鈴木くんは忍者なの?
樋口師父
第1話
其の一
1
3月も終わろうかというのに、北陸地方はまだまだ寒い日が続いていた。
『九州、四国は桜前線が上陸し、いよいよ春本番です…』
カーラジオが遥か南の様子をそう伝えていた。
「早く暖かくなるといいな」
荻野目かの子は窓の外を眺めながらつぶやいた。
「桜咲いたら、お花見行きたいね」
「おいね。去年は毎日雨だったから、今年は晴れるといいんだけど」
ハンドルを握る父さんが言った。
「桜と青空は相性抜群だもんね」
と助手席の母さん。かの子もそう思った。桜は見上げたとき、その向こうに青い空が広がっていると、格別きれいだ。
今日は日曜日。家族で郊外へドライブに出かけた帰りだった。
北陸自動車道を西へ。フロントガラスに黄金色の夕焼けがまぶしい。
「晩ごはん何作ろうかな」
母さんがそう言うと、かの子の隣に座っていた弟の伸太郎が身を乗り出した。
「串カツ食べて帰ろう。または回転寿司」
「お昼、お店で食べたでしょ。そんな外食ばっかりダメ」
母さんは伸太郎の頬をつねった。
「私は母さんの料理の方がいいな」
とかの子が言うと、父さんも「俺も」。伸太郎は仏頂面で座り直した。
「じゃあ、せめて何かスイーツ買って帰ろうよ」
「あっ、賛成。最近出たローソンのパフェが、がんこおいしいって友達から聞いたよ」
かの子も手を挙げて弟を援護した。子供たちにせがまれた父さんは仕方なく葦原市内に入ってから、ローソンの駐車場に車をとめた。
車から降りると、冷たい風がかの子の髪と白いマフラーをはためかせた。空はもう暗くなっていた。
伸太郎と駆け足で店へ向かう。そのとき自動ドアが開いて、中から銀縁メガネの少年が出てきた。
彼はかの子と目が合うと、「あっ」と声をあげた。
かの子も「あっ」と声をあげて立ち止まった。
「鈴木くんだ。こんばんは」
「荻野目さん。こんばんは」
少年はかの子のクラスメート、いや、中学2年生のときの元クラスメートだった。こんなところで会うなんて。
「お友達?」
後ろから来た母さんがかの子に尋ねた。
かの子は「うん」と答えたが、実際は友達と言うほど親しい間柄ではなかった。あまり喋ったことはないし、連絡先も知らない。
クラスでも目立たない少年だった。少し垂れた目尻、小さな顔、広いおでこ、短くて柔らかそうな髪。手にはレジ袋を提げていた。彼もかの子も、この春休みが明けると中学3年生になる。
「こんばんは」
鈴木くんはかの子の両親に頭を下げた。二人も「こんばんは」と挨拶した。伸太郎はもうひとりで店に入ってしまっている。
「かの子、先にいってるよ」
父さんはそう言って、母さんといっしょに店のドアをくぐった。
「鈴木くんって、この辺に住んでるの?」
かの子は尋ねた。鈴木くんは首を横に振る。
「僕は猪戸の方だから。ここに入ったのはたまたま」
「そうなんだ。何買ったの?」
「さけるチーズと、ホットレモン」
鈴木くんは袋からペットボトルを出して見せた。
「荻野目さんは、どこか行ってたんだ?」
「梅谷。温泉入って、カニ鍋食べてきた」
そのときかの子は、鈴木くんの身なりが気になった。黒いコートに黒いチノ、黒い靴と、全身黒ずくめだったのだ。
「鈴木くん、真っ黒だね。暗くなってそんな格好で歩いてたら、車とか自転車に轢かれるよ」
かの子がそう指摘すると、鈴木くんは自分の姿を見て、ちょっと恥ずかしそうに「ああ、おいね」と言った。
「でも、平気。気をつけるよ」
彼はそう言うが、かの子は心配だった。これで車道を渡っているときなんかに車が走ってきたら…
「じゃあね。また新学期に」
鈴木くんはそう言い残して、かの子の前から歩き出した。店の明かりから離れると、彼の後ろ姿は案の定、ほとんど見えなくなってしまった。
かの子は店に入っていった。伸太郎がスイーツコーナーのところに立っている。母さんは雑誌を、父さんはお酒のつまみを選んでいた。
「姉ちゃん、これも良くない? どれにする?」
「んー…何でもいいよ」
やっぱり鈴木くんのことが気になった。かの子は去年、部活の先輩を交通事故で亡くしていたので、やや神経質になっていた。
かの子は踵を返して出口に向かった。
外に出て、ローソンから少し走ると、鈴木くんが歩いていた。
「鈴木くん、待って」
声をかけると、鈴木くんは振り返った。かの子は彼の前までやって来た。
「荻野目さん。何? どうかした?」
鈴木くんはびっくりしていた。かの子は自分の首に巻いた白いマフラーを外すと、鈴木くんの首にかけてあげた。
「これ、貸してあげる。夜道でも少しは目立つでしょ?」
かの子はマフラーを自分が巻いていたのと同じように巻いてあげた。鈴木くんは戸惑っているようだった。
「え、でも、荻野目さんが寒いでしょ?」
「平気。車だし。私ね、かなりおせっかいな性格なの。そのせいで人からウザがられるときもあるけど」
大きめのマフラーで首元をすっぽり覆った鈴木くんは、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。がんこあったかい」
かの子は鈴木くんの笑顔を初めて見た。へえ、こんな風に笑うんだ、と思った。
「学校始まったら返してくれればいいから。じゃあね」
そう言い残して、急いでセブンへ引き返す。背後からもう1度、鈴木くんが「ありがとう」と言うのが聞こえた。
ローソンの前まで戻ったとき、ふとかの子は立ち止まり、振り返った。
