後半

「あなたの心には愛が無い」

 俺の一人語りを聞き終えた占い師は、そう言った。

 愛?

「そうです。人を愛し、物を愛し、そして自分を愛するんです。そうすれば世界には感動が溢れている、と気づくはずですよ」


 煮詰まっていた俺は、大学の掲示板の張り紙を見て、この占い師の店に足を運んだのだ。

 『お悩みを解決いたします』

 そんな胡散臭い藁でも、すがってしまうくらいに俺は困り果てていた。

 テーブルを挟んで向かい合っている、人のよさそうな中年の女性は、笑顔を全く崩さずにそう言ってのけたのだ。


「心に愛があるならば、道端に咲く一輪の花にも感動を覚えるのです」


 中々に興味深い、考え方だ。

 確かに感情で、物の見方は激変する。

 占い師は俺の名前の画数を調べ、手相を調べ、生年月日を聞くと、首を傾げた。

 ついで、カードをテーブルに円状に置くと、俺に一枚引かせた。


 稲妻が塔を破壊しているカードだった。


「今のお話を聞く限り、あまりよくありません。どうも、あなたはこのまま進むと、とんでもなく酷い目にあう。もしかしたら命を落とすかもしれない。

 ……でも、それがお望みなんですよね?」

 占い師は、やや皮肉めいた笑みを俺に向けた。


 酷い目にあうのは望まない。ただ、酷い目にあって、目指すものに出会えるのは望む。


 占い師は困ったな、という顔をした。いや、面倒だな、という顔か。

 占い師はその後も、人類愛だとか、隣人愛だとか、あなたは運勢が強いから、土壇場で実力を発揮する、とか耳に優しい事を色々喋っていたが、俺の呆れた顔を見て話を切り上げた。  

 ちょうど三十分経ったからかもしれないが。

 俺は礼を言って、席を立とうとした。


 今から、恋人を作らなければならない。そういう考え方自体に、もう愛が無い気がするが、まあともかく、やるだけやって――


 占い師は、「ちょっと、お待ちください」と手を挙げた。

「これを忘れておりました。どうでしょうか、気分転換になりますよ。もしかしたら刺激を受けて全てが解決するかもしれませんよ」

 そう言って、俺に渡したのは、新しくできた、あのレストランのチラシだった。



 レストランの名前は忘れた。仏語かイタリア語らしいが、長すぎて覚えていない。

 半地下で、最近できたばかりだから、外も中も綺麗だ。昼にはまだ早い時間だったのに、ホールは、ほぼ満席だった。

 メニューを見ると、料理の値段は手ごろだが、イベント代を別途で取られるらしい。

 あの占い師が言っていた、刺激を受けるイベントとのことか、と軽食を頼みしばらく待つと、オーナーと名乗る男がマイクを持って現れた。

 皆さま本日はようこそ、と通り一遍の挨拶が終わると、男はイベントの説明を始めた。


 ポイント・ネモというものがある。

 南緯四十八度某、東経百二十三度某。太平洋到達不能点と呼ばれ、あらゆる陸地から最も離れた海の一点を指す。そこは人工衛星を落下させるのに、最も適した場所なのだそうだ。


