第3話

其の三









夕焼けに長く伸びた影を連れて、男の子が走っていた。



足下は裸足にサンダル。踏み出すたびにぱっかぱっかと音が鳴る。



路地を抜けると、目の前に河川敷が広がった。強い風が男の子の髪を横に吹き流す。葦原市街を横断する幸野川が右手から流れていた。



下流の方向から、伸びやかなラッパの音が聞こえた。川沿いの道路をリヤカーが夕日の方角へと進んでいる。のぼりには『手作りとうふ』と書かれていた。



男の子はそれを追いかけて行って、リヤカーを引っ張る人に声をかけた。



「おじさん、豆腐ください」



男の子は母さんに頼まれて、豆腐を買いに来たのだった。母さんより速く走れるようになった頃から、たまにやって来る豆腐屋を追いかけるのは彼の仕事になった。



「今日は湯豆腐?」



おじさんが尋ねた。男の子はうなずいた。



「うん。もう寒いから」



男の子はビニール袋に入れた豆腐を受け取った。代わりにお金をおじさんの水仕事で荒れた手に渡した。



買った豆腐を手に提げて、家へと引き返す。幸野川に架かる鉄橋の上を電車が通り過ぎていった。



10月中旬の風は冷たく、サンダル履きの足がもう冷え始めていた。夏の暑さに慣れていた体が、寒さに戸惑っているように感じる。



そのとき前から、学生服を着たメガネの少年がひとり歩いてきた。背丈からして中学生だろうか。



あれ? と男の子は思った。この近所では初めて見る顔だった。見慣れない制服を着ている。離れた区から来ているのも知れない。



「お使い?」



横を通り過ぎようとしたとき、メガネの少年が男の子に声をかけてきた。男の子は立ち止まった。



「この辺は豆腐屋さんが回ってるんだね。おいしいの?」



彼がそう尋ねたので、男の子はちょっと緊張しながら「うん」とうなずいた。この辺りでは評判の豆腐で、男の子は物心ついた頃から食べている。



メガネの少年は「そう」と微笑みを浮かべて、歩いて行ってしまった。男の子はその後ろ姿を見送った。



家に帰ると、『俵』という表札がかけられた門柱の上に、茶色い猫が座っていた。彼の家で飼っている猫だった。



「ただいま、ソージ」



男の子のあいさつにソージはあくびで返した。









俵家の今日の晩ご飯は、湯豆腐に焼き秋刀魚、野菜の煮物、庭で採れた茄子の味噌炒めだった。



「あー、幸せ。秋っていいわー」



湯豆腐に舌鼓を打ちながら、母さんが言った。食べることが何より好きで結婚前は定食屋で働いてた母さんにとって、秋は毎年楽しみにしている季節だった。父さんは秋刀魚のワタを突っつきながら日本酒を呑んでいる。



「幸せぇー」



母さんの口真似をしたのは妹の桃香だった。桃香という名前を考えたのは母さんで、娘の名前にも食べ物が入っている。今はお箸に挑戦中だが、まだまだ目が離せない。



男の子の名前は俵康平。区役所に勤める父さんが付けてくれた名前だ。「健康で平穏な人生が歩めるように」という願いがこめられている。



「良い名前だな。うらやましいよ」



同じ学校に通う親友の岩里大成はそう言っていたものだった。



「俺の名前なんて親父の期待が込められ過ぎててプレッシャーが半端ないもん」



大成のお父さんは市内に7店舗を展開しているスーパーマーケット『サンジー』を経営している。大成は跡取りとして期待されているのだ。



「まぁ、やるけどね。300人の生活面倒見るなんて誰でもできるわけじゃないもんな」



彼は今、柔道場に通っているが、その理由が体を大きくするためだという。



「親分はガタイが立派じゃないとダメなんだ。『大黒柱』って言うだろ?」



テレビが東北の小学校の校庭に熊が現れたというニュースを報じていた。熊は駆けつけた猟師の人たちに撃ち殺されたらしい。



「康平はこれ、どう思う?」



父さんが不意にそんな問いを投げかけてきた。康平は少し言葉に詰まってから、「…しょうがないよね」と答えた。



「猛獣だし。猫とは違うもん」



「そうだね。違うものを同じに考えちゃいけない。父さんもそう思う」



テレビは続いて、地方局のニュースを流し始めた。今月になって葦原市内で3件起こっている不審火騒ぎがまた起きたという。しかも俵家が暮らしている末広で1件、隣の城東で2件と、いずれもこの界隈なのだ。



「嫌ねぇ、早く捕まえて欲しい」



母さんがそう言うと、桃香が「嫌ねー」とまた口真似した。



食事が終わると、康平は桃香といっしょに絵を描いて遊んだ。2年前にきょうだいができたときは本当に嬉しかった。妹を守る頼もしいお兄ちゃんになろうと思ったものだ。



桃香はクレヨンでソージの絵を描いていた。できあがった絵をソージに見せてあげると、びっくりしたようにひょいっと逃げてしまった。



その日の夜、康平が布団に入ったとき、ソージが中に潜り込んできた。



「もう夜は寒いもんな。いっしょに寝ようか」



ソージは去年の暮れ、まだ子猫の頃に母さんが拾ってきた野良猫だった。風邪をひいていたので獣医に連れて行き、そのまま飼うことになってしまった。最初の頃は小さくて可愛かったのに、最近ではすっかり大柄な猫になって態度も太々しくなった。



ソージは康平の腕の中で丸くなって眠った。窓の外からは鈴虫の鳴き声が聞こえた。









翌週。康平と親友の大成が学校から帰っている途中のことだった。2人が歩く夕方の商店街は、買い物をする人たちでにぎわっていた。



「ええっ、マジで?」



「うん。二軍でもあんまり打ててなかったから、仕方ないんじゃね」



2人の話題は、今年の日本一がすでに決まったプロ野球だった。ひいきの巨人から好きな選手が戦力外になったと大成から知らされた。



毎年この時期になると、何億円もの年俸で来季の契約を結ぶ選手がいる一方で、活躍できずチームを去る選手が発表される。野球ファンの秋の風物詩だ。



「寂しい。キツいなぁ…」



「でも当たり前と言や、当たり前だよな。いい選手を大事にして、ダメだった選手には厳しくしないと、誰も必死に練習しないもん」



大成の言葉に康平は「そうな…」と返した。格差がないと選手は競争しなくなる。すると他のチームに負けてしまう。



「もし給料がみんな平等、試合に出られる回数もみんな平等だったら、絶対優勝できないだろ?」



「たしかに」



康平は笑った。そんなチームは最下位決定だ。観る人もいなくなって球団が潰れるだろう。同じポジションの選手が故障したら喜ぶくらいの競争意識がないとチームは強くならないし、お客さんも集まらないのだ。



