的な身体を思い出した。あの子の事は好き。多分これから長い付き合いもできるだろうと思う。

不意にベッドの端で音がした。美雪のiPhoneから、電話の音がしている。横紙を破るような音だった。美雪は腕を伸ばしてそれを取る。家族の誰かからか、急に母親の顔になった。私は静かに離れた。結局この人の中にあるものは私ではない。

私であって欲しい、と思った時代もあった。でもそれは随分と遠い。

美雪の子どもの話を思い出した。受話器のマークが分からない子。公衆電話さえ、かけられない子ども。

固定電話も公衆電話も、埃をかぶった前時代の遺しものだ。実家の固定電話の横には、いつも色褪せたメモ帳があった。長電話の時には落書き帳にもなった。走り書きされたメモはそのまま乱暴に破られて、用済みになったら捨てられた。

私は美雪にとっては固定電話の横にあるようなものだ。過去の恋愛は遠くなった。いい加減、種は消さなければならない。

気がつくと美雪の電話は終わっていて、困ったような顔をしていた。

「子どもが熱を出したみたい」



往来の人々が、まるで演者のように見える。全てが大袈裟で、大ぶりに膨らんで水っぽく、手応えがない。

人波の合間を、バスやタクシーが縫っていく。誰も彼もが急いで追われていて、余裕がなかった。

私も合わせるようにそのまま駅の改札をくぐり、狙ったように滑り込んできた電車に乗った。一駅二駅過ぎると人も空いて、私は角の席に運良く座った。

それからは母胎の中の胎動のように、電車の揺れを感じた。人の熱気と、それを貯めた暖房をまるで子宮のようにあったかい、と思いながら私は揺られた。


美雪とは知らない駅で降りて、知らない場所で関係した。

美雪はちゃんと家庭に帰って行く。そこが彼女の見知った場所だからだ。まだ本気で次も私と会えると思っているだろうか。

私はそこで少しだけ溜飲を下げた。固定電話の受話器から、薄いiPhoneに変わってしまったものの、今度は美雪が私を呼び出し音の続く中で待つかもしれない。

でもそんな事は、美雪はしないかもしれない。電話をかけることもなく忘れていくのかもしれない。

いつも連絡をしていたのは私の方からだった。


あぁ、どんな顔をして最寄駅で降りよう。見知った顔、見知った道、見知った家々がある場所の始点がそこにある。そこに、見知られた私も居なければならない。

そこにレズビアンとしての私は居てはならない。私の顔は死んでいる。仮面をつけて、腐った肉を隠すのだ。

過去は過去らしく遠くにあるべきだった。そこにあった人も、固定電話や公衆電話が遠ざけられたように忘れるべきだった。

顔はあげられなかった。陽に当たりたくなかった。踏みしめれば割れる薄氷のように、自分を感じた。


中指から、まだ美雪の薫りがする。胸が泣いた。

私はハンドクリームを取り出して、満遍なく手に塗った。

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