 本日は、と男は声を張り上げる。

「某国の許可を得て、ポイント・ネモの海底にドローンを投入いたしました!」

 男の自慢げな声と共に、映写機のような物がホールの真ん中に設置され、窓が全て閉められ、カーテンの代わりにスクリーンが周囲に張られる。

「今から、この場は海底になるのです! ジュール・ベルヌの世界にようこそ!!」と男は嬉しそうに笑う。

 ホールが暗くなった。

 と、天井、壁、そして床と三百六十度全てに、仄暗い海底の映像が流され始める。

「プロジェクトマッピングと新開発の技術を組み合わせ、リアルタイムの映像を会場全体に投影し」――男の説明は、客達の歓声に掻き消された。


 成程、これは面白いイベントだった。

 俺は座った椅子は、ドローンの進行方向と同じだった。つまり、小型のガラス球に入って海底を散歩しているような感じなのだ。

 椅子に深く座り、目を細めると、古典SF冒険小説の中に入り込んだような気分になってくる。

 ライトに照らされながら、足元を泳いでいく魚の群れに、黄色い悲鳴を上げる女性達。スマホのフラッシュ。スタッフの足音。時折、ごぼりごぼりと聞こえる泡の音。

 珈琲を片手に、俺は溜息をついた。

 まあ、楽しめたが――それだけだった。

 凄い技術ではある。だが、心は動かなかった。このフロアに俺以外誰もいない状態でも、そう思ったろう。

 鞄の中に入れてある、スケッチブックや画材の出番は無さそうだ。

 帰るか、と俺は腰を浮かせた。

 その時だった。


 なんだ、あれは? と誰かが囁いた。

 次々と囁きが増していく。

 あそこの上の方――人工物が――衛星だろ――いや――なんか――ライトに照らされて、ちらっと見えたんだけど――すごく大きい――


 階段みたいなものが――


 ごとん、と大きな音が響いた。

 ドローンが何かがぶつかったらしく、周囲の映像が一瞬乱れる。

 俺は腰を降ろすと、辺りを見回した。

 椅子の下を、藻が所々に生えた巨大な岩が通過していく。


 そこに、何かが掘り込んであった。


 自然物ではない。例えるなら梵字だが、それよりもいびつで、生理的な嫌悪感を抱かせる、裸の男女が躍っているような文字のような物。

 客の悲鳴が上がる。


 前方から、何かが泳いできた。


 丸い光の中、次第に詳細が露わになっていくそれには、手と足があった。肩があり、胴があり、腰がある。だが、顔が人間のそれではない。

 魚に似ていた。丸く大きく、離れた目。耳まで裂けた口。鼻の穴は無い。

 見る間にそれが、十人、二十人と数を増していく。

 女性の悲鳴が再び上がる。

 今度のそれは、恐怖の悲鳴だった。


 だが、誰かが拍手をし始めた。

 凄い出来だ! と若い男達の歓声が上がる。すると、場の空気が和んだ。

 なんだ、という声があちこちからあがる。

 CG、演出、本物かと思っちゃった、そんな声があちこちから上がった。


 だが、俺はずっと足元を見ていた。

 だから、そんな事を言う気には全くなれなかった。

 ぴちゃぴちゃという音ともに、靴が濡れていく。床の透間から水が染み出してくる。強烈な海水の匂いが漂い始める。

 なんだこれは、と年配の男性の声が上がった。

 同時にあちこちで、びちゃびちゃと何かが跳ねまわる音がし始めた。


 俺はゆっくりと立ち上がった。


 ライトに照らされた魚人間たちは、ドローンの横や下に回り込んだらしい。俺の椅子の下にも三人いた。連中は、そこを、ガラスの壁があるように撫でまわしていたのだが、ややあって、ゆっくりと、手を伸ばす。

 水浸しの床から、強烈な腐臭と共に、水かきのついた、ぬめりを帯びた手が現れ始めた。ついで、毛髪の無い頭の半分が現れる。


 明かりを点けろ、と誰かが怒鳴る。バタバタと走り回る音。そしてべちゃべちゃと走り回る音。カスタネットを打ち鳴らしたみたいな甲高い連続音。それが、目の前に半身を現した、魚人間の鳴き声だと気付くのに時間はかからなかった。


 お前たちは生贄だ、と誰かが叫んだ。

 スマホのライトが一斉に、その人物を照らす。

 あの占い師だった。

 その横には、ニタニタ笑いを浮かべるオーナー。

「悩み深き愚か者どもよ! 貴様らは大いなる神の、復活の生贄となる。さあ、境目から深きものどもがやって――」


 数人の魚人間たちが、床から跳ねあがって二人に飛びかかった。

 どうして、何故という声を聞いた気がしたが、放り投げられた丸い塊がテーブルの上で跳ね、俺の足元に転がってくると、もう確認のしようがないということが判った。

 占い師の生首は、海水が揺れる度に右に左にと転がった。


 俺は辺りを観察した。


 ドローンは、階段を登っていた。

 端から端まで見渡せない、とんでもない大きさの階段だ。


 その遥か向こうに――何かがちらりと見えた。

 瞬間、俺の中を嵐が吹き狂った!


 あれは――いや、あれだ!


 上や下、周囲のスクリーンから次々と魚人間が這いだしてくる。

 ホールのあちこちで悲鳴が上がる。ボキボキと何かが折れる音、びしゃりと何かがぶちまけられる音、金属音、そんな物が俺の耳を通り過ぎて行く。

 ここは地獄だ。

 だが、地獄には興味が無い。


 あれに比べれば・・・・・・・、どうでもよいのだ。


 俺は、画材を入れた鞄をしっかりと肩にかけると、正面のスクリーン、ドローンの進行方向へと走った。

 ぐんぐんと迫る階段。血と魚の臭いが渦を巻き、巨大な烏賊の足のような物が、ぬらぬらと座席を押しのけ、ホールに現れる。

 だが、止まるつもりは微塵もない。

 連中が通り抜けられるなら、俺にだって可能なはず。

 あと数歩、というところで、魚人間が組み付いてくる。

 俺は身を屈めた。そして、その瞬間、階段の遥か上に、先程心を一瞬で奪われた物――『巨大な閉じている門』を、はっきりと見た。


 俺は叫びながら、スクリーンに体当たりをした。



 堅い石の感触を体に感じながら、俺は立ち上がった。

 目の前には、未だに閉じた、海藻の絡まった巨大な門がある。

 振り返ってみるが、勿論レストランは無い。仄暗い暗黒の中めがけて、階段が延々と続いているだけだ。


 あのレストランにいた人達はどうなったのだろうか?


 あのレストラン自体はどうなったのだろうか?


 ここはどこなのだろうか?


 頭にさっと浮かんだ疑問は、どれも、それ以上考えても仕方がない物だった。


 今は、まずは祝うべきなのだ。


 この、魂を、心を、俺という人間を底の底から震わせて歓喜させている物の出現を祝うべきなのだ。

 俺は、ようやく見つけた座れる場所に腰を降ろすと、スケッチブックを拡げた。

 ようやく、である。


 しかし、一枚目を描き上げるのは、急がなくてはならないかもしれない。

 俺が描きたいのは、この『閉じている門』なのだ。

 圧倒的に孤独で、だが、自分の使命を果たす事に全力を傾けている、この『閉じている門』なのだ。


 『閉じている』物は、いずれは『開く』。開閉しない『門』など、どこにもない。

 だから、急いで一枚目を描かなくてはならない。

 それはきっと、俺の生涯最高の絵になるに違いない。


 だから、開く前に


 中から何かが飛び出してくる前に




 俺は、素早く、そして喜びに震えながら、描き続けた。

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午前十一時十五分、某レストランにて 島倉大大主 @simakuradai

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