第2話 双子の村ー①堀之内村

本陣山通信社

峰 富 士 夫

              

              双子の村-①堀之内村


和田に隣接する「堀之内」はお城ファンならだれでもピンとくる地名だ。中世の館に付けられたというのが定説となっていて全国各地にある。杉並の堀之内も中世の館があったのだろうと思いきや、その所在どころか存在すら確定されていない。

かの谷謙二研究室が運営管理する「今昔マップ」で明治期の堀之内の周辺を見たところ、中世城館の基本である方形型の区画は妙法寺と南端の台地にある大宮小学校の二つ。これも強いてあげればである。区画された濠や土塁などはっきりしたものは見当たらない。

さらに範囲を広げてみると、済美台運動公園のグランドの西側に南北150m、東西80mほどのL字型の構築物が描かれているのを発見。これはいったい何だろうか。描かれた土塁状の構築物は直線ではなく湾曲して延びていたように見える。これはもしかして、、、。

そうだ実見しなけらばならないぞ。さっそく本陣山から探索の触手を西に延ばしてみることにした。


ところが、、。


環七通りを渡り細い路地を西へ歩いていくと、永福町大勝軒のラーメンを製造している草村商店の前に出る。

創業者の草村賢治さんが生まれた昭和3年、世はまさに金融恐慌。銀行の休業や企業の倒産が相次ぐなか、地方では大冷害による凶作で困窮する農家が続出した。新潟の貧しい農家で食うや食わずの辛酸をなめつくした両親は賢治さんを抱いてふるさとの極貧から逃れるようにして上京した。

東京に活路を求めたものの貧困は容赦なく襲いかかり、食い詰めて一家心中まで追い込まれたこともあったという。父繁勝さんが始めた製麺業がようやく軌道に乗り、戦後になって賢治さんが跡を引き継いだ。そして日本一美味しいラーメン屋になるとの誓いを立て、昭和30年、永福町の駅前にかの大勝軒を創業した。「人が休んでいるときに頑張るから人並み以上のことができる」を信条に今日の繁盛を遂げることができたという。


現代日本の繁栄と平和は歴史から見ればごくわずかな時間に過ぎず、貧困と飢饉、そして戦争は常に隣人であり足を忍ばせてか、どっきりかは別として必ずやってくる。草村さん一家はその苦難と苦渋を身をもって経験し、今も忘れることなく子孫に受け継がれ苦労をいとわず営業に勤しんでいる。

早朝から静かに稼働している草村商店の角を南下すると地蔵と庚申塔を祀ったお堂があり、堀之内保育園の十字路を右へ進むと熊野神社の前に出る。この周辺一帯が堀之内村の中心である本村で熊野神社は村の鎮守だ。

境内の掲示板によれば、文永4年(1267)、紀州の熊野三山を勧請したことに始まったと書いてある。


「古いではないか!」


思わず叫んでしまった。堀之内村も同時期に開村したに違いないが、ではいったい誰が何の目的で村を切り開いたのか知りたくなる。

江戸時代の堀之内村絵図を見ると、北側の青梅街道を境にして高円寺村と接し、妙法寺方面から舌状の台地を南へ向けながら広がって熊野神社下にいたる。そして善福寺川を渡って和泉村境までが村域となっている。東西780m、南北が長くて1210mばかりあり面積は0.94k㎡。農家55軒。絵図から推測して水田は1/5にも満たない。


川筋を見ると、西側の上流から善福寺川(以下本流という)が東へ流れ下ってくる。絵図面では「オソノイ善福寺流」とある。オソノイとは遅野井と書き善福寺川の水源をいう。字広町付近から枝分かれした川がちょうど現在の大宮中学校の台地のへりを沿うように済美小学校の方面に流れている。もう一つの川筋は字広町と字西付近の間で分かれ字定塚窪付近で再び本流に注いでいる。さらに字岡田の西側に架かる橋付近で本流とその川を結ぶ流れが描かれている。橋は川筋ごとに都合3ヵ所に架けられている。また西側の字中井から本流へ流れ込む一筋の小川があり、全部で4筋の川筋が描かれていることがわかる。現在は善福寺川の一筋だけであることから、絵図が描かれた江戸時代はまるで違う川筋であったことがわかる。

「今昔マップ」で明治期の流れを見ると、村絵図とほぼ同じであるが、前述した大宮中学校のへりを流れる川筋の一本が堤で囲まれた大きな池に流れ込んでいることが相違している。この池は明治40年頃に済美学園の敷地内に造成された清明池で、戦後に埋め立てられて済美小学校となった。


それにしても不思議だ。和田村絵図を見れば、東西に村を分断される形で絵図の中央に堀之内村がどしんと腰を据えて占拠したかのように描かれていて、しかも一つの境となるべき善福寺川を越えている村域はなんとも異様な感じを受ける。堀之内村の東側は和田村(現和田)で西側も和田村(現松木)で東西を結ぶのは、南側に堀之内村と和泉村の境を走る大宮八幡宮へ通じる参道(大門通り)だけであり、その八幡宮もまた和田村(古くは大宮内和田村で大宮八幡宮に付随していた)である。かつて和田村は堀之内村を含めた一帯を村域としていたといわれ、後になって堀之内村が切り開かれた。


さて堀之内と言えば妙法寺である。ところが日蓮宗妙法寺は、元和年間(1615~1624)に創建されたと伝えられることから堀之内村の開村とは関係がない。妙法寺以前が問題になる。

そこで調べたら、妙法寺の由来にその昔は仙明寺という真言宗の寺であったと書かれていた。また光立寺という寺もあり、その土地が妙法寺の田畑と屋敷として付属されたとしているので、妙法寺創建前はこの二ヵ寺があったことになる。

周辺地域で真言宗の大寺院といえば中野の宝仙寺を思い浮かべる。寺の縁起によれると寛治年間(1087~1094)に源義家が阿佐ヶ谷に建立したと伝えられる古刹で末寺も多数抱えていた。同時期に大宮八幡宮の別当(運営管理者)となっているが、その後、永享元年(1429)頃に中野へ移転した。宝仙寺は杉並から中野一帯に及ぶ東多摩郡の有力な寺院であったことは確かであり、仙明寺なる寺が宝仙寺の末寺であったとする資料は皆無であるが、真言宗であったという点と宝仙寺の仙をとって仙明寺と号けたとも考えられなくもない。堀之内の開村に大宮八幡宮と宝仙寺がかかわっていたとすれば開村の経緯の一部が見えてくるかもしれない。


ということで土塁には行きつかなかった。まぁ一服としたい。

堀之内の儗(なぞ)は楽しみに残しておく。

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