BONUS TRACK

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 僕はこの街が嫌いだった。

嗅ぎ慣れた排気ガスの臭い。そそり立つコンクリートの壁。猫が鳴き、犬が吠え、カラスが叫び声を上げる横を絶えず人々が行き交っている。彼らの足音と道路を走る車の振動が、この街の胎動となって地面を伝い響き渡る。重く淀んだこの街の中で、空だけが青く、どこまでも澄み渡っていた。

 この街の音に耳を傾けるのも、ずいぶん久々に思えた。前は大嫌いだったこの街が、少しだけ好きになれたような気がする。

 夏フェスは大盛況のまま、無事に終了した。結局大トリのサナ子さんたちが、他のバンドとは比較にならないほどの盛り上がりを見せて、いいところを全部かっさらっていってしまった。

 世界は案外簡単に変わるもので、あのフェスのあと、世論から批判の声が上がったことで、最終的にロック禁止法は廃止された。実は水面下ではあの法律を疑問視する声が多く、フェスのハイジャック配信がいい起爆剤となって、実際の活動へと繋がったようだ。まあそもそも無理がある法律だったわけで、崩れるときはあっという間だった。

 当然、マスターを始めとした逮捕者についても、すぐに解放される形となった。しばらくぶりに会ったマスターは流石というか、まるで堪えた様子はなく、僕たちの演奏を見られなかったのが残念だと言ってくれた。

 ミヅキはマスターが無事に戻ってきたのを泣いて喜び、安堵の笑顔を浮かべていた。あまりに何度も謝っていて、あのマスターが呆れた顔をしていたのが印象的だった。

 ロック禁止法の廃止に伴って、シモキタと覆っていた壁も取り壊された。これによってシブヤとの交流が盛んになり、シブヤの街でもロックミュージックを耳にする機会が増えた。CDショップにも普通に置かれるようになり、ライブハウスでもたまに聴き慣れた音楽が流れている。まだ全盛期には程遠いものの、再興の一歩を踏み出していた。

 だからまあ僕たちの音楽が世界を変えたとは言い難かったけれど、確かに世界は変わった。

 そして僕たちの音楽で変わったこともある。最も大きなことは、アマネの父が再びギターを始めたことだ。娘たちの演奏を見て、彼のロック魂に火がついたらしい。最近はアマネに対抗心を燃やしていて、彼女は困っているそうだ。

「まあ元気になってくれたのはいいんですけどね」

 そんな風に不満を口にしながらも、彼女は嬉しそうに父の話をしてくれる。この笑顔が見れただけでも、あのライブをやってよかったなと思えた。

 キョウは両親にあの曲を聴かせることができたらしい。そして、曲を聴いたあとにあの夕陽をみんなで見に行ったそうだ。すぐに彼らはまた飛び立ってしまったが、またね、と言ってくれたと喜んでいた。

 あとは、シャッター商店街に近かったシモキタ一番街商店街が夏フェスによる宣伝効果で活気を取り戻したり、ツヅライさんが海外の有名なレコード大賞を取ったりと、色々話すべきことはあるのだけれど、それはまた別の機会にしよう。

 僕はと言うと、あのあともアニーのギターボーカルとしてバンド活動を続けている。夏フェスのおかげでファンも増え、秋には初めてのアルバムを作った。そのあとのワンマンライブも評判が良く、次はシモキタから出てもっと大きいところでライブをやろうと画策している。

 もう三月も下旬になり、僕は高校を卒業した。キョウとミヅキも(ほとんど学校へは行っていなかったが)無事卒業し、一つ年下のアマネだけがまだ学生だ。僕もキョウもミヅキも、特に進学も就職もするつもりはなく、適当にアルバイトでもしながらバンドを続けていきたいと思っている。どうなるのかわからないけど、不思議と不安はなかった。

「行くのか」

 僕は生まれてからずっと住み続けてきたこのシブヤの街を出る。その前に、最後に叔父のところへ挨拶に来ていた。叔父と会うのはもう何年かぶりで、ろくに顔も見せなかった可愛げのない僕の来訪を、彼は大いに喜んでくれた。

「行きます。今までお世話になりました」

 結局いざ会ってみると何を話したらいいかわからず、挨拶を済ませてすぐに去ることにした。彼もそれ以上引き留めようとはしない。でもこれで心にかかっていた靄が少し晴れたような気がした。

「イツ」

 僕が帰ろうと玄関まで来たところで、彼は僕を呼び止めた。彼が僕の名前を呼ぶのは、本当に久しぶりのことだった。驚いて振り返ると、彼は真っ直ぐこちらを見据えている。

「すまなかった。君とお兄さんには、本当に申し訳ないと思っている」

 深々と頭を下げたまま、いつまでも顔を上げようとしなかった。彼の言葉は重く、苦しさが滲んでいた。

「そんな、謝らないでください」

 彼に恨みなどない。むしろここまで世話をしてくれたことに感謝さえしていた。彼がいなければ、僕たちは生きることもままならなかった。

「私は他人の子どもを育てられるほど器用ではなかった。しかし、それにしてももっと他にやりようはあったはずだ。私はそれさえも放棄し、君たちに苦しい思いをさせてしまった」

