第5話
終幕
暖かな日差しの下、幸野川沿いの道を男の子が走っていた。足元はサンダル。ぱっかぱっかと音が鳴る。
彼が向かう先には、「手作りとうふ」と書かれたのぼりを立てたリヤカーが。
「おじさん、豆腐ください」
俵康平は母さんに頼まれて今日もお使いだった。お金と引き換えに豆腐を受け取る。
「今は学校休み?」
「うん。昨日から春休み」
「もうすぐ5年生だっけか」
「違うよ。6年」
豆腐を持って、もと来た道を引き返していく。川原を埋め尽くす菜の花が春風に揺れていた。
家に帰ると、門柱の上でソージが寝ていた。康平に気づくと、ほんの少しだけ目を開けて、また目を閉じてしまった。春眠をむさぼるのに忙しくて、飼い主にかまっている暇などないようだ。
康平は「ただいまソージ」と言ってから、郵便ポストを開けた。
中には1通のはがきが届いていた。それを手に取った康平は、「あっ」と声をあげた。東京の日野さんからだった。
『また歩み出すよ』
そんな一言といっしょに、写真が印刷されていた。中学の制服を着た日野さんが写っていた。
かの子が通う中学校では、3年生の卒業式が行われた。
式が終わった後の人けのない校舎を、かの子は卒業証書を手に、ひとりで歩いていた。
外では卒業生たちが集まって、互いに別れを惜しみ、いっしょに写真を撮ったりしている。かの子はそういう輪から抜け出して、今までお世話になった学び舎を巡って回っていた。
明日からこの学校には来ないんだと思うと、無性に寂しかった。良い友達、素晴らしい先生に恵まれた、最高の3年間だった。
鈴木くんに告白してもらった廊下。窓の外の桜はいくつか花が開いている。
そして伝統工芸部の部室。かの子はドアの前に立ったとき、ふと既視感におそわれた。
先月、受験の前の日の夜に見た夢と、まったく同じ状況だった。卒業式を終えたかの子が部室を訪ねると、そこに友佳里先輩がいたのだ。
もちろん、あれは夢の中の話なので、現実に同じことが起こるはずはない。かの子はドアを開けた。
誰もいないと思っていた部室に、ひとりだけ生徒がいた。夢の中の友佳里先輩と同じように、こちらに背を向けて窓の外を見ている。
しかし振り返ったのは、友佳里先輩ではなかった。
「……梶くん。どうしたの?」
友佳里先輩の弟の梶くんだった。かの子は中に入ってドアを閉めた。
彼は「どうも」と言って頭を下げた。
「卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう。何してるの?」
「俺、明日引っ越すんで」
「ああ、そうだったよね。部室にお別れしてたんだ?」
いつもクールな彼がそんなに感傷的になるなんて、ちょっと意外だとかの子は思った。しかし梶くんは首を横に振った。
「荻野目先輩を待ってたんです」
「私を?」
「はい。来てくれる気がして。来なかったらそのまま葦原を出ようと思ってたんですけど」
何だか意味深なことを言う。
「私に用があるの?」
「大したことじゃないんです。ただ、お礼を言いたくて」
「お礼……何の?」
「伝統工芸部に誘ってもらったことです。最初は無理やり入部させられて頭に来たけど、今では入ってよかったと思ってます。だから……ありがとうございました」
梶くんはそう言って、深く頭を下げた。
かの子は驚いた。彼が最近は部活動にやる気を見せていたことはよく知っていた。だが入部させられたことを感謝までしてくれているだなんて、思いもしなかった。
「けっこう楽しかったし、それに親父のことを知ることもできた。あんな親父だけど、すごい人なんだなって…」
「うん、そうだね」
かの子はうなずいた。離れ離れになってしまうけれど、梶くんがお父さんといつか心から打ち解け合える日がくればいい。伝統工芸部での経験がその1歩になったのなら、かの子にとっても嬉しかった。
「それと、初めて好きな人もできたから……」
梶くんは小さな声で言った。かの子は「えっ」と驚きの声をあげた。
「梶くん、好きな子いるの? 伝統工芸部の女子の中に?」
かの子は思わず笑みがこぼれた。面倒だから彼女なんて欲しくないとまで言っていたあの梶くんに、好きな人ができたなんて。
彼はきまり悪そうにうつむき、唇を噛んでいた。
「誰? 持田さん?」
かの子が尋ねると、彼は首を横に振った。
「じゃあ、天野さん?」
また首を横に振る。
「………杏子?」
それから少しの間、言葉が途切れた。外の喧騒が遠くに聞こえた。
「荻野目先輩です」
梶くんはうつむき加減のまま、ぽそりと言った。
かの子は顔が熱くなった。最初は冗談を言っているのかと思った。しかし彼は声も顔つきも真剣だった。
