第4話
其の四
1
今年が終わる10時間前、街に雪が降ってきた。
車から降りたかの子は、灰色の空を仰いだ。家を出たときよりも勢いが増していた。
「あら、宮沢さんのところも。こんにちは」
母さんがご近所さんを見つけて挨拶した。
荻野目家がひいきにしている地元スーパー『サンジー』の屋上駐車場は、ほぼ満車の状態だった。大きなレジ袋を両手に提げた人が目の前を通り過ぎていく。
かの子が高校受験を控えているので、荻野目家は年末年始は遠出しない。こうして家族で正月の買い出しに来たのも、ちょっとした息抜きだった。
「みんなで買い物、楽しいな」
入り口に向かいながらかの子は年の瀬の高揚を歌った。
スーパーの中はたくさんの買い物客でにぎわっていた。冬休みなので子供たちも多い。
父さんがカートを押して、四人で店内を巡っていく。餅や蕎麦など、正月に必要な食べ物を次々入れていった。
どさくさ紛れて伸太郎はお菓子を、かの子はコスメを放り込んでいく。その度に母さんから「こら、戻してきな」と叱られるが、両親がよそ見をしている間にいくつか食料品の中にまぎれ込ませることができた。レジまで行ってしまえばこっちのものだ。
両親がレジの列に並んでいる間、かの子は雑誌を立ち読みしていた。伸太郎はゲームコーナーへ行ってしまった。
「立ち読みはご遠慮ください」
ふいに横から声をかけられた。かの子は「ごめんなさい」と言って慌てて雑誌を棚に戻した。
てっきり店員に注意されたのかと思った。しかし声の主に目を向けると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
「ははは、引っかかった」
なんと梶くんだった。驚きとともにむかつきが湧き上がったかの子は、彼の肩を手で叩いた。
「もう、先輩をからかうんじゃない」
「すみません。何か買い物ですか?」
「家族でお正月の買い出しだよ。梶くんは?」
「お使いです。ここでおせち料理を注文してたんで、受け取りに来たんです」
梶くんは手に持った紙袋を掲げてみせた。そう言えばこのスーパーは彼の住所の近所だった。
「へえ、家のこと手伝って偉いね」
「あ、そういや、荻野目先輩に謝らなくちゃいけないことがあるんですけど」
「えっ、何? 急に」
「俺……来年、部活を続けられそうにないんです」
突然そんなことを言い出したので、かの子は驚いた。
「ど、どうして?」
彼は最近は部活をサボることも少なくなり、他の部員たちともずいぶん打ち解けていた。かの子が志望校に合格したら中学3年間は部活を続けるという賭けをしていたが、もうそんなことしなくても辞めたりしないだろうと思っていたくらいだった。
「春になったら転校するんです」
梶くんはさらりと衝撃的なことを告白した。
「ええっ」
「両親が離婚することになったので。俺は母親の実家がある札幌に引っ越すんです」
離婚。以前会ったことのある梶くんのお母さんの顔が頭に浮かんだ。
「そんな…大変だね……」
かの子は悲しい気持ちになった。だが梶くんは笑みを浮かべた。
「親が離婚するなんて珍しくもないでしょ。大した話でもないですよ」
梶くんに一見、気落ちした様子はなかった。
「もともとうちは、そういう話が何年も前から出てたんです。姉さんのことがあって宙ぶらりんになってたけど、ようやく決着がついたみたいで、一昨日にどうするって訊かれたんで、俺は母さんの方についていくことにしました」
「そうだったの…」
「俺は大きい街の方が好きだし、向こうの家はうちよりずっと立派だし、悪い話じゃないですよ。ただ……」
そこで梶くんは口ごもった。「ただ、何?」とかの子が尋ねても、「いえ、別に」とはぐらかした。
「3学期までは部活は続けます。先輩との賭けは無しになっちゃいますけど、気にしないで受験がんばってください」
「うん、ありがと」
そのとき、「かの子」と後ろから呼びかけられた。振り返ると、会計を済ませた両親がぱんぱんに膨らんだレジ袋を持って立っていた。
「じゃあ、俺もう」
梶くんはかの子に小さくお辞儀した。
「うん。また新学期にね」
「家族そろって食べる最後のおせちです。それじゃ」
梶くんは手に持った袋を掲げてみせてから、かの子の前から去っていった。
「学校の友達?」
父さんが来て尋ねた。かの子は「部活の後輩」と答えた。
「あんたとシンタ、買い物の中に余計なの混ぜてたでしょ」
母さんから文句を言われて、かの子は「えへへ」と笑った。笑った後、自分は恵まれてるなと思った。
夜、家でみんなで静かに年越し蕎麦を食べているとき、かの子は梶くんのことを話した。
「年の暮れに切ない話だね」
そう言って父さんは蕎麦をズズッとすすった。
「その子は前向きみたいだけど、内心ではやっぱり傷ついてるんじゃないかな」
母さんの言葉にかの子も同感だった。彼は心の内をさらけ出さずに強がるタイプだ。ひとつの家族が解体されるのが、大した話じゃないわけがない。
「でもかの子、梶くんを憐れんじゃダメよ。悪い癖がつかないように、励ましてあげて」
母さんが父さんのグラスにビールを注ぎながら言った。
「『僕はとっても可哀想な奴なんだ』って思い始めたら、彼のこれからにとって良くない。中学生には酷なようだけど」
父さんもそう言ってビールをあおった。かの子はうなずいた。
「家族って壊れやすいんだよね。絆が弱いと、意外とあっさりバラバラになっちゃうんだよ」
父さんが眉根を寄せてつぶやいた。
「絆って、どうしたら強くなるんだろう?」
「……色んなものを共有することかな」
母さんが娘の疑問に答えた。
「そうして一体感を感じるたびに強くなる気がするなぁ」
