卑賤
三津凛
第1話
嘉与子が水を飲むところを、私は見たことがない。
もっとも、それに気がついたのは随分あとになってからだった。
嘉与子はどこか陰気な子で、友達はいなかった。いつも煮詰めたような色の襤褸を着て、痩せていた。男の子たちから随分虐められてもいたようだ。でも誰も止めることはしない。教師だって、知らないふりをした。
他の子どもたちも、嘉与子と口をきくことはなかった。他所から来た私は初めそれが不思議で、一度だけ気安く嘉与子に声をかけたことがあった。
その途端、教室中が茨になった。当の嘉与子も半分迷惑そうに顔をしかめた。
「なつ子は他所から来たけぇ、分からんだけやん」
誰かがそう言って、茨は溶けた。それから妙に、男の子も女の子も偉そうに嘉与子のことを私に教えて来た。
あの子は狗の子や。
狗の子は井戸の水を汲んだらいかん、飲んでもいかん。
狗の子とは口をきいたらいかん。病気がうつる、汚いものを家に持ち込むのと一緒や。お父とお母にも怒鳴られる。
この村の外れに、トタン屋根でできた家ばっかりがある場所があると。あれは狗の土地や、もう昔からあそこに住む人間は決められとる。あそこの人間はあそこから出て来ちゃいかん。
嘉与子は狗の子や、本当は学校にも来ちゃいかん。でもまだ子どもや、だからまだ嘉与子は狗の子でも優しくされとるんや。
狗の子、というのが比喩であることはなんとなく私にも分かった。当の嘉与子は大人しく自分のことを聞いていた。その佇まいは、子どもから見てもどこか浮世離れしていて、訳のわからない怖さを感じた。それは死に絶えてゆく運命を悟った蜉蝣の瞬きを見るようだった。熟柿のように真っ赤に落ちていく夕陽、明け方に火葬場から立ち昇る細い煙、土葬のために盛り上がった畑の土。
そういうものを、往来で目の当たりにするような怖さを感じた。それが狗の子のなせるわざなのか、私には分からなかった。
だが嘉与子には穢れがある。私は子ども心にもそう感じた。私もまた、嘉与子を避けた。
私の越した村はいつも鈍色だった。みんな痩せている。狗の子、嘉与子ほどではないにしても。除け者にするほうも貧相で、それから除け者にされる方は更に貧相だった。
一度だけ、嘉与子の後をつけたことがある。嘉与子は靴を持っていなかった。冬の教室でも、裸足のままである。だからたまに嘉与子の足は血に濡れていた。それがみんな嘉与子を余計に避けさせた。
私は指を切ったことがある。そこから流れる血は、嘉与子の足の血と同じ色をしていた。
狗の子、嘉与子。
よく嘉与子はそう囃し立てられる。嘉与子は陰気にじっとしている。隣の教室には朝鮮人の子どもがいる。その子は煽られると負けずに言い返す。その活発な舌は、見たこともない大陸の雑踏を感じた。
だが嘉与子はじっと黙っている。嘉与子の瞳には怒りがない。淡々と澄んでいる。
痩せた嘉与子は、襤褸(ぼろ)がそのまま歩いているように見えた。中庭の水道で、嘉与子は辺りを見渡してから足を洗っていた。嘉与子は思い切り蛇口を開ける。普段は禁忌の行為である。飛び散る水が、狗の子の足を洗う。嘉与子はしばらくそれを眺めていた。私が窺っていることに、嘉与子は気がつかない。なんとなく、締まりのない横顔をしている。嘉与子は私には気づかないまま、足を洗ってから歩き出した。
だが足はすぐに泥塗れになる。笊で水を掬うような虚しさが押し寄せてくる。嘉与子は下を向いたまま、家路を歩く。洗ったそばから汚れていく足は、2度と這い上がることのできない狗の子の宿命を思わせた。私は嘉与子の後をつけながら、狗の子の哀しさを初めて見た気がした。
やがて景色は寂しくなっていった。
道は手入れをされていない。トタン屋根の群れが見えてくる頃には、辺りは異様になっていった。どこかから、糞尿の臭いがする。道端に、片足のない男が蹲っていた。
赤ん坊が泣く声がする。それを宥める母の声は聞こえてこない。泣きっぱなしである。訛りのきつい歌声が聞こえて、誰かを怒鳴る太い声がした。
