第3話 双子の村-②和泉村

                              本陣山通信社

                              峰 富 士 夫

双子の村-②和泉村

                      

和泉村は北側で堀之内村に接しているのでここで触れておきたい。というのは和泉村には堀之内村と同じ文永4年(1267)に創建された熊野神社が鎮座していることはとても他人とは思えないのである。双子の村だった可能性があるのでどうしても見ておきたい。

和泉村は北側で堀之内村と接し南側は甲州街道が境となっていてその向こうは世田谷である。ほぼ並行して神田川、玉川上水が西の永福寺村方面から東の和田村方面へ向かって流れ、かつて神田川の岸辺には水田が広がっていた。

江戸時代の記録によれば、東西1,430m、南北770m、面積1.1k㎡でわずかに堀之内村より広く農家80軒は堀之内村より上回っている。

和泉村には先ほど触れた宝仙寺の末寺で、承安2年(1172)創建と伝わる古刹龍光寺(真言宗)があり熊野神社の別当も務めていた。

村内には熊野神社と同時期に山城国から勧請されたという貴船神社と、かつて與喜野天神(社伝不明ながら大和国桜井にある菅原道真を祀る與喜神社を同時期に勧請か)があった。

龍光寺と熊野神社は村の中央である中山谷から神田川を渡った左岸段丘上に位置している。周辺を「今昔マップ」で見ると、明治期には中山谷の南側和泉羽根木付近に神田川を望める丘があり、コの字型の土塁と思われる構築物が見受けられる。標高およそ47m、周辺では最も高く水田とは12mの高低差があり、直線で600mで館を造るには適当な場所であったと思われる。現在の和泉2丁目、日大鶴岡高校があるところだが「杉並区遺跡一覧」には掲載されていない。與喜野天神はこの付近にあったと伝わっている。

※龍光寺 泉湧山、明応2年(1493)以前の開創。本尊薬師如来立像は平安時代末。文明2年1470、明応5年1496の板碑所蔵。龍観は中興か。杉並区和泉3-8-39.「杉並の通称地名」平成4年3月31日発行


和泉村と堀之内村の両村は鎌倉道と府中へ向かう道(人見街道)が交差する地域に広がっているが、大宮八幡宮の参道(大門通り)を分水嶺として南の神田川の沿岸地域の開発を進めて和泉村とした人々と、北側の善福寺川の沿岸地域を開発して堀之内村を開いた人々がそれぞれすみ分けを行ったのではないかと見て取れる地理的条件を備えている。面積もほぼ同等であり、しかも村の鎮守が熊野神社で同時期に創建されていることや宝仙寺で繋がっている寺院もあるなどの共通点を偶然として見過ごすことはできない。

すなわち、いくつかの共通点は話し合いなどの人為的な区分けと統一であって、有力な人物や組織によって開発が行われ両村が同時に開村したという仮説が立てられる。


鎌倉幕府は「吾妻鏡」の仁治2年(1241)10月22日の条に、征夷大将軍藤原頼経が武蔵野に水田を開発する計画を下し、12月には多摩川の水流を利用した大がかりな新田開発に着手しているが、また一方で幕府は地方の在地領主らに対してたびたび荒野の開発を行うよう促している。在地領主らによる開発事例がいくつか残っているので二つ挙げてみよう。


神奈川県厚木市に残る牛久保用水は、幕府による水田開発の前年に当たる仁治元年(1240)に開かれた。相模国依知郷本間を本拠とする在地領主でのちに佐渡守護代を務めた本間重連が屋敷と田畑に上水を引くため幕府の杉山弘政に開削を依頼した。中津川に堰を設けて揚水し水田を造成する用水工事を行った。単に灌漑用水としてではなく、生活用水や屋敷回りの濠として活用したと伝わる。翌年には、工事を行った杉山氏が海神である豊玉姫命を祀る船木田明神(現金田神社)を建設した。用水の周辺には堀之内、中屋敷、宿屋敷など館に関わる地名が伝わっている。