かの子が自分の部屋で勉強しているとき、外から除夜の鐘の音が聞こえてきた。新年だ。
慌ててメッセージを送ろうとしたら、先に向こうから届いた。
『明けましておめでとう。今年もよろしくね』
いつものような飾り気のない言葉が鈴木くんから届いた。
2
今年の元旦は、北陸地方は全域が雲に覆われ、初日の出をまったく拝むことができなかった。
代わりに荻野目家では、ネットに上がったつい1時間前の富士山頂からのご来光の映像をみんなで観た。
お雑煮を食べ、父さんからお年玉をもらった後、一家で近所の神社をお参りしてから、かの子は家族と別れて駅に向かった。
雪は断続的に降り続いていた。電車を待つホームには晴れ着の女性の姿もあった。
6つ先の駅で、乗客はほとんどみんな降りていった。かの子も人の流れに乗って駅を出る。
駅前の大時計の下で、傘を差した鈴木くんが待っていた。いつも通りの、黒いコートに黒い靴で。
「明けましておめでとう、荻野目さん」
「おめでとう、鈴木くん」
鈴木くんが寒さで頬っぺたを真っ赤にしているのが可愛かった。
駅からの人の流れは、そのまま道路の向こうへ続いていた。交差点では警察官が笛を吹いて交通整理をしている。2人も1つの傘に入って横断歩道を渡った。
緩やかな坂道には露店が並んでいて、ちょっとしたお祭りの雰囲気だ。その先に大きな鳥居が見えてきた。ここは学業成就のご利益があることで有名な神社だ。
朝からものすごい人出で、参道は参拝客の傘で埋め尽くされていた。2人も並んで順番を待つ。
「お餅6つも食べちゃった。カロリー控えないとヤバい」
かの子の報告に鈴木くんは微笑みを返した。
「とーしのはーじめの、ためしーとてー」
前を並んでいた家族連れの子供が『一月一日』を歌っていた。
「この歌、好き」
鈴木くんがつぶやいた。「うん。私も」とかの子は言った。
拝殿にたどり着いた2人は、いっしょにお辞儀をした。時々見る鈴木くんのお辞儀はとても綺麗で感心する。手を重ねず、首だけ下げず、自然で丁寧だ。
お参りを終えて、2人は学業成就のお守りと絵馬を買った。絵馬に願い事を書いて奉納すると、これで受験に臨む準備はすっかり整った気がした。
この後は電車で移動して、カラオケボックスで歌い初め。時間を忘れて楽しんでいると、2回目の延長をする前に、かの子の携帯に着信があった。母さんからだった。
「あんた大丈夫なの? 帰って来れる?」
急いで2人は店を出た。母さんが言っていた通り、雪がものすごいことになっていた。
「これ……やばくない?」
道路の向こう側が雪で見えない。2人は帰宅するために駅へと向かった。
駅構内は騒然としていた。雪で電車がストップしてしまい、たくさんの人が動けなくなっていた。
鈴木くんが駅員の人に状況を訊いてきてくれた。除雪作業にあと1時間ほどかかるらしい。
「あと1時間だったら待とうか。どこかで座っていようよ」
鈴木くんの判断にかの子は従った。
ベンチはどこも埋まっていたので、2人は構内の隅っこに座り込んだ。同じように電車を待っている人たちがたくさんいた。
時間が経てば、こういう体験も良い思い出になるのだろう。かの子はそう思った。大人になって、この駅に来るたびに、私は初めて付き合った男の子と元日に雪でここに閉じ込められたんだと思い出すに違いない。
「ちょっこし寒いかな」
鈴木くんがそう言って自分の上着を脱いで肩に掛けてくれた。
「わー、ありがとう」
「女の人は体冷やしちゃいけないってお祖母ちゃんが言ってた」
かの子の携帯に塾から連絡が来て、夕方からの元日特訓は中止になったことが伝えられた。駅の電光掲示板が、葦原市に大雪警報が発令されたことを表示していた。
「昔…もう半世紀以上も前なんだけど」
しばらくして鈴木くんが何か話し始めた。
「北陸地方にとんでもない大雪が降ったんだ。葦原も一か月間、完全に雪に埋まっちゃったんだって」
「へぇ…」
「何メートルも雪が積もって、2階の窓から出入りするくらい。みんなでシャベルで雪を集めて捨てた川が、雪の多さで詰まって流れなくなったらしいよ。電車も動かなくなって人も物も運べなくなって、街は陸の孤島になったんだ」
それから鈴木くんは、当時の人たちが乏しい設備や道具でいかに苦労して大雪から街を救ったかを語った。その話しぶりには、過去の時代を生きた人たちへの畏敬の念があふれていた。
「昔の人はすごかったんだね」
「うん。パワーあるし、勇気あるし、我慢強いよね。今の僕らはいろいろ負けてるなって思う」
「なんで昔の人はそんなに頑張れたのかな?」
「それは……たぶん大人が尊敬されてたからじゃないかな」
鈴木くんがかの子の疑問にそう答えた。
「すごかったから尊敬されてたんじゃなくて、尊敬されてたからすごかったんだと思う。やる気を出させてたっていうか、誇りを持たせてたっていうか…」
鈴木くんの見立ては、かの子も共感できた。今、「大人になりたい」と思う人がいったいどれほどいるだろう。
「ねえ、荻野目さん」
「ん? 何?」
「これ、受け取って欲しいんだ」
鈴木くんはポケットから何かを取り出して、かの子に手渡した。
それは小さな硝子の筒だった。磨り硝子のようになっていて中身は見えない。口には木の栓がしてあった。
「……何、これ?」
「まぁ、お守りみたいなもの。いつもポケットに入れておいて。でね、もし荻野目さんが、これから先、身の危険を感じるような出来事に遭遇したら、その栓を開けてみて」
かの子は鈴木くんの顔を見た。鈴木くんは微笑みを浮かべた。
「うん、分かった。ありがとう」
かの子は何も訊かず、筒をポケットに仕舞った。
