終章
終章
「なんでです?どうして水穂さんみたいな人がそういうこと平気で発言するんですか。少なくとも、あたしとは違う人生だったんでしょうし。なんでまたそういう卑劣的な発言を?」
正美は、もう一度そう聞いたが、水穂は黙ってしまった。まるでいくら聞いてもわかるはずはないよ、と言いたげな顔だった。
「だって少なくとも、あたしよりは、経済的に豊かだったんでしょう?そうでなければ、こんな高級なピアノだってもってられないでしょうし。」
「そんなことわかりませんよ。あれはただ、ドイツで演奏した時に、ピアノメーカーの社長からもらってきただけです。」
はあ、と、言うことは、つまり、ドイツへ渡れるほど経済力はあるということじゃないの?と思ったが、
「行ったには行ったけど、身分的には官費留学生ですから、ほとんど政府から援助を受けて、命令通りに動いていただけですよ。」
余計におかしなことだ。それくらい優秀だったんじゃないか。
「知らないんですか。私費留学とは違うんですから、留学先での自由とか、ほとんど融通が利かないんですよ。」
そこのあたりの違いはよく知らなかったが、そういえばそういう話も聞いたことがあった。特にヨーロッパに留学した場合、入ってもよい大学が限られるとか、より長期にわたって留学を続けられないなどの制限があって、その格差が問題になっているらしい。
「一応、官費留学と言えば優秀な人に見えるけど、そうでもないんですかね。」
と、いうことになるのだろう。留学するものにとっては、自由がなくてつまらない、としか見えないのかもしれない。私たちのような一般的な人から見たら、本当にすごいことだと思うけど、そうでもないというのは、ある意味では贅沢というか、おかしなことと思われても仕方なかった。
「ですけど、そういうことができるんですから、少なくとも私たちより違うんだと思ってくださいよ。私は、音楽やりたかったけど、経済的に豊かな身分じゃなかったから、そういう身分の人がいく教育機関しか行けなくて、身分を押し付けられる教育しか受けられなくて、結局受験できなかったんですから。今でも、うちの家庭では、音楽は贅沢すぎて、やってはいけないという風潮があって、やろうとすれば、それよりも働くことが大切だと言われて、全部取り上げられちゃうんですよ。」
「ごめんなさい。正美さん。」
いきなり手をついて謝罪されて、さらに面食らってしまった。
「どういうことですか。」
「歴史的にいったら、身分の低いのはこちらですもの。だから、絶対に、普通の人たちより高い立場には立てないんですよ。」
そういわれてもよくわからない。日本の歴史何て、知らないことが多すぎる。高校では西洋史ばかり興味をもっていたせいか、日本史の成績はまるで最悪だった。
「だけど、そういうことがあったとしても、今の時代であれば、何でもいいのではないんですか。そんな大昔の話、今でも引きずっているのは、おかしな話では?」
「いいえ、そんなことありません。いつの時代も僕たちは、低い身分として生きなくちゃ。ですから、留学するにしても、今でこそ手段はいろいろあって、いろんなやり方で簡単に留学できますけれど、僕らはまだまだ官費留学しか方法がないわけで。」
そうか、そういうことか。政府援助に頼るしか、ないというわけか。そうなると、自分たちよりかなりの苦労人ということも分かった。それでも、ここまで卑下する必要は無いと思うのだが、、、。
「言ってみれば、僕みたいな人は、高田三郎の白鳥みたいなものなんです。ほら、歌詞にもあるでしょう。夢を見すぎて、周りの湖が凍ってしまっているのを忘れていて、飛び立とうと思ったら、足が凍り付いて飛び立てず、仕方なく自分の足を食いちぎって飛んで行ったという歌。」
うん、確かにそういう内容の合唱曲があることは聞いたことがある。歌唱している合唱団体も多いけど、正美は、どうしてもその歌の意味が分からなかった。たぶん、だらだらと生きている人たちへの警鐘としてうたわれたのだろうと思うけど。それにしても、あの歌詞は変だなと思う。
「あれはただ、何も目的がなく、ただ浮かれて生きている人に向けての歌詞ですよ。そんなのと一緒にしちゃだめです。少なくとも、水穂さんはだらだらと毎日を過ごしてきたわけではないでしょう。だって、こういうピアノをもらってこれるほど、優秀であったわけだし、そうなるために研鑽を積んできたんでしょうから。」
「そうですね。でも、僕は変な方向で研鑽を積んでしまったような気がします。もともとそういうものに手を出してはいけなかった身分でしたのに、そういうものに手を出すと、こういう結果しかやっては来ないんですよ。」
