第2話

其の二









かの子は流れ星を見たことがなかった。



そしていつか見てみたいと思っていた。



友達の中には、見たことがあるという子もいた。その子が羨ましかった。



アニメなんかで描かれるように、本当に夜空に線を引いて流れていくのだろうか? もしそうなら、何て素敵なんだろう。



きちんと狙って観測すれば見られるよ、と前に小学校の先生が教えてくれたが、かの子が見たいのはそういう流れ星ではなかった。



たまたま夜空を見ていたら、すっと星が流れていくのがいい。偶然だからこそ感動があり、価値があるのだ。



そのとき隣に、好きな人がいてくれたら最高だと思う。









7月も半ばを過ぎた葦原市は、夏の盛りを迎えていた。



街を行く人たちは強い日差しに顔をしかめ、街路樹の下のベンチではワイシャツ姿の男性がハンカチで汗をふいていた。



とある駅前の雑居ビルの2階。ひとりの女の子が、〈将棋サロン葦原〉という看板のかかったドアを開けた。



「やっぱりここにいた。梶くん、部活出てきな」



かの子は中で対局中の少年に向かって言った。少年は舌打ちして、うんざり顔をかの子に向けた。



「また来た。静かにしてください」



「そんなこと言うなら、携帯の電源入れておいてよ」



「今日はサボります」



「今日も、でしょ? 3日連続なんて許さん。ほら、行くよ」



かの子は梶くんの腕をつかんで引っ張った。



「分かりましたってば。もうすぐ終わるんで待っててください」



梶くんは50歳くらいの人を相手に指していた。相手は将棋盤を見つめて、苦しそうな表情を浮かべている。



1分後、相手が「参りました」と頭を下げた。梶くんも頭を下げると、「あーあ」とため息をついて立ち上がった。



「お騒がせしました。失礼します」



かの子はそう言って梶くんを連れ出していった。「ご苦労様」と受付のおじさんが笑いながら言った。









ビルの前では、かの子と同じ学校の制服を着た男子が、自転車に跨がって待っていた。



「お待たせ森下くん。行こうか」



かの子は自転車の後ろの荷台に乗ると、「しゅっぱーつ」と言った。



森下くんは「よいしょっ」と自転車を漕ぎ出した。彼はかの子が部長を務める伝統工芸部の2年生部員だ。



自転車のない梶くんは、自分の足でついて行かなくてはならない。学校まで5分ほど軽いランニングだ。



「梶くんって将棋強いんだね。いつも勝ってるじゃない」



「別に。俺より強いのなんて、ネットにごろごろいますよ」



「ふーん。私は対戦するゲームとか苦手だわ。弟はよくやってるけど」



「…炭酸飲みたい」



梶くんは早くも息を切らしながら言った。かの子はぎらつく太陽を見上げた。



「それにしても暑いねー。海行きたいな」



「鈴木先輩と行ってきたらいいじゃないですか」



「来年行こうかって話してるけどね。今年はまだ難しいかなぁ」



「先輩たちって、普段デートとかどこ行くんすか?」



と森下くんが質問した。



「この前は、買い物した後、カラオケに行った。鈴木くんってびっくりするぐらい歌下手なんだよ。面白いんだ」



「いいなぁ、楽しそう。俺も彼女欲しいっす」



「慌てなくてもいつかできるよ、2人とも」



「俺は要りません。あんまりメリットないんで」



梶くんは素っ気なく言った。



「彼女欲しくないの? 梶くん、わりと顔良いのに」



「そういう奴多いですよ」



「まぁ恋愛なんて、したくない人はする必要ないよね。でも将来、結婚相手見つけられる?」



「結婚? はは、それこそメリットないですね」



「バカ野郎、男は愛する女がいないとなぁ、いい仕事できないんだぞ」



森下くんが後輩を一喝すると、かの子は「おおっ、いいぞいいぞ」と囃し立てた。梶くんは渋い顔だ。



「うちの父さんも『母さんと出会って色んなことがうまくいくようになった』って言ってたなあ。クリスチャン・ディオールって人も『女性は男性を成功へ導く力がある』って言ってるんだよ」



でも梶くんのような子が増えていることはかの子もひしひしと感じている。もう成人したら年一回のお見合いを義務付けるべきではないだろうか。自分を磨くきっかけにもなる。軍隊に入らなくてはいけない国だってあるのだから、それくらい。



「…そ、それより先輩、そんなに遊んでていいんですか? 来年受験ですよ」



「ご心配なく。いっしょに勉強もしてますから。鈴木くん頭良いから、教えてもらえて助かるんだ」



「わー、いいなぁ、そういうの。俺も彼女欲しいよぉぉっ」



森下くんが叫びながら自転車を力いっぱい漕ぎ始めた。かの子は「きゃー」と悲鳴をあげる。



「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ」



梶くんは慌ててそれについていった。三人の行く手には入道雲が立ちのぼっていた。









夜。かの子が風呂からあがって自分の部屋に戻ると、鈴木くんからのメッセージが。



『こんばんは。自習OKの図書館が見つかりました。日曜日に行きませんか?』



かの子はすぐさま了解のメッセージを送り返した。2人は前から、いっしょに気兼ねなく勉強できる場所を探していたのだった。



近くの図書館は持ち込み教材による自習が禁止なので、いつもファストフード店を使っていた。しかしあまり長い時間居座っては、お店にも迷惑かも知れない。



かの子は「うち来て勉強する?」と一度誘ったことがあるが、鈴木くんは顔を引きつらせて首を振った。



「ま、まだ親御さんにごあいさつする心の準備ができてない…」



逆に鈴木くんの家だと遠くて、けっこうバス代がかかってしまう。そこで2人はそれぞれのクラスの子に聞き込みして、良い勉強場所を探していたのだ。



かの子は寝る前にベランダに出た。最近ここから見える風景が少し変わった。



ずっと向こうに高層マンションが建っていた。地上30階建てで、葦原市内では最も高い建物になる。まだ完成してないのか、窓に明かりは点いていない。



かの子は夜空を仰いだ。今日も流れ星は見えなかった。
















かの子がかつてのクラスメートの男の子、鈴木勇人くんと付き合い始めて、3カ月が過ぎた。



付き合うと言っても、いっしょに遊びに行ったり勉強したりするだけで、まだ手も繋いだことがないけれど。



鈴木くんは今のところ、彼氏としてほとんど申し分ない男の子だった。振る舞いが落ち着いてるし、みっともない仕草もしない。適度にほっといてくれるし、デートのときには意外とグイグイ引っぱってくれる。



