5-10

 薄暗い森の中で、僕は一人ぽつんと佇んでいる。

 兄とはぐれてしまった僕は、どこに行けばいいのかもわからない。

 今頃はきっとみんな楽しく遊んでいて、温かい家の中で美味しい食事を食べて、幸せな夢を見ている。知らない誰かの笑い声に耳を塞ぎながら、膝を抱えて震えていた。助けなど来ない。誰も僕を探していない。僕は世界から断絶した、無意味な存在でしかないから。

 そんなとき、遠くの方から微かに音が漏れ出してきた。それは聴いたこともないへんてこな音楽で、曲が止まってからもずっと、その残響が耳の中で何度も何度も繰り返し響いていた。

 自然と身体が動いていた。その音が流れてきた方へ、無意識に足を進める。あんなに恐ろしかったはずの森がいつの間にか気にならなくなっていて、僕は夢中になって手探りで歩き続けた。

 森を抜け、辿り着いた先は、今まで見たこともないような美しい景色だった。真っ青な空はどこまでも澄み渡り、背の低い草花が風に揺れている。眩しい光に目を細めながら、世界はこんなにも広く、鮮やかな色を携えていたのかと、感動を覚えた。

 道を見つけた今でも、たまにあの森のことを思い出す。きっとあそこには、まだ僕と同じように行き場もなく彷徨っている人たちがたくさんいる。全員は無理かもしれないけれど、一人でもいいから、彼らにこの音楽が届けばいいと思う。そして、外の世界に気付いてくれたらいい。

「次で最後の曲です」

 耳鳴りのせいだろうか。観客の声や街のざわめきや、自分の後ろで鳴る小さなノイズが、妙に遠くに感じる。

 代わりに僕の耳には、あらゆる残響音が混じり合って鼓膜を揺らしている。初めて音楽に触れたときの音、兄の曲を聴いたときの音、初めて生で音楽を聴いたときの音、初めて自分で歌ったときの音、初めてギターを弾いたときの音、今まで出会った色んなバンドの音、たくさんたくさん奏で続けた僕たち『Any』の音。

 それらすべての残響が、今も僕の中に響いている。

「この曲は、自分が、自分のために書いた、自分の曲です」

 言葉が上手く思いつかない。必死に心の中を引っ掻き回して、今僕が伝えたいことを探す。

「でもその自分という存在は、今までずっと繋がってきた音です。そこにはたくさんの音が混じっていて、決して、僕だけで作り上げた音ではありません」

 少しだけ、ピックを握る手に力を入れる。渇いた唇を舌で拭った。

「だからこの先もずっと繋がっていくように、僕は今ここで歌を歌います。もしこの音がみなさんの中で響き続けてくれたら。それが僕がこの曲に込めたささやかな願いです」

 静かにコードを鳴らす。その小さな音が、会場中に響き渡るのがわかった。

「『この残響をさよならの代わりに』」


  無色透明な息を吸う

  希薄になる自分の存在に

  焦燥と劣等感を覚えながら

  気付けば迷子になっていた


  無色透明な息を吐き

  見つけた希望を妄信して

  それでも生きていくんだと

  強く足を踏みしめる


  もしも空が飛べるなら 遠い街まで行ってみたい

  そこで聴こえる音たちは きっと明るく見えるだろう


  鮮やかすぎるこの世界で

  いつかまた会う日のために

  別れの言葉は言わずにおこう

  この残響をさよならの代わりに


  白く透き通った瞳の奥に

  一体どんな世界があるのだろう

  白く透き通った瞳の先に

  一体どんな世界があるのだろう


  鮮やかすぎるこの世界で

  いつかまた会う日のために

  別れの言葉は言わずにおこう

  この残響をさよならの代わりに


  誰のためでもない

  君のためのさよならの歌を


「あいつ、すげえだろ? なんてったってあたしの一番弟子だからな」

「それに、あんたの弟だ」

「あんたには、この歌も聴こえてないのか?」

「意地張ってないで、素直になれよ。音楽が、ロックが、好きなんだろ?」

「……」

「じゃあそろそろ行くか。あたしも負けてられない」

「……」

「あたしも久しぶりに曲を作ったんだ」

「ちょっとでもいいからさ、聴いてくれよ」


 僕は最後の一音がいつまでも鳴り響いているのを、じっと目を瞑って、どこまでも追いかけていきたかった。

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