嘉与子はその中を頓着せず歩いていく。嘉与子の家は、同じようなトタン屋根のひとつだった。向かいの家には戸がなかった。覗くと濁った黒眼をした老婆が着物をはだけたまま、座り込んでいた。老婆は物も言わない。襤褸を干した物干しがあちこちにあって、揺れていた。どこかからか、酷い臭いがして私は怖いもの見たさで臭いを辿っていった。一層傾いたトタン屋根の下に、布を全身に包帯代わりに巻いた男がござの上に横たわっていた。火傷なのか、業病の一種なのかは分からない。ただ血と膿とで男は覆われていた。唯一露わになった顔は何層にもなった垢で皮膚はひび割れている。そこに光はない。男は死んで固まっていた。だが誰も骸を片付けないままでいる。誰かが急ぎ足で何処かへ駆けて行く音がすぐ後ろでした。
私はそこまで見届けて、駆け足に戻っていった。
狗の子、狗の土地。
足のない男や、泣きっぱなしの赤ん坊、終わりのない歌声や怒鳴り声、そして片付けられないままの骸。それを囲う、鈍色の空、トタン屋根。
私は嘉与子についていったことを後悔した。そこは病んだ場所だった。嘉与子は産まれながらの狗の子だ。私はそこに住む嘉与子のことも憎むようになったのだ。
「あんたは狗の子やもんな」
私は他の男の子や女の子と同じように、嘉与子を虐めた。
嘉与子は逆らわなかった。それが更に私たちを怒らせた。馬鹿にされているように感じたのだ。
よく見ると嘉与子は綺麗な顔をしていた。眉と唇が薄く、目と鼻筋とがいやにはっきりとしている。あんな泥塗れの土地で寝ているくせに、肌が白い。小学校を卒業する前には、男の子の何人かはあからさまな視線を嘉与子に向け出した。
それと同時に、嘉与子の母親が売春婦であるという噂が流れた。私はなんとなく、着物の前をはだけたままの老婆を思い出した。嘉与子への虐めは相変わらず続いていた。私も虐めた。
人目のないところで、私は嘉与子の頬を叩いたり抓ったりした。嘉与子は蹲るだけで、何もしなかった。
それが不気味で、訳のわからない怒りを催させた。
「私、お前の後をつけたことがあるよ」
そこで初めて嘉与子は顔を上げた。
「お前の住んでる場所は人の住む場所やない。だから、お前も人じゃない。一生このまんまや」
嘉与子は笑った。
それは大人の笑いだった。
「私は狗の子や、一生狗の子や、私の産んだ子もその孫も狗の子や……」
嘉与子は初めてはっきりと喋った。
嘉与子の声は鈴を転がすようである。いやに澄んで、女ぽかった。その母親が体を売っていることも本当なんじゃないかと、私は思った。
「でも私はまだ狗やない、まだ狗の子どもや。あんたらにはそれが分かっとらんな、だから甘いんや」
「何を言ってるの」
「あんたは狗のことを知らん、狗を見たことはないやろ」
「見たことない」
嘉与子はそこでまた笑った。それは諦めの笑いだった。
「だから、みんな甘ちゃんや。薄ぼんやりした幸せもんや……だから私は何されても許しとる」
私は黙った。
「あんたが見たいなら、狗を見せてやってもいいよ」
嘉与子はいつになく大きかった。私は半ば引き摺られるようにして、また狗の土地に連れていかれた。
またあの臭いがあった。糞尿と垢の混じった臭いである。
この間見た片足のない男が同じ場所にいた。眠っているのか、いびきをかいている。その脇をすり抜けて、トタン屋根のある場所まで嘉与子は歩いていく。
赤ん坊の泣き声も続いている。その合間に、不思議な音が聞こえてくる。木の板の軋む音がする。誰かが女を殴っているのか、女の泣き声がする。私は落ち着かない気分で嘉与子についていった。嘉与子はある家の前で立ち止まって、手招きした。家が歪んでいるのだろう、戸は綺麗に閉まらない。大きな隙間から、中を覗くように嘉与子は促した。尖った嘉与子の鼻先が大人びて、なんでも知っているように見えた。私は促されるまま、そっと中を覗いた。