鈴木くんが住んでる猪戸は、たしかあっちの方向ではない。家に帰るのではないのだろうか? 塾に行くわけでもなさそうだし……
かの子は家に着いてから、連絡表で彼のフルネームを調べてみた。
鈴木勇人だった。
2
葦原市はおよそ50万人が暮らす、北陸地方ではかなり大きな都市だ。西に日本海を臨み、南東部に広がる山地には千メートル級の高峰が連なっている。
葦原駅の周りはオフィスビルや商業施設が建ち並んでいて、とても賑やかだ。その一方、かつての藩主の居城である葦原城の城跡や武家屋敷など、江戸時代からの史跡もたくさん残っていて、それを目当てに観光に訪れる人も多い。
荻野目家は機械技師の父さん、母さん、かの子に伸太郎の4人家族。市街地の南側に建つ8階建てマンションの7階に暮らしている。
4月に入り、春休みが明けた今日、2人の子供たちは学校に行く準備に追われていた。
「シンタ、かの子、雪が降るんだって。厚着してね」
キッチンから聞こえた母さんの言葉に、伸太郎は「マジかよ…」とつぶやいて父さん譲りのクセ毛を掻いた。
「もうマフラー要らないと思ってたのに」
制服に着替えたかの子は小さく呟いた。
朝食を済ませ、家を出るかの子を、母さんが呼び止めた。
「あんたマフラーは? 寒いよ」
「いい。お腹のとこにカイロ貼ってるから。いってきます」
エレベーターを降りて外に出ると、もうちらちらと雪が落ちてきていた。4月の雪は葦原市でもさすがに珍しかった。
刺すような寒風が剥き出しの首元を通り過ぎていく。かの子は学校のコートの襟を立てて、足早に駅に向かった。
学校に着くと、大きな掲示板に新しいクラス分けが貼られていた。かの子は1組だった。
教室に入ると、仲の良い子、顔見知りの子が何人かいた。みんなでいっしょのクラスになれたことを喜び合った。
始業式のとき、鈴木くんの姿を見つけた。彼は3組の列の中にいた。
「聞いて聞いて。あたしの家の隣に住んでる人が、引ったくりに遭ったんだ。昨夜、警察の人が来てた」
始業式が終わり、教室に戻ってみんなで喋っていたとき、友人のひとりがそんな話を始めた。周りは「えー」「恐っ」と口々に囃し立てる。
「仕事から帰ってくる途中に、後ろから近づいてきた2人乗りのバイクにバッグ盗まれたんだって。財布もiPhoneも盗られて、めっちゃ落ち込んでた」
それを聞いてかの子たちは「かわいそう」「許せん」と感想を言い合う。
最近、葦原市内で夜間の引ったくりが多発していることはかの子も知っていた。何カ月経っても犯人は捕まらず、夜遅く家路につく人々を不安に陥れていた。
新しい担任の先生が教室にやって来たので、生徒たちは自分の席に戻った。今日は授業もなく、このまま放課になる。
「高校受験を控えた大事な1年です。みなさん悔いのないようしっかり勉強してください。では、今日はここまで」
チャイムとともに各クラスのドアが開き、生徒たちが廊下に溢れ出てきた。外はまだ雪が降っていたが、積もる様子はない。
かの子も帰ろうと鞄を持って席を立った。そこに声がかかった。
「荻野目さん、荻野目さん」
教室の外から顔をのぞかせた鈴木くんがいた。手には紙袋を持っている。
かの子は鈴木くんに近づいていった。彼は何だが浮かない顔をしていた。
「鈴木くん、3組でしょ?」
「うん」
「別々になっちゃったね。残念」
「うん。あのさ、ちょっこし話があるんだけど、いい?」
鈴木くんはかの子と目を合わせなかった。声も何だか暗い。ただマフラーを返しに来ただけとは思えなかった。
「いいよ。じゃあ、ここうるさいから、どこか行こうか」
2人は教室を離れて、屋上へつづく階段の踊り場までやって来た。ここなら静かで、誰も来ない。
「話って何?」
「あの、荻野目さんにマフラー借りてたよね?」
「うん。返しに来てくれたんでしょ?」
「…いや、実はあのマフラー、失くしちゃったんだ。ごめん」
そう言って鈴木くんは頭を下げた。
かの子は驚いた。てっきり紙袋に自分のマフラーが入っているものだと思っていた。
「失くした? 家で?」
「いや、外で。ごめんなさい……」
鈴木くんの返事はかろうじて聞こえるほど小さなものだった。
奇妙な話だった。マフラーなんてなかなか紛失するものではないはずだけれど。
「そう…ま、いいよ。もう使わなくなるし、新しいのを買おうと思ってたから」
「本当にごめん。それでさ、別のマフラー買ってきたんで、良かったら使って欲しいんだ」
鈴木くんは持っていた紙袋を差し出した。これは弁償の新しいマフラーだったのだ。
「そんな。いいのに」
「ううん。悪いから。同じ白いやつなんだけど、気に入ってもらえるかな…」
かの子は紙袋を受け取って、中の箱を取り出した。それを見て息を呑んだ。
「これって、たしかパルコで売ってる…」
有名なブランド品で、2万円はするものだ。「うん」と鈴木くんはうなずいた。
「こんな高いの受け取れないよ。私のマフラー、1980円だよ」
「いいんだ。今年のお年玉、ずっと貯金してたから」
「えー…ほんとにいいの?」
「もちろん。じゃあ、そういうことで。僕、帰るね」
鈴木くんはひとりで階段を下りて行ってしまった。
と、そのときかの子は、鈴木くんがまったく足音をたてずに階段を下っていることに気づいた。
まるでバレエダンサーだった。みんなと同じ上履きを履いているのに、音がしない。1ミリだけ宙に浮いてるみたいだ。
階段を下りたところで、鈴木くんは振り返った。
「僕も、荻野目さんといっしょのクラスじゃなくて、残念だった」