1時間弱で見事に電車は動き出した。2人はそれぞれ家へと帰っていった。
数年来のどか雪だった。夜になっても、翌朝になっても、また夜が来ても降り続き、かの子も家族も家に閉じ込められてしまった。
「東京とか太平洋側はそれほど降ってないみたいだね。良かった」
父さんが全国の天気を調べて言った。
「食料買いだめしといて正解だったわー」
母さんは計4回もそう言った。伸太郎は「休み明けなら休校だったかも」と残念がっていた。
葦原市内は人の歩く姿もほとんどなく、静かな通りに除雪車の駆動音だけが響いていた。色を失った街並みに、コンビニの灯りがかまくらのように灯っていた。
かの子は部屋にこもって勉強漬けになった。外に出られない方が集中できて調子がいいくらいだ。
どんなに外が雪に見舞われようとも、私たちの頭上には光が灯り、部屋には暖かな風が吹いている。最近、そんなことが気になるようになった。
少し前のかの子にそれを言ったら「当たり前でしょ」と笑って答えただろう。ええ、そうね。生まれたときからそうだもの。
私たちはたぶん、調子に乗っている。そんなに頑張らなくても、我慢しなくても、何かに夢中になってても、今みたいな暮らしが何となく続いていく。そう思い込んでいる。『アリとキリギリス』のキリギリスみたいに。
もう一度、私たちは頑張れるだろうか。勇気を出せるだろうか。昔の人がそうしたように。
3
雪は3日まで断続的に降り続き、4日にようやく止んだ。学校が始まる1月8日には、街中の雪はおおむね溶けきっていた。
しかし前日の夜から急に風が強まり、朝、学校に行く支度をしているかの子の耳に、出かける気を根こそぎ奪う激しい風鳴りが聞こえてきた。
「雪降ってたときの方がまだましだよ」
伸太郎が窓の外を見ながら言った。かの子も同じ気持ちだった。
「今日は寒いよー。しっかり着込んで行ってね」
母さんがお味噌汁をテーブルに並べながら言った。
駅へ向かう途中、ランドセルの男の子たちが地面の氷を割って遊んでいた。
受験まであとわずか。かの子のクラスにも張り詰めた空気が流れていた。始業式が始まるまでの時間、教室で笑って話している生徒は誰もいなかった。
「中学から先の勉強は、ほとんどの人が使わないことばかりです」
始業式の壇上で校長先生が、先生らしからぬことを口にする一幕があった。
「どういう結果になろうとも、皆さんの価値を否定するものではありません」
先生たちが顔を見合わせているのが見えた。でもその通りだとかの子は思った。みんなが学者になる必要はないし、なってはいけない。
放課後、鈴木くんには先に帰ってもらって、久しぶりに伝統工芸部に顔を出した。
部室には梶くんがいた。昔の先輩が隠していった漫画を読んでいた。
「荻野目先輩。どうしたんですか?」
「お疲れ。転校のこと、これからみんなに話すんでしょ?」
「ええ、まあ。それをわざわざ見に来たんですか?」
「そう。梶くんが涙ながらにみんなに別れを告げるシーンを見物しに来たの」
「泣くわけないでしょ。だらくさい」
梶くんは鼻で笑う。かの子は椅子に座った。窓の外からは風で木々が揺れる音が聞こえた。
「どう? 部活楽しかった?」
「まあまあ。悪くなかったですよ」
「だったら良かった。ところで梶くん、『悪魔は天使の姿を借りて現れる』って言葉、知ってる?」
「?…いいえ」
「私も最近ネットで知ったんだけど、これってけっこう的を得てる思うんだ。嫌なことや辛いことがあったとき、甘い言葉を囁いて寄り添ってくれる人がまるで天使みたいに見えるけど……」
梶くんが漫画から目を上げてかの子を見た。
「それは案外、悪魔が私たちを手懐けようとしてるのかも知れないよ」
かの子が今の梶くんに何を言おうか、冬休みの間ずっと考えて決めたのがこれだった。
しばらく目を合わせた後、梶くんはふっと笑った。
「大丈夫ですよ俺は。自己憐憫って嫌いなんです」
かの子も笑ってうなずいたとき、ドアが開いて森下くんが現れた。
「あれ? 荻野目先輩」
「うん、お疲れ」
その後ろから女子部員2人も入ってきた。
全員そろってから梶くんは、春に転校することをみんなに告げた。3人はショックを隠せない様子だった。
「寂しい…残念だね」
「へこむわー。せっかく仲良くなれたのに」
1年の持田さんと、2年生の天野さんは落胆していた。
「サボり魔がいなくなるから、森下先輩は嬉しいでしょうけど」
「アホ、そんな言い方すんな。悲しいに決まってんだろ」
森下くんが梶くんの胸をグーで叩いて言った。
「みんなで金出し合って、何か餞別買おうか」
「えっ、いいですよそういうの、やらなくて」
「やるってば。水臭いこと言うなよ」
みんなの反応に梶くんが戸惑っているのを、かの子は笑みを浮かべて見ていた。
「梶くんさっき、ちょっこし目がうるうる来てたね」
駅へ向かう途中、かの子が前を歩く梶くんに言った。
「何言ってるんですか? 来てませんよ」
「嘘。私見てたもの。自分で泣くとは思わなかったでしょ?」
かの子はからかうように尋ねた。梶くんは鼻を鳴らして「泣いてません」と言った。
「梶くんにはそういうのが必要だと思うよ。君がいないと悲しいって言われたりする経験が」
「……」
「人間はさ、群れを作らないと生きていけないでしょ? 一人の力じゃ水も電気も食べ物も手に入らない、トイレの後始末もできないんだから、自分の方から社会に歩み寄る努力をしないといけないんだよ」
「…まあ、そうですね」
「私、最近特に感じてるの。きちんと社会に順応できるって凄いことなんだって。みんないっぱい努力して、それができるようになってるんだよ」