ここまですごい人が、こんなセリフを言うなんて、正直驚いたが、やっと同じ失敗をわかってくれた人物に、初めて出会ったというのは大きな収穫なのかもしれなかった。もともとの身分にふさわしくないものに手を出してしまったばっかりに、こうして自己破壊を招いたという失敗をした人物何て、なかなか存在しないと思うから。
「そうだったんですね。私もそうでした。やっぱり私も、身分の高い人たちがやることにあこがれすぎてしまって、結局こうしてダメな人間になりましたし。私は、音楽やるには、お金がないとできない事を忘れていて、母も父も、祖父にも迷惑を与える存在になってしまったんです。確かに、中学時代にものすごく苦しくて、それを音楽で紛らわして、音楽を学ぼうと思ったけど、今考えれば、そんなの理由にならなかったんですね。お金のない人なりの、気の紛らわせ方を研究するべきだったんだわ。それが、私が犯した最大の間違いでした。それに気が付かなかった私は、バカでした。だから、今はバカにふさわしい生活しか与えられません。きっと将来は、生活保護とかそういうことになるんだと思いますし、そうなったらもう、人間として扱われることはほとんどないといわれてますから、
きっと、人生を甘くみた私への罰なんでしょう。人間、生まれたからには生きていかなきゃいけないことは確かですが、その身分に応じた生き方をするように心がけないと、とんでもない悪い奴になっちゃうんですね。」
「ええ、事実そうです。あの白鳥も、飛ぶことはできますが、地面を歩くことは二度とできないわけです。本当は、空を飛ぶより、地面を歩くほうが何よりも大切なんですね。歌詞の中では、翌年になって、なくした足を取りに帰ってきますが、二度と体にくっつくことはないでしょうから、もう取り返しがつきません。だから、若いときには、自分の置かれた環境を一番に考えないとダメなんですよ。それを無視して、高級な学問に走ると、家族を失うとか、世間的な地位を失うなど、大きな損失を被ることになる。自分だけならまだいいのですが、人間は白鳥ではありませんから、自分以外の人にも損害を与えるということを忘れてはなりませんね。」
「そうですね。私、そんな大きなことを忘れて、今頃になって、やっと気が付いたなんて、遅すぎました。私も、もう、生きている資格もないのではないですか。」
正美がそういうと、それはどうかなと水穂さんは首を傾げた。
「いや、そこまで考えることもないですよ。僕みたいにもう動けないわけじゃないんですから。まだ、手も足も動くわけですし、気が付いたということが大切なんですよ。場合によっては、一生芸術から離れなくなって、アルコールなどに走っていき、家族に多大な損害を与えながら死んでいく人もいるわけですから。そのほうがよほど悪人だと思いますけどね。」
「つまり、水穂さんのほうが、ということですか?まあ、私は、そうは思わないわ。だって、そういうことを、あらかじめ指摘したり、警告できるじゃないですか。」
この発言には水穂のほうがびっくりしたらしい。しばらくぽかんとして、何も言わなかった。答えに迷ってしまったらしく、何か考えているようであったが、答えの代わりに、激しくせき込んでしまった。正美も、ブッチャーがしていたことを思い出して、背をたたいたりしてやったが、それでも治まらない。
丁度そこへ、ふすまがガラッと開いた。
「何をしているのよ!」
甲高い声を上げたのは今西由紀子、その人であった。
たぶん、仕事が終わってすぐ駆けつけてきたのだろうか、まだ駅員の制服を着て、頭には駅員帽が乗っている。着替える暇もなく、やってきたのだろう。
「二人でしゃべっているのを聞かせてもらったわ。この人に、どうかそれだけは言わせないでもらえないかしら。」
「言わせないって、いったい何を言わせないのよ。」
駅員帽のせいで年齢が比較的わかりにくいが、たぶん、自分とさほど変わらないか、もっと若いのではないかと思った。その人に、こういうセリフを言われてしまうとは、ちょっとムッとしてしまう。
「とぼけないでよ!あたしは、この人に、二度と低い身分からやってきたってことを思わせたくないのよ!そんなこと口にさせて、そのことを自覚させるような真似はしないでもらいたいの。この人が持っている、一番大きなコンプレックス!」
「ど、どういうことなんでしょう。」