「……うん」
かの子は微笑み、頷いた。鈴木くんは走って行ってしまった。
3
夜になると雪も止み、空には星が出てきた。
集会場前の広場には、荻野目家の近所の人たちが集まっていた。今日は夜回りの日だ。かの子と母さんもみんなと出発を待っていた。
荻野目家は町内会の催しにはわりと参加する方だ。かの子もこういうのは嫌いじゃなかった。
午後7時に広場を出発。先頭の町内会長が拍子木をちょんちょんと鳴らす。
「戸締り用心、火の用心」
全員で声を合わせる。これを繰り返しながら町内を1周する。
「かの子ちゃん、かの子ちゃん」
自分を呼ぶ声が低い位置から聞こえた。横を見ると、小さな男の子が並んで歩いていた。
「雅晴くん。こんばんは」
同じマンションの家の子だった。もっと小さい頃はよくかの子の家で預かったりもしていた。
「こんばんは。彼氏できた?」
「できてないよ。悪かったね」
かの子は雅晴くんの襲いかかり、くすぐった。「やめろー」と雅晴くんは笑いながら声をあげた。
「ねえ、かの子ちゃん知ってる?葦原には忍者がいるんだよ」
しばらくいっしょに歩いていると、雅晴くんがおかしなことを言い出した。
「忍者? あの手裏剣投げたり、水の上を歩いたりする?」
「そう。夜中になると、ビルからビルへぴょんぴょん飛び移ってるんだ」
「って噂が学校で流れてるみたいなの」雅晴くんのお母さんが話に加わった。「誰かがそういう人影を見たって。どうせ嘘だろうけど」
「嘘じゃないよ。忍者は本当にいるよ」
雅晴くんが反論した。「そうだね、ごめんごめん」と雅晴くんのお母さんは謝った。
「シンくんは? 来てないの?」
雅晴くんに弟のことを訊かれたかの子は「何か観たいのあるんだって」と答えた。
「ご多聞にもれず、画面ばっかり見てるの」
かの子の母さんが雅晴くんのお母さんに息子についてこぼした。
「うちのお姉ちゃんも。頼むから視力落とさないでねって言ってるんだけど…」
「みんな自分の土地は見ないで遠くばっかり見てるんだって、お祖父ちゃんが言ってたよ」
雅晴くんがそんなことを言った。かの子は笑った。
「ほんとだね。ここじゃないどこかに夢中だね。私もそんなだけどさ」
だが伸太郎はあまりに度が過ぎているように思う。家族とあんまり喋らないし、私たちに興味がないのかな…と寂しい気持ちになることがある。いちおう父さん不在時の唯一の『男手』なのだが、まだまだそういう自覚はないようだ。
「いつもは地元に何の関心もないのに、みんな困ったときだけ氏神様に願掛けしてるんだから」
雅晴くんのお母さんの言葉にかの子も苦笑いだった。神様も「調子のいい奴」と呆れてるだろう。
夜回りが終わり、かの子たちは帰宅した。テレビのニュースが葦原市の連続引ったくり事件のことを報じていた。
「まだ捕まってないのね、この犯人」
母さんがコートを脱ぎながら言った。
「学校で友達が言ってた。隣に住んでる人がバッグ盗られたって」
「ええっ、ほんとに? 怖いね」
ニュースが終わると県内の天気予報が流れた。週間予報によれば、季節外れのこの寒さは今日がピークで、明日からは本格的に春めいていくらしい。
かの子はお風呂を済ませて自分の部屋に戻ると、ベッドに腰掛けて、鈴木くんからもらったマフラーを開けて広げた。
「これを巻くのは半年後かな」
こんなに高級なものをもらいっぱなしなのは申し訳ない気がした。何かお返しがしたいな、とかの子は思った。
翌日からは予報通り、しぶとく居座っていた寒さが日ごとに鳴りをひそめていった。
暖かな日差しが街に降り注ぎ、木々は芽吹いて、葦原市民の間では花見の日取りをいつにするかが話題にのぼるようになっていった。
かの子が通う中学校には葦原伝統工芸部という部活動がある。かの子はそこに1年生のときから所属していて、昨年から部長も務めていた。
その名の通り、葦原市に昔から伝わる美術や工芸について学び、実際に作ってみたりもする部活だ。今のところ3年生は2人、2年生も2人しかいない小さな部で、新1年生から1人でも多く部員を獲得したいところだった。
昼休み、かの子は同じ3年生部員の杏子といっしょに、1年生の教室へと向かっていた。
「あっ、もしかしてあの子じゃない?」
杏子が指さした先に、廊下の手洗い場で水を飲んでいる少年がいた。
「ねえ、君、ちょっこしいいかな?」
かの子が声をかけると、振り向いた少年は「はい」と返事をして、蛇口の横に置いていた小さな紙袋をポケットに仕舞った。
「梶学くんだよね? 私たちのこと覚えてる?」
そう尋ねると、彼は「いいえ」と首を横に振った。尖った目頭、薄い唇。整った顔立ちだが、口の端はつまらなそうに下に垂れていた。
「そっか。君の家に何度かお邪魔してるんだけど」
「私たちね、友佳里先輩と同じ部活の後輩なの」
杏子がそう言うと、梶くんは眉をひそめ、「ああ…」と呟いた。困惑しているのがその表情からありありとうかがえた。
「ごめんね。君に嫌な思いをさせようってつもりじゃないの。ただ私たち、友佳里先輩にすごくお世話になったから、弟さんが入学したって聞いて、嬉しくなって会いに来たんだ」
「何か困ったことがあったら言ってきてね。相談に乗るから」
かの子と杏子からそう言われても、梶くんは「はあ」と生返事するだけで、視線は足元に向いていた。彼の中ではお姉さんのことは、まだ触れて欲しくないことのようだ。
かの子たちが2年生のときの伝統工芸部の部長だった梶友佳里先輩。彼女は中学卒業を前に、車に轢かれて亡くなった。