しかし一つだけ不満なところもあった。ファッションだ。



彼は外で会うとき、いつも黒っぽい服ばかり着てくるのだ。シャツも黒、靴も黒。夏になると街行く人の服装はどんどん明るくなっていくので、鈴木くんのいでたちはよけいに浮いて見えた。



男の方がお洒落すぎてもしんどいけれど、でもやっぱりスカイブルーやミントグリーンの男の子とデートしたい。一度、アウトレットモールに服を買いに行ったとき、明るい色のシャツを選んで、「こういうの着てみて欲しいな」とお願いしたこともある。



しかし鈴木くんは変な味のガリガリ君を食べたときのような顔をして、「この色は無理…」と言うのだ。



かの子が「どうして?」と訊くと、鈴木くんはこう答えた。



「目立つ色の服は、何だか落ち着かないんだ……」









鈴木くんはかの子が待ち合わせの場所にやって来ると、本当に嬉しそうな顔をする。



「おはよう、荻野目さん」



「おはよう、鈴木くん」



彼は今日も黒いTシャツ、黒のハーフパンツに身を包んでいる。かの子はこの案件についてはもう黙って受け入れることにしていた。



2人で電車に乗って目的地へ向かう。日曜日の朝、車内は閑散としていた。



図書館に着いたのは、開館30分前だった。入り口にはすでに並んでいる人たちがいた。学生らしい若者がほとんどだ。



「きれいな図書館だね」



「うん。2月にできたばかりなんだって」



朝から日差しがまぶしい。今日も暑くなりそうだった。



午前10時。入り口が開くと、館内に人が流れ込んだ。



かの子と鈴木くんは窓際の二人掛けの机をうまく確保することができた。5分も経つと、もうほとんどの席が埋まってしまった。



2人は持ってきたノートやテキストを机に広げ、勉強を始めた。静かで、適度に張り詰めた空気も流れていて、集中するには持ってこいの環境だった。エアコンもキンキンに効いてて良い感じだ。



「エアコン最高だね…」



さっきかいてた汗がどんどん引いていく。鈴木くんも「そうだね…」と気持ち良さそうだ。



「学校のエアコン、温度設定高くない? 私、家ではいつも20度にしてるよ」



「そんなに?」



「もう少し下げて欲しい。涼しいと勉強もっと頑張れるのに…」



「贅沢は敵だ、みたいなのはやめて欲しいね」



かの子は将来結婚する相手の条件を一つだけもう決めている。『エアコンをケチらない人』だ。



かの子は分からないところがあると鈴木くんに尋ねた。彼は教えるのがうまく、とても分かりやすく解説してくれた。



鈴木くんが勉強ができることを、かの子はクラスメートだったときは知らなかった。特に秀才というイメージは誰も持っていなかったはずだ。「目立ちたくない」から隠していたそうだ。



その鈴木くんは進学先に100年以上の歴史がある豊川高校を志望していた。お父さんもお祖父ちゃんも通っていた学校らしく、「僕も入ったら喜ぶかなって」と理由を語っていた。



かの子は豊川よりひとつ下のランクの高校を目指していた。今の成績なら充分合格できると先生からお墨付きをもらっていた。



頑張って豊川狙ってみるか? 先生からそう言われたが、今のところその勇気はなかった。でも有名な豊川の制服を着て、鈴木くんといっしょに通えたら…そういう想いが心の片隅にあった。









正午、2人は飲食スペースで昼食を摂った。



「鈴木くんって鼻の形きれいだね」



「ほんと? 初めて言われた」



鈴木くんはそう言ってチョコちぎりパンを頬張った。



「私、鼻ぺちゃだから羨ましい。どんなメガネも滑落する難所だからね」



かの子がいつも友達に使う自虐ネタを披露すると、鈴木くんは笑ってコーヒーを吹き出しそうになった。



「僕のおでこなんて大村益次郎のそれだから」



鈴木くんの返しにかの子はお茶を吹き出した。いや、確かに広いと思ってたけど…



でも鈴木くんの自虐ネタを聞けて、かの子は内心、嬉しかった。自分を笑えるって心が健全な証拠だ。



食事を済ませ、元いた席に戻る途中、鈴木くんが廊下の掲示板のポスターに気づいた。



「花火大会、いっしょに観に行かない?」



それは葦原市で来月開かれる花火大会の告知ポスターだった。毎年8月の第4日曜日に開催される。



「うん。浴衣着て行こうかな」



「荻野目さん、浴衣持ってるの?」



「去年新しく作ってもらったんだ」



小さな頃は家族と、大きくなってからは友達と出かけていた街の花火大会。今年はいよいよ男の子と2人で観に行くことになるみたいだ。



「荻野目さんって口の両端がこう、猫みたいにクルッて上がってるよね」



勉強再開後、しばらくして鈴木くんが言った。かの子は「でしょ?」と笑顔になった。



「うん。前から思ってたけど、すごく感じが良い」



「小学生の頃から母さんに言われて顔のトレーニングやってるんだ。毎日お風呂入ってるときに『ウ・イ・ス・キ・イ』って口動かして」



「へぇ、小学生から…偉いね」



「印象の良い人ってみんな陰で努力してるよね。その方が絶対得だもん」



時間は刻々と過ぎ、外はまさに暑さのピークといった強烈な日差しだった。「静岡で40度だって」と天気を調べたかの子が言うと鈴木くんは「うぇー」と顔をしかめた。



「前髪のばして、おでこ隠そうかな?」



ふと鈴木くんが自分の前髪をつまんで言った。



「えー、そんなことしなくていいよ。おでこを出すのは自信と社交性の表れだって、心理学の本に書いてあったよ」



「そうなの? 知らなかった」



「鈴木くんはずっとその髪型でいて欲しいな。あんまりあれこれいじらないで欲しい」



若くて多感な時期はささいなことで悩んで、髪型でも何でも迷走しがちだけど、たいていは歳とともに一番シンプルなかたちに落ち着くものらしいから。鈴木くんは「そうする」と言ってくれた。