「でもさ、不細工な選手でも何億も貰ってたらアイドルと結婚できるの、夢あるよな」



「ま、男は稼いでナンボってことよ…」



2人が商店街のアーケードを抜けたとき、康平は前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。



「あっ、あのときの…」



先週、豆腐を買った帰りに康平に声をかけてきたメガネの少年と思われた。今日も制服を着て、学校の鞄を肩に提げている。



すると大成も「あの人…」とつぶやいた。



「この間も見たぜ。この辺じゃ見ない制服だよな。康平も知ってるのかよ?」



「うん。前に一度な」



少年は住宅地の路地を折れて行った。大成はそれを丸くて大きな目で睨みつけていた。太い眉がつり上がっている。



「何か怪しくないか?」



「えっ、どうして?」



「家に帰るんじゃないみたいだもの。この間見たときは、全然違うとこを歩いてた」



「おいね。俺のときもそうだった」



康平は大成が何を言いたいのか分からなかった。大成は康平に顔を近づけて言った。



「ほら、最近ここらで放火が連続して起こってるの、知ってるだろ?」



「ああ、まさか…」



ようやく大成の考えていることが分かって、康平は笑った。



「あの人が犯人で、火をつける場所を探してるってこと?」



「いや、たまにあるんだって。少年が放火で逮捕って」



「うーん…」



そういう事件を起こす若者がいることは康平も否定しない。だがあの人がそんなことをするとは思えなかった。



「よし、じゃあ、はっきりさせてやる」



そう言って大成は駆け出した。メガネの少年を追って路地へ入っていく。「ちょっ、待ってよ」と康平も慌てて後を追った。



「すみません、ちょっこしいいですか?」



大成は少年に声をかけていた。追いついてきた康平は「やめなよ」と大成の服の袖を引っ張った。



街灯の光の下、少年が振り返った。2人の小学生を見て、メガネの奥の目をぱちくりさせていた。



「何? 僕に用?」



彼はそう問い返すと、康平に目をとめて、「ああ、あのときの豆腐の…」と言った。



「ここで何をしてるんですか?」



大成は尋ねた。するとメガネの少年は「えっ」と少し戸惑ったような声になった。



「何って……別に。散歩かな」



「散歩? もう暗くなってるのに?」



「うん。いけない?」



彼はそう言って微笑んだ。適当に答えてごまかそうとしているようだが、表情には余裕があった。



「この近所に住んでる人ですか?」



「いいや、僕は猪戸の方だけど」



「遠いですね。どうして末広で散歩してるんですか?」



大成は追求の手を緩めない。メガネの少年は答えられずに苦笑いするばかりだった。



「もしかして僕、怪しい人だと思われてる?」



可笑しそうに言う。気分を害しているわけではなさそうだ。



「最近、この辺りで放火が続けて起こってるんです」



大成が核心をついた。すると彼は声をあげて笑った。



「そっか…僕が疑われちゃったか…」



いったい何がそんなに面白いのだろう? 思いがけない反応に、大成の方が動揺していた。



「お、大人の人を呼んで来てもいいですか?」



「え、それは困るな…」



「どうして困るんですか? 後ろめたいことがあるんですか?」



大成から問い詰められて、メガネの少年は困った様子で「うーん」とうなった。康平は改めて、この人は放火魔なんかではないと思った。



「でもさ、君たち偉いね。怪しいと思った人を見て見ぬふりしないで、声をかけるなんて、勇気があるし、立派だと思うよ」



メガネの少年は2人を誉めた。「……どうも」と大成が言った。



「でも本当に危ない人もいるから、これからは大人の男の人を呼んでからやってね。さよなら」



そう言い残して彼は突然2人に背を向けて走り出した。康平と大成は「あっ」と声をあげた。



「ちょ、ま、待って」



大成もそれを追いかけて走り出した。康平も後につづいた。



メガネの少年はしばらく走って、路地を曲がった。大成、少し遅れて康平も同じように曲がった。



そのとき急に、前を走っていた大成が立ち止まった。



「痛っ」



後ろから来た康平は、勢い余って大成の背中にぶつかった。



「あれ?」



大成がつぶやいた。康平も大成の後ろから首を伸ばして前を見た。



制服の少年は消えていた。忽然と、音もなく。



真っすぐ続く道のどこにも姿がない。ただ街灯だけが白い光をアスファルトに落としていた。



「ど、どこ行っちゃったんだ?」



「うん、この道に曲がったはずなのに」



2人はしばらく辺りを捜して回ったが、やはりいなかった。康平はだんだん怖くなってきた。



「あの人、まさか幽霊?」



「馬鹿言うなよ。あんなはっきりしゃべる幽霊、いるわけねーよ」



狐につままれたよう、とはこのことだった。2人は奇妙な夢でも見ているような、不思議な気分を抱えたまま、仕方なく家へと帰っていった。
















今年は関東と近畿で、木枯らし一号が同じ日に吹いた。街中のドリンクの自販機がホットに切り替わっていく。



ある土曜日、康平はひとりで近所の大学病院に来ていた。小学校の眼科検診に引っかかった康平は、この病院に通って目薬をもらっていた。



眼科で診察を受けた後、受付で受診料を払おうとしたとき、ポケットの中にあるはずの財布がないことに気づいた。



「あっ、あれ?」



落としてしまったのだろうか? 診察券を出したときは持っていたから、病院の中で失くしたのだ。



慌てて眼科へ戻って探してもらったが、見当たらないという。焦りを感じながらロビーへ戻ると、受付の前に康平の財布を持った女の子が立っていた。



「良かったね。この子が拾って届けてくれたのよ」



おそらく康平と同じくらいの歳だろう。卵型の顔に、ひよこのようにつぶらで小さな目。康平を見て微笑みを浮かべた。



「これ、階段に落ちてたよ」



「ありがとう。色々入ってたから助かった」



康平は財布を受け取った。



「巨人ファン?」



女の子が財布を指差して尋ねた。康平の財布はジャイアンツのロゴが入っているものだった。



「うん。野球知ってる?」



「日本シリーズ観たよ。今年は惜しかったね」



「そうそう。あと一本が出なかったんだよなぁ」



そのときナースの人が「日野さーん、日野あゆみさーん」と名前を呼んだ。



「呼ばれてる。じゃあね」



女の子は康平に手を振ると、ナースといっしょに2階へ上がってしまった。彼女の話し方には葦原独特の訛りがなかった。



1時間後、女の子が1階に降りてきた。康平は待合室のベンチから立ち上がった。



「あれ? 待ってたの?」



女の子は驚いていた。康平は照れ笑いしながら、彼女に歩み寄った。



「良かったら、お礼に何か奢らせてくれない? 迷惑だったら帰るけど…」



康平は言った。彼女は笑って「うん、いいよ」と言った。



「俺、俵康平っていうんだ。『康平』でいいよ」









キャンパス内には本屋やファストフード店が入っている建物もある。2人はそこへ行くことにした。



日野さんは東京の子だった。葦原に来たのは、半月ほど前だそうだ。小さい頃から腎臓が弱くて、月に何度か病院に通っているらしい。



「何年生?」



「6年」



「あ、じゃあ俺より1年上か。東京って行ったことないけど、楽しそうだよね。がんこ都会だし」



康平がそう言うと、日野さんは「うん」とうなずいた。



「でも葦原もいいとこだね。のんびりしてるけど賑やかなところもあって、すごく快適」



2人はケンタッキーに入って何か食べることにした。「外で食べない?」という康平の提案で、ハンバーガーと飲み物をテイクアウトした。



「いただきまぁす」



秋晴れの下、ベンチに並んで座ってハンバーガーを食べた。グラウンドでは大学生たちがサッカーをしていた。



2人はプロ野球の話題で盛り上がった。康平の身近に野球の話ができる女の子はいないので新鮮で楽しかった。



だがしばらくして、日野さんがぽつりと言った。



「私ね、東京で不登校になって、学校休んでるんだ」



康平はハンバーガーをほお張ったまま日野さんを見た。



「春からずっと。葦原にいるのも、学校に許可もらって、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家にしばらく泊めてもらってるだけなの」



康平は口の中身を飲み込んでから、「そうなんだ」と言った。



「学校でなにか嫌なことでもあったの?」



康平が尋ねると、日野さんは首を横に振った。



「もともと体育が苦手なのもあって、学校はあんまり好きじゃなかったけど、5年生までは毎日ちゃんと通ってたんだ。でも6年生になった頃からだんだん休みがちになって、5月からは一日も行ってない……もう今更クラスメートに合わす顔もないし……」