華奢で綺麗な、かの子たちの憧れの先輩で、部活動にも熱心だった。葬儀にはかの子たち部員も全員参列した。
「ところで梶くん、部活動はどこか入るの?」
杏子が尋ねた。梶くんは「いいえ」と言った。
「そう。美術とか工芸とかに興味はない…かな?」
杏子が本題を切り出した。実はかの子たちが梶くんの元にやって来たのは、伝統工芸部への入部を勧めるためでもあったのだ。
しかし彼の様子から見て、望みは薄そうだとかの子は思った。友佳里先輩のように彼も伝統工芸に興味があればと期待していたのだが、まだお姉さんの死から完全に立ち直っていないのなら、同じ部活に入ろうとは考えないだろう。
「ありません。全然」
梶くんはにべもなく言い切った。そこへ杏子が食い下がる。
「でも、お父さんが葦原漆器の職人さんなんでしょ? だったら…」
「親父のことはどうでもいいでしょう」
梶くんは杏子をにらみつけた。その強い口調に、かの子も杏子も二の句が継げなくなった。
彼は2人の横をすり抜けて、教室へ入っていった。杏子はため息をついた。
「無理みたいだね。仕方ないよ。他の子を当たろう」
かの子は「…おいね」と頷いた。
4
翌日の昼休み、手洗い場で水を飲んでる梶くんに、ひとりでやって来たかの子が声をかけた。
「こんにちは。今日はあったかいね」
梶くんは驚いていた。蛇口の横に置いてあった紙の小袋をポケットに仕舞う。袋には〈矢部皮膚科〉と書かれているのが見えた。
「もしかしてアトピー?」
「…ただの湿疹です」
「あ、そう。私の弟はアトピーなんだ。小さい頃は首とか背中とかひどくて可哀想だったなぁ。今はかなり良くなって、体鍛えに水泳教室行ってるけど」
梶くんは黙って教室に戻ろうとした。「待って」とかの子は彼の腕をつかんだ。
「伝統工芸部に入らない?」
「入りません。放してください」
「他に部活やらないんでしょう?」
「先輩とか後輩とかの上下関係がいじくらしいんです」
「うちはそういうのないよ。友達感覚のゆるい仲良しクラブだから」
「そんなに部員が欲しいんですか? 人数少ないらしいですもんね」
「それもあるけど、私、友佳里先輩に頼まれてたの。『もし弟がこの学校に来たら、うちの部に誘ってあげて』って」
かの子がそう言うと、梶くんは初めて目を合わせてくれた。手を離しても、かの子の前から去ろうとはしなかった。
「お互いの弟の話をしてるときにね。君のこと心配してたよ」
「だからって何で伝統工芸部に…」
「その方がいいと思ってたんじゃない? 私ね、かなりおせっかいな性格なの。だから君のことを1年間気にかけていこうと思う。友佳里先輩への恩返しのためにもね」
友佳里先輩が卒業するときにちゃんと「ありがとうございました」と言いたかったけど言えなかった。かの子にとってそれが大きな心残りだった。
「はっきり言ってウザいです。苦手なタイプです」
「よく言われる。ウザ子先輩と呼んでよ」
梶くんは逃げるように教室に入っていってしまった。かの子は外から呼びかけた。
「明日も来るから。じゃあね」
中の1年生たちが不思議そうな顔でかの子を見ていた。梶くんは自分の席についてうつむいていた。
かの子が通う中学校の最寄り駅の前には、区立図書館がある。下校時に立ち寄る生徒も多く、かの子もよく利用していた。
この日やって来たのは、部活の資料を集めるためだった。学校の図書室だと詳しく書かれた本が少ないのだ。
夕方の館内には、同じ学校の制服の子があちこちにいた。郷土資料コーナーで必要な本を集め終えると、ついでに何か面白い小説でも借りていこうと思い、文芸の本棚へ向かった。
と、その途中、新聞コーナーに見覚えのある男の子の後ろ姿があるのを見つけた。もしかして、と思ったかの子は、彼に近づいて背中を叩いた。
振り向いた彼は、やっぱり鈴木くんだった。
「あっ、お、荻野目さん」
鈴木くんは大きな声を出してしまった。周りの来館者の視線が集まる。
かの子は人差し指を唇に当てた。鈴木くんは手で口を塞いで「ごめん」とささやいた。
「こんにちは。何してるの?」
小声で話しかけてから、鈴木くんが机に広げていた新聞をのぞいた。
『葦原日報』というローカル紙で、開かれているのは社会面だった。日付は5日前だ。
いちばん大きな記事は、あの連続引ったくり事件についてだった。犯行地点の地図まで載って、大きく扱われている。
「これ知ってる。やだね、早く捕まえて欲しい」
「うん、おいね」
鈴木くんは『葦原日報』を畳んで、元あった棚に戻した。
「荻野目さんは? 本を借りに?」
「部活に使う資料と、あと、何か小説借りていこうかと思って」
「そう。本読むの好きなの?」
「うん、わりと。ミステリーとかファンタジーとか。鈴木くんは?」
「好きだよ。翻訳ものはよく読むよ」
「へえ、外国の小説なんて読むんだ。おすすめのってある?」
「えっ、おすすめ…」
こうして2人は、海外の小説が並んでいる文庫コーナーにやって来た。
「普通ならまず私が手に取らないやつがいいな」
「えーっと、そうだなぁ…」
鈴木くんは真剣な面持ちで、本棚を上から下へと見て回った。
「あ、これ好き」
そう言って抜き出したのは、『女王陛下のユリシーズ号』という古い小説だった。
「がんこ男らしい小説なんだけど、どうかな…?」
手渡された本を、かの子はじっと見つめた。へえ、鈴木くんはこういうのを読むのか、と思った。