わがまま言わず、自分を曲げ……「郷に入っては郷に従え」は外国人だけの話ではないのだ。
「私たちが自分をどう思ってるかなんて世の中にとっては関係ないからね。ニーズに応えて、仲間だと認めてもらわないと。だから転校してもさ、できれば向こうで部活入って、そこで必要とされる人になって欲しいな。うちの部でそうだったみたいにね」
「先輩、俺のことばかり心配してないで、自分のことに集中した方がいいんじゃないですか」
「うん。これから塾で夜まで猛特訓だよ」
駅に着いて、2人はそれぞれ上りと下りのホームに別れた。
かの子が乗る電車はもう間もなくやって来る。とにかく寒いので早く来て欲しかった。向かいのホームに、階段を降りてきた梶くんが現れた。
そのとき、乗車口に立っていたかの子のすぐ横に、ひとりの男性が並んだ。
歳は30前後だろうか。ロングコートにジーンズといういでたちで、無精髭を生やした、ぎょろ目のちょっといかめしい顔つきの人だった。
電車がやって来た。かの子は梶くんに手を振ろうと、向かいのホームに目を向けた。
彼はこちらを見ていた。目を見開き、口を大きく開けて、足元には持っていた鞄が落っこちていた。
様子がおかしい。どうしたのだろう? 電車がホームに滑り込み、梶くんの姿は見えなくなった。
ドアが開き、隣にいたぎょろ目の男性が電車に乗り込んだ。かの子は梶くんの様子が気になったので、少し迷ってから後ろに下がった。時間は充分間に合うので、1本遅らせることにした。
電車が行ってしまって見えるようになった向かいのホームに、梶くんの姿はなかった。鞄だけが置き去りにされている。
と、そのとき、かの子のいるホームの階段を梶くんが駆け下りてきた。
前のめりでかの子の元へやって来ると、行ってしまった電車を呆然と見送った。息が切れ、唇が震えている。
「どうしたの梶くん?」
かの子はいよいよ心配になってきた。
「さっきの奴……」
梶くんはかすれ声でつぶやいた。
「さっきの? 私の隣にいた人?」
かの子が尋ねると、彼はうなずいた。
「姉さんを轢いて逃げた奴だ……」
梶くんの瞳から涙がこぼれた。
冷たい突風が吹き渡り、2人を通り過ぎて、あの電車を追いかけていった。
4
友佳里先輩が知らない車に轢かれて亡くなり、轢いたドライバーは逃走してまだ捕まっていないことは、かの子も知っていた。
しかし弟の梶くんが、友佳里先輩が轢かれた現場に居合わせていて、ドライバーの顔を目撃していたことなんて知らなかった。
「家のすぐ近くの横断歩道だったんです。車のブレーキの音と悲鳴が聞こえて、行ってみたら姉さんが倒れてて、車が逃げて行って……」
友佳里先輩は救急車で病院に運ばれたが、頭を強く打っていて、翌日に亡くなった。一昨年の6月4日のことだ。
警察の現場検証によると、車のスピードの出し過ぎが招いた事故らしい。道路にブレーキ痕がかなりの長さで残っていたそうだ。
「あいつがのうのうと暮らしてる限り、この街から出ていけない……」
駅のホームのベンチに腰かけてうつむいていた梶くんは、今まで聞いたことのないような声色でそうつぶやいていた。
かの子はその日の塾で、なかなか勉強に集中できなかった。頭の中は梶くんのことばかり浮かんできた。
彼は実のお姉さんが殺された場面に居合わせていたのだ。その心の傷はどれほどのものだろう。
梶くんは友佳里先輩が轢かれたとき、走り去る車のナンバープレートを確認していなかったらしい。気が動転していて忘れていたという。
「何百回も悔やみましたよ。いや、何千回も」
警察には目撃したドライバーや車の特徴は伝えた。それでも轢き逃げ犯は捕まることなく、今に至っている。
駅で見たあの男は、当時とは髪型が違っていて、髭も生やしていたが、それでも間違いないと梶くんは断言した。
今日見たことは、警察に話すと彼は言っていた。事件からもうすぐ2年が経とうとしていた。
かの子は思った。轢き逃げというのはどれくらいの確率で犯人が捕まるのだろう? 塾から帰ると、リビングで晩酌中の父さんに訊いてみた。
「死亡事件だと9割以上捕まるらしいよ。日本のお巡りさんは優秀だから」
それを聞いてかの子は驚いた。つまり今のところ、友佳里先輩を轢いた犯人は、幸運な1割以下であるということだ。
「でもそんなに捕まる可能性が高いのに、どうして逃げるのかな? 逃げたらもっと罪が重くなるんでしょ?」
「いちばん考えられるのはこれだね」
父さんはビールの缶を振ってみせた。
「犯人が飲酒運転していたっていうパターン。捕まったら厳罰だもの」
飲酒運転。もしそうだとしたら、犯人は許せない。たとえわざと轢いたのではなくても、完全な犯罪者ではないか。
「さて、そろそろ寝るかな。明日も仕事だ」
父さんはビールを飲み干し、ソファから立ち上がった。この一人掛けの高級ソファは父さん以外が座ったら母さんから怒られる特別な席だ。
かの子は「今の会社、好き?」と尋ねてみた。
父さんは「うん。ウチは大手の系列だから安定してるしね」と答えた。
「偉い人たちが仕事を用意してくれるから働けるし食べていけるんだよな。俺は機械は作れるけど仕事は作れないもん。感謝感謝」
父さんはブルドーザーやショベルカーなどの建設機械の製造と開発をやっている。世界中の土建屋さんが父さんたちが作ったものでビルや道路を造っている。
友達はよく自分のお父さんのことを「鈍い」「臭い」と笑うが、一生懸命働いてる人ほどそうなるとかの子は母さんに教えてもらった。確かに、世の中の男性がみんな繊細でやたら気が効くようになったら、働けなくなる人が続出しそうだ。みんな「家にいたい」と言い出したら社会が崩壊してしまう。
