無題5

 歌が聞こえた気がした。何もない、果てしなく続く砂浜の真ん中で。どこから聞こえてくるのだろうかと耳を澄ましてみても、ざん、ざざん、と波が寄せては返す音が響くだけだ。変だな、と口の中で呟いて、足を踏み出す。波に触れるか触れないか、そのきわまで進んで、足を止めた。両腕を思いきり広げて、大きく息を吸う。すうっと足先が冷たくなった。どうやら、読みが外れたらしい。土踏まずの辺りまで水に濡れてしまった。吸い込んだ息を止めたまま、やって来た水を足ですくい上げる。蹴り上げられた水は不規則に散らばって、月の光を映しながらきらきらしていた。冷たい滴が頬にも落ちてきて、ふと、飛び込みたい衝動に駆られた。

 はらりはらりと身に纏っていたものを脱ぎ捨てて、雑多に掻き集めた。足先までしか浸かっていなかった身体を、一歩一歩、前に進めていく。夜の海の冷たさにぶるりと震えながら、それでも胸は喜びに震えて、どこまでも行けそうな気持ちさえする。次第に重くなる水をざぶざぶと掻き分けて、胸の辺りまで沈んだ。一歩、また一歩と進むたび、鎖骨、首、顎と、水面から見えるものが少なくなっていく。もう一歩、足を踏み出せば、海と完全にひとつになる。

 頭が海に隠れてしまう一瞬前。呼んでいるような、歌が聞こえた気がした。

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私の宝石箱 桜々中雪生 @small_drum

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