第7話 優一の本音、私の想い

 目の前のホットプレートからはベーコンの焼ける良い匂いが漂ってくる。一つ一つ焼き目がついているのを確認して試食用のトレーに置いていく。


 私はアスパラのベーコン巻きを作っていた。場所はバイト先の入り口。隣のラックにかかっているオススメメニューの中から一つ選んで実際に食べてもらうのだ。献立を考えるのが大変な主婦層からの人気がある。ついでに作っている方も楽しい、店の売り上げも上がるウィンウィンウィンの企画だ。


 爪楊枝を刺して、お盆の上に並べていくと、さっそく手が伸びてきた。右手。ぎこちない動きでトレーに指を引っかけるようにして持ち上げる。


 グレーのダウンジャケットに、ジーンズの男。


「優一」

「バイトが終わったから。冷やかし半分で、見に来てみたんだ」

「そっか、今日が」


 見事面接に受かった優一は今日がバイト初日だった。充実した笑顔。きっとうまくいったんだろう。どんな感じだったのか、聞いてみたい。


「私、あと30分くらいで上がりだけど、待っててくれる? いろいろ聞きたいから」

「OK。じゃあ、店の中ぐるっと回ってるよ。あ、これ、美味しかった」


 トレーをゴミ袋に入れると、軽く手を振って優一が去っていった。その姿に心がふわっと軽くなる。入れ替わりにカツカツと言う足音が向かってくる。ポニーテールの魔女、国さんだ。


「材料は、どう? 足りなかったり、余ったりは」

「大丈夫です。ちょうど、使い切った感じです」

「そう、なら良かった。——ところで」


 一旦言葉を切って、私の耳元で囁く。嫣然とした笑みが浮かんでいるのを感じる。


「親しそうだったけど、あんまりここでイチャイチャするなよ」


 私の肩をポン、と叩いて優一とは反対側に歩いていった。時々立ち止まっては、棚の品物を並べ直している。


 イチャイチャって……。私と優一はそんな関係では。いや、どうだろう。あの時、不意に彼の顔を見られて私は確かに嬉しかった——。


 ここまで考えてブンブン首を振る。何を考えているんだ。今は後片付けだ。

 余ったトレーをケースに戻し、ホットプレートの電源を落とす。油や爪楊枝をバックヤードに返してから戻ってみると、トレーはすべてなくなっていた。こうして短い時間に食べてもらえるとやっぱり嬉しい。


 ゴミ袋を外していると、ガウンという音が聞こえた。大きなエンジン音。


 パッと目を上げると、目の前のガラスを割って、赤い車が突っ込んでくるところだった。ガラスが嘘みたいに軽い音で割れる。


 逃げないと。そう思ったが、私がいるのはテーブルと壁の狭い空間。すばやくなんか動けない。


 目の前を青いものが横切る。温かいものが私を包み込む。ガキン。


「おい。しぐれ。しぐれ! 大丈夫か?」


 すぐ目の前に、優一の顔があった。荒い息で、喚きたてている。普段の彼からは想像もできないほどの必死な表情だった。真っ赤な顔。鬼気迫るという言葉の意味を初めて知った気がする。


「優一、なんで」

「良かった、無事だったかあ」


 泣き笑いみたいな表情を浮かべて、優一が私の首すじに顔をうずめる。私は、そっと彼の肩に手を置いた。震えている。


「時ちゃん。大丈夫? お客さんは?」


 国さんが遠巻きに見つめる野次馬を押しのけて駆け寄ってきた。


「私は、平気です。優一、怪我は?」

「ああ、僕は大丈夫。ほら、僕にはこいつがいるから」


 そう言って、優一は右腕をちょっと動かした。くぐもった音ともに、私と自動車との間から義手が引き出される。見た感じ壊れた様子はない。グーパーグーパーと動かしても大丈夫だ。