本の貸し出し手続きを終え、かの子は鈴木くんといっしょに図書館を出た。
西日が街を赤く染めていた。日が落ちるのがずいぶん遅くなっていた。
「荻野目さん、よかったら…」
「うん、何?」
「連絡先、交換しない? また面白い本とか教えてあげたいから」
「ああ、いいよ。今日借りたの、読んだら感想送るね」
二人は携帯を取り出した。
鈴木くんはバスで帰る。かの子は「じゃあね」と言って、駅へ向かった。
「うん、またね」
彼は自分の携帯を、両手でぎゅっと握りしめていた。
5
その日の夜から、かの子は鈴木くんに勧めてもらった本を読め始めた。
寝る前にベッドに寝転んで読み、翌日には学校に持っていって、休み時間に取り出してページを繰った。
「さっき何読んでたの?」
昼食の時間、友達が尋ねてきた。2年生のときから同じクラスの子だった。
「鈴木くんに教えてもらった小説。最初は難しかったけど、だんだん面白くなってきた」
「鈴木くんって、2年のときにいっしょだった?」
「うん。昨日たまたま図書館で会ってさ」
「へえ。私も先週、外で鈴木くん見かけたよ。夜だけど」
「夜?」
かの子の箸を持つ手が止まった。
「うん。10時頃かな。塾から帰るバスに乗ってて、交差点で止まったとき、横断歩道をひとりで歩いてるのを見たんだ。あれは間違いなく鈴木くんだった」
それを聞いてかの子は、春休みにコンビニで鈴木くんと会ったときのことを思い出した。
「それってどこ?」
「須田の交差点。マツキヨがあるところ」
須田。鈴木くんが住んでいる猪戸とも、春休みにかの子が会った地区とも、かなり離れている。街の反対側と言ってもいい。
彼は暗くなってからあちこちうろついて回るような少年なのだろうか? もしかして昨日もあれから?そんな風には見えないけれど。
と、かの子は時計に目をやり、「あ、やばい」と慌てて母さんが作ってくれたお弁当を口に詰め込んだ。
「ごちそうさまでした」
手を合わせ、弁当箱を片付け、教室を出る。友達がその背中に向かって「どこ行くの?」と尋ねた。
「ん? 1年坊主のところにウザがられに行くの」
暖かな日差しが降り注ぐ校舎の屋上で、梶くんはひとりで寝転がっていた。
「昼休みくらい、友達と過ごしたら?」
かの子は彼の顔をのぞき込んで言った。梶くんは、あからさまに嫌そうな顔をした。
「ほっといてください。ひとりが好きなんです」
そんな彼の態度に構うことなく、かの子は梶くんの隣に座った。彼は小さく舌打ちして、体ごと向こうを向いてしまった。
屋上からは市街地のビルがよく見えた。晴れ渡った空には飛行機が飛んでいる。
校庭の桜はようやく五分咲きといったところだった。今週末が見頃だろう。
「お花見、楽しみだね」
「え? 何です?」
「お花見。私は今度の土曜日に友達と行くし、日曜は家族で行くよ。梶くんは?」
「行きません。花見なんて何が楽しいんですか?」
「えっ、行かないの?」
「意味ないでしょう、あれ」
「何言ってるの。あるよ。あるに決まってるじゃない」
「どんな?」
「どんなって……」
かの子は少し考えてから、こう答えた。
「自分の住んでる土地に目を向けるためだよ。そうして自分の土地をもっと好きになるためだよ」
「僕はこの土地に特に思い入れはないです」
と梶くんは素っ気なく返した。
「高校出たら東京か大阪か名古屋にでも移ります。どこでもいいんです」
まるで携帯会社を選ぶような口ぶりで言う。お得なところにします。
「それは好きにしたらいいよ。わざわざ言うことじゃないと思うけど。部活のことは考えてくれた?」
「入りません。ごり押しやめてください」
「別に伝統工芸部じゃなくてもいいんだよ」
「部活動そのものが嫌なんです。僕はひとりでいたいんです」
梶くんは両足で勢いをつけて起き上がると、屋上の隅まで歩いて行って、フェンス越しに校庭を見下ろした。
「部活も花見もごめんですね」
「3年間ずっと? そんなのつまんないでしょう?」
「まさか。楽しいですよ。今の時代は、ひとりの方が楽しい時代なんですから。もう無理して他人と関わらなくたって、一生退屈せずに過ごせます」
梶くんのその言葉に、かの子はショックを受けた。
「何それ? だらくさい。君の性格の問題でしょ? 世の中みんながそうだと思ってるの?」
「事実です。だからみんなだんだんと人に関心を向けなくなってるじゃないですか」
梶くんは振り返り、自信たっぷりに言い切った。かの子は何も言い返せなかった。
「これだけ便利な世の中だと、わざわざ他人と助け合わなくても生きていけますからね。先輩のように世話焼きな人って、今時珍しいと思いますよ。立派だとは思うけど、でも時代の流れは変えられません」
「じゃあ梶くんは、そのままでいいと思ってるの? このままじゃいけないって思わない?」
「仕方ないんじゃないですか? どうするかなんて個人の自由でしょ」
個人の自由…かの子はむかむかしてきた。一人で生きてるつもりだろうか? 彼が病院に通えるのだってみんなに支えられてるからなのに。
彼は何だか、宙をフワフワ浮いているような少年だった。屋上でひとり空を見上げて過ごすのも、とても彼らしい行動だと思った。
「僕のこと気にかけてくださって、ありがとうございます。でも僕は一人で楽しくやってますからご心配なく。じゃあ」
梶くんはかの子の横を通って、屋上から出て行った。
かの子の胸の奥には、重苦しい何かが残された。
6