やがて日が傾き、周りも空席が増え始めたとき、館内アナウンスが流れた。



『閉館30分前です。本の貸し出し手続きはお早めに…』



携帯の時計を見ると、もう六時半だった。



「お疲れ様。そろそろあがろうか?」



鈴木くんはそう言ってノートを閉じた。かの子は集中の糸が切れ、ぐったりと机にうつ伏せになった。









帰りの電車の中、かの子は頭がぼんやりしていた。



「何だか脳が重く感じる…」



かの子がつぶやくと、鈴木くんはクスッと笑った。



「あの図書館、居心地が良いね。また行こうよ」



「うん。夏休みはもっと人が並ぶだろうから、早く行かないとね」



今日勉強がはかどったのは、鈴木くんのおかげでもあった。彼の指導で、ちょっと勉強のコツをつかんだ気がする。



「鈴木くんって、将来は東京の大学を目指したりするの?」



かの子が尋ねると、鈴木くんは少しも迷わず首を振った。



「葦原の大学に進む。僕はずっと、葦原にいるんだ」



鈴木くんは窓の向こうの街並みを観ながら言った。









その夜、荻野目家に沖縄の親戚からお中元が届いた。



「おおっ、今年もマンゴー来た」



弟の伸太郎が喜びの声をあげる。宅配便の箱の中にはマンゴーが4玉入っていた。



かの子はひとつ手に取って、顔に近づけた。甘くて爽やかな香りが鼻をくすぐる。毎年恒例の夏の香りだった。



「鈴木くんにひとつ持ってってあげたら?」



母さんが伸太郎に聞こえないように小声でかの子に言った。



かの子が「いいの?」と尋ねると、母さんは頷いた。



鈴木くんのことは母さんにだけは話していた。やっぱり母さんにしか話せないことってたくさんあるのだ。



「食べよう食べよう。早く切って」



「お父さんが帰って来てからでしょ」



母さんが伸太郎にそう言った矢先、玄関のドアが開いて「ただいま」と声が。



その日かの子は、鈴木くんにあげるマンゴーを枕元に置いて、南国の香りに包まれて眠りについた。



南の島でハンモックに揺られて寝ているような気がした。
















8月に入ると、観光のために葦原市を訪れる人がとても増える。今年も葦原城公園や武家屋敷、工芸館には、観光バスでやって来た他県からの団体客の姿が目に付くようになっていた。