「あんまり旅行とか連れて行けなくて、ごめんな」
「ん? いや、全然いいよ」
「俺たちはさ、この街に仕事を残さないといけないんだよ。稼ぐ手段を将来に残さないとね」
「うん」
「家だけ守ればいいわけじゃないんだ。それは分かってくれ」
「はい」
かの子はもう分かっていた。とっくに母さんから言われていたから。
日本中、世界中で仕事の取り合いという『戦争』が繰り広げられている。負けたら私たちは生きていけなくなる。父さんは戦場で戦う兵士と同じだ。それも退役まで何十年も戦う兵士。そんな人に「あれもやれ」「これもやれ」なんてとても言えない。
「掘っても何も出ない土地に住んでんだから、必死に働かないと良い暮らしできないんだよ。温泉くらいは出るけどな。温泉で疲れ取って、また働いて……宿命だなこれは。おやすみ」
父さんは少しおぼつかない足取りでリビングを出て行った。
かの子は眠る前のベッドの中で、駅で見たあの男の横顔を思い出した。睨むような、そして怯えたような目つきの男だった。
もしあの人が本当に友佳里先輩を死なせたのだとしたら。かの子は怖くなって体をぶるっと震わせた。
翌日、学校で梶くんに会いに行くと、ちゃんと昨日、駅で見たことを警察に伝えたと話してくれた。
「前に刑事の人の名刺をもらっていたんで、電話しました」
「そっか。あのね、うちの父さんに聞いたんだけど、轢き逃げ犯が逮捕される確率って90パーセント以上なんだって。だからこれで捕まるんじゃない?」
かの子がそう言って励ますと、梶くんは2度、3度と小さくうなずいた。
「荻野目先輩、ほんと俺のことはもういいんで、受験に集中してください」
彼の言う通りだった。今のかの子は、梶くんの心配ばかりしているわけにはいかなかった。いつものおせっかいも、この冬は封印だ。
翌週、願書を出して、いよいよ豊川高校を受験することが正式に決まった。興奮、期待、緊張、不安、さまざまな感情が湧き起こってくる。
学校帰り、鈴木くんに先日の父さんとのやり取りを話してみた。鈴木くんは父さんの言葉に何度も深くうなずいていた。
「荻野目さんのお父さんは強い人だね。かっこいいよ」
鈴木くんの賛辞にかの子は笑顔を返した。
「強い人を守らなくちゃね」
鈴木くんのそのひと言を、かの子は家に帰ってお風呂に入っているときに頭の中で再生した。学校で教わるのはいつも「弱い人を守りましょう」「弱い人に優しくしましょう」だから、「強い人を守る」という考え方は新鮮だった。
ほかほかに温まって部屋に戻ると、冬の冷たいベランダに出て、夜の街を見渡した。今は求められていることが多すぎるせいで、強い人や偉い人になりたくないという人が増えている気がする。強くなろう、偉くなろうという人がいなくなったとき、私たちの文明は滅びるのだろう。
今、目に映るこの風景は、どう見たって『自然』で『ありのまま』のものではない。人為的に、不自然に、犠牲者を出しながら、強い人たちが築き、維持しているものだ。その戦いをやめてしまえば、人間が灯した光は夜の闇に呑み込まれてしまうのだ。
私もいつか、光を灯したい。闇に抗する光を1つ増やしたい。かの子はそう思った。
あっという間に1月が過ぎ、2月に入った。
日曜日、かの子は市街地の大型百貨店を訪れていた。ここの7階にある書店に受験用の参考書を買いに来たのだ。
1フロアすべてに本が並んでいる、葦原市内で最も大きな書店だ。参考書の品揃えも群を抜いている。
済んだらリンツのホットショコラを飲んで帰ろう。そう思いながら参考書売り場へ向かっていたかの子だったが、その足が止まった。
はっと息を呑み、慌てて本棚の陰に身を隠した。
心臓の鼓動が早くなっていく。信じられない。まさかこんなところで再び会うなんて。
あの男がいた。1カ月前に駅で見た、友佳里先輩を轢いた犯人だと梶くんが言っていた男が。
男はレジに向かっているところだった。店の籠を手に持っていて、中にはたくさんの本が入っていた。
どうしよう。かの子は混乱していた。警察に知らせようか? しかし電話で通報しても、来る前に逃げられてしまう。
とりあえず近くに行ってみよう。かの子は男の後を追った。向こうは駅で隣に立っていただけのかの子のことなんて、絶対に覚えてないはずだ。自然に振る舞えば、大丈夫。
レジのすぐ前は文庫コーナーだった。かの子はゆっくり歩いていって、本を選ぶふりをしながら、レジの前に立つ男の様子をうかがった。
会計は時間がかかっていた。男が買う本は10冊以上で、仕事に使うのだろうか、大判の専門的な本が多いようだった。
かの子は携帯を取り出し、とりあえず梶くんに知らせることにした。どうしたら良いのか、彼に訊いてみよう。
しかし向こうはまた電源を切っていて繋がらなかった。「あのバカ」とかの子はつぶやいた。
男は本の入った大きな紙袋を両手に受け取ると、店の出口へと歩いていった。
あれだけの大荷物を抱えて、街をうろついたりはしないだろう。おそらく家に帰るのだ。
このまま逃がしてしまうわけにはいかない。かの子は後をつけることにした。身元を突き止めてやる。
5
男は百貨店を出ると、すぐ前の通りでタクシーを探し始めた。
かの子はそれを見て気づいた。彼はもう自分で車を運転していないのだ。
おそらく友佳里先輩を轢いて以来、1度もハンドルを握ってないのだろう。車で来ていたらナンバーを確認できたのに、そうはいかなくなった。
タクシーはなかなかつかまらない。もし彼がタクシーに乗ったら、かの子もすぐ別のタクシーをつかまえて後を追わなくては。しかしその場合、今財布にある分でお金が足りるだろうか?