驚き、戸惑い、照れ臭さ、いろんな感情が湧きあがってくる。でもやはり最後にじわじわと、嬉しい気持ちがこみ上げてきた。最初は疎ましがられていたのに、1年経った今では好意まで持ってもらえたのだから。
「ありがとう。でも…」
「分かってます。鈴木先輩がいるんだから」
梶くんはかの子の言葉をさえぎるように言った。
「ただ……伝えておきたかっただけです」
語尾が少し震えていた。彼が今感じている想いが音叉のように伝わってきたのか、かの子は胸の奥に鈍い痛みをおぼえた。
梶くんはやおら歩き出し、黙ってかの子の前を通り過ぎて、ドアに手をかけた。
ノブを握ったまま、すぐには出て行こうとしなかった。かの子はその後ろ姿をみつめていた。
「俺、いつか向こうで、先輩より可愛い彼女つくりますんで」
彼は振り返らずに、いつもの強気な口調でそう言った。かの子は口元をほころばせて「うん」とうなずいた。
梶くんはそのまま部室を出ていった。閉まったドアの向こうから、廊下を駆け足で去っていく音が聞こえた。
かの子は鈴木くんに、ずっと訊いてみたいことがあった。
今まで何度もその質問をしてみようかと思った。だけど、できずにいた。
4月。かの子の高校生活がスタートする日がやって来た。
「おはよーう」
かの子が真新しい制服に身を包み部屋から出てくると、それを見た父さんと母さんが「おー」と声をあげた。
「似合う似合う。可愛いね」
母さんはかの子をハグして頬ずりした。かの子は伸太郎の頭をくしゃくしゃいじりながら「どうだ、まいったか」と言うと、伸太郎は朝ごはんをがっつきながら「まいったまいった」と言った。
「変わり映えしない毎日が、子供たちのおかげで華やぐね」
箸を持つ父さんの手は、長年の機械の油が染みついて黒くなっていた。
「時間が経つのが嫌じゃないのは2人のおかげだよ」
母さんはそう言って、かの子の前にお味噌汁のお椀を置いた。
朝食を済ませ、ぴかぴかの靴で家を出る。マンションの前でゴミ収集の作業中だったので会釈して駅へ向かった。今日も葦原の空は快晴だ。
中学のときとは違う時間の電車に乗った。朝陽が差し込む車内は初めて見る顔ばかりだ。
目的の駅で降りると、駅前で鈴木くんが待っていた。かの子を見つけて、ぱっと顔を輝かせる。
「おはよう、荻野目さん」
「おはよう、鈴木くん」
2人の制服の胸のところには豊川高校の校章が縫いこまれていた。周りには同じ制服を着た学生たちが大勢いた。
学校までの道のりを、同じ色のズボンとスカートで並んで歩く。そのときかの子は最近気になっていたことを口にした。
「鈴木くん、背が伸びたね」
1年前は同じくらいだった背丈が、今では頭半分ほど差がついている。
「うん。この1年で10センチ近く伸びたよ」
鈴木くんは身長だけでなく、体格も変わっていた。以前よりがっしりとした、男らしい体つきになっている。逆にかの子の体は、だんだんと柔らかな曲線を帯びてきていた。
できれば、もっと背が伸びて欲しい。もっとたくましくなって欲しい。もっと私と違って欲しい。
私も彼と、もっと異なりたい。そういう気持ちが、ずっと必要だと思う。
学校までもうすぐ、というところで、かの子は立ち止まった。
ひとりで先に進んでしまった鈴木くんがそれに気づいて振り返った。
「…どうしたの?」
鈴木くんが尋ねる。
かの子の口から、またあの質問が出てきそうになった。
鈴木くんと付き合うようになってから、何度も何度も問いかけてみようと思っては飲み込んできた言葉が。
鈴木くんは忍者なの? 私にだけ教えて欲しい。本当のことを。
「荻野目さん?」
鈴木くんが心配そうな顔をした。
かの子は息を吸い込み、口を開いた。
「私は、鈴木くんのことが大好きです」
そう言ってお辞儀をした。
「これからも、よろしくお願いします」
鈴木くんは呆気にとられていたが、すぐに笑顔になった。
「僕も荻野目さんのことが、世界でいちばん大好きです。こちらこそ、よろしくお願いします」
鈴木くんもお辞儀をした。
2人は顔を見合わせて、笑い合った。
やっぱり訊いてはいけないと思った。訊いてしまったとたん、彼がかの子の前からいなくなってしまう…そんな気がするのだ。
いつか話してくれるかも知れないし、ずっと秘密のままなのかも知れない。それでいい。
不思議な少年、鈴木くんは、これからも不思議なまま。そういうのも有りかな、とかの子は思うのだった。
2人はまた並んで歩き出した。季節が巡り、かの子と鈴木くんの新しい1年が始まる。
八分咲きの桜が風に揺れていた。この週末、葦原市は満開の桜で彩られることだろう。
鈴木くんは忍者なの? 樋口師父 @matomarimamoru
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