かの子の中学も夏休みに入り、登校してくるのは部活動か補習の生徒だけになった。



伝統工芸部の部員たちは、工作室で和傘作りに取り組んでいた。市内で工房を構える職人を講師としてお招きして、1カ月かけて完成させる。



和傘作りは骨組み作りから始まる。竹を均等に縦に細く割って、傘の骨を作る。それをろくろという傘の柄の先っぽに、糸で1本1本繋ぐのだ。



「切った竹が元の形になるよう正しい順番に繋いてください。そうしないと傘がきれいに閉じませんよ」



手作業に慣れていない現代っ子らしく、部員たちは悪戦苦闘していた。そんな中、1年生の梶くんは、他の部員よりも手際良く作業を進めていた。



「君、筋がいいね」



和傘職人の新庄さんも感心していた。



「さすが職人の息子」



かの子がそう言うと、彼は「関係ないです」と言った。



「梶くんって手先が器用だね」



片付けのとき、2年生の女子部員の天野さんが、梶くんに声をかけた。



「別に…普通です」



「自転車の修理とかできる?」



「できますよ。昔から自分でやらされてたんで」



「へー、えらいね」



そのとき新庄さんが、梶くんに尋ねた。



「あの、君、もしかして梶善彦先生の息子さん?」



すると梶くんは、嫌なことを訊かれたみたいな顔をして「はい…」と答えた。彼の父親は葦原漆器の職人だ。



「やっぱり。顔そっくりだもの。お父さんの影響でこういう部活に入ったの?」



「いえ、先輩から無理やり誘われて」



梶くんはかの子の方をちらりと見た。



「あ、そう。君のお父さん、すごい人なんだよ」



新庄さんは梶くんのお父さんを誉めたが、梶くんは黙ったままだった。



天野さんから「よかったね」と言われても、「関係ないです」とむしろ不愉快そうだった。









「お父さんと仲悪いの?」



部活が終わり、玄関で靴を履き替える梶くんに、後から来たかの子が尋ねた。



梶くんは振り返り、じろりとかの子を見た。



「デリカシーのない訊き方ですね」



校門を出て駅へ向かう。かの子は後ろからそれに付いて行った。



「うちも葦原漆器のお茶碗、使ってるよ」



「そりゃどうも」



「漆器って手や唇に触れる感触がいいんだよね。白いご飯よそうと絵になるし」



「先輩みたいな家は珍しいですよ。今はどこも100円ショップで売ってるようなの使ってますから」



「うん…ずっと使うものは良いやつ買った方がいいのにね」



「そもそも自分は食べることに興味がないんで、食器に金かける意味が分からないです」



そう言われてみれば新入部員にも自己紹介を書いてもらった際、彼は『好きな食べ物』は「無し」と書いていた。



「梶くんってクールな性格だよね。下ネタとか絶対言えないタイプって感じ」



「…何ですか突然?」



「でも人間ってクールな生き方なんてできないと思うよ。私たちはどうしたって不潔で間抜けな生き物なんだから。さっさとそれを受け入れた方がうまくいくと思うけど」



むしろ不潔で間抜けなところが面白いのではないだろうか。古い漫画なんか読むと、昔はもっとみんながそういうところを愛して、楽しんでいたのだと感じる。



「うちの母さんがよく言うの。『キレイ好きなるな』って。掃除するなとかお風呂入るなって意味じゃないよ」



「……」



駅に着いた。駅の掲示板にも花火大会のポスターが貼られていた。



「私は鈴木くんと観に行くんだ。梶くんは?」



「行きません。騒がしいのは嫌いなんで」



「やっぱり。騒がしいのが楽しいのに」



「人混みは気分が悪くなるんです」



「じゃあ誰もいなくて、静かに花火が観れる穴場、教えてあげる。小木町にある矢中神社がオススメらしいよ」



「小木町? 会場からけっこう遠いじゃないですか」



「うん。でもがんこよく観えるんだって。前に友達から聞いたんだけど。あっ、電車来た」



上り線のホームに電車が滑り込んだ。



「じゃあね。気が向いたら誰か誘って行ってみまっし」



「行きません」



かの子は電車に乗ると、家には帰らず、終点の葦原駅まで行って降りた。日暮れ前のターミナル駅はたくさんの人が行き交っていた。



そこから歩いて5分ほどの学習塾に入って行った。部長から受験生へ変身だ。



みっちり勉強し、塾を出たのは23時。葦原駅の周りもすっかり静かになっていた。



帰りの電車に揺られながら、かの子は携帯を取り出した。鈴木くんからのメッセージは来ていない。



かの子も忙しいが、鈴木くんもまた最近忙しいようだ。先月の終わり頃から市内でコンビニ強盗が立て続けに起こっていた。



かの子は鈴木くんへのメッセージを作った。



『気をつけてね。無茶しないで』



だが送信せずに消してしまった。
















和傘作りは日々、着々と進んだ。



傘の骨に紙を貼る和紙貼りという工程では、替えの和紙がないために失敗できず、手が震えるほど緊張した。



でもすべて貼り終えると、もう立派な傘の姿になっていて、部員一同、大きな達成感を味わった。



「なんか自分で作ったとは思えない」



1年生女子部員の持田さんが嬉しそうに言った。2年生の森下くんは記録用の写真を撮った。



次は姿付け。和紙に折り目を付けて、初めて傘を折り畳む、とても重要な作業だ。



紙なので1度折り目がついてしまうと戻らない。1か所ずつ慎重に折り込んでいく。



「きちんと和紙が傘の中に収まれば、細身の良い形になります。傘は閉じた姿も雅でないといけませんよ」



新庄さんはそう言う。



「『雅』っていい言葉だね」



3年生の杏子が言った。かの子はうなずいた。



「将来、結婚して女の子が産まれたら、『みやび』って名前にしようかな。雅な子に育つように」



「いや、まずかの子が雅になろうよ。アイスの歩き食いをやめるとか」



「……」



先っぽのろくろにも丁寧に和紙を貼り付け、いちおう傘はできあがった。あとは天日で2、3週間干して完成となる。



校庭の隅っこに、色とりどり6張の傘が花開いた。紅緋、紺碧、撫子、若竹……



「おー、立派なもんだ」



先生たちもやって来て目を細めた。人の背丈より高くなった向日葵が風に揺れていた。









荻野目家ではお盆になると必ずほおずきを飾る。ご先祖様が帰ってくる目印になる上に、帰ってきた霊魂がほおずきの中に泊まるというのも幻想的で面白い、とかの子は思う。



盆明け、父さんは伸太郎を連れて毎年恒例のキャンプへ。インドア派の息子を薪割りからやらせてみっちり鍛える。



「弱い男はイライラされるぞ」



と父さんから言われたことを帰宅した伸太郎が教えてくれた。



夏休みが終わりに近づき、寂しい気分にもなるが、2学期が始まりクラスメートと会える日が楽しみでもある。



かの子は中学3年間、同じクラスの子たちとおおむね仲良くやってきた。だがもちろん一人残らず全員が友達だったわけではなく、中には感じの悪い子もいたし、あからさまにこちらに敵意を向けてくる子までいた。



家で母さんから料理を習っているときその話をすると、「会社員だったとき、そういう人いっぱいいたなぁ」と笑われた。



「みんなと仲良くする必要なんてないよ。誰かに嫌われたっていいし、無理に分かり合おうだなんて考えなくてもいいよ」



「そうだよね」



「うん。博愛主義はお坊さんの役目だよ。現実生きてたら、人に差をつけるのは当たり前」



「会社で働くって大変そう」



「まぁ、若い頃に思い描いた理想とは違うね。ドラマみたいに綺麗なビルでオフィスワークさせてもらえる人なんてほとんどいないし」



さっき配達の人が熱中症で亡くなったというニュースを観たが、ドラマの方が現実だと思っている人はたくさんいる。



「お家がいちばん。安全だし、好きな人しかいないから」



オクラに和える柚子胡椒を開けようとしたが蓋が固くて開かなかった。



「何これ、全然開かない」



「じゃあ父さんに開けてもらおうか」



母さんはソファでくつろぐ父さんのところへ瓶を持って行った。本当はキッチンの引き出しにオープナーがあるけれど、母さんはいつも父さんに開けてもらって「さすが」と言うのだ。



寝る前、鈴木くんに母さんと話したことを伝えると、『僕もそう思う』と返信が。



『「みんなと仲良く」とか「みんなに優しく」とか言う人は信用できない。荻野目さんのお母さんの方がまともだと思うよ』



振り返ってみると、かの子と仲が悪いのは、たいてい学校とか地元への悪口ばかり言ってる子だった。そしてその子の周りにも似たような子が集まって、自分たちの境遇を嘆き合っていた。