そんな心配をしていたら、男の目の前をバスが通り過ぎていって、すぐ近くのバス停に止まった。
すると男は、そのバス停へと小走りで向かった。
これはかの子にとっては幸運だった。どうやら目的地へ行ってくれるバスがちょうどやって来たらしい。
ドアが開いて、男は数人といっしょに乗り込んでいった。かの子も走っていって、最後に車内に足を踏み入れた。
男はバスの後ろの方の、2人掛けの席に座って、片方の席に本の紙袋を置いていた。かの子はなるべく離れていたい気持ちが働いて、いちばん前の1人掛けの席に座った。
しかし男より前に座ったことで、バスが動き出してからもずっと後ろから見られてるような気がして落ち着かなかった。
だいじょうぶ。向こうはこちらを知らない。自然に自然に。何度も自分に言い聞かせた。
窓越しに見る空は、相変わらずの鈍色だった。今年に入ってからずっと、青空を見ていない。
バスは市街地を離れ、景色からはどんどん建物が減っていった。
やがて海沿いの道路へ出た。かの子が座っている側の窓に、波の高い日本海が広がった。
9つのバス停を過ぎても、男は降りなかった。降りる人が押すブザーが鳴るたびに、かの子は身を強ばらせた。次こそあの男が…と身構えていても、別の人ばかりが降りていく。いちばん前に座っているから、誰が押したのか確認できないのだ。
しかし10番目のバス停に止まったとき、後ろから重い靴音と、がさがさという紙袋の鳴る音が近づいてきた。
もしかして。かの子がそう思った瞬間、すぐ横をあの男が通り過ぎていった。
男は精算機の前で紙袋を足元に置くと、料金を払い、また紙袋を持ってバスから降りていった。
かの子も席を立った。いつも通学に使っているICカードを精算機でスキャンすると、チャージが足りなかった。不足分を払おうと財布の小銭入れを開けると、硬貨が一円玉しかない。
イラつく気持ちを抑え、急いで千円札を出して両替機で崩す。早くしないと男が行ってしまう。料金を払い、残った小銭を財布に仕舞おうとしたら、焦っていたせいだろう、何枚が落してしまった。
「あっ」
慌てて落ちた小銭を拾い集める。100円玉が1枚足りない。いっしょに落としたはずなのに、見当たらない。
かの子は100円玉をあきらめて、バスを降りた。背後でドアが閉まり、バスが走り出した。
そこは目の前に海が広がる静かな住宅地だった。初めて来た場所だ。バス停には『芳井町』と書かれている。道路沿いにはコンビニが1軒あった。
先に降りたあの男は……いなかった。かの子がもたもたしている間に、どこかへ姿を消してしまっていた。
「しまった。どうしよう」
そうつぶやいたかの子の目の前を、雪がひとひら、風に舞いながら通り過ぎていった。
かの子は当てどなく、住宅地の中を歩いていった。誰かいたら、あの男の家の場所を尋ねてみよう。
けっこう立派な家が多い、高級住宅街という趣きだった。公園では寒い中、子供たちが走り回って遊んでいる。雪は傘がなくても困らない程度の、ちらちら舞い落ちてくる降り方だった。
そのとき前から、犬を散歩させているおじいさんが歩いてきた。かの子はその人に声をかけた。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょう?」
おじいさんは足を止めてくれた。柴犬がかの子の足元に寄ってきて匂いを嗅ぐ。
「この辺に住んでいる男の人を探してるんですが。髭を生やして、目が大きくて、髪は短くて…」
するとおじいさんは「ああ」と声をあげた。
「小池龍也さんかな? あんたさん、あの人のファンなの?」
小池龍也。それがあの男の名前なのだろうか? それにファンとはどういう意味だろう?
「訪ねてもサインはくれないと思うよ。気難しい人みたいだし」
「その人って有名な人なんですか?」
「あれ? 知らないの? 小説家だよ」
小説家。あの人が。でも言われてみれば、普通の会社員という感じではない。
「スリラーを書いてて、けっこう売れっ子みたいだよ。顔は隠してやってるらしいけど」
「そうなんですか…」
葦原市にそんな人が住んでいるなんて知らなかった。本を大量に買っていたのも、資料に使うためなのだろう。
と、そのときかの子の頭の中にひらめくものがあった。友佳里先輩を車で轢いたあの男が、罪が重くなるのを承知で逃げた理由。それは有名人だからなのかも知れない。
女の子を轢き殺したなんてことが報じられたら、人気商売にとっては計り知れないダメージだ。売れっ子ならなおさら騒がれて、汚名が付いて回る。
おじいさんは小池龍也の家の場所を教えてくれた。かの子は礼を言って、そこへ行ってみた。
住宅街のいちばん奥に、1軒だけ離れて、まだ建って数年くらいに見える新しい屋敷があった。表札は出ていないが、おじいさんが言っていた通り、高い壁で囲われた黒い建物だから間違いない。
小池龍也はここに1人で暮らしているらしい。あの若さでこれだけ立派な家に住めるのだから、確かに人気作家なのだろう。
住所を突き止めることができたので、かの子はもう帰ることにした。梶くんに教えてあげよう。いや、それとも警察に……
「何か用か」
突然、背後から声がかかった。振り返ると、目の前に小池龍也が立っていた。
6
かの子は身を凍りつかせた。あまりのことに、口もきけなかった。
「お前、さっきバスに乗ってたな。俺に用か?」
小池龍也はまだ両手に紙袋を持っていた。それと、右手の方にはレジ袋もぶら下がっていた。
もう家に帰ったのかと思っていた。しかしそうではなく、彼はバス停の近くのコンビニに寄っていたのだ。
「あ、あ……」
かの子はパニックに陥っていた。「ファンです」と嘘をつこうか? しかしこの人の作品のタイトルをひとつも知らない。でもそれ以外にごまかす方法がない。
「お前……」
突然、小池龍也は前に詰め寄ってきた。かの子は後ずさって、背中に家の壁が当たった。
「あのときのガキの知り合いだろ」
小池龍也が震える声で言った。かの子は心臓が止まりそうになった。
友佳里先輩のことだ。感づかれた。それも瞬く間に。どうして?