「だから、もう低い身分と、思ってほしくないの。周りの人にも、それを口にさせるような態度はとってもらいたくない。せめて、最期の時だけは、身分が低いことは忘れてもらいたいわ。もちろん、この人が、そのせいで壮絶な人生だったことは、あたしたちは当事者ではないんだし、理解することはたぶんできないでしょう。だけど、いつまでもそこにとらわれないでいてほしいと、思うことは可能だし、それをあたしはずっと伝えていきたいと思っているから、そういう劣等感を植え付けるような真似はやめて!」
「由紀子さん、よしてください。僕はコンプレックスだと思ったことは一度もありません。歴史的な事情なんですから、半分あきらめたほうがいい。そこを彼女に話した、」
一生懸命訂正しようとする水穂だが、咳き込んで最後まで言えないのが、なんとも哀れな一面であった。
「無理してしゃべらないでいいわ。人にいくら説明したって、わかるはずもないんだから、そういうことを語るのは、意味がないわよ。」
由紀子は正美に、そこをどいて、と目くばせして、文字通り体を奪い取り、背をなでたりたたいたりを繰り返したのであった。水穂の口元からまた吐瀉物がぼたぼた落ちてきたが、急いでタオルをとって、その口元を拭いてやったりする。
「一つ疑問なんだけど、昔ほど怖いものではないのに、どうして誰にも相談しないの?今だったら、大きな総合病院にでも行けば、まだ何とかしてくれるかもしれないわよ。」
「うるさいわね!軽々しく言わないで!何をやってもこの人は手の施しようがないの。それくらい、大変なのよ。過去にあったものと何回も勘違いされて、非常に困るの!」
もうこのセリフを言われてしまったら、退散した方がいいなと、正美は確信した。
同時に、自分にはないけれど、水穂さんは持っているものが、いまはっきり見せられてしまったような気がした。そして、それは、自分にはおそらく、いくら努力しても獲得できないだろうなということも、示されているような気がした。
「ごめんなさい。もう帰るわ。あたし、申し訳ないことしてしまったから。」
いつの間にか、二匹の犬たちも遊ぶのをやめていた。もう暗くなってしまったということもあるし、主人が遊ぶどころではない状態なので、遠慮しているのだろう。二匹は、お互いの体をくっつけながら、悲しそうな顔をして、互いの主人を見つめている。
「ええ、そうして頂戴。もう、水穂さんに、このコンプレックスを口にさせるような真似は二度としないで頂戴ね!」
逆上して、正美にそう発言した由紀子だが、
「由紀子さん。」
水穂に言われて、自分が言いすぎたことに気が付いたらしい。
「ごめんなさい。あたし、あまりにもかっとなって、、、。」
と、正美に座礼したが、正美は返答することもなく、静かにサリーちゃんの紐を引っ張って、四畳半を後にした。いいすぎるくらい、彼を支えようとしてくれている人物がいてくれるなんて、これほど幸せなことはないじゃないか、水穂さんも、そこへ早く気が付いて、彼女に目を向けてやってほしいなと思いながら。
この時は、たまが、サリーちゃんをじっと見つめているのには、だれも気が付かなかった。二匹はすでに、両想いになっていたのだろうか。
その夜は、何をしていたかなんて、正美は覚えていない。ただ、母が出してくれた夕食を適当にとって、部屋に入ったということは記憶している。
翌朝、目が覚めると、すでに10時近くになっていた。サリーは相変わらず、部屋に置いた座布団の上で寝ている。犬は布団をかけなくても寝られるなんて、ある意味羨ましいな、と思いながら、サリーにドッグフードをやった。同時にスマートフォンが鳴った。着信はメールで、誰からだと思ったら、蘭からだった。内容は、今日色入れの予定でしたが、いつも指定時間のかなり前に来るのに、来ないので、どうしているのかという物であった。さすがに、半端彫りというのは、恥ずかしいので、せめてこの登り鯉だけはちゃんと完成させようと思い、正美は、鞄をとって家を出た。朝食何て食べる気にもならなかった。
また、例の渋滞で有名な道路に差し掛かったが、車は全く通っていなかった。この道路が、こんなにスカスカにすいているのは珍しい、と思ったが、実は新しい道路が建設されていて、きょう開通の日だったので、多くの人がそっちへ行ってしまったのである。
そういうわけで、蘭の家に到着しても、指定時間の五分ほど遅れただけのことであった。
「おはようございます。」
正美が蘭の仕事場に入ると、蘭もかなり悩んでいたようで、目の下に大きなクマをこしらえていた。
「今日でたぶん、色入れが仕上がると思います。ですが、彫る前に、ちょっとお伺いしたい。もしかして、何を聞かれるかわかっているかもしれませんが、あいつのこと、水穂のことです。最近は、再び犬の散歩に行きだしたそうですが、実際のところ、どうなんでしょう?」
