午前十一時十五分、某レストランにて
島倉大大主
前半
俺は、ようやく見つけた座れる場所に腰を降ろすと、スケッチブックを拡げた。
ようやく、である。
俺があのレストランに行ったのには、理由がある。
俺は絵を描くのが好きである。
目の前にある、自分の心が動いた物を描くことは快感以外の何物でもない。
しかし、ある時、絵を最後まで描き切る頻度が減っている事に気がついた。
飽きてしまう。
静物であれ、風景であれ、人物であれ、途中で、いや、最初から全く興味が湧かないのだ。そんな状態で描けば途中で筆が止まるのは当たり前だ。
一体どうした事か?
絵を描くこと自体に飽きてしまったのか?
いや、描きたい衝動はある。はち切れんばかりにあるのだ。
では、一体どうしてなのだろうか? 親族及び、友人連中に絵を描く者はいない。だから一人で生まれて初めて絵を描くことについて、考えてみる。
すると、あっさりと結論が出た。
心を動かされることが無くなってきている。
これは、どうしたことか?
俺は二十代の大学生である。成長につれ、見聞が広がった所為だろうか? それとも、本式で絵を学んでいないからだろうか? それとも――
悩んでいても仕方がない。
俺の絵は我流であるから、美術教室に通ってみれば、前と同じように絵を描けるヒントが得られるのではないか、と考えた。
美術教室の講師は、遠まわしに俺の絵は下手だと言った。
それは判っている。
バランスも配色もメチャクチャだ、と絵を逆さまにして講師は言った。まずはデッサンからだ、と。
デッサンをやってみる。
石膏やリンゴを前にして、あまりのくだらなさに溜息が出た。
だが、基礎をしっかりやることにより、絵は飛躍的に上達する、と講師は頑なに言う。
だから、そういうことを習いに来たのではない。最初にそう言ったではないか。俺は『心を動かされて絵が描ける状態にどうやったら戻れるか』のヒントを習いに来たのだ。
絵を上手くなりたい、とは微塵も思わない。
大体、絵の良し悪しを、何故他人が決めるんだ? 絵は人に見せる物か? 絵は自分の内面を通して世界を表現する事だろう?
いや、それよりなにより、楽しいから絵を描くんだろう?
講師は言う。
絵は人に視てもらって初めて完成するものだ。そうやって、初めて絵は上達するのだ。
だから! と俺は声を荒げた。
上達する必要なんてあるのか? 誰かと競い合うわけでもないのに、上達する必要なんてあるのか?
なるほど、と講師は言った。
では、名作に触れてみるのはどうでしょうか? あなたの価値観が変わるかもしれません。
かくして俺は、美術館に通い、美術書を読み漁った。
だが――マティスだ、ピカソだ、ドラクロワだ。ビザンティンだ、ベル・エポックだ、バロックだ、とかなりの時間を費やしたが、何も変わらない。
思い余って、旅行に行った。
国内の名所を巡り、海外の名所を巡る。
なのに、一ミリも心が動かない。
成果といえば、美術教室のリンゴの産地が判るようになったくらいである。
そこで俺は、ある小説を思い出した。
芥川龍之介の『地獄変』。
本棚から引っ張り出して、目を通す。
地獄変は、宮仕えする絵描きが、自分の娘が焼かれる様を見ることによって作品を完成させ、自殺する話だ。
彼は、本物を描くためには、本物を見なくては描けんと恐ろしい事を言ったがために、その結末に陥っていく。
人によって、様々な解釈がなされる作品だが、俺の考えはこうだ。
娘が焼かれた時、あの絵描きは『本当に心揺さぶられる物に今まで出会ったことが無かった』と悟ったのではないだろうか?
そして、『本当に心の奥底まで揺さぶられる物に出会ってしまった』からには、もう、『その先には何も無い』と悟ってしまったのではないか。
だから首を吊ったのではないか。
もしかすると、俺がやっていることは、『そういうこと』なのではないのか?
描ければ、もう死んでもいいと思えるような『何か』を探し続ける。
つまり、俺はあがけばあがくほどに、死に向かって走ることになっているのではないか?
上等である。
俺は走り出した。
山に登り、滝を這いあがり、海に潜り、火事場を走り抜け、震災の跡地を歩く。
だが、駄目だった。
いよいよ人が死ぬ瞬間を見なくてはならないのか、とぼんやりと考えたが、それは最初から論外だと気がつく。
なにしろ、両親が病気で他界する場面も見ているし、ネットでその手の動画は結構見ている。大学前で轢き逃げがあった時には、現場に出くわした上に、救急車を呼んだ。辺り一面血だらけで、轢かれた女性はその場でゆっくり死んでいった。
それを描きたいとは、頭の隅にも浮かばなかったのである。
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