「お父さんお母さんは何て言ってるの?」



「『無理しなくていい』って言ってくれてるけど…」



日野さんはハンバーガーを一口しか食べてなかった。康平が「冷めちゃうよ」と言うと、「うん」と言って口に運んだ。



「葦原に来たのは、気分転換?」



「そんな感じ。お祖父ちゃんたちから、しばらく環境変えてみたらって言われて」



ハンバーガーを食べ終えると、康平は2人分のゴミを店に捨てに行った。戻って来ると、日野さんが空を見上げて立っていた。



康平も空を見た。はるか高いところを、鳥の群れがV字に並んで飛んでいた。南の方角へと向かっている。



「暖かいところへ移動してるんだね」



康平は言った。日野さんは南の空へ消えていく渡り鳥たちをじっと見守っていた。



「私は名前が『あゆみ』だから、あんなの憧れるな」



しばらくして彼女はそうつぶやいた。
















明くる日曜日の午後、康平は大成と遊ぶ約束をしていたので、自転車で大成の家へ向かった。



康平が来たとき、すでに外で自分の自転車を用意して待っていた。



「今日はもうひとり、いっしょに連れて行きたいんだけど、いい?」



康平は大成に尋ねた。



「いいけど、誰? 遠藤? 宮田?」



「いや、昨日知り合った子。女の子なんだ」



2人は自転車を漕いで、駅へ向かった。駅前の大時計の下に、日野さんが立っていた。康平を見つけると、笑顔で手を振った。



「こんにちは。言われた通り、ジーンズとスニーカーで来たよ」



「うん、ありがとう」



「スタンスミスのピンク、可愛いよな」



と大成。康平は大成と日野さんにお互いを紹介した。



日野さんは葦原では自転車を持っていないので、康平の後ろに乗って出かけることにした。



「どこ行くの?」



日野さんが尋ねた。彼女にはまだ行き先を教えていない。



「俺たちのお気に入りの場所。楽しみにしててよ」



康平はそれだけ言って、自転車を漕ぎ出した。









3人は幸野川に架かる橋を渡って、市街とは反対の山地の方向へと進んで行った。



辺りには刈り入れを終えた田んぼが広がり、はるか行く手には北陸の高峰が連なっていた。



「俺、東京何度か行ったことあるよ。すごい街だよな。葦原なんもなくて驚いたんじゃない?」



大成が前を行く日野さんに声をかけた。



「ううん、そんなことないよ。不便なこと全然ない」



「まぁ、市内はいいけど、県北行くと買い物もろくにできない所けっこうあるよね」



と言った康平の親戚にもそういう地域に住んでる人がいる。だから都会の大人が田舎を褒めたりしてるのをテレビなんかで観るとちょっと腹が立つ。



「こんな遠くに来て、だいじょうぶ? ちゃんと帰れる?」



日野さんが不安をこぼした。「平気平気。これくらい」と大成が言う。



途中、3人はコンビニに寄ってコーラを3本買った。それから少し進むと、山のふもとにある大きな公園に着いた。入り口に『栗林運動公園』という看板がある。



中に入ると、広いグラウンドで大人たちが草野球をやっていた。3人はその脇を通り過ぎ、山に登る階段を上がって行った。



長い階段を登り切ると、そこは滑り台やアスレチックが建てられている広場で、小さな子供たちが遊んでいた。康平たちはそこも通り過ぎて、広場の外れの方へ歩いて行った。



「着いたよ。ここに来たかったんだ」



3人がやって来たのは、仰ぎ見るほど大きな楠の前だった。幹は巨人のように太く、3人に覆いかぶさるように枝葉を伸ばしていた。



日野さんも「立派な木だねえ」と感心していた。



「よっしゃ、行くか」



前に進み出た大成が、木に足をかけた。3人分の飲み物が入った袋を腕に提げたまま、枝をつかんで体を持ち上げる。



それを見て日野さんが「登るの?」と驚いた。



「ここの木って登っていいの?」



「ほんとはいけない」



康平は笑みを浮かべてそう言うと、大成の後から木に登り始めた。2人は慣れた様子で枝にしがみつき、足を引っかけ、どんどん高い場所へと上がっていく。



「ほら、日野さんもおいでよ」



康平が振り向いて声をかけると、日野さんは「えっ」と慌てた。



「私も?」



「もちろん。ここの上はがんこ景色が良いんだ」



「無理無理。私、木登りなんてしたことないもの」



「じゃあ今日してみようよ。そのためにジーンズで来てもらったんだから。ほら」



康平は日野さんに手を伸ばした。日野さんは首を横に振った。



「ダメ。恐い。私、下で見てるから」



「大丈夫だって。この木は登りやすいんだ」



大成も上から励ました。すでにてっぺん辺りまで登って、枝に袋をぶら下げている。



「でも…私、力も無いし…」



「空は飛べなくても高いところへは行けるよ。あゆみって良い名前だと思うよ」



「……」