今日はまた町内会の夜回りがある日だった。かの子の父さんも早く帰っていたので、久しぶりに一家そろって参加することになった。
かの子たちが上着を着て準備していると、伸太郎が「行きたくない」と言い出した。
「俺ひとり行かなくたって変わらないでしょ」
すると両親よりも先にかの子が口を開いた。
「シンタ、今日はせっかく父さんもいるんだから、言うこと聞いて。お願い」
姉の静かな、だが有無を言わさぬ迫力のある声色に伸太郎は「…しゃあねぇなぁ」と言って慌てて上着を取りに行った。
夜回りが始まって町内を歩いている間も、かの子の気持ちは晴れなかった。考えれば考えるほど、梶くんの言っていたことの方が正しい気がしてきた。
「何かあったの?」
娘の様子に気がついた母さんが尋ねた。
「うん、あのね…」
かの子は学校での梶くんとのやり取りを話して聞かせた。母さんは「へえ」と言った。
「意外と真面目なテーマで悩んでたのね」
「時代の流れは変えられない、だって」
「そういう生き方はいずれ行き詰まって、にっちもさっちもいかなくなると思うけど」
「人と交わらないと人生前に進まなくなるからね」
父さんも娘の話を聞いていたようだ。
「人付き合いは車の運転と同じさ。事故が起きる可能性はあるけれど、それ以上に得られるメリットが大きいからするんだよ」
父さんの言葉に「そうね」と母さんがうなずく。
問題が起きるからってやめてはいけないものがあることは、かの子にだって分かる。かの子も大切な先輩を車の事故で亡くしたが、車が悪いものとは思わない。かつては1年間に1万人も車の事故で死んでいたそうだが、昔の人は車を走らせるのをやめたりしなかった。そのおかげで今の私たちの暮らしがあるのだ。
「私もべったり暑苦しい付き合いは好きじゃないけど、梶くんの言うことは極端すぎると思う。私の考え方が古いのかな?」
「でも、新しい考え方が必ず正しいわけではないよ」
「その子、将来結婚もしないつもりかな」
と母さん。きっとそうなのだろうとかの子は思った。あの調子では、生涯を誰かと添い遂げるなんて思いつきすらしていないに違いない。
「母さんは結婚するの不安じゃなかった?」
「そりゃあ不安だったよ。でも2人で暮らした方がお金もかからないしね」
「あの頃は金なかったからなぁ。貯金も少なかったから2人でカレーばっか食べて節約してたよ。楽しかったけど」
父さんがしみじみと思い出を語った。かの子はくすっと笑った。
かの子の両親はお見合い結婚で、母さんは「伯母さんが持ってきてくれたいくつかのお見合いの中から父さんを選んだ」と言っていた。今は大伯母さんのような『世話焼きおばさん』がほとんどいなくなってしまった、とも。
今では信じられないが、昔は周りの人が「この人と会ってみなさい」と結婚を勧めても良かったのだ。もっと昔は仕事だって周りが決めていたらしい。
「人間はやっぱり、『つがい』になった方がいいと思うよ」
母さんがかの子と目を合わせて言った。
「そしてかの子には、できればいつかお母さんになって欲しいな。家族を作るとイベントいっぱいあるよ。ずーっとあるよ。思い出たくさんできるよ」
「うん」
「何だかこういうことが言えない世の中になっちゃったね。何でそんなに気を使わなくちゃいけないんだろ」
そう言って母さんはふっと笑った。
「でもやっぱり、独りの人生はいつか飽きるよ。何やってもつまらない、何も感じないようになるよ」
「我々は先人たちが築いてくれた社会基盤の上で奇跡みたいな生活をさせてもらっているんだから、それを維持して次の世代に受け継がせる務めがある。なのにひたすら個人主義で生きたい人は、無人島で井戸を掘って畑を耕して自給自足の生活をすればいいのさ。いいとこ取りは許されないよ」
父さんはかの子が梶くんに言いたかったことを全部言ってくれた。
「個人の自由を尊重して『心のままに』とか『自分らしく』とか気楽なことを言う人は好かれるし賞賛される。そういう『いい人』はだいたい古い価値観を馬鹿にするけど、少なくとも昔の人は貧しい中から国を何倍にも大きくするという圧倒的な結果を残してきたんだ。ご先祖様と、言い訳ばかりの今の我々、愚かなのは果たしてどちらだろうね」
そう言って父さんは「火のよぉーじん」と夜空へ声を張った。
「表現とか言論の世界はともかく、我々が汗をかいてる実社会ではどう振る舞っても許されるわけじゃない。面倒な規範を蔑ろにした先に待ってるのは、まともな人たちの真っ当な暮らしが脅かされる社会なんだから」
父さんの言葉が難しかったようで、伸太郎が「よく分かんない」と言った。
「ウザいって言われることが、私たちを守ってくれてるってことじゃない? この夜回りみたいにさ」
かの子が自分なりの解釈を説くと、父さんは「その通り」と言って娘の頭を撫でた。
「私にどんな人と結婚して欲しい?」
かの子は両親に尋ねてみた。
「そりゃあ勿論、よく働く男。世の中に必要な仕事をする人だったら尚いいね」
父さんが笑みを浮かべて言うと、母さんは、
「あなたを一生懸命守ってくれる人を見つけなさい。あなたならきっとそれができるから」
と言った。父さんもそれにうなずいた。
「俺はお見合い持ってきてもらえたから助かったけど、自力じゃ無理な人はみんな見捨てられてるよな」
もったいない…と父さんはつぶやいた。
「でも初めて会ったときは怖かったよ。体大きいし」
母さんが父さんではなくかの子に向けて笑いながら言った。