「それでも、取りあえずは救急車を呼びます。万が一があってはいけませんから」


 きっぱりした声で宣言すると、狼狽える店長たちに国さんが指示を飛ばした。凛とした立ち姿は荒れ狂う嵐の中、一人威厳を保つベテラン船長の風格だった。


 その後、優一は救急車に自分で乗り込み、苦笑しながら病院へと運ばれていった。


 窓ガラスの破片を片付けた私は優一が運ばれた病院へと向かった。バスの中で、一つの覚悟を決めながら。降りた後は、夜の闇の中不気味に光る『救急外来』の文字を目指して進む。


 人気のない病院に染み込むような足音が響く。やがて、ぼんやりした影から優一が現れた。


「あれ、来てくれたの?」

「まあね」


 買い物袋を手にしながら、歩み寄る。彼は柔らかく微笑んでいる。いつも通りの彼だ。何やら手続きがあるらしいので、それを待って外に出る。


「やっぱり、全然大丈夫だったよ」

「なら、良かった」


 山の中腹にある病院の近くには他の建物が少ない。低い位置にある満月がよく見える。


「どうして、助けてくれたの?」


 彼が足を止め、私は彼の顔を見つめる。ギュッと唇を引き結んで、彼の唖然とした表情を睨む。


「一年前と同じじゃない。私を庇って。それで、あなたはどうなったか分かってるの。右腕を失くして。私はそうまでされたのにあなたから離れた。恨んだりとか、してないの?」


 自分でも驚くくらいにどす黒い感情が流れだした。奇妙な喪失感がヒタリヒタリと胸を覆っていく。


 優一はゆっくりと、顔を上げて空を仰いだ。見上げる私にギリギリ見えるところで、その唇が歪んだのが見えた。口の端だけで笑う笑み。そこには朗らかさなんて欠片もない。


「恨んではいない。今も、昔も」


 優一は私に視線を合わせないままゆっくりと歩き始めた。私を追い越し、立ち止まる。こちらからは背中しか見えない。


「当時はただただ、ショックだったな。恨むとかそんなこと考える余裕すらなかった」


 淡々と語られる言葉。けれども、重い。怒り、悲しみ、絶望その他様々な感情がドロドロに溶けあってできた声だ。


「まだこいつを手に入れる前だったからね。まともに生活できるなんて思えなかった。これからどうなるんだろうとか思ってね。もちろん、そのなかでも。しぐれがいなくなってしまったことを悲しんだりもした。けどね」


 言葉を断ち切り、私の方へ向き直った。世界が揺らぐ。


「けど、あの時のことをやらなきゃ良かったとか、そんなことは思わなかった。仮にしぐれがいなくなると分かっていたとしても、そこで見捨てることはできなかった。後悔はしていないよ」


 ここで彼は微笑んだ。寂し気な笑みで。温かいのに、見ていて不安になる笑み。


「しぐれがいなくなったことに関しては、悲しかったよ。でもね、実はホッとしたんだ」

「ホッとした?」


 この一年、何度も優一のことを想像していたが、そんな感情私には思いもつかなかった。恋人に見捨てられて、ホッとする。そんなことがあるのか。息をするのも忘れて、続きを待つ。


「しぐれは、辛かったんだろう。病院で、毎日のように僕の無くなった右腕を見てるのが。ずっと良心に苦しめられてた。それでも、無理やりに笑ってた。毎日、毎日。ストイックだから罪悪感っていうのを誤魔化さない。真っ向から向かい合う。君の良いところなんだ。僕が好きになった所なんだ。でも、傷ついてボロボロになっていくのは見ていられなかった」

「そんなこと、優一が気にするようなことじゃない」

「気にするさ!」


 珍しく声を荒げた優一に身がすくんだ。魂の奥底からほとばしる叫び。雲に突きが隠され、闇が深くなる。それでも、優一の目に宿る光は、私をまっすぐ貫く。


「君は、善い人だ。だから、忘れようともしない。この前お昼を食べた時だってそうだろう。一年も会わなかった相手のことを気遣って、自分を苦しめてた。そんなの、普通の人はできない。どこかで投げ出すし、そうするべきだ」