「俺が支えてるから。ね?」



康平はもう一度手を差し出した。日野さんは前に進み、康平の手をつかんだ。



「じゃあ、まずそこの出っ張りに左足を置いて。そう。で、俺が引っぱるのと同時に、そっちの枝に右足を乗せるんだ。いい? いくよ? いち、にの、さん」



康平が手を引き、日野さんの体が地面から離れた。



「よし、じゃあ次に、右足で体を支えながら、左足をその枝に。やわやわとね」



「やわやわ?」



「あ、ゆっくり落ち着いて、って意味」



康平の指示に従いながら、日野さんは少しずつ登り出し、やがて康平と同じ高さまで上がってきた。



「うまいうまい。下見ないようにね」



「まだ上がるの?」



「そうだよ。大成がいるところまで」



「えー、あんなとこ無理」



「大丈夫。今度は日野さんが先に行って。俺の肩に足を乗せていいから」



日野さんは言われた通り、頭上の枝をつかんで、しゃがんだ康平の肩に足を乗せた。「せーの」でゆっくりと康平が立ち上がり、日野さんを持ち上げた。



「そこに左足を乗せるんだ」



今度は大成が上から指示した。日野さんは足場を確かめながら恐々と登っていく。「慌てずにね」と康平が声をかけた。



「よし来い」



登ってきた日野さんを大成がつかみ、引っぱり上げた。幹が2股に分かれている場所があり、「そこ座んな」と大成から言われた日野さんは、すとんとお尻を乗せた。



「そこいなよ。いちばん安定したところなんだ」



後から康平も登ってきた。大成と康平は日野さんの両側の枝に座った。



「やったね、できたじゃん」



康平はそう言って袋からコーラを出し、日野さんに渡した。彼女はうなずいた。ペットボトルを持つ手がかすかに震えていたが、表情は笑顔だった。



「わー、すごい…」



日野さんはそこから広がる景色に声をあげた。葦原の田園地帯が一望できた。その中を2両編成の電車が市街の方へ走っていく。



「ほんとにこの木は枝が多くて登りやすかった」



「でしょ?」



「靴跡付いちゃったね。ごめん」



「いいよいいよ、別に」



康平は自分の肩を払った。



3人はコーラを開けると、乾杯をしてからいっしょに飲んだ。近くの林から鵯のヒーヨ、ヒーヨという声が聞こえた。



「あー、何で体に悪いものってこんなにうまいんだろうな」



大成がそう言うと、日野さんも笑って「ねえ」と同意した。康平もそう思った。体に良いものは…あんまり美味しくない。世界最大の謎だ。



いつもここで康平と大成は、とりとめのないことを喋って過ごしている。今日は日野さんというゲストがいたので、お喋りも弾んだ。



話題はお互いが育った街のことや、身近で流行っていること、そして将来の夢について。



「へえ、大成くんはお父さんのスーパーを継ぐんだ」



「たぶんね。そうなったら絶対会社デカくして金持ちなって、グラビア級の嫁さんつかまえるんだ」



「大成なら本当にやりそうだな」



彼はそういう期待を抱かせる少年だった。通知表はオール5。自信にあふれ堂々とした学年の男子のボス的存在だ。



勉強のできる子ならいくらでもいるけど、ボスに相応しい子はほとんどいない。将来は歴史上の人物みたいに風格のある、スケールのでっかい大人になって欲しい。だから家庭科でエプロンをして卵焼きをひっくり返してる大成を見て康平は「俺はいいけど大成にそういうことさせんなよ」と抗議したくなったものだ。



「康平くんは? 何か夢ある?」



「俺は…はっきり決めてないけど、体を動かす仕事がいいな。頭使うのは無理そう」



これを前に大成に言ったら、「いいな。男らしくて」と褒められた。



「日野さんは将来何になりたい?」



康平から訊かれた日野さんは、「私は…」とつぶやいて考え込んだ。



「まだ何も決めてない。でもひとつだけ憧れてるのは…旗振り当番」



「旗振り? 朝、通学路に立ってる?」



「そう。自分の子供が学校に行くのを旗持って見守るやつをやりたいの。『いってらっしゃーい』って」



「いい夢じゃん。実現できる可能性高いし」



大成が誉めると、日野さんは嬉しそうにうなずいた。



日野さんは大成にも今学校に行ってないことを明かした。大成は「まぁ、いいんじゃない?」と言った後、日野さんを睨みつけた。



「でも、学校ってのは世の中に絶対必要なもんだからな。もし日野さんが『なんで学校なんて行かなきゃいけないの』とか言ったら俺は怒るぜ」



康平は日野さんの顔を横目で見た。ちょっと厳しいことを言われて、どういう反応をするだろうと思ったが、日野さんは真剣な顔でうなずいていた。



大成は相手が女子だからっていい顔しないのも、仲間から信頼される理由のひとつだ。学年に大成に負けないくらい勉強もスポーツもできる奴が1人いるが、そいつはモテたくて女子の味方ばかりするから、同じ男子からはめちゃくちゃ嫌われている。