「お見合いした人、みんな怖かった。男の人は別の生き物だもん。見た目も、行動も、考えることも、全部違う。神様がそう作ったんだね」
そのとき背後から「かの子ちゃん」と声がかかった。
雅晴くんだった。隣にはお母さんもいる。
「雅晴くん。こんばんは。いつも偉いね」
「かの子ちゃんと会えるもんね」
お母さんにそう言われて、雅晴くんは照れ臭そうに笑った。
雅晴くん同様、かの子も幼い頃、ご近所さんに預けられることがよくあった。その家の子とゲームして、いっしょにおやつを食べた。
そういうのがかの子の世代にとっては、とても稀で幸運なことだったのだと今なら分かる。母さんが親戚とかご近所とか、ときに煩わしいものとの関わりを避けずにいてくれたから、今のかの子があるのだ。
かの子は雅晴くんと手を繋いで歩いた。胸の奥が少し軽くなった気がした。
月の明るい夜だった。空気は暖かく、かの子は部屋のガラス戸を少し開けたままにしていた。
日付も変わり、家の中は静まり返っていた。かの子は机に座って、図書館で借りた本を読んでいた。カーテンがふわりと膨らみ、ココアのカップから立ち昇る湯気が揺れる。
最後の1行に目を通し、ふう…と深く息をついて本を閉じた。
時計に目をやり、「あっ」と声をもらした。いつの間にかずいぶん時間が過ぎていた。もう寝なくては。
ソイラテを飲み干し、本を学校の鞄に入れる。鈴木くんへの感想メッセージは明日作ろう。
電気を消して部屋を暗くしてから、ベッドにもぐり込んだ。昼間外に干して、春の日差しをたっぷり吸い込んだ布団が、とても柔らかくて気持ち良かった。
さっき読み終えた小説のさまざまな場面を思い出していると、部屋に風が吹き込んで、カーテンが大きくめくれ上がった。
「やっぱり閉めとこうかな」
朝方はまだまだ冷える。かの子はベッドから出て、ベランダの方へと近づいていった。
カーテンを開けると、ガラス越しに光が射し込んだ。夜空に満月が照っていた。
かの子は引き込まれるように、ガラス戸を開けてベランダに出た。煌々と光を放つまん丸の月を、ゆっくりと流れる薄い雲が霞ませていく。
「朧月夜だ」
かの子はしばらくそれに見とれていた。
どれくらいの間、夜空を見上げていただろう。ふとかの子の視界に、右側から何かの影が飛び込んできた。
最初は鳥かと思った。しかし今は夜中だ。
ずっと向こうのマンションの屋上に降り立ったその影は、屋上を走り抜け、隣のアパートの屋上へと飛び移った。
人間だ。かの子は思わず前に踏み出していた。
月明かりの下、その姿はかの子の目にはっきりと映った。
視界を右から左へ、建物から建物へと跳躍して移動していく。そのジャンプ力は人間のものとは思えなかった。
小柄な人影だった。黒いコートをはためかせ、宙に舞い上がる。
その首からは、白いマフラーがたなびいていた。
時間にして10秒にも満たなかっただろう。かの子から背を向けるかたちになったその影は、アパートから飛び降りて、見えなくなってしまった。
呆然と立ち尽くしていたかの子は、自分の体がすっかり冷えてしまっていることに気づいて我に返った。
どのくらい経ったのか。部屋に入り、戸を閉めてカーテンを引くと、ベッドに戻って眠りについた。
翌日、葦原市内で犯行を重ねていた引ったくり犯が捕まったと報じられた。
20歳と19歳の二人組の男だった。昨夜も通行人のバッグを盗んで逃走していたが、乗っていたバイクのタイヤが突然破裂し、道路に転倒した。
偶然にも転んだのは交番の目の前だった。やって来た警官たちが女性用のバッグを見つけ、御用となった。
場所はかの子の家と同じ地区だった。
「交番の前だって。間の抜けた泥棒だね」
母さんは言った。
「うん、おいね」
かの子はそう答えた。
7
週が明けて月曜日の朝。3年1組のかの子の教室を訪ねてくる男子がいた。
「荻野目先輩はいますか」
教室の外から荒々しい声で呼びかけたのは、険しい顔をした梶くんだった。
「ああ、梶くん。私も君のところに行こうと思ってたの」
かの子は席を立って、廊下に出た。梶くんはかの子の顔をにらみつけた。
「俺の入部届、勝手に出したそうですね」
「うん。ちゃんと君のお母さんから判子もらったよ」
かの子は梶くんの担任から彼の住所を教えてもらうと、家へ行って事情を話し、入部の許可をもらったのだった。
断られたらあきらめようと思っていたが、梶くんのお母さんにも「ぜひ」と言ってもらえた。
「信じられない。僕の自主性は尊重してくれないんですか」
「自主性…その手の言葉はすらっと出てくるんだね。まぁ試しに1年、いや半年だけやってみて。嫌なら文化祭の後、辞めていいから」
かの子の言葉に梶くんの吊り上がっていた眉が少し下がった。
「…半年」
「うん。こっちも譲歩するからさ」
かの子は手に持っていた1枚の紙を差し出した。
「何です、これ?」
「部員一覧。全員の名前と、クラスと、趣味と、好きな食べ物と好きな漫画が書いてあるから、今日中に覚えておいて」
かの子は紙を折り畳み、梶くんのポケットに差し込んでから言った。
「『ありのままの自分』を受け入れてくれるのはお父さんお母さんだけだよ。『個性』を活かして生きていけるのは100人に1人だよ。社会に出たとき困らないように、半年だけ嫌なこともやってみようよ」
かの子は用意していたセリフを口にした。両親がよく言ってることの真似だけど。
「世の中って嫌なことで成り立ってるんだよ。嫌なことをしない人は相手にされないよ」
