あかね空に掌
明里 好奇
(私の、名前を呼んで)
あかね空に掌
あなたの声を聴いてみたい。
私には音が聴こえないんだけど、それでも、あなたの声が聴きたいの。
あなたの背中に体を押し当てて、わずかに震える皮膚を通して、私はあなたの声を感じるの。私にはあなたが何を言っているのかはわからないのに、あなたは私だけに話してくれている。私のためだけに、あなたは話す。私のためだけに。
あなたは私が見てわかるように表現してくれる。言葉も感情も、私のためだけに。
私の目が追い付かなくても、根気強く伝えようとしてくれている。
私から返せるものは、あまりない。
あなたの背中に、文字を書く。体は触れたまま。あなたの背中に額をつけたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
私の世界は、無音ではない。
中途失聴の私に聞こえるのは、割れんばかりの耳鳴りだ。
その隙間に音のようなものが聴こえることもあるが、それが私の中で意味を成すことは少ない。
だから、ほとんど聴こえないのと同意だと思っている。
概念がないわけではないから、音を知らないわけではない。
だからこそ私は、あなたの声を聴いてみたいと強く願っている。
彼に付いて、苦手な外を歩く。
一人で外出をすることはほとんどない。
彼は、私を緑の多い喫茶店に連れて行った。客は少ない。私に気を遣って、導いてくれているのが分かって、途端に消えてしまいたくなってしまった。彼に迷惑をかけてしまうくらいなら、私はずっと家の中に閉じこもっていたい。泣いてしまいそうになっていると、彼は携帯端末に文字を入力して私に見せた。
「ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど、もう少しだけ時間をくれるかな?」
困ったように笑いながらそう言われてしまったら、帰りたいとは言えなくなってしまった。
「大丈夫。怖いところには行かないし、この喫茶店とそこで今日は帰るからね」
そう言って彼は甘いカフェオレをストローで吸った。
喫茶店で暖かいカフェオレとフルーツタルトを食べたけど、外の世界が怖くてそれどころではなかった。きっとおいしいんだろうけれど、おいしいかどうかよりも人の視線が怖くて、とても甘味を味わえる状況ではなかった。
その場所はメガネ屋さんの奥だった。彼が生活のほとんどの時間をメガネで過ごしているのは知っていたし、そのお店のブランドのメガネを使っているのも知っていた。
店舗の奥の小さな面談室のような場所に招き入れられた。彼が店員さんと一緒に私を導いた。椅子に掛けるように勧められておずおずと腰かけていたら、彼がまた言葉を見せた。
「ごめんね、これは俺のわがままかもしれない。だけど、少しだけ付き合ってくれないかな」
また、彼を困らせてしまった。苦笑するように小さく笑うと、店員さんがトレーを手にして部屋に戻ってきた。
その上にはあまり見ることもない小さな何かがいくつか載っていた。
女性の店員さんは「ごめんなさいね」とゆっくりと言うと、私の耳に触れた。はじめは右耳、次に左耳。イヤホンのようにそれを耳の穴の中に差し入れられた。最初は異物を挿入された違和感が強かった。
彼女の指が数回触れて、少し操作がされたのが分かった。
あ、そう思った時には耳の中に音が、届いた。
強くつむっていた両目をゆっくりと開く。近くに「気配」がしたのだ。それは懐かしい「人の息遣い」。私に聞こえていなかった「音」だ。
「あかね」
誰かが私の名前を呼んだ。
それが、彼の声だと気が付いたのは、彼の顔があまりにも泣きそう見えたからだ。私を射抜くように見つめて、私の手の甲に掌を重ねて、彼が強く私を見ていたから、やっと彼が私を呼んだのだと気が付いた。
ああ、これが。そうだ、これが「声」だった。
彼が、私の名前を呼ぶ。たった、それだけのことなのに私にとっては、特別になった。
胸の奥から、むずむずとした熱がせりあがってくる。それは間違いなくあたたかくて、ささくれた心に沁み込んでいって、自分が存外にすり減っていたことに気が付いた。指先に感じた痛みにやっと傷を負っていたことを把握する感覚に似ている。