「日野さんは俺と違って『気ぃ使い』っぽいよな。大変そう」



大成の見立てに日野さんは「そうかも」と答えた。



「ママから『人の気持ちが分かる優しい人になりなさい』ってよく言われたから」



「マジで? 気持ちなんて言われないと分かんねぇよ」



大成の言葉に康平も同感だった。いちいち心の中を読んでたら疲れてしまって、人と関わるのが嫌になりそうだ。



「人の気持ちなんて言われない限り考えなくていいよ」



「そうそう。相手も赤ちゃんじゃないんだからさ」



康平と大成の意見を聞いた日野さんは、微笑みを浮かべて「そうしようかな」と言った。



「俺なんて親父から『敵の弱点が分かる男になれ』って言われたけどな」



と大成。



やがて3人ともコーラが空になった頃、康平が「日野さん、焚き火したことある?」と尋ねた。



日野さんは「ううん」と首を振った。「焚き火、がんこ面白いよ」と大成。



「今度さ、俺ん家で落ち葉焚いて焼き芋するんだ。日野さんも来る?」



「うん、行きたい」



「じゃあおいでよ。農家やってる伯父さんが五郎島金時たくさん送ってくれたんだ」



「日野さんっていつまで葦原にいられんの?」



大成の質問に日野さんは「あと2週間」と答えた。



「でもまた冬休みに来たいな。そうしたらまたいっしょに遊んでくれる?」



日野さんの問いかけに、康平と大成は「もちろん」と声をそろえて返答した。









日が暮れる前に3人は帰ることにした。暗くなると木から降りられなくなる。



木は降りるときの方が難しく、日野さんは登るときの倍くらい時間がかかった。康平と大成がつきっきりで先導して、ようやく地面に着いたときには空が少し暗くなり始めていた。



自転車に乗って元来た道を帰って行く。日野さんと待ち合わせした駅に着いたときには、もう街は真っ暗だった。



「ここでいいの?」



「うん。すぐ近くだから」



「じゃあ、またね」



「今日はありがとう。さよなら」



日野さんは手を振って、雑踏の中に消えていった。



大成とも別れ、家に帰ると、居間にこたつが出ていた。こたつの上では晩ごはんのおでんの鍋が湯気をたてている。



「あっ、こたつ出したんだ」



康平は冷えた体を温めようと、さっそく足を入れた。すると中から「ギャウ」とうなり声が聞こえた。こたつ布団をめくると、中にソージがいた。足がぶつかってしまったらしい。



「ごめん、ソージ」



康平はソージに謝った。ソージは「やれやれ」というような、いかにも迷惑そうな顔をして、くるりと丸まってしまった。
















水曜日、ソージが家に帰って来なかった。



いつも夕方になると外から戻ってごはんを食べるのだが、夜になっても姿を見せない。翌朝になっても戻らず、俵家の4人は心配になってきた。



「どこか遠くに行って、迷子になってるのかな」



母さんが窓から外を見ながら言った。今まではひと晩帰って来ないなんてことは一度もなかった。



「ソージ、どこか行っちゃったの?」



桃香も戸惑っていた。父さんが「そのうち戻ってくるよ」と言う。



康平は学校から帰宅するとすぐ、「ソージは?」と母さんに尋ねた。母さんは首を横に振った。結局、その日の夕方もソージは戻ってこなかった。



「猫が家からいなくなるのは珍しいことじゃないけど、突然だから心配だね」



仕事から帰った父さんが言った。康平の頭の中に「車」「事故」という言葉が浮かんだ。



「明日、ご近所さんに見なかったか訊いてみるわ」



「保健所にも連絡しておいた方が良いよ」



母さんと父さんの声が緊張を帯びていた。



「ソージかわいそう…」



桃香はすでに涙声だった。



「桃香、だいじょうぶだよ。ソージは賢いし人懐っこいから、今もどこかでうまくやってるよ」



康平は桃香を励ました。桃香は「うん…」とうなずいたが、表情は晴れなかった。








翌日、約束していた通り、日野さんが康平の家にやって来た。大成はすでに来ていて、焚き火の準備をしていた。



「来るとき迷わなかった?」



「うん。康平くんの家、お庭が広いんだねえ」



日野さんが言った。彼女の言う通り、俵家は家は小さいが庭は広い。母さんが自宅で野菜や果物を育てるのが昔からの夢だったので、庭付きの一戸建てを買ったのだった。焚き火もできるし、夏は花火もここでやる。



「今はガキの遊ぶ場所、マジで無いからな。康平と友達で良かったわ」



大成の言葉には実感がこもっていた。特に男子が遊ぶ場所がない。大人たちは僕らにおままごとや綺麗な石集めをやってて欲しいようだ。棒があったら振り回して戦い、ボールがあったら人にぶつけて戦う僕らに。



康平はかつて学校で恐ろしい言葉を聞いたことがある。クラスの男子が休み時間に廊下でラグビーごっこをしていたら、女の先生から、外でやれではなく、こう怒られたのだ。「どうして女子みたいにできないの?」



「俺たちを消そうとしてやがる。みんなそうだ」



いっしょに見ていた大成は低い声で吐き捨てた。



溜めておいた大量の落ち葉を、竹箒で庭の真ん中にかき集めた。チャッカマンで火をつけるのは日野さんにやらせてあげた。



「おお、来た来た来た」



枯れ葉が燃え上がって興奮した大成は、木の枝を駆使して火の成長を促す。それを康平は日野さんと縁側で座って見ていた。



「康平くん、今日は何だか元気ないね」



日野さんが浮かない顔の康平に言った。康平は「うん…」とつぶやいた。



「うちで飼ってる猫が、一昨日から帰って来なくてさ」



「えっ、そうなの?」



「近所は捜して回ったんだけど、どこにもいないんだ」



落ち葉が燃え尽きて灰の山になってしまうと、その中にさつま芋を突っこんで待つ。30分ほど経って灰から出して枝を刺すと、中まで柔らかくなっていた。



「食べよう食べよう」



「いただきます」



できあがった焼き芋は甘くておいしかった。母さんが3人にココアを出してくれた。



「俺の親戚も、飼ってた猫がいなくなったことがあるんだ」



大成が焼き芋を食べながら言った。



「みんな心配して捜し回ったんだけど、見つからなくてあきらめてたら、何年も経って首輪してるその猫と偶然再会したんだって。よその家で飼われてたんだ。猫ってそういうとこあるよな」