うんざりしてたのが態度に出てしまって嫌われたのかも知れない。鈴木くんは『荻野目さんがそういうグループに入らなくてよかった』と言ってくれた。



『もうすぐ花火大会だね。すごく楽しみ』



最近、鈴木くんとのやり取りがスムーズになった。つい先週、市内を荒らし回っていたコンビニ強盗が捕まったという報道があったばかりだ。



『ただ、24日は降水確率70パーセント。ちょっと心配かな…』



鈴木くんの不安は的中することになった。









空に暗雲が広がっている。遠くでゴロゴロゴロ……と雷が轟いた。



校舎の玄関からかの子ら伝統工芸部の部員たちが出てきた。駆け足で干してあった和傘の元へやって来ると、傘をすべて閉じて建物内に運び込んだ。



その直後、滝のような雨が地面を叩き始めた。グラウンドの運動部員たちもいっせいに屋根のある場所へ避難して行った。



かの子は和傘を2本持っていた。梶くんは今日も部活をサボっている。他の部員たちはみんなで和傘作りの記録をまとめていたところだった。



「やくちゃもない降り方だね。学校の外が見えないよ」



杏子が言った。雨に閉ざされ、学校が別の世界に行ってしまったようだ。



杏子は和傘作りが最後の部活動になる。8月で引退して、その後は受験勉強に専念するのだ。



「できれば文化祭まで続けたいけど、私は志望校ぎりぎりだからさ」



そう言っていた。かの子は秋までは続けるつもりだった。



「梶くんのことがあるから、まだ辞めない。お母さんに、任せてくださいって言っちゃったもの」



思えば2年前、入部当初のかの子は、部活動への熱意なんてほとんどなかった。何にもしないでいるのはダメな気がする…という程度の想いで始めた部活だが、今は自分の引退後のことまで気になっている。



「そっか。でもかの子は余裕だもんね。今の志望校なら」



杏子は将来、何か店を開きたいと言う。何の店にするのかは決めておらず、「大人になったとき、この街に無いお店を開く」らしい。



「葦原って都会じゃないから、競争相手も少ないじゃない? そういうのブルーオーシャンっていうんだよ」



好きなことをやるのではなく必要とされることをやる。そういう考え方にかの子は感心したし、ますます杏子が好きになった。



「部長やってみて、どうだった?」



「いや、一年で充分。ずっとは無理だね」



2人はおそらく別々の高校に進む。かの子は隣で雨空を見上げる杏子に言った。



「杏子といっしょに部活できて楽しかったよ。ありがとう」



「うん、私もだよ。ありがとうね、かの子」



2人はそう言って笑い合った。



花火大会は明日だ。それまでに雨が止んでくれることをかの子は祈った。



しかし願いは届かず、雨は翌日、翌々日も降り続いた。



葦原の花火大会は順延が決まり、次の日曜日に開催されることが発表された。8月31日。夏休み最後の日だった。
















連日街を覆っていた雨雲がようやく去ると、風の感触が変わった。朝晩は少し涼しくなり、日差しは相変わらず強いが、空気が爽やかになった。



かの子が通っている塾では実力テストが行われ、そこでかなり良い点を取ることができた。豊川高校の合格ラインにもあと少しで届くほどだった。



迷いは深まる。鈴木くんにも相談すると、『いっしょの学校に行けたら嬉しいけど、無理しないでね』という返信だった。



『荻野目さんが志望してる高校も良い学校なんだから。でも豊川受けるのなら、できる限り協力するよ』



結局決心はつかないまま、8月最後の日を迎えた。



かの子は家の姿見の前で、母さんに浴衣を着付けてもらっていた。外は夕闇が迫っていた。



朝顔柄の浴衣をまとったかの子は、鏡に映った自分を見てはにかんだ。伸太郎はすでに友達と花火大会に出かけている。



「かの子、学校で何て言われても、女であることを辞めちゃダメよ」



母さんが帯を結びながらそんなことを言った。



「それはあなたの才能だから。才能は伸ばさなきゃ」



「うん」



「神様が決めたことなんだから、できる限りはそうしなさい。平等より分業だよ」



巾着を持って、下駄を履いて家を出た。駅へ向かう途中、やはり浴衣姿の人が他にもいた。



駅の前までやって来たとき、巾着に入れた携帯が鳴った。



鈴木くんだと思って携帯を取り出した。しかし、かかってきたのは意外な人からだった。



電話に出ると、「もしもし」と女性の声がした。



「荻野目さん? こんばんは。梶学の母です」



声と喋り方に聞き覚えがあった。以前、梶くんを伝統工芸部に入れるための許可をもらいに訪ねた、梶くんのお母さんだった。かの子の電話番号もそのとき教えていたのだ。



「こんばんは。どうしたんですか?」



「ごめんなさいね、急に。学から電話とかなかった?」



「いえ。今日は部活休みだったので。どうかしたんですか?」



「そう。あのね、あの子、うちのお父さんとケンカして、家を飛び出して行っちゃったの」



かの子は「えっ」と声をあげた。梶くんのいつも不機嫌そうな顔が頭に浮かんだ。



「かなり激しく言い合っちゃって。そのうち帰ってくると思うけど、でもちょっこし心配で…」



「はい。もう暗くなりますしね」



「もし連絡があったら、居場所を聞いておいてくれる? 携帯が繋がらなくて、こちらからは連絡がとれないの」



「分かりました。早く帰るように言っておきます」



「ありがとう。あの子、荻野目さんのことをよく家で私に話すのよ。あんまり友達いないから、そういうことって珍しいの」



「ウザいウザいって言ってるんでしょう?」



かの子は笑いながら言った。梶くんのお母さんも笑った。



「本当は嬉しいのよ。へそ曲がりだから。いつも気にかけてくれて、ありがとうね」



「いいえ。可愛い後輩ですから」



通話を終えて電車に乗ってからも、かの子は梶くんのことが気がかりで仕方なかった。ませてはいるけどまだ13歳の子供だ。父親とケンカして、どこかでひとり泣いているのかも知れない。



