其の6
武蔵の姿がそこにあった。身の丈六尺余り、鋭い眼光を放ち、無駄のない固く締まった筋肉を全身に蓄えてはいるが、既に老いさらばえて痩せ細り、さながら白髪鬼のような鬼気迫る姿がそこにあった。群集に混じって武蔵は、微動だにせずずっしりと地面を踏みしめて立っていた。この男が放つ異臭と殺気に畏れをなしてか、村衆たちは傍に近寄るのを避けていて、そのため彼の周りにだけぽっかりと空白の輪のようなものが形造られているのだった。
骨棍祭(ほねこんさい)同様に、神社の境内の中心部には大きな飾り屋台が設置されており、沢山の人々がそれをぐるりと取り囲むようにして集まっていた。
飾り屋台の両端には、装飾を施された台が一つずつ置かれて台の上にはそれぞれ一本ずつの骨が乗せられていた。ひとつは、黒光りのするずっしりと太い例の女武者の大腿骨、そしていまひとつは、綺麗な乳白色に輝く鞘の軽くて細い大腿骨であった…。
舞台の上では宮司とその娘である巫女たちが御幣を振って清めの儀式を厳かに行っている最中だった。
すると三人の若者が武蔵にゆっくり近づいて来て恭しく頭を下げた。
「宮本武蔵先生とお見受けいたします」そう言ったのは、今年で十八歳になる丈八であった。「此度は、ご高齢の御身体にもかかわらず、鞘様のためにご城下からはるばるお越しくださりましてありがとうございます!」
「ほうっ…」武蔵は珍しいものでも見るような目付きで、若者たちを見、高らかに声を挙げて笑った。
「なんのっ……!!この村にとって鞘殿が大恩人であるのと同様に、この武蔵にとっても大恩人であるのじゃ!こたびの神事、何で見届けずにおられようか」
武蔵は各人に名前を尋ねた。
「惣庄屋五良右衛門が倅、丈八といいます」
「ここの宮司弥一郎の倅で嘉之助と申しまする」
「おるは、その…、奉行所の手代の倅じ勘吉いうつまらんもんです……」
「わははっ!!」武蔵は実に可笑しそうに笑った。「さてはそなたらも鞘殿のお人柄に感化されたクチか?」
「は、はい、おっしゃる通りです…」若者たちは頬を赤らめた。
鞘の大腿骨を、棍剣(こんけん)神社の新しい御神体として祀ることが決まったのは、天草・島原の乱から実に四年が経過した年のことだった。だがその決定は条件付きのものであって、村の守護神として祀るからには、元寇弘安の役から三百年以上伝わる骨棍(ほねこん)以上のものでばならないのであった。二つの大腿骨をぶつけ合わせ、昔の女武者のものが勝てば現状のまま祀られ、鞘のものが勝てばその骨を新たな御神体とすることに相成った。その儀式は例年「骨棍祭(ほねこんさい)」が行われる立冬の今日、今年は異例の神事として開かれることとなった。
二つの大腿骨は、見れば余りにも太さに差がありすぎて、それを見較べる誰の顔にも不安と心配の色がいっぱいにに現れていた。村人たちの記憶の中ではいまだ四年前の出来事はいささかも風化しておらず、当然誰もが鞘の骨が勝つことを願っているのだった。しかし太さも、硬さも、重さも、密度も、色艶も…、無情にもありとあらゆる自然界の法則が現骨棍の勝利を示唆しているようだった。人々はこの見た目が物語る物理的な確かさと、それと相反する自分たちの期待との途轍もないジレンマに、心を狂おしく乱している様子であった…。
三人の若者たちも村人たちと同様の思いで、奇妙にドキドキしながら開始の刻を待っていた。
「心配いらんぞ…」彼等の心中を察するかのように武蔵が言った。「鞘殿はこの武蔵をすら凌駕した天下一のもののふである。鞘殿があれほどの技と力を発揮できたのは、生来にして心と身体をへだてる仕切りを一切持たなかったからなのだ。仕切りを持たぬが故に、想念がそのまま技に直結し、溢れ出る思念がそのまま力となって外へ発散される。すべてを突き抜けた鞘殿の思想は、死してなお身体の隅々、骨の隅々にまでに深く染み透っておろうぞ!」
一人が言った。
「そういえばあん時、鞘様な無数の弾丸ば受けちかる、もう太腿にでん何にでん、あるだけたくさん弾痕ばつけておらしたとに…ほれっ!!いま見るとしゃが骨にゃ傷ひとつついちゃおらっさんぞ!!」
「やや、ほんなこつじゃ…!!骨なまっさらじ傷ひとつなか!こるは実に不思議なこつじゃ。不思議なこつじゃ!!」他の者も鞘の骨を指して不思議そうに呟いた。
「やっぱあるだけんお人じゃけん…、な、何かある!何かある!!」
「こるは勝つるかも知れんばい…。いや勝つるぞ!!あんクソ女武者ん骨のどぎゃしこ太くたっちゃ、鞘さんが骨のどしこ細くたっちゃあ、こるは勝つるぞ!」
群衆の肯定的な想定の広がりは、何となく丈八たちにも安心感を与えてくれた。丈八は、ふと武蔵に尋ねた。