康平はうなずいた。元々ソージは野良猫だったから、もっと住み心地のいい家を探しに出て行ったのかも知れない。事故に遭ってるより、そちらの方がずっと良かった。



みんなで焼き芋を食べ終えた頃、奥の部屋でお昼寝をしていた桃香が起きてきた。



桃香は康平に「ソージ帰って来た?」と尋ねた。








日野さんと大成は帰るとき、康平の母さんからさつま芋がたくさん入った袋を渡された。



「良かったらお家で食べて。天ぷらにするとおいしいわよ」



「ありがとうございます」



康平は日野さんを送っていくことにした。大成もいっしょに自転車で走っているとき、日野さんが言った。



「康平くん、ソージ捜すのにポスター作ってみたら?」



康平は「えっ」と声をあげた。



「ほら、たまに見かけるでしょ? 『うちの猫さがしてます』って書いた貼り紙」



「うん。写真といっしょにスーパーなんかに貼ってるね」



「ああいうの作って、あちこち貼らせてもらおうよ。3人で貼らせてくれるところ探して」



「それいいな。やってみようぜ」



大成も賛成した。実は康平もそうしようと考えていたのだが、まさか日野さんが言い出してくれるとは思わなかった。



「じゃあ明日、俺ん家にもう一度集まろう」



康平は言った。2人が力を貸してくれるのがとても嬉しかった。



「きっと見つかる。がんばってみよう」



日野さんが康平の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
















土曜日、日野さんと大成が再び俵家を訪れた。大成は放課後、康平といっしょに学校から直接やって来た。



昨夜、康平は母さんに教えてもらいながら初めてポスター作りに挑戦した。『迷い猫さがしてます』の大きなタイトルの下に、ソージの顔や尻尾、体型がよく分かる4枚の画像が貼られたものができあがった。



「やーん、ブサ可愛いこの子」



日野さんがポスターを手に言った。



「うまいな。康平こんなの作れんだ」



「テンプレートに画像貼っただけだよ」



連絡先には母さんの携帯番号を載せ、とりあえず20枚印刷した。昼食に届いたピザをみんなで食べてから、康平は立ち上がった。



「じゃあ、貼らせてくれるところを探しに行こう」



3人は自転車に乗り込んだ。まず手始めに、俵家がよくお世話になってる動物病院に向かった。



「えっ、ソージが行方不明? そりゃ大変だ」



獣医の先生は快く病院の入り口の掲示板に貼らせてくれた。そこには何枚も、迷い猫や迷い犬の情報を求める貼り紙がしてあった。



こういうペットの迷子はどれくらい見つかるのだろう? 獣医の先生に訊いてみようかと思ったが、答えが恐くて訊けなかった。



動物病院を出た3人は、次に俵家から近いドラッグストアへと向かった。



中に入って、店員の人に声をかけようとしたが、向こうは仕事中で忙しそうだ。それにもし断られたらどうしようと思うと、なかなか声がかけられなかった。



康平が躊躇していると、大成より先に日野さんが前に進み出て言った。



「あの、お願いがあるんですけど…」



商品を並べていた若い男の店員が振り返った。日野さんはポスターを広げて見せた。



「これをこのお店に貼らせてもらえませんか?」



「ああ、そういうのは店長に訊かないと…ちょっと待ってて」



彼は奥のドアの向こうに入っていった。戻ってきたとき、店の制服を着た別の男性がいっしょだった。



「あー、君たちね、そういうのは2週間しか貼らせてあげられないけど、いいかな?」



「はい、ありがとうございます」



3人はぱっと顔を輝かせた。



レジの向こうの壁に、持ってきていたセロテープでポスターを貼る。お客が商品を袋詰めしているとき目に入りやすい場所に貼らせてもらえた。



3人はもう一度お礼を言って、店を出た。自転車に乗って、また別の店を探す。



「日野さん、度胸あるね」



康平が言った。大成も「かっこ良かったよ」と称える。日野さんは照れ臭そうに笑った。



次に3人はホームセンターに行って、ポスターを貼らせてもらえるよう頼んだ。パートのおばさんたちが集まってきて、「あらー」「かわいそうに」と騒ぎ、責任者の人に掛け合ってくれた。