京都府木津川市加茂町に残る大井手用水は、貞応元年(1222)に海住山寺の住職覚真が約7㎞の水路を村人と開削したという記録が残っており、途中、250mにわたり岩盤をくりぬく工事があり完成までに20数年間を費やしたといわれる。また井手枕(取水口)、井手守(用水管理人)、筧(樋)、千本杭(流路分岐)などの施設名、箇所が今日に伝わっている。


鎌倉幕府が行った前者を国家主導型とするならば、在地領主と寺院が行った後者の二つの事例は地方主導型と言い換えることができる。

前者は御家人たちの幕府への奉公に対する恩賞として給付すべき領地の確保が主たる目的であり、例としては多摩川の開発だけしか記録にはない。

一方で地方主導型はこの2例のほかにも散見することができるが、領地の給付ではない理由が地方領主にはあったと考えねばならない。地方主導型で対処しなければならなかったのは、例えば地方を襲った災害であり飢饉であろう。いくつもの地震や大雨による水害といった自然災害とそれに伴う飢饉が日本列島を古くから襲っている。

鎌倉時代では寛喜2年(1230)から翌年にかけて起こった長雨、冷夏といった異常気象、大暴風雨、河川の氾濫、洪水などを引き金とした「寛喜の大飢饉」は「天下の人種三分の一失す」といわれるように全国各地で多数の餓死者を出した。武蔵国も例外ではなく真夏に降雪があったと「吾妻鏡」は伝えている。疲弊した人々の逃散や欠落、人身売買、質入などが社会不安を引き起こし、さらに群盗が躍起して集落を襲撃、放火するなど治安も極めて悪くなり村を荒廃させた。

この時代もおそらく草村さんのような家族がたくさんいたに違いない。在地領主や社寺は荒廃した集落の再興、そして新たな開発をして生産力を挙げなければならなかった。集落を安定させることは自分たちの立場を守ることにほかならなかった。開発の目的はこれらにあったのではないかと考えられる。

和泉村及び堀之内村の開発は後者の在地領主、社寺等が直接、間接的に行う地方主導型で進められたと考えるのが妥当であろう。

しかしながら、地方主導型だとして確定したとしてもいくつかの疑問が残る。冒頭に触れたように具体的に誰が和泉村、堀之内村を開いたかという疑問である。最も知りたいことだが、それに答えるべく史料はない。


それに答えるヒントとして「なぜ熊野神社が両村の鎮守となったのか」という疑問とを明らかにすればわかるかもしれない。この疑問に答を導き出す事例が江戸時代にある。ほかでもない杉並の大宮前新田だ。


武蔵国豊島郡関村(現練馬区関)の住人井口八郎左衛門は、玉川上水が敷かれた際にできた茅場千町野の野銭を徴収する野守(土地管理者)をしていた縁で、親族らと協議して900両でその土地を買い取り、万治元年(1658)に大宮前新田を開いた。この時、村に春日神社を創建しているが、これは井口の出身地である関村の鎮守春日神社を分祀したものである。関村の春日神社は鎌倉時代工藤祐宗が奥州合戦の際に奈良春日大社を勧請したという伝承を持つ。また、寛文13年(1673)に井口氏が大宮前新田村に開基した日蓮宗慈宏寺はやはり関村の妙福寺の末寺で、妙福寺は弘安5年(1282)に開かれたといわれる古刹である。大宮前新田のスポンサーの経歴と社寺の勧請形態が疑問を解くカギとなるだろう。

※慈宏寺 別名荒布の祖師。開山日賢は妙福寺16世で寛文13年4月23日没。開基井口杢右衛門義重。延宝3年没。荒布の祖師伝承、弘長元年1261日蓮上人が伊豆配流の折、随行を許されなかった日朗が荒布を巻き付けた流木で立像と坐像を彫った。立像は旅姿で慈宏寺に坐像は妙法寺に伝えられる。区指定文化財。新修杉並の寺院平成21年3月31日教育発行。宮前3-1-3.


ひとまず双子の村はここまでとしておこう。

L字型の土塁は次回にでも。


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うさんくさい郷土史 @wada2263

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