きっと彼は、2年近く経った今も、ずっと怯えていたのだろう。自分の犯した罪が、いつか暴かれるのではないかという恐怖に。
かの子は恐ろしさのあまり、思わず首を横に振った。
しかしこれがまずかった。今否定するのは、轢き逃げ事件のことを知っていると答えるのと同じだった。
小池龍也の手から、紙袋とコンビニの袋が落ちた。アスファルトに本が散乱し、日本酒の瓶が割れて中身があふれ出した。
「こっち来い」
小池龍也がかの子の腕をつかもうとした。かの子はとっさにそれをかいくぐり、走り出した。
「待てっ」
小池龍也が追いかけてくる。かの子は全力で走った。捕まったら、殺される。
かの子が走り出した方向は、元来た道ではなく、住宅街のさらに奥だった。逆の方に走って誰かに助けを求めたかったが、とっさにこちら側に逃げてしまったのだ。
少し行くと、舗装された道路がなくなり、木々の間に伸びる山道になった。こうなったら自分の力で逃げ切るしかない。かの子は山道を駆け登っていった。
「おい、止まれっ」
背後から聞こえる小池龍也の声が、さっきより遠ざかっていた。かの子の方が速い。こっちはニューバランス、向こうは重そうな革靴だった。
もっともっと距離を離したら、携帯で警察に助けを呼ぼう。かの子は精いっぱい走り続けた。しかし彼女に待ち受けていたのは、絶望的な光景だった。
突然、道が途切れた。ごうごうと音をたてて流れる川が眼下を横切り、道を分断させていた。
川幅は5メートルくらいだろう。問題は距離ではなく、その速い流れだった。とても泳いで渡れる川ではない。
「飛び込むなよ。死ぬぞ」
後ろから小池龍也が現れた。かの子は川岸ぎりぎりまで後ずさった。雪の降り方が激しくなってきていた。
「いっしょに俺の家に来い。話をするだけだ」
小池龍也は息を切らしながら、少し離れたところから言った。下手に近づくとかの子が川に飛び込むと思っているのだろう。
「言っとくが、携帯いじる暇なんてやらねえぞ」
かの子は恐ろしくて足が震え出した。話をするだけと言ってはいるが、ついて行ったら殺されるかも知れない。
「鈴木くん……」
かの子は思わずつぶやいた。助けて、鈴木くん。
そのとき、かの子は思い出した。元日に鈴木くんと過ごしたときのことを。
「身の危険を感じるような出来事に遭遇したら……」
上着のポケットに手を突っ込んで、あのときもらった硝子の筒を取り出した。震える指で、栓をつまむ。
「おい、何だそれは」
小池龍也がこちらへ駆け出してきたのと同時に、栓が開いた。
その瞬間、硝子の筒の口から、猛烈な勢いで白い煙が吹き出した。かの子は悲鳴をあげた。
小池龍也は慌てて立ち止まり、唖然としてそれを見つめた。
小さな筒の中から、考えられないほどの煙が出てくる。まるで消化器を噴射したようだった。
煙は風に吹き流されることなく、かの子の目の前で渦を巻き、巨大なかたまりになっていった。まるで意思を持った生き物のようだ。
硝子の筒から煙が出なくなった頃、その場に滞留する煙は何かにかたちを変えていった。それがしだいに4本足の動物だと分かるようになった。
「う、ああ……」
小池龍也がうめき声をあげる。それはもはやはっきりとかたちを持っていた。
犬……いや、狼だ。巨大な純白の狼だった。雪が舞う中に現れたその凛々しく荘厳な姿に、かの子は一瞬、心を奪われた。
と、純白の狼は空に向かって、とてつもない雄叫びをあげた。
ウォォォォォォォォォォォォォォォォォォ
その声量は空気を震わせ、かの子の全身を振動させた。葦原市内では、どこかから聞こえた雄叫びに、多くの人々が空を見上げた。
かの子はたまらず手で両耳をふさぐ。持っていた硝子の筒が地面に落ち、転がって川に入った。
小池龍也も同じように耳を塞ぎ、その場に尻餅をついた。何か叫んでいるが、狼の雄叫びに声がかき消されて、口をぱくぱく動かしているようにしか見えない。
かの子はその隙をついて駆け出した。座り込んだ小池龍也の横を駆け抜け、もと来た道を引き返していった。それを見た小池龍也が慌てて立ち上がる。狼はまだ雄叫びをあげていた。
かの子は大急ぎで山道を下っていった。今度こそどこかの家に飛び込んで、助けを求めよう。
こちらの方が足が速いのは間違いないのだ。絶対に逃げ切れる。
だがかの子は慣れない山道の下り坂で急ぎすぎた。木の根がむき出しになっているところにつまづいて、転んでしまった。
悲鳴をあげて、地面に転がる。勢いがついていたせいで、体が3回も回転した。
「痛……」
服は汚れ、全身あちこちに痛みがはしった。懸命に立ち上がり、振り向くと、もうそこに小池龍也が迫っていた。
かの子は駆け出したが、小池龍也が手を伸ばすのが早かった。着ていたコートのフードをつかまれ、力任せに引っぱられた。
「わあっ」
かの子は今度は後ろ向きに倒れこんだ。小池龍也が肩で息をしながらかの子を見下ろした。
「……手こずらせやがって」
憎々しげな声でつぶやくと、かの子の腕をつかんで、無理やり立ち上がらせた。腕に痛みがはしってかの子は声をあげた。
「おい、何なんだ今のおかしな煙は?」
小池龍也が顔を近づけて尋ねた。かの子は怯まずに彼をにらむと、逆に訊き返した。
「どうして…友佳里先輩を…助けてくれなかったんですか?」
すると小池龍也は鼻面を殴られたように身を引いた。目が泳ぎ、唇は震えている。
「お前らに分かるかよ……」
絞り出すような声でつぶやくと、かの子に向かって大声で言った。
「俺はなあ、ガキの頃からずっと独りで必死に生きてきて、ようやく今の成功をつかんだんだ。誰からの助けも借りずにな。それを今さら捨てられるかよ」
小池龍也はかの子の腕を引っぱって、山道を下ろうとした。家へ向かうつもりだ。
かの子は腕を振りほどこうともがいた。しかし腕力の差は歴然だった。ずるずると引きずられていく。
そのとき、かの子をつかんだ小池龍也の腕に、黒い何かが飛んできて刺さった。
「うぁぁっ」
悲鳴をあげてかの子の腕を離した。かの子はまた後ろ向きに倒れた。
「な、何だよこれ…」
小池龍也は呆然と、自分の腕に突き刺さったものを見ていた。それは奇妙なかたちの小さな刃物だった。
「うがぁっ」
また小池龍也が獣のような絶叫をあげた。今度は両足に同じ刃物が刺さっていた。
小池龍也は前のめりにその場に倒れこんだ。かの子はわけが分からずそれを見ていた。
周りを見渡す。山林に静かに雪が舞っているだけだった。いつの間にか狼の声も止んでいた。
「鈴木くん……?」
そう呼びかけても、返事はなかった。
かの子はよろめきながら立ち上がって、山道を下っていった。小池龍也は突っ伏したまま、痛みに耐えるうめき声をあげていた。