蘭は、まず第一にそれを聞きたいという顔つきで、正美に聞いてきた。
「先生、もう、こんな計画はやめたほうがいいんじゃありませんか。ああして、杉ちゃんをはめて動けなくさせて、水穂さんを安全な人に引き渡そうなんて、絶対できることじゃありませんよ。」
正美は、そこは伝えなければとしっかり蘭に言う。
「何を言うのです?あなた、階級違えど、水穂とは近いものがあるんじゃありませんか。そこをうまく使って、やつを何とか製鉄所の外へ出してもらえませんかね。」
「いいえ、あたしも、水穂さんも、身分を無視して音楽に走ってしまったことは共通するかも知れません。そこは確かにそうです。ですけど、水穂さんは、あたしにはないものをしっかり持っていらっしゃいます。だから、その人から、彼を盗ってしまうのは、いけないと思います。」
「持っているって何をですか!」
蘭は、思わず声を上げる。
「その人って、誰だよ!」
「あたしは、正式な名前をはっきり知らないのですが、由紀子さんです。水穂さんを一番大切に思ってくれているのは由紀子さんです。彼女から、水穂さんを取り上げたら、彼女は行き場をなくしてしまうと思います。そうなったとき、人間は本当につらい人生になってしまう。打ち込めるものとか、愛する人を盗られた時の衝撃や喪失感は、あたしも本当によく知っていますし。」
つまり、自分の秘密の計画を、邪魔していたのは由紀子さんだったということになる。蘭にとって由紀子は、刺客として送り込んできた女性の情報提供者としかない存在で、彼女が水穂に対して好意を持っていたなんて全く気が付かなかった。
「先生、だから無理なんですよ。この計画。人間、何かをしたいときは、自分だけの直情で動くというのが一番失敗を招くじゃないですか。ちゃんと周りの人の了解を得てからやらなくちゃ。そうしないと、実行ということはできません。先生がおっしゃる通り、水穂さんが確かにかわいそうな人であることは、本当によくわかりました。でも、水穂さんにはまだ、最終的な手段は残ってます。たぶんきっと由紀子さんのような人がいれば、それを実行してしまうことだってできると思います。」
まさか、お客さんにこうして説教をされてしまうとは、自分もバカなことをしたなあと、蘭は初めて知った。
「だから、あたしたちの出る幕じゃないんですよ。きっと由紀子さんや、ほかの皆さんで何とかしてくれますよ。先生は、また必要が出たときに力になれば、それでいいんじゃないですか。」
それが一番いやなセリフだ!僕はあいつに何とかして、立ち直ってもらいたいから、目の前の女性にお願いをしたんじゃないか!
「先生、もうお時間も無くなっちゃいますし、あたしの登り鯉、ちゃんと色入れしてくださいよ。あたし、たとえ痛くても、ちゃんとやってもらう、半端彫りはしないって決めたんですから。」
そういわれて蘭ははっとし、彼女に腕を出すように促した。そして、自分は、棚の中にしまっておいた、色入れのための針と鑿を取りに行った。
お昼過ぎ、色入れは終了し、登り鯉は無事に完成した。これでリストカットした痕は、跡形もなく消えている。手彫りすると激痛を伴うと聞かされたが、さほどでもないじゃないか、と思いながら、正美は道路を歩いて家に帰った。
でも、リストカット痕を消すことは成功したが、新しいことを始めるのは失敗した。これから、また正しいと言われる生き方に向けて、ほかの家族とガチンコしながら生きていくんだろうなと予測できた。そんなの、できればもうしたくなかったが、周りを変えることはできないから、また同じことを繰り返していくのだろう。
結局、人生なんて苦しみだけなのね。美しいものは、身分の高い人にしか、持てないのね。ということを学んだ。すでに疲れ切っていて、本当のことなら、今すぐ死ねたらいいのになあ、なんていう気持ちがないわけでもない。
家に帰って、自室に戻ると、サリーちゃんの食器の中身はほとんど減っていなかった。サリーちゃんは、ご飯皿の前に横になっているが、どうも食べる気はしないらしい。しかし決して病気ではなく、その証拠に彼女の乳首がピンク色になっている。と、いうことはつまり、、、。
うちに変化をもたらしてくれるのは彼女かもしれない。
よし、行ってみよう、と、正美は彼女を抱き上げて、動物病院に行くと手紙を残し、玄関を出た。
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