「しばらく貼っててもいいけど、見つかったらちゃんと剥がしに来てね」



ネクタイ姿の男の人がそう言ってくれた。3人はお礼を言って、入り口の近くにポスターを貼った。



こうして康平たちは、日が暮れるまでに5枚のポスターを貼ることに成功した。大成は「近くのサンジーは俺やっとくから」と2枚持って帰っていった。



明くる日曜日、朝から自転車で出発した3人は、少し範囲を広げてポスターを貼らせてくれる場所を探して回った。



動物病院、スーパー、ディスカウントストア。1枚貼るごとにソージが見つかる可能性が高まっていく気がして、康平は元気が出てきた。



「昼ごはん、私の家に食べに来る?」



正午過ぎ、日野さんがそんなことを言った。そのとき3人がいたのは、ちょうど日野さんの家がある地区だった。康平と大成はお言葉に甘えることにした。



日野さんの葦原の家は、通りに面した古い靴屋だった。それも既製品を並べている店ではなく、オーダーメイドで靴を作る工房だった。



日野さんが帰ってくると、工房で作業していたお祖父さんが「お帰り」と声をかけた。



「お祖父ちゃん、話してた康平くんと大成くん。お昼ごちそうしたいんだけど、いい?」



日野さんが尋ねると、お祖父さんは「ああ」と言って康平と大成に目をとめた。



「あゆみと遊んでくれてるそうだね。ありがとう」



お祖父さんは2人に礼を言った。お祖父さんは葦原訛りだった。



奥からお祖母さんも出てきた。ソージのことを日野さんから聞いていたらしく、「見つかるといいわねえ」と康平に言った。



「ここにもポスター貼らせてもらえませんか?」



みんなでお昼の焼き肉を食べているとき、康平はお祖父さんに頼んでみた。



「いいけど、滅多にお客来ないよ」



お祖父さんはそう言って笑った。お祖母さんも笑っていた。



「お祖父ちゃん、いつも嘆いてるんだ。今はみんな出来合いの安い靴買っちゃうって」



「じゃあ俺、成人したらここで靴作ってもらいます」



大成がそう言うと、お祖父さんは「じゃあそれまで頑張ろうかな」と笑顔で言った。



「あゆみ、野菜はいいからもっと肉食べなさい」



お祖父さんにそう言われて日野さんは「うん」とうなずいた。お祖父さんは「もっと肉持ってきてくれ」とお祖母さんに言った。



「君はいい食いっぷりしてるねぇ」



お祖父さんは豪快に肉を頬張りご飯をかっ込む大成を見て嬉しそうだった。大成は頬をぱんぱんに膨らませて「あざっす」と言った。



大成が『サンジー』の社長の息子だと日野さんから聞いたお祖父さんは、「先代の政男さんとは何度か会ったけど、葦原のことを本当によく考えてくれてる人だね」と話した。



「ごちそうさまでした」



康平たちはお昼を済ませ、再び自転車で出発した。









結局、2日かけて14枚のポスターを貼ることができた。自転車を漕いで回った足は、もう力が入らないほど疲れていた。



「2人とも、どうもありがとう」



康平は日野さんと大成にお礼を言った。2人がいなければ、こんなにたくさん頼んで回ることなんてできなかっただろう。



「見つかったら、すぐ連絡くれよな」



大成はそう言って帰っていった。康平は日野さんを送るために、もうひとふんばり自転車を走らせた。間もなく日が暮れる。



「いつも乗せてもらってごめんね。汗かいちゃったね」



「いいや。余裕余裕」



康平は途中から上着を籠に突っ込んでTシャツだけになっていた。



「日野さんこそ疲れたんじゃない?」



「ううん。私、こんな言い方したら駄目なのかもだけど、何だか楽しかった」



「そう? 全然駄目じゃないよ。それなら良かった」



日野さんを家まで送り届けた後、康平は自宅へと向かった。自転車の籠には余ったポスターが入っていた。



家までもうすぐ、というとき、不意に横から強い風が吹いた。



康平は「あっ」と声をあげた。籠のポスターが路上の落ち葉とともに宙に舞い上がった。



歩道にポスターが散乱した。康平は自転車から降りると、それを拾い始めた。



そのとき、向こうから歩道を歩いて来ていた人が、拾うのを手伝ってくれた。康平は「すみません」と言った。



「はい、どうぞ」



その人は集めたポスターを康平に手渡した。康平が「どうも…」とお礼を言おうとしたとき、相手の顔を見て驚いた。



以前、放火犯だと疑ってしまったあのメガネの少年だった。向こうも康平に気づいて驚いていた。今日は制服姿ではない。



「あのときの…」



「こ、こんばんは」



「こんばんは。猫捜してるの?」



彼は康平が持っているポスターを指さして尋ねた。康平はうなずいた。



「そっか。大変だね。それをあちこちに貼って回ってたんだ?」



「はい。昨日と今日、友達と」



「そう。もう一度見せてくれる?」



メガネの少年は康平の手からポスターを一枚取った。



「よくできてるね。『大切な猫です。とても心配しています』…」



「あの、この間、すみませんでした」



「ん? 何が?」



「俺の友達が失礼な態度とって」



「ああ、全然気にしてないよ。大丈夫」



彼は康平に微笑みかけた。康平はほっとした。



「ほんとに大事にしてる猫なんだね。写真からそれが伝わってくる」



メガネの少年はポスターをじっと見つめながらつぶやいた。そして康平に目を向けて言った。



「これ、もらっていい? 捜しておくから」



「あ、お願いします。見かけたら電話ください」



「今はちょっこし忙しいんだけど、それが済んだら捜しておくよ」



そう言って彼はポスターをていねいに折りたたみ、コートのポケットに入れた。



「じゃあね」



そう言って康平の前から去って行った。



メガネの少年が角を曲がってから、康平はこっそり後を追って、彼の行方を確かめた。今度は姿を消してはおらず、その背中はゆっくりと夕闇の中に溶けていった。



翌日、放火犯が捕まったというニュースが伝えられた。犯人は30代の会社員だった。
















日野さんが東京に帰る前の日になっても、ソージは見つからなかった。



夜は冷え込みが厳しくなって、ますますソージのことが心配だった。特に桃香はふさぎ込んで、あまり笑顔を見せなくなった。



ポスターを見て連絡をくれた人は、1人だけいた。「近所にそっくりな猫がいる」と言うので急いで駆けつけたが、似てはいたけれど、まったく別の猫だった。



ネットに迷い猫専用の掲示板サイトがあると聞いたので、そちらにソージの情報を投稿してみた。しかし今のところ反応はない。



土曜日、康平はまた眼科に行かなくてはならなかったので、日野さんと大学病院で待ち合わせをした。日野さんは明日、葦原を発つ。



2人はそれぞれ診察を受けて薬をもらってから、またケンタッキーへ行った。ハンバーガーを買って、外のベンチでいっしょに食べた。



「ソージが見つかったら、電話で知らせてね」