 優一は両手で髪を引っ掴むようにして頭を抱える。勢いよく頭に義手がぶつかったのに、もはや痛みを感じていない様子だった。


「あの頃の僕は。君が辛い思いをしているのは分かってた。けど、そうまでして側にいようとしてくれたことが嬉しくて、手放せなくて。つい、甘えちゃったんだ。もういいよ。そんなことがどうしても、言えなかった——」


 フウッ。彼は胸の奥に溜まっていた物を一息に吐き出した。目をゆっくりと閉じて、開く。暗がりから顔を出した月が全てを諦めた表情を映す。


「でも、今なら言えるよ。しぐれ、僕らは会わない方が良い」


 静かに、確信をもって告げる。


「僕がいれば、君は自分を傷つけ続ける。だから、もう会わない。その代わりに、頼む。僕の気持ちを汲んで、忘れてくれ」


 頭が麻痺した。何を言ってるの。優一、あなたは何を言ってるの。


「そんなの、できるわけ——ないでしょ」


 私を傷つけるまいとしたそんな思いを聞いて。それで、私が簡単に忘れるとでも思ったか。あれだけ傷つけたのに、ショックだったと自分で言ったのに。それでも自分に好意を寄せてくれている彼を、忘れるとでも。


「優一は、どうするの。今まで辛いと思ったことは終わらないよね。重くなったり軽くなったりして、ずっと続くんだよね。一人で耐える気? それこそ、普通じゃないよ」


 声が、だんだんと震えてきた。想いが深すぎる。自己犠牲。自己を犠牲いけにえとする。そんなものは、美しくなんて無い。残される者を、周囲を悲しませ続けるだけだ。死ぬ人の自己満足だ。犠牲の上に成り立つ幸福、そんなものあって良いはずがない。


「ダメだよ。そんなの、放っておけないよ。二度も助けられて、そんな風に思ってもらって」

「ありがとう。……僕はね。しぐれは色々気に病んでいるのかもしれないけど、全部ひっくるめて君のことが好きだよ。そして、好きな人が幸せでいられると思えば、どんなことでも乗り越えられる。でしょ?」 


 優一は、さも何でもないことのように言う。思わず手に力が入る。ビニール袋がかさりと音を立てる。


 優一とは、今まで分かり合ってこれた。高校時代でも、再会してからも。彼が入院していた時でさえ、お互いを思って苦しんでいたというならば、似た者同士とも呼べるのだろう。


 しかし、今は違う。はっきりと、彼が間違っていると断言できる。だって、朗らかそうに言った彼の言葉には、黒いしこりが残っているのを確かに感じたから。


「ねえ、優一。最近ね、人を愛するには嫌なこともひっくるめて受け入れられる人が良いって、教わったんだ。それから、考えてたの。誰なら、全てを受け止められるか、ともにあり続けられるかって。優一の気持ちをはっきり聞いて、決まったよ」


 私は笑う。自分の想いを告げるために。彼の想いを受け止め、感謝し、真っ向から否定するために。


「私も、優一が好きだよ。今でも、やっぱり愛してる。だから、もし赦してくれるなら側にいさせて。もうどこかに行ったりしないから。二人で喋ったり、たわいないことで笑ったりしたいの」


 優一は下唇を噛んでこっちを見ている。やがて、一筋の血がゆっくりと流れ始めた。固く握りしめられた右腕をゆっくりと見せつけるようにかざす。月光の中、義手が鈍く、妖しく光る。


「この腕は今までも、散々君を苦しめたんだよ。だから……しぐれは、しぐれの道を行けば良い」

「その腕がさっき私を助けたんだよ。だから……私は、優一の道を歩いていきたいな」


 一歩近づき、固い義手を抱きしめる。両手で拳を包み込み、胸に押しつけるようにして。


 この手に触れることが怖くない、といえば嘘になる。今でも心の奥が疼き、傷む。


 それでもこの冷えた手が、私の腕で温められていけば、嬉しい。


 耳元をかすかな息がくすぐる。ゆっくりとした、微かな吐息。


「本当に、しぐれは無茶をするね」

「付き合ってくれる?」

「——喜んで」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それでもこの冷えた手が 黒中光 @lightinblack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