彼の、青さんの声が私を呼ぶ。ただ、それだけで、こんなに心地よいとは。私は何も知らないままだった。彼の声が私の名前を呼ぶ。それだけで、生きていることを実感できる。
私の近くにいる青さんの気持ちも考えたことがなかった。音のない世界でうずくまっている私を、彼は一番近くで励まし続けていた。聴こえないと何もかもを遮断して、彼の思いも全部見ないようにしていたのは、私だ。私自身が私を孤独にしていた。
私が、私を捨てたから、私を見ていた青さんも一緒に暗闇の中に引きずり込んでしまっていた。それを、音が聴こえないことを理由にして、逃げ込んでいた私の罪だと分かった。
青さんに名前を呼んでもらって、暖かくなったと同時にもっと悲しくなってしまった。私が、私が一番大切にしたい人を、私は引きずりこんで傷つけてしまったと気が付いてしまったら、一気に涙がこぼれてきた。
青さんにはそれが感涙ではないことはすぐにばれていたようだ。私の背中を優しく撫でてから店を出ると、彼は私と並んで歩いた。
彼の左手が私の左手に触れる。しっかりと指を絡めて繋いでも、私は彼のことを見ることができなかった。罪の意識は自責の念に直結して、うつむいたままとぼとぼと歩く二人の靴を眺めながら歩いていた。これから二人の部屋に帰る。同じ空間に居てはきっと、私のことなんか青さんにすべて見透かされてしまうようで、いたたまれない気持ちになった。今すぐ穴を掘って埋まってしまいたい。土はかけないでいいから、とにかく彼の視界から消えてしまいたかった。
彼の右手がゆっくりと私の頬に触れる。包むように撫でると彼は笑った。やわらかく微笑むと、優しく私の名前を呼ぶ。一度ではない。何度も、何度も、私の名前を呼んだ。
彼の顔がだんだんと下を向いていく。彼は私よりも身長が高い。彼の顔が徐々に翳っていき歪んでいくのもしっかりと見えた。
彼の中にあった不安や焦燥感、安堵などの感情が複雑に見て取れて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。胸が詰まる。息ができない。
「ねえ、あかね。僕ね、君の名前をいつも呼んでいたんだ。声に出してね。君は気が付いていなかったろうけど。僕の声に反応してくれる君が、それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、嬉しくてたまらないんだ」
青さんはそう言って、縋り付くように私を抱きしめた。彼の体温はいつもよりも高くて、震えていた。存在を互いに確認しあうように、私も彼の背中に手を回す。
彼の言葉に、私は声で答えることができなかった。長いこと使っていなかった声帯は、声を出すということを忘れてしまっていた。みじめに緩んだ声で、言葉にもならない音を絞り出して、彼の名前を呼んだ。必死に、時間をかけてようやく呼ぶことができたのは「あ」と「お」の音だけ。言葉にもならない未熟な声は、彼の胸の中に染み入っただろうか。そうだといいと思う。
西の空が茜色に染まる。彼の肩越しに、その赤を見た。彼の背中を温めてほしい。私の手などでは足りないから。今までの彼への私の無責任は、こんなことくらいでは拭えないだろうけど、せめてそう願っていたいと思った。
彼の背中を数回軽くたたく。彼に視線を向けてもらう合図を送る。ゆっくりと顔を上げた彼は、私の指した先をゆっくりとした動作で見やった。
「きれいだね夕焼け。あかねと、同じ名前の色、僕、すきだよ」
そう言って彼は夕焼けに負けないくらい、まぶしく笑った。向かい合う私は、同じように笑えていただろうか。自分がどんな顔をしていたのかわからないけれど、せめて今までよりは明るく笑えているといいと、願った。
茜色に手をかざす。沈んでいく太陽から、わずかに残った昼の熱を感じながら、指の隙間から太陽を見た。私は、生きている。生きて、いた。
あかね空に掌 明里 好奇 @kouki1328akesato
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