まず目についたのは、寝そべる男の姿だ。一目で病人とわかる、紫色になった男がぜいぜい言いながら横になっていた。家の中は酷い臭いがした。血の臭い、薬を煮詰める臭い、垢の臭い、泥の臭い。私は顔を顰める。横になった男は果たして生きているのだろうか。だが意外なことに、家の中には瓦斯が引いてあった。その炎はまるで鬼火のように青々と点っている。その上に鍋がかけてあって、何かを煮ている。薬だろうか。
更に目を転じると、女の脹脛の白さに当たった。それを組むようにして、毛むくじゃらの男の脚が見えた。2人は盛んに動いているようだ。女の泣き声が聞こえてくる。いや、泣き声ではない。私は睨み続けた。
男は唸り声をあげて女にめり込む。女の脚は快感に震えているようだった。2人は突然体勢を変えた。男が下になって、女がその上に跨った。女の顔がこちらを向く。それは大人びた嘉与子そのものだった。
私は思わず目を離して嘉与子を眺めた。嘉与子は黙って暗に私にそれを見続けるように促す。私は再び隙間を覗いた。
紫色の病人は咳き込みながら、喘ぎ声を聞いていた。嘉与子にそっくりの女は汗を浮かべて男の背中に爪を立てる。一目で労働者とわかる盛り上がった大きな背中が蠢く。
「妙子、お前も好きもんやなあ。亭主の前でもこれや」
男が大きな声で叫ぶ。
「言わんといてや、言わんといてや」
女は笑いながら言う。声色まで嘉与子に似ていた。
「お前の亭主、死に損ないやけどまだ逸物は元気みたいやなぁ、俺の後にいれてみるか」
「あんな病人の萎びたの嫌や、よして」
女は男の頬を叩く。私は病人の方を窺った。薄布一枚かけられていない病人は着物もだらしなくはだけている。股の合わせも緩んで、太い蚯蚓のようなものがひょろりと股の間から立ち上がっていた。
私は目をそらした。
嬌声はまだ続く。男は一層激しくなる。伏せっているはずの病人すら、半ばこの騒ぎに便乗しているように思えた。
「あれが、私のお父とお母や。男を連れ込んどるのがお母で、あの病人がお父や。……あれが狗や」
嘉与子はそこで私を見据えた。色の落ちた黒眼があった。
そこに、底知れない怒りを感じた。嘉与子は人間ではない。確かに狗の子なのだ。
だが、それは誰が決めた?
私は俯いた。その先に、爪の剥がれた嘉与子の足があった。滲む血の色は鮮やかだった。それは私と同じ赤色だ。
「何言っとるか、わからん。やっぱりあんたは狗や、狗のままや!」
私は叫んだ。
嬌声が不意に止んだ。私と嘉与子は固まった。だが、それはすぐにもとの激しいものになっていく。
泥水が足元を這っていく。トタン屋根の雨漏りは止まることがない。視線を感じて目を上げる。あばら家の陰から、知恵遅れの子どもが禿げた頭を晒したままこちらを覗いている。彼は下着すら履いていない。
猛烈な嫌悪が襲ってきた。
嘉与子はこの雑音の中で、当たり前の顔をして立っている。
「お前も狗やな……」
私はそれだけ言って、嘉与子を押した。思いの外そこは柔らかくて温かかった。女の体温が気味悪くて、私はもう一度強く嘉与子を押した。薄い嘉与子は泥の中に倒れた。私は振り返らずに、駆け出した。
嘉与子の柔らかな胸の感触だけが、ねっとりと掌に残った。
嘉与子とはそれから口をきくことはなかった。中学に上がる頃に、嘉与子は消えた。行方は誰も知らない。
しばらくすると、若い売春婦の噂が流れた。狗の土地の女にしては美人で、女っぽい。何よりその女は若かった。手足は伸びやかで、顔は小さく作りも微細で綺麗だ。少し瘦せぎすなのが疵だが、10代の関節はしなやかで発条のようだと何人かの村の男たちはいれあげていたそうだ。
私は嘉与子のことを思い出した。あのねっとりした胸の感触は、今更私を不快にさせた。
嘉与子に会うことはなかった。行方も知らない。死んだかもしれない。
村に帰れば、あのトタン屋根の一角はまだ残されている。
あの場所に行くことは二度とない。
卑賤 三津凛 @mitsurin12
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