かの子は走った。山道を下り、本が散乱している横を通り過ぎ、途中で何度も振り返って走りつづけ、バス停の前まで来た。
携帯を取り出し、震える指で110番を押す。通話が始まると、かの子は一気にまくしたてた。
「あ、あの、もしもし、2年前に、梶友佳里という中学生の女の子が轢き逃げにあって亡くなった事件があったと思うんですが、私、轢いた犯人を知ってます。はい、芳井町に住んでいる小池龍也という人です。はい。梶友佳里さんです。小池龍也。こ、い、け、りゅ、う、や。芳井町です。はい、間違いないです。すぐに調べてください。お願いします」
かの子は名前も告げずに通話を切ると、とたんに全身から力が抜けて、その場にへたり込んだ。
護岸に打ち寄せる波の音だけが辺りに響いていた。
7
翌週、小池龍也が逮捕されたことが全国で報じられた。
報道によると、彼は現在31歳で、作家デビューしたのは4年前らしい。2作目の小説がベストセラーになり、一躍人気作家の仲間入りを果たした。有名になってもずっと名前以外のプロフィールは公表せず、取材もほとんど受けず、顔も見せずに活動していたそうだ。
自宅のガレージには、友佳里先輩を轢いた車が、フロント部分のへこみもそのままに放置されていたらしい。
小池龍也はかの子が初めて見るタイプの大人だった。父さんや学校の先生とは顔つきや雰囲気がまるで違う。最初は何が違うのか上手く言い表せられなかったが、あるとき、ふとひらめいた言葉があった。
それは『我』だ。小池龍也から強烈に感じ、父さんからは感じないもの、それは自我の異様な強さと大きさだったのではないだろうか。
小池龍也は大切なのは自分だけだと思っていそうだ。「ガキの頃からずっと独りで生きてきた」という彼の言葉が脳裏に甦る。俺は辛かったんだ、俺は可哀想なんだ、俺は、俺は、俺は……
比べて父さんは以前、「自分のことがどんどんどうでも良くなってるよ」と言っていた。「自分のために生きてる奴はすぐ分かる。幼いからね」
燃えたぎるような『我』が小池龍也の創作の原動力になっていた面もあるのかも知れない。だが彼がそれで成功できたのは様々な条件がそろった上での幸運であって、いつまでも続くものでもないだろう。
彼は事故を起こしたときも一人で運転していたそうだ。もし隣に自分よりも大切と思える人を乗せていたら、スピードを出し過ぎず、友佳里先輩を轢かなくて済んだのかも知れない。
つかんだ成功は全て彼の手からこぼれ落ちてしまった。当然の報いだ。ずっと刑務所の中にいて欲しいとかの子は思った。
梶くんは学校に来なかった。家に報道陣が押しかけたようで、インターホン越しにお父さんが取材に応えている様子が、葦原のローカル番組でも流れていた。
「家を囲まれましたよ。もういなくなりましたけど」
電話の向こうの梶くんはうんざり声だった。
かの子は自分が小池龍也の住所を突き止め、警察に通報したことを、梶くんに話さなかった。恩を着せるようなことになってはいけないと思ったのだ。
「でも、捕まってよかったね」
かの子がそう言うと、少し間があってから、「……はい」という返事があった。
「明日、お墓にお参りに行きます」
受験を直前にひかえたかの子だったが、恐ろしい目にあったせいか、しばらく勉強が手につかなくなってしまった。
精神的に落ち着かず、夜も寝付きが悪い。たまにあの山道での恐怖が頭の中によみがえって、何も考えられなくなってしまうほどだった。
しかしある日、学校が終わって塾へ向かう電車の中で、ふとコートのポケットに手を突っ込むと、あの硝子の筒が入っているのに気づいた。ちゃんと栓もしてあった。
それ以来、不思議と気持ちが安定して、少しずつ勉強に集中できるようになった。小池龍也のことを思い出すことはしだいに減っていった。
寒さは相変わらず厳しいが、少しずつ日暮れが遅くなっていた。荻野目家では早くもふきのとうの天ぷらが食卓にのぼった。
夕食の席で、かの子は将来もずっと地元で暮らしたい気持ちであることを話した。それを聞いた両親はやっぱり嬉しそうだった。
「この土地に根を張るのね。いいと思うよ」
母さんのその言葉がかの子は気に入った。そうだ、私は葦原に根を張るのだ。ふるさとからパワーをもらって、立派な実を実らせるのだ。
「どこで暮らすにせよ、君に相応しい人生が待ってるよ。自分次第さ」
この春から会社で課長になる父さん。「課長って何やんの?」と伸太郎に訊かれると「嫌われ役だよ」と答えていた。
豊川高校の入試を明日にひかえた夜、かの子は勉強はほどほどにして、よく眠れるようリラックスすることに努めた。
カフェインは摂らず、温泉の素を入れたお風呂にじっくり浸かって、母さんから教わったストレッチをやった。
布団に入ったかの子は窓の外の風の音に耳を澄ました。明日も寒い日になるようだ。三度目の寝返りの後、眠りがやって来た。
翌朝、母さんはいつも通りかの子を家から送り出してくれた。朝食の献立もふだんと同じだった。
空は曇っているが、雪はまだ落ちてきていなかった。かの子は電車に乗って、初めて降りる駅で降りた。
「おはよう、荻野目さん」
鈴木くんが駅の前で待っていた。2人の周りには同じ受験生がたくさんいた。
「おはよう、鈴木くん」
「昨日は眠れた?」
「うん、ばっちり。鈴木くんは?」
「眠れたよ。アラームなくても起きれたくらい」
豊川高校は駅から少し歩いた場所にあった。やがて見えてきた歴史ある古い校舎に、市内でトップレベルの学力の中学生たちが流れ込んでいく。
「何だか荻野目さん、今日は堂々としてるね」
鈴木くんがかの子を見て言った。彼の前ではいつも「どうしよう」「自信ない」と弱音を吐いてばかりだったかの子とは様子が違った。表情は明るく、足取りも力強い。
「あのね、昨夜、夢の中に友佳里先輩が出てきたんだ」
「ああ、亡くなった…」
「うん。私の卒業式の日に、伝統工芸部の部室になぜか3年生のままの先輩がいて、卒業おめでとうって言ってもらったんだ」
夢の中とは言え、久しぶりに会えて嬉しかった。そのときかの子は、言えないままだった「ありがとうございました」を言うことができた。
「私こそ、ありがとう」
先輩は笑顔でそう言ってくれた。
友佳里先輩の人生はたった15年で途切れてしまった。かの子の人生はこれからも続いていく。
だから先輩の分も精いっぱい、できるだけのことをやっていこうと思った。今のかの子の目線は、これから先のずっと遠くに向けられていた。
「頑張ろうね、鈴木くん」
「うん。頑張ろう」
午前9時。試験官の「では始めてください」という声とともに、教室中でテスト用紙をめくる音が鳴った。
窓の外はまた雪が舞い落ちてきていた。
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