ある駅に停まったとき、かの子は思い立って電車を降りた。駅を出てしばらく歩くと、梶くんがよく行く将棋サロンが入っているビルに着いた。



店内の受付のおじさんに、梶くんが来ていないか尋ねた。しかしおじさんは「いや、ここ何日かは来てないね」と答えた。



「梶くんが他に行きそうなとこって、ご存知ないですか?」



かの子は梶くんに対し、学校外の行動にまで踏み込まないようにしているので、普段どこで何をしているかほとんど知らない。



「うーん、そうだねぇ……あ、西ヶ崎のゲームセンターによく行くって話してたことがあるな」



「西ヶ崎…ナムコかな? 行ってみます」



かの子はビルを出て再び駅へ。ホームで電車を待ってる間、携帯で時間を確認した。



鈴木くんとの待ち合わせまであとわずかしかなかった。かの子は『遅れるかもしれません』というメッセージを送った。









西ヶ崎のナムコに梶くんはいなかった。浴衣姿で入ってきた女の子を、周りは驚きの目で見ていた。



仕方なく店を出たかの子は、梶くんの携帯にかけてみた。しかしやはり繋がらない。



空は暗くなっている。時間はもうない。鈴木くんの元へ行かなくては。自分にできることはやったはずだ。



でもきっと、今のまま花火大会に行っても楽しめないに違いない。梶くんのことが気になって、花火どころではないだろう。



駅に戻って、ホームで電車を待つ。もう待ち合わせの時間を少し過ぎていた。最初の花火が打ち上がるまで、あと30分ほどしかない。



梶くんもどこかで花火を目にするのかも……そう思ったとき、はっと閃いた。



「もしかして……」



かの子は反対側のホームへ渡る階段へ走り出した。からころからころと下駄が鳴る。ああ、はしたない。母さん、ごめんなさい。でもかの子の足は止まらなかった。









小木町の矢中神社。その拝殿の階段に梶くんはひとりで座っていた。



「先輩……どうしたんですか?」



梶くんは呆気にとられていた。息を切らしたかの子は、近づいて彼の腕をぺちんと叩いた。



「痛っ、何するんですか」



「携帯の電源入れておきなさいよ。お母さんから電話があって、捜してたのよ」



「えっ、うちの母さんが? 何で先輩に?」



かの子は梶くんのお母さんとの電話のやりとりを話して聞かせた。梶くんはため息をついた。



「何で関係ない先輩に電話するかな、もう……」



「ほかに当てがなかったんでしょ。あー、下駄だから疲れた」



かの子は拝殿に向かって手を合わせた。



「お邪魔します。大きな声出してごめんなさい」



そうつぶやいて、梶くんの隣に座った。



階段にはキリンレモンが置いてあった。梶くんはそれをかの子に差し出した。



「飲みます? まだ開けてないんで」



かの子は引ったくるように受け取ると、蓋を開けて一気に半分ほど飲んだ。



「お父さんとケンカしたんだってね」



「ええ、まあ」



「どうするの? ちゃんと帰れる?」



「帰りますよ。このまま家出なんかしませんって」



と、そのとき、ずっと向こうの空に花火が打ち上がった。



夜空に大輪の花が咲く。離れているので迫力はいまいちだったが、周りに高い建物がないので本当によく見えた。



「鈴木先輩は? いっしょに観に行くんじゃなかったんですか?」



「……さっきキャンセルした。あっちは同じクラスの子たちと会ったんで、いっしょに観るんだって」



それを聞いた梶くんは「え……」と絶句した。



「それって…俺のせいですか?」



「そうだよ、初めての花火デートだったのに。浴衣まで着て張り切ってたのに」



かの子は梶くんの肩を叩いた。「すみません」と梶くんは謝った。



「でも、まあ、そんなに深刻そうじゃなくて良かった…」



「みっともないところ見せちゃいましたね。笑ってください」



「恥ずかしがることないよ。うちなんて家族でしょっちゅうケンカするよ。たまに声がでか過ぎて、お隣さんから『またやってたね』って笑われて謝ってるんだから」



「へえ……」



「でも人と暮らすってそういうものだよね。格好良く暮らすなんてできないよ。みっともないところも曝け出さなくちゃ」



「開き直るってことですか」



「そう。人と暮らすのが得意な人なんていないよ。努力する人としない人がいるだけだよ」



「独りでいい」と言う人は強いのではなく弱いのだ。ちゃんと誰かと暮らせるのが本当に強い人だ。かの子はそう思う。



轟音とともに街が色とりどりに染まっていく。空には夏の大三角形も姿を見せていた。









自販機の脇のゴミ箱にペットボトルを捨てた。ゴトン、という音が人けのない駅前に響いた。



「あの、本当にご心配おかけして、すみませんでした」



駅の入り口の前で梶くんは頭を下げた。かの子は「もういいよ」と言った。



「ちゃんと家に帰ったか、後で電話で確認するからね。それとこれからは携帯の電源はいつも入れておくこと」



「分かりました。それじゃあ、失礼します」



梶くんは改札へと向かった。その背中にかの子は「ねえ、ちょっと」と大声で呼びかけた。



梶くんは振り返った。



「何ですか?」



「女の子がせっかく浴衣着てるんだから、何か褒めたら? 『素敵』だとか『可愛い』とか『いつもと違って女らしい』とか」



かの子に文句を言われた梶くんは、ふっと微笑んでから言った。



「雅ですね。おやすみなさい」



彼は駅の階段を駆け上がって行った。



「……よろしい」



かの子も微笑んだ。
















「そう、梶くん見つかったんだ。良かったね」



電話の向こうの鈴木くんは、ちっとも怒った様子もなくそう言った。



かの子は駅前のベンチに座って、鈴木くんと話していた。時折ロータリーを通る車のヘッドライトがかの子を照らして行った。



「うん。今日は本当にごめんね」



「気にしないで。荻野目さんは立派だよ。大変だったね。ご苦労様」



責められるどころか労わりの言葉をかけられ、かの子の目には涙が浮かんだ。



「じゃあ、もう切るね。遅くならないうちに帰らないと、家の人が心配するよ」



「分かった。おやすみなさい」



「おやすみ」



かの子が家に帰ると、テーブルに水の張った白い深皿が置いてあって、中に真っ赤な金魚が2匹泳いでいた。伸太郎が露店の金魚すくいで捕ってきたという。



梶くんの家に電話をかけようと思ったら、向こうからかかってきた。ちゃんと家に帰ったようで、お母さんから何度もお礼を言われた。



風呂に入ってパジャマに着替えると、疲れていたかの子はすぐにベッドに入ってしまった。



充実していた今年の夏休み。だけど最後はちょっと残念な日になってしまった。



明日から新学期が始まる。電気を消し、ため息をひとつ。眠りについた。









闇の中から声が聞こえた。



「……目さん……荻野目さん」



かの子が目を開けると、すぐそばに鈴木くんが立っていた。



あれ? ここはどこだろう? 見慣れた天井、机、本棚。自分の部屋だ。でも確かに鈴木くんの顔がすぐ近くにある。



目が覚めた。慌てて体を起こす。ベッドの傍らに立っているのは、間違いなく鈴木くんだった。



「あっ、えっ? どうして…」



部屋に目を向けると、ベランダのガラス戸とカーテンが開いていた。そこから月明かりが差し込んで、室内を明るくしている。



「こんばんは」



鈴木くんは笑顔であいさつした。



「こんばんは」



かの子もあいさつした。



「ごめんね、突然お邪魔して」



「うん、いいけど、あれ? どうしたの?」



疑問が多すぎて、何から訊けばいいのか分からなかった。



「今からちょっこし付き合ってくれない? 荻野目さんをどうしても連れて行きたいところがあるんだ」



「私を、連れて行きたいところ……?」



まだ頭がうまく働かない。これは夢なのだろうか?