「いえ、本当に、感謝しています。ありがとうございます」

 たぶん僕たちも、彼に歩み寄ろうとしていなかった。僕は勝手に兄と二人で生きていくと決めて、彼の目を見ることさえしなかった。そんな相手に愛情を向けるなんて無理な話だろう。たぶん、お互いがお互いを恐れていて、上手くいかなかったのだ。

「よかったら、これを持っていってくれないか」

 彼はそう言って、一枚のCDを差し出した。名前は聴いたことがなかったが、古いロックバンドのCDだと言う。彼が学生時代に聴いていたものらしい。正直、彼がロックを聴いていたのは驚きだった。そんな感情的なものを嫌っていそうだったからだ。このCDを渡すことが、彼なりのけじめであり、自分への戒めなのではないかと感じた。

「じゃあ、これで」

 僕はそのCDを受け取り、叔父の家をあとにする。おそらく二度とここに来ることはないだろうと思った。

「ずいぶん辛気臭い顔してるじゃねえか」

 叔父の家を出てすぐのところに、サナ子さんが待ち構えていた。

「え、どうして……?」

 夏フェス以降、彼女はテレビ出演をしたり、全国ツアーに行ったりと忙しく活動していて、会うのはかなり久しぶりだった。こんなところにいるということは、僕に会いに来てくれたのだろうか。

「いや、ちょっとあんたの叔父さんに用事があってね」

「用事?」

 どうやら僕ではなく、叔父に会いにここまで来たらしい。しかし叔父とサナ子さんは面識はないはずだ。初対面の相手に用事とは一体どういうことだろう。

「あたしさ、サクと結婚しようと思うんだよ」

「え?」

 僕は突然の彼女の告白に、思わず耳を疑った。失礼かもしれないが、あまりに彼女に似つかわしくない言葉が飛び出たものだから、聴き返さずにはいられなかった。

「あたしとあいつはあくまで他人だから、病院の手続きとか色々と面倒なんだよ。だったらいっそ、家族になっちまえばいいかと思ってさ」

「それで叔父と話をしに……?」

「そう。息子さんをあたしにください、ってね」

 頬を緩ませる彼女の笑顔は、いつもの悪戯っぽさは薄く、照れくささを誤魔化しているような感じがした。彼女はこう言っているけれど、もしかしたら兄と彼女は本来そういう関係性だったのかもしれない。そして兄がいなくなってしまったあと、考え続けた末に決意した。何となくそうだったらいいな、と思った。しかしそんなことを聞くのは野暮なので、いつか聞けるときが来たら聞いてみよう。

「あんたはこれからもロックを続けるのか?」

 なかなか会えなかったこともあり、僕は彼女に今後の進退の話をまるでしていなかったので、心配してくれているみたいだった。話したいことはたくさんあったけれど、ここではただ一度だけ頷く。

「そうか」

 彼女は嬉しそうな顔をして、一歩僕に近づく。そして僕の肩にぽんと手を置くと、彼女は呆れた口調で、しかし楽しそうに愚痴をこぼす。

「あたしも当分やめられそうにないよ。あいつが起きるまで、ずっと音楽を聴かせ続けなくちゃいけないからさ」

 僕の横をそのまま通りすぎて、背を向けたまま叔父の家の方へと歩いていく。ふらふらと手を振る姿が、実に彼女らしくてかっこよかった。

「こんなことを言ったら、ロッカー失格かもしれないけど、あたしはあいつのために音楽をやるんだ。あいつが愛したこの音楽が、世界から鳴り止まないように」

 そんなセリフを残して、彼女はまたふらりとどこかへ旅に出ていった。


 スタジオに着くと、もうすでに他の三人は集まっていて、楽器を構えて僕を待っていた。

「ごめん、お待たせ」

 僕はギターを担いで準備を整える。最初に持ったときはあんなに重さを感じたこのジャズマスターも、今ではすっかり身体に馴染んでいる。

 次はどんな場所が待っているのだろう。僕たちの音楽は、僕たちをどこへ連れていってくれるのだろうか。そんな期待に胸を膨らませながら、僕はマイクの前に立つ。

 ドラムのフォーカウントに合わせて、四人が一斉に音を出す。バラバラだった四人の音は、大きな一つの塊となって、小さなスタジオいっぱいに広がっていく。

 色めく原風景。耿然たる記憶。不自然に冴えた無意味な思考と、曖昧に揺れる感情に揺蕩いながら、僕らはその音に耳を傾ける。

どこまでも青く澄み渡る音を追いかけて、僕らはロックミュージックを奏でる。

自分のために。そして、この曲が届くはずの、すべての人たちのために。

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この残響をさよならの代わりに 紙野 七 @exoticpenguin

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