日野さんが言った。康平は空を見ながら「…うん」と小さな声で答えた。



「でも、もう無理かも知れない」



「そんなことないって」



ハンバーガーを食べてしまってから、康平はベンチの背に体をあずけてため息をついた。空には鰯雲が広がっている。



「ソージは旅に出ちゃったんだよ、きっと」



桃香にもそう言ってあげよう。康平は決心した。あいつは人間と暮らすよりも、野良として気ままに生きることを選んだんだよ、と。



「明日、大成と見送りに行くから」



「うん、ありがとう」









真夜中、眠っていた康平はトイレに行きたくなって目を覚ました。



布団を出ると、パジャマ越しに寒さが体に染み込んできた。トイレに行って用を足し、身を縮めながら部屋に戻る。



そのとき、庭の方から猫の声が聞こえた。



康平は立ち止まった。じっと耳を澄ます。



するとしばらく間があって、もう一度聞こえた。康平は走り出した。



リビングの明かりを点け、庭へ出る戸を開けると、そこにソージが座っていた。康平を見上げて「にゃおう」と鳴く。



「ソージ、お帰り」



康平は寒さも忘れ、スリッパのまま庭へ出て、ソージを抱き上げた。どこも怪我なんてしていないようだ。



「お前、どこ行ってたんだよ。みんな心配してたんだぞ」



康平はソージを叱りつけた。ソージは康平の気も知らず、喉をごろごろ鳴らしている。



と、そのとき、頭上から小さな足音が聞こえた。



ソージが音のする方向へ首を巡らして、「あーん」と鳴いた。その視線を追って、康平も隣の家の屋根を見上げた。



黒い猫がいた。屋根の上から康平をじっと見下ろしている。この辺りでは見ない猫だった。



ソージがまた黒猫に向かって「あおー」と鳴いた。あいさつするみたいに親しげな鳴き方だった。友達だろうか?



月明かりに姿を浮かび上がらせている黒猫は、細くてしなやかな体つきの、とてもきれいな猫だった。人間を前にしても、怯えた様子は少しも見せず、堂々としている。



「もしかして、お前がソージを連れてきてくれたの?」



康平は尋ねた。黒猫は黙ったまま、おもむろに前脚をぺろぺろと舐め、それを頭のところにこすりつけて毛づくろいを始めた。



「康平、何してるの?」



家の中から呼ばれて振り向くと、母さんが起きて来ていた。



「ほら、ソージが戻ってきたよ」



康平は抱きかかえたソージを母さんに見せた。「あっ、ほんとだ」と母さんも驚いていた。



ソージは康平の腕をするりと抜け降りて、母さんの足元を通って台所へ向かった。「はいはい、ご飯?」と母さんがソージの後を追った。



康平は再び隣の屋根を見上げた。しかしあの黒猫はもういなかった。



あの黒猫、どこかで会ったことがあるような気がした。しかしいくら記憶をたどっても思い出せなかった。









日曜の朝、康平は大成といっしょに自転車を大急ぎで漕いでいた。



日野さんのお祖父さんの靴屋が見えてきた。店の前には車がとまっていて、鞄を持った日野さんが康平たちを待っていた。



康平と大成がやってくるのに気づいた日野さんが、2人に向かって手を振る。2人は店の前に急ブレーキで止まると、日野さんに駆け寄った。



「日野さん、ソージが帰ってきたよ」



康平が息を切らしながら言った。日野さんは「えっ」と声をあげた。



「ほんとに?」



「うん。夜中に庭から声がして、行ってみたら戻って来てたんだ。今はこたつの中で丸くなってる」



「わあ、すごい。よかったねえ」



康平と日野さんは手を取り合って喜んだ。車の運転席にいたお祖父さんも、店から出てきたお祖母さんも笑顔だった。



「バンザイしようか? バンザイ」



日野さんがそんなことを言い出した。「お、いいね」と大成が乗った。



「せーの…バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」



3人は元気良く両手を振り上げた。通りを行く人たちが何事かと振り向く。



3人は笑い合った。晩秋の空に笑い声が高らかに響いた。









それ以来、ソージが俵家から姿を消すことはもうなかった。



結局、なぜいなくなっていたのかは分からないままだ。迷子になっていたのか、それとも野良に戻ろうとしたのをやめたのか、ソージのみぞ知るところだ。



どちらにせよ、桃香が元の明るさを取り戻してくれたのが康平にとっては何よりだった。



放火犯だと疑ってしまったあのメガネの少年を近所で見かけることは二度となかった。
















葦原市で初霜が降りたこの日の朝、かの子は初めて新品のマフラーを首に巻いて登校した。春に鈴木くんからもらった白いマフラーだ。



電車に揺られている間、何度もあくびが。昨夜は遅くまで勉強していたので寝不足気味だ。



先日、文化祭が終わって、かの子は伝統工芸部を引退した。これからはすべてのエネルギーを受験勉強に注ぎ込むつもりだ。



文化祭では毎年恒例の和風カフェを開いた。今まで作った工芸品を展示し、お抹茶とお菓子で心ばかりのおもてなし。



最初は「めんどい」「しんどい」と嫌がっていた梶くんも、当日はかなり頑張ってくれた。それに文化祭を通じて、他の部員たちとの仲も深まったようだ。最後にみんなで撮った記念写真の彼の笑顔を見て、もう自分がいなくても大丈夫だとかの子は思った。



待ち合わせをしていた鈴木くんも、白のマフラーを巻いていた。もともとかの子の物だったマフラーだ。



「おはよう、荻野目さん」



「おはよう、鈴木くん」



11月も間もなく終わろうとしている。二人はミスドのポケモンドーナツを食べに行く話をしながら学校へと向かった。



そのときかの子は、鈴木くんの前髪の一部が跳ねているのに気づいた。



「鈴木くん、ここ、寝癖ついてるよ」



かの子は指でさして教えてあげた。



「あ、そう?」



すると鈴木くんは突然、自分の手の甲をぺろぺろと舐め、それで頭を撫でつけて寝癖を直し始めた。かの子はその場に凍りついた。



「……鈴木くん、何やってるの?」



かの子が尋ねると、鈴木くんは我に返って「あっ」と自分でも驚いたような声をあげた。かの子は笑った。



「猫みたいだね。いつもそうやって髪型直してるの?」



「違うんだ。これは、その、最近、癖になっちゃって」



「癖? どういうこと?」



「いや、なんでもない……」



鈴木くんはしょんぼりして黙り込んでしまった。かの子は可笑しくなった。本当に変わった男の子だ。



「鈴木くん、待ってて」



かの子はカバンのポーチからつげ櫛を取り出し、彼の寝癖を梳かしてあげた。



「朝は髪くらい梳かしてきてください」



「うん…」



欅の葉はすっかり落ちている。北陸の厳しい冬はすぐそこだ。



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