「僕のお気に入りの場所なんだ。荻野目さんにもきっと気に入ってもらえると思うよ」



「……うん、別にいいけど」



「本当? じゃあ行こう」



鈴木くんは布団を引っ剥がすと、かの子を抱き上げた。



「ちょ、ちょっと、鈴木くん」



かの子はうろたえ、声をあげた。彼はかの子をお姫様抱っこして、ベランダへ向かう。



ベランダにはスニーカーが置いてあった。彼はそれを履いて、かの子に尋ねた。



「荻野目さん、ジェットコースター好きだよね」



かの子は「うん」とうなずいた。いっしょに遊園地に行ったときは、鈴木くんの方が気絶しそうになっていた。



鈴木くんはベランダの柵に足をかけて、ひょいと上に乗った。かの子は「わぁっ」と悲鳴をあげた。かの子の家は7階だ。



「ちょっ、待って、鈴木くん、あの……」



「舌噛まないように口閉じててね」



鈴木くんはそのままベランダから飛び降りた。



2人の髪が逆立った。パジャマの裾がばたばたばたと音をたててはためく。



すぐ下は駐車場だ。アスファルトの地面がすごい速さで近づいてくる。



かの子は鈴木くんにしがみつき、固く目を閉じた。



その瞬間、ごうっと突風が巻き起こる音がした。



下からかかっていた重力が、突然反転して上からに変わった。思わず「うっ」と声がもれる。



逆立っていた髪が頭に張りついた。パジャマの裾の音が止んだ。そしてすべての音が消えた。



恐る恐る目を開けた。そこは地上をはるかに見下ろす空中だった。



「うわ……」



かの子は思わず声をあげた。



車がミニカーみたいに見える。家々がまるでミニチュアだ。コンビニの明かりもあんなに小さい。



鈴木くんはかの子の家から道路を隔てた別のマンションの屋上に降り立った。



着地の寸前、また突風が起こった。まるで小さな竜巻が2人を包んだようだった。



ナイキのつま先が地面を蹴り、さらに高く高く跳び上がる。どんどん上昇していく。



「わ、わ、わ……」



2人は葦原市内が一望できるほどの高さまで到達した。街の向こうには真っ黒な海が広がっている。



ジャンプの頂点から、一瞬、無重力状態になって下降していく。内臓がせり上がるような感覚に襲われた。



別のビルに着地して、風を巻き起こして、また跳び上がる。電車でひと駅の距離を、たった5歩で進んで行った。



かの子は鈴木くんの横顔を見た。彼は前を見て楽しそうに微笑んでいた。



夜の世界の鈴木くんは、昼間よりずっと生き生きしていた。









2人がたどり着いたのは、この街のどこよりも高い場所だった。



「9月から入居が始まるから、ここに来るのは今夜で最後にするんだ」



鈴木くんは言った。2人が手を繋いで立っているのは、かの子の部屋からも見えた、完成したばかりの30階建ての高層マンションの屋上だった。



目の前には葦原市街の夜景が広がっていた、光の粒をばらまいたような光景に、かの子はしばらく見とれていた。



「気に入ってくれた?」



「うん。葦原ってこんなにきれいだったんだね」



「僕はヒトの手が作った風景が好きなんだ。人間が好きだから」



鈴木くんは街を見つめながらそう言った。そうだ、ここから見えるのは全てヒトが築き上げたものだ。



「文明の光がもっと灯って欲しい。僕はそれを守っていきたい」



鈴木くんの声は静かだが力がこもっていた。決意を新たにしているような、自分に向けた言葉のようだった。



「ねえ荻野目さん、これからも、おせっかいで思いやりのある荻野目さんでいてね」



ふと鈴木くんはそんなことを言った。梶くんとの一件について言っているのだ。



「僕は荻野目さんのそんなところを好きになったんだから」



「……うん」



かの子は笑顔でうなずいた。



地上だけでなく、空にも無数の光があった。夏の星座たちが2人を見下ろしている。



と、夜空にすっとひと筋の光が走った。



「あっ」



かの子は声をあげた。今、ほんの一瞬だったけど、確かに見えた。



「流れ星」



「流れ星だ」



2人は声を合わせた。



「私、初めて見た。本当にきれいに夜空に線を引くんだね」



かの子の夢が叶った瞬間だった。子供の頃から見たかった流れ星がついに見えた。それも理想通り、好きな人の隣で。



かの子は鈴木くんと繋いだ手をぎゅっと握った。そう言えば2人が手を繋ぐのはこれが初めてだった。



「ありがとう、鈴木くん。今日のこと、一生忘れないよ」



鈴木くんは「僕も」と言った。最高の夏休みの締めくくりだった。



風が吹いて、かの子の髪を揺らした。パジャマに裸足のかの子には、地上30階の夜風は少し肌寒かった。



「冷えてきたね。もう帰ろうか」



鈴木くんが言った。かの子は名残惜しかったが、足が少し冷たくなってきていたので、うなずいた。



「じゃあ荻野目さん、僕の手を見て」



鈴木くんは空いてる方の手をかの子の顔の前に突き出した。



彼の手のひらには、不思議な紋様が描かれていた。それを見ていると、頭がぼんやりしてきて、足元がふらついた。



視界が歪んでいく。倒れそうになったところを鈴木くんに抱きかかえられたとき、意識を失った。









眠りから覚めると、そこは自宅の自分の部屋だった。



急いで体を起こし、部屋を見回した。朝の日差しがカーテンの隙間からもれている。鈴木くんはいなかった。



ベッドから降りてベランダに出た。ずっと向こうにあの高層マンションが見えた。



「かの子、起きた? ご飯できてるよ」



母さんの声が聞こえた。かの子は「はーい」と返事をした。