みんなが「嫌なことはやらない」「何も背負わない」の行き着く先は、幸福なユートピアではない。廃れて荒れ果てたディストピアだ。
かの子は決意した。私は嫌なことを守る側に回ろうと。そのために嫌われ役になろうと。「古い」「ウザい」と言われようと。
「……ふっ」
梶くんは吹き出すと、肩を震わせ、声に出さずに笑い出した。
「ほんとウザい。ほんとに苦手なタイプです」
苛立たしげに頭を掻き、はぁっと大きくため息をつくと、踵を返して歩き出した。
「たまにサボりますからね」
そう言って帰って行った。かの子は微笑みを浮かべて、それを見送った。
人けのない放課後の廊下をかの子は歩いていた。グラウンドからは運動部員たちのかけ声が聞こえる。
かの子が向かう先に、窓から外を見ている男の子がいた。
「鈴木くん。ごめんね、急に呼び出して」
かの子が声をかけると、彼は笑顔でかの子に向き直った。帰る前なので肩から鞄を提げていた。
「桜見てたの?」
「うん、ここからがいちばんよく見えるね」
この学校の校舎のすぐ横には、桜の大木が生えている。3階のこの位置からは、手に届きそうな距離に花が咲き誇っていた。
「鈴木くんはお花見した? 私は土日に行ったよ」
「僕は家の庭で夜桜パーティーしたんだ」
「えっ、庭に桜があるの? すごいね」
「手入れが大変だけどね。室町時代から立っている木だから病気になりやすいんだ。でも今でも毎年ちゃんと花を咲かせてくれるよ」
「ふーん」
いったい鈴木くんはどんな家に住んでいるのだろう? かの子は疑問に思った。
「渡したいものがあるって、何?」
「そうそう、これなんだけど」
かの子がポケットから取り出したのは、小さな金具に布製の玉がついた小物だった。
「ブックマーカー。部活で作ったんだ。布の部分は葦原友禅なの」
「これ、僕に?」
「うん。この間のマフラーのお礼。よかったら本読むときに使って」
鈴木くんはブックマーカーを両手で大切そうに受け取った。
「あんな高いもののお礼にはならないかも知れないけど」
「そんなことないよ。ありがとう。嬉しいよ。大切にする」
鈴木くんは真剣な顔で言った。かの子は頷いた。
「そう。喜んでもらえて良かった。また面白い本があったら教えてね」
かの子は言った。鈴木くんはじっとかの子を見つめた。
「荻野目さん、あの……」
ブックマーカーを握る手が震えていた。
「え? 何?」
「…いや、何でも。これ、本当にありがとう」
鈴木くんはブックマーカーをポケットに仕舞った。
「どういたしまして。じゃあ私、部活に行くね」
「うん。本のこと、メッセージで送るよ」
「分かった。じゃあね」
「さよなら」
鈴木くんはかの子に背を向けて、階段へ向かった。
かの子はその背中に向かって言った。
「私のマフラー、失くしてないよね」
鈴木くんの足が止まった。
校内にチャイムが鳴り響いた。音が鳴っている間、彼はその場を動かなかった。
チャイムが止んでから、鈴木くんは小さな小さな声で「うん……」と認めた。
「ごめんなさい」
「別に……いいよ。欲しかったらあげる」
かの子は言った。自分の心臓の鼓動がどんどん速まっていくのを感じた。
鈴木くんは振り返って頭を下げた。
「ほんとにごめん」
「いいってば」
「僕、荻野目さんのことが好きなんだ」
「…そう。さっきそれ言おうとしてたの?」
「うん。それと、僕と付き合って欲しいって……」
風が吹いて、桜が揺れた。ざああああ……
「えー、どうしよう…」
「荻野目さんは、僕のこと、全然好きじゃないかも知れないけど、でもこれから僕のことを好きになってもらえるように頑張るので、だから……」
鈴木くんの声は震えていた。かの子はくすりと笑った。
開けた窓から、桜がひとひら、廊下に落ちた。
「…いいよ」
かの子は言った。鈴木くんは「えっ」と驚きの声をあげた。
「本当?」
「うん。実は私も、鈴木くんに興味が湧いてきてたんだ。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ」
鈴木くんは笑った。かの子も笑った。
「じゃあ今度、どこかに遊びに行こうよ。映画は?」
「あ、いいね。行こう行こう」
どんな服を着て行こうかな? かの子は頭の中でさっそくコーディネートを始めた。
「今どんな映画やってるか調べておくね」
「オッケー。私そろそろ部活行かなくちゃ」
「うん。じゃあ、またね」
「またね」
鈴木くんは速足で階段へと姿を消した。かの子はそれを見送ってから、部室へ向かおうと踵を返した。
そのとき、階段の方からばたばたばたっと大きな音がした。
かの子が行ってみると、鈴木くんが2階の廊下に転んでいた。鞄の中身が散乱している。
「だいじょうぶ?」
かの子は踊り場から声をかけた。鈴木くんはノートや教科書を拾い集めながら「だ、だいじょうぶ」と言った。
「部活、頑張ってね。それじゃ」
鈴木くんは逃げるように1階へ降りて行った。
夕日の射し込む踊り場で、かの子はくすくすと笑い出した。そして呟いた。
「忍者が転んでる……」
日曜日。2人は葦原駅前で待ち合わせをして、映画館へ向かった。初夏を思わせる気持ちのいい日で、かの子は半袖だった。
そのとき鈴木くんが恐る恐る質問した。
「ねえ、荻野目さん」
「ん? 何?」
「どうしてマフラーのこと分かったの?」
かの子は少し迷ってから「何となく」と答えておいた。
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