ティータイム・幸福論

@iraya-umikabe

ティータイム・幸福論

「お茶にしましょう」。

 それはささやかな幸福を得るために唱えられる、最短かつ最ダサな呪文である。

 ここで言う「お茶」とは、別にアールグレイだの午後ティーだのである必要はなく、実はコーラでもサイダーでも宇治抹茶でも何でもよい。特殊な性癖をお持ちの場合は好きなあの子の体液でもよい(ただし、法に背くようなまねはしないこと)。私の場合、「お茶」と言えば専ら「コーヒー」である。

 何かに行き詰まってしまったときや何もしたくないとき、悲しいときや憤っているとき、私はまず、お茶にしましょう、と一言唱えて、「お茶」を用意するために腰を上げる。この瞬間、ティータイムは成立する。午後三時だろうが午前三時だろうが成立する。「お茶にしましょう」の語感が何となく煩わしい場合は、茶ッ、の一言でも、ティータイムでごわす、でも何でもいい。極端に無口な人の場合は無言でも構わない。大切なのは「何が何でも今からお茶を淹れる」という気概である。

 そして、湯を沸かすなり冷蔵庫に直行するなり、あの子を呼び出すなりして、「お茶」の準備に取りかかる。私の場合、熱いコーヒーをある程度冷ましたものが好きなので湯を沸かす。湯は毎回ティファール君が沸かしてくれるのだが、彼は賃金も休暇もないのによく働いてくれる。いつかこのティファール君がストライキを起こしても、私は甘んじてこれを受け入れる覚悟である。とはいえもし労働基準法違反だと面と向かって訴えられたら少し泣くかもしれない。

 しゅー、とティファール君が怒りも込めて湯気をあげる頃、私の脳裏にはある物体の姿かたちが浮かび上がる。

 それはチョコレートががっちり覆われたパイの日もあれば、やわらかしっとり生地のワッフルの日もある。

 今回、浮かんできたのは脂がシワッとしたクリームのロールケーキということにしよう。

 あいにく雑炊しか作れぬ料理の腕前ゆえ、ロールケーキは冷蔵庫に既に備蓄済みの市販のものを用意する。

 わざわざ包丁を取り出すのも面倒なのでフォークを差し込んで切り分け、皿に食べるぶんだけ載せる。このとき、もしロールケーキを手掴みでわしゃわしゃ食べるという野生的習慣に生きている、という場合は両手でちぎってしまった方が早いだろう。鉄の胃袋を持つ場合は全部頬張ってしまってもバチは当たらない(分け合う人間がいるならば話は別である)。

 かちんっ、と音が鳴る。それはティファール君の堪忍袋が切れる音、あるいは完ペキに湯が沸いた音。時は来た。取っ手を掴んでティファール君を持ち上げ、インスタントコーヒーの粉をお好みで入れたカップに湯を注ぐ。

 しっかり粉が溶けるようにぐるぐると掻き混ぜる。面倒なので今回は先ほどロールケーキを切ったフォークで掻き混ぜる。溶けた脂がうっすらとコーヒーの表面に浮かぶ。気持ち悪いと言われればそれまでだが、いずれロールケーキ君とコーヒー君は我が胃袋で邂逅する。やがて訪れる運命を早めただけのことである。神めいている。

ここでついにコーヒーの、あのカカオ豆の焦げるだか湯に溶けるだかのステキな香りが漂い始めるはずである。ところが、このインスタントコーヒーが安物すぎるのか、はたまた私の鼻が動物として致命的に悪いのか、コーヒーの香りは鼻を相当カップに近づけないと感じられない。

 鼻の頭がカップのフチに触れる勢いで鼻を近づけてみる。

 モウモウとあがる湯気に紛れて、中毒性の高いカフェインの香りが、目に見えないほど細かい粒々になって漂っているのがようやくわかった。

 これでも飲んだらうまいのだから不思議だ。

 ロールケーキを一切れ載せた皿と、コーヒーがナミナミ注がれたカップをテーブルへと運ぶ。至高の時間の中でも特に至高、富士山の山頂のさらにその雲の上のような極楽的時間はもうすぐそこだ。今の比喩を高所恐怖症の人がうっかり想像してぞっとすることがないよう祈る。

 テーブルにつき、丁寧にいただきますと決まった呪文を唱え、フォークを手に取る。

 昼間にティータイムを決行した場合、テレビをつけると、運よく大相撲を中継しているときがあるので、それを眺めながらロールケーキを食す。品もなく大きく口をあけて一切れまるごと頬張っても、反対にお上品にちびちびと味わってもいい。いずれにせよ、力士のでっぷり巨大ボディとふりまかれる塩を、ふわふわ生クリームと粉砂糖に見立てながら口に運ぶと、市販の安物ロールケーキが高級品に変わる。ロールケーキのスポンジとふわふわ生クリーム(幻想)が口の中に粉砂糖(幻想)の甘さを広げ、後で流し込むコーヒーがそれをうまく拾い上げてまとめて胃袋へと落ちていく。至福の時間である。贔屓にしている力士が白星をあげるとロールケーキのうまさは倍になる。一方で、黒星先行でも心配こそするが別にケーキのうまさに支障はない。相撲中継を眺めながらロールケーキを食しても特に損はない。利益があるかは人による。アグレッシブな彼らの生態に嫌悪感を示す人ならば損ばかりであろうから勧めない。

 大相撲中継をやっていない場合は、適当なことをのたまうワイドショーや、適当な展開で無理やり物語の収束へと向かおうとするテレビドラマを眺め、彼らのかしこさや愚かさに舌を巻きつつさらに舌鼓を打つという至極器用なまねをする。運動するのは舌ばかりである。おそらく私の身体の中で最も筋肉が発達した部位は舌であろう。

 コーヒーとロールケーキを交互に口に運ぶ。今頃我が胃袋では、すっかり意気投合した彼らが胃液に溶かされながら、また前世でめぐり会うことを誓いあっていることだろう。なんと美しい光景、あるいは地獄絵図。すまないコーヒー君、ロールケーキ君。生きるためには、人間的な生活を保つためには、致し方のないことなのだ。

 などといまいち反省の足りない懺悔を隠し味に、どんどんロールケーキを口に運び、コーヒーで流し込む。私が応援する千代某の取組は既に終わっていたようである。知らないうちにかなり番付が下がっているらしかった。

 空の皿とカップが漂わせる栄枯盛衰を堪能し、ごちそうさまと終わりの呪文を唱えて私のティータイムは終了する。

 さて。

 ここまで読み終えたところで、ティータイムの恋しくなった我が同志はいるのだろうか。

 いなくとも構わない。

 ただ今午前五時半。

 もうすぐ私は朝のティータイムを決行しようと企んでいる。

 このお遊びでしかない、読物と名乗っていいのかよくわからないこの小品を書き上げ、私はさも大仕事を終えたとでもいうような清々しい顔で伸びをし、ひと息ついてから

「お茶にしましょう!」

 とわざわざ口にするのである。

 ここに宣言する。

 冷蔵庫には可愛げのない、市販の、ただ甘いばかりのチョコレートがしまってある。

 もう既に、私は彼らを何粒、どのようなペースで食していくのか、コーヒーはどれくらいの苦さにするのか、そればかりを考えている。

 もうすぐ朝が来る。

 今回はわざとらしいくらいに朗らかな女がお送りする、朝市だか子犬だかの生中継を見ながら、彼女の笑顔を小馬鹿にしながら味わうとしよう。


 それでは失敬。

 私は一足先に、幸福を手にする。

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