「先生はこるまでずっと独り身ば通してこられたそうでありますが、そるは一体何故なのですか?」
「さあて…」武蔵は頭をぽりぽり掻き毟った。「うむ…考えてみれば、わしも実に多くの女人の恋心を踏みにじってきたものじゃ。剣一筋に打ち込むためともいえば格好もつこうが、実は必ずしもそればかりでもなかったのう…」
「わかったっ!!好みのおなごんおらんかったからでしょ!?」勘吉が言った。
丈八は勘吉を引っぱたいた。「馬鹿!剣一筋ん生きるちゅうこつはいつ命ば落とすかわからんちゅうこつでんあっとぞ!!おるは、悲します者ば作りとうなかったから、先生はいままで独り身ば通しち来られたんじゃて思う」
「いいや…」武蔵は笑った。「勘吉とやらの申す通りじゃ。わしがこれまで独り身を通してきたのは…、そう!心の琴線に触れる真の半身との出会いに恵まれなかったからであろうなあ……!」
「で、では…」丈八は武蔵の眼を覗き込んで恐る恐る尋ねた。「で、では、もし…」間を置いて、「…も、もし先生が若い頃あの鞘様と巡りあっていたならば?」
「ふふふっ…」武蔵は静かに目を瞑った。「そう…恐らくいまの宮本武蔵はなかったであろう。まずは鞘殿と二人して落ち着いた居を構え、いずれかの藩に仕官し、世の当たり前の武士と同様の静かな生涯を送っていたであろうのう」
「うんにゃ…、おるはそぎゃんふうにゃ思いまっせんばい!」丈八は大きな声で叫んだ。「あん鞘様でん、そげな風なきゃあ死んだごたる生き方は望まん人じゃて思う。あん凄かお方も先生と同様に生まれついてのもののふであります!もう道ばただ一筋に求める求道者じあります!そげな至高の男と女が出会うたなるば、こるはもう二人して剣の道ば切磋琢磨してちかる、神や仏と同じ凄か高みにまじ到達するごつ生涯必死に精進し続けておったに違いなかておるは思いまするううううっ!!」
「ほ、ほう…!」武蔵は瞠目した。「これは…そこまで鞘殿の心を深く感じとる者がおったとは…いやはや丈八とやら、この武蔵心底感服いたした!」
武蔵に言われて丈八は耳まで真っ赤になった。
武蔵はどこか寂し気な表情で言った。
「実はこの老いた身は病魔に冒されとる、もう長くはなかろう…。先だっては親炙しておる春山和尚にわしの死後のことを頼んで参ってな…、武人としての墓を東の地に、私人としての墓を西の地につくって貰い、こちらのほうには鞘殿の遺骨と共にわしを葬っていただくことと相成った。その戒名は鞘殿が『心月清円信女』、わしのが『貞岳玄信居士』というものである」
「心月清円信女………」
「武蔵先生、草葉ん陰で鞘さんと仲睦まじゅう暮らしなっせ!」勘吉が羨ましそうに言った。
太鼓、大和笛や銅拍子などを鳴らす音が次第に大きくなり、飾り屋台の下で控えていた二名の力士が立ち上がって両端からゆっくりと階段を上っていった。巨躯の力士たちは、二つの骨が乗せられた飾台の真横に直立し畏まった。
恭しく力士たちはそれらに一礼して一人ずつ宮司から禊を受け取り、それぞれの骨棍(ほねこん)をしっかりと両手で握り締めた。
「おおっ…!!」
「いよいよ始まっとばい!!」
極度の緊張が群衆を駆け抜けた。女たちの中には極度の緊張に耐え切れずパタパタと倒れる者もいた。
緊張と興奮の余り、勘吉は、自分の股間を全力で握り締めていた。
「ははは、心配いらんぞ…」武蔵が言った。
力士たちは互いに手の届く距離まで歩み寄って、それぞれの骨を頭上に高く構えた。至近距離で大小二本の大腿骨が、火花を散らすかの如く対峙した。
「おお…うおおおおっ!!」突然勘吉は奇声を発しながら駆け出した。
「待てっ…きさん、どけ行きよっとか!」丈八が大声で勘吉を立ち止まらせた。
「しょ、しょんべんば、ちょっと…」勘吉は泣きそうな顔で答えた。
「嘘ぬかすなあっ!!そるが小便に行く時ん顔かっ。まさかきさんこん大事か場面にふざけたこつばしに行く気じゃなかろなっ!?おい!鞘さんのこの神聖な儀式ば穢すこつどんする気じおったなら命はなかぞ!こるは神妙に見とけ!!こるは神妙に見とけえっ!!」
丈八は憑かれたようにその言葉を何度も反芻した。
「こるは神妙に見とけ。こるは神妙に見とけ。こるは神妙に見れ…」
その言葉は周りの村衆にも伝播していき、ついには会場全体に広がって群集の大合唱となった。
「こるは神妙に見れ」
「こるは神妙に見れ」
「こるは神妙に見れ」
「こるは神妙に見れ」
「こるは神妙に見れ」
力士たちの手に持たれた二本の骨棍が激しく打ち合わされた。
骨棍 菩薩@太子 @kimchi
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