学校の制服に着替えてから、部屋のカレンダーを1枚破った。今日から9月だ。



電車に乗って学校へ向かう。駅を出ると、鈴木くんが待っていた。毎朝ここから学校までの500メートルをいっしょに登校しているのだ。



「おはよう荻野目さん。今日から新学期だね」



何事もなかったような顔で鈴木くんはかの子を迎えた。かの子もいつも通りの態度で「おはよう」とあいさつした。



2人は並んで歩き出した。降り注ぐ日差しはまだまだ夏そのものだ。



「昨夜、がんこいい夢を見たんだ」



かの子がそう話すと、鈴木くんは「へえ」と言った。



「素敵な夢。夢みたいな夢だったよ」



「そう。良かったね」



鈴木くんはどんな夢だったのかは尋ねなかった。かの子も話さなかった。



「鈴木くん、今度の日曜日、私の家で勉強しよう」



かの子は突然提案した。鈴木くんは「えっ」と声をあげた。



「お、荻野目さんの家で?」



「鈴木くんのこと、家族に紹介したいから。ね? 決まり」



かの子のちょっと強引な決定に、「……うん」と従うしかない鈴木くんだった。



その日の夜から、あの高層マンションのいくつかの窓に明かりが灯り始めた。
















9月も半ばを過ぎると葦原市では、風の中に秋の気配を感じるようになった。



朝、顔を洗う水は冷たくなり、日が暮れるのが日毎に早くなっていった。



とある駅前の雑居ビルの2階。ひとりの女の子がやって来て、〈将棋サロン葦原〉という看板のかかったドアを開けた。



「やっぱりここにいた。梶くん、部活出てきな」



かの子は中で対局中の少年に向かって言った。少年は舌打ちして、うんざり顔をかの子に向けた。



「また来た。静かにしてください」



「何その態度。携帯の電源入れておけって言ったじゃない」



「今日はサボります」



「今日も、でしょ? 3日連続なんて許さん。ほら、行くよ」



かの子は梶くんの腕をつかんで引っ張った。梶くんは「あーあ」とため息をついて立ち上がった。



「お騒がせしました。失礼します」



かの子はそう言って梶くんを連れ出して行った。「ご苦労様」と受付のおじさんが笑いながら言った。









ビルの前では、かの子と同じ学校の制服を着た男子が、自転車に跨がって待っていた。



「お待たせ森下くん。行こうか」



かの子は自転車の後ろの荷台に乗ると、「しゅっぱーつ」と言った。



森下くんは「よいしょっ」と自転車を漕ぎ出した。彼は伝統工芸部の新部長に選ばれたばかりだ。



梶くんは走って後からついて来る。以前ほど不満たらたらの顔をしなくなったのは、暑さが和らいだせいだけではないようだ。



「荻野目先輩、部活はいつまで続けるんですか?」



梶くんが尋ねた。最近彼はかの子のことを「先輩」ではなく「荻野目先輩」と名前付きで呼ぶようになった。



「私? 分かんない。もともと12月まで続けるつもりだったけど…」



「けど?」



「最近になって志望校変えたから、これからの成績次第では引退を早めるかもね」



「どこ受けるんですか?」



「豊川高校」



「豊川?」



「うちの中学からは毎年5、6人しか受けないようなとこでしょ?」



「自信あるんですか?」



梶くんの質問にかの子は「まだ、ない」と答えた。



「でもやる気はみなぎってるよ」



「やる気だけじゃどうしようもないでしょ。考え直した方が良いと思うな」



「あ、そんなこと言うんだったら、賭けようか? ガチで」



「賭ける? 何を?」



「私が豊川に合格したら、中学3年間、部活を続けること。サボらずにね」



かの子の提案に、梶くんは渋い顔だった。



「サボらず、ですか…」



「当然。私も安心して卒業できるよ」



「おい梶、ここで引いたら男じゃねえぞ。受けろよ」



森下くんがけしかける。梶くんはしばらく考えてから、口を開いた。



「分かりました。受けて立ちますよ」



「よし、約束だからね。これでモチベーションがひとつ増えたわ」



「あ、飛行機雲」



森下くんが言った。空を見上げると、かの子たちと同じ方向へ飛んで行く飛行機が空に真っすぐな白い線を引いていた。



「荻野目先輩は、何か将来の夢ってあるんですか?」



近頃の梶くんは向こうからよく話しかけてくる。



「別にないかな。そのとき、私にできそうなことをやるだけだよ」



求められることをやる。杏子から学んだことだ。



「でね、今の私が葦原でできることって何だろう? って考えてたら、鈴木くんが教えてくれたの。女の子はお洒落して、街を歩くだけでいいんじゃないって。だから受験が終わったら、なるべくたくさんお出かけしようと思うんだ」



葦原は決して華やかな街ではない。だから私が花になろう。スターにはなれなくても、小さな花にはなれるかも。



かの子は新学期が始まってから毎日、昼休みに鈴木くんに勉強を教わっている。彼に影響され、自分がどんどん変わっていくのを感じていた。



「良い彼氏さんですね」



梶くんが言った。かの子は誇らしげにうなずいた。



「いいなあ、そういうの。俺も彼女欲しいよおぉぉぉぉっ」



森下くんが叫びながら自転車を力いっぱい漕ぎ始めた。かの子は「きゃー」と悲鳴をあげる。



「だ、だから俺を置いていかないでくださいってば」



梶くんは慌ててそれについていく。澄み切った青空に飛行機雲がどこまでも伸びていた。










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