エピローグ

新しい春はいつもと何ら変わりなく、穏やかで美しい季節だった。私の心は相変わらずどんよりと曇ったままだったが、雪解けと共に少しだけ楽になった気がした。


私はあの日死ぬと口にした五平の母親がどうしても気になって、山奥の破れ寺まで行くことにした。


春の山道を歩く。


菜の花や芍薬しゃくやく撫子なでしこや藤に花桃はなももなどの花々が所狭しと咲いている。


山を通り抜ける甘く暖かい春の風は、暗闇に沈んでいた心を優しくほぐしてくれる。


四季折々の花を愛でる金花の庭は、今はさぞや美しいだろうなと考えただけで足早になっていく。


気が付くと、いつに間にか破れ寺のそばにある大きな桜の木の下に辿り着いていた。


見ると、木の根元では沈丁花じんちょうげを供え静かに手を合わせている五平の母親の姿があった。


「お母……さん」


もう母ではないのでそう呼ばないでくれ、いつか彼女がそう言ったのを思い出し、私は言葉に詰まってしまった。


しかしそんな私とは反対に彼女は最後に見た時よりもかなり穏やかな笑顔を向けてくれた。


「先生、やっぱりいらしてくれたんですね」


「あの……」


何と言えばいいのか困ってしまった。どうしてあの悲しみと憎悪に駆られていたこの老婆が、ここまで穏やかな顔ができるのか不思議でしょうがなかった。


「安心してください。もう、死ぬのはやめにしたんです」


「そう……ですか。それはよかった……」


「今日はこの子に報告しに来たんですよ。嬉しいことがあったもんで」


「嬉しいこと?」


思わず首をひねったが、さりとて気がふれているようには到底見えなかった。


「村におよねという娘がいるのをご存知ですか?色白の器量よしでね。一昨年お父っつあんを亡くしてから、ずっと一人で住んでいる不憫な子なんです」


「はあ」


「息子が死んで、塞いでたあたしをその子が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれましてね。まるで本当の親のようによくしてくれたんです」


「それは良かった」


「しかしね先生。なんぼ親切でも年頃の娘がこんな婆とばっかりいちゃなんねえと思ってある日聞いたんです『誰ぞいい人はいないのか』って」


「ええ」


老婆の顔は次第に綻んでいく。心なしか、目元に涙を溜めながら。


「そしたらあの子、急に泣き出して。問いただしたらウチの息子と恋仲だったってんですよ。あたしはもう何も知らなくて。二人で大泣きして」


「それはそれは」


「それだけじゃねえんです。お米は……あの子のお腹には、息子の子供ややこがいるというじゃないですか」


「そうだったのですか」


確かにいくら凶作とは言え、年老いた母親と五平だけでそこまで喰うに困っているにはおかしいと思っていた。その娘に食い物を分けていたのかと考え合点がいった。


「子供のこと、息子に知らせようとした矢先に死んでしまい、かと言って誰に言えばいいのか分からず悩んでいたそうです。あたしにもなかなか言えなくて。慎ましい子なんですよ」


「ではお孫さんが産まれるのですね」


「次の夏には産まれるだろうと」


「それはおめでたい」


息子の死を悼む母の顔から、孫を想う祖母の顔になっていたというわけだったのか。


「あの時は本当に死のうと思っておりました。息子がいないこの世など未練はないと、心底死ぬことを望んでいました。でも息子の子が、孫が産まれると知った時に、心の底から生きていたいと思えたんです」


「そうですか」


「悲しみはまだ癒えてません。今でもあの子に会いたくて涙が止まらない夜はあります。それでも、横で寝ているお米と、そのお腹にいる産まれてくる子の事を考えると、少しずつ苦しみが和らいでいくんですよ」


「それはよかった」


「先生。死のうとしてた人間が図々しいでしょうか。本来もっと息子にかけてやるはずだった愛情を、今度は孫に思い切りかけてやりたい、それが終わるまでは絶対に死ねない。長生きしてやる。そう思うことは悪いことでしょうか?」


「断じてそんなことはありません。誰が貴方を咎めるものですか」


「ありがとうございます先生。何から何まで。本当にありがとうございました」


五平の母が私に深々と頭をさげるので驚いてしまった。


「やめてください。私は何も」


「いえ、先生お陰です。先生が息子の仇をとってくれて、息子をここに葬ってくれました。だからこれからは、毎年孫と嫁と3人で息子に会いに来れるんです」


「お母さん……」


「これから毎年、桜が咲く頃に息子に会いきます。先生、ありがとうございました」


彼女はそれだけ言うと、もう一度頭を深く下げて去って行った。


私は一人、艶々と咲き続ける桜を眺めていた。


金花きんかの家の桜。彼女の自慢の庭に続く桜。気のせいかこの桜を見た時に、心がきゅっと音を立てた様な気がした。


過ちは決して無かった事にはならない。だがそれによって生まれた悲しみや苦しみは、年月と共に少しずつだが癒えていく。我々はそうやって、何かを犠牲にしながら目の前の道を歩いていなかければならない。それが、命を踏み台にして生きる者の責務なのである。私は多くの命を奪った。これからもきっと、骸の上を歩いていく。だがその過程で、多くの命も救っていくだろう。それを言い訳にするわけではないが、せめて犠牲にした命の為に、精一杯この命を生きていこうと思っている。


山の春はただただ美しく、泣きたいくらいに優しい風が吹いていた。



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鬼の目にも泪 三文士 @mibumi

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