第九章

第九章

いくら叱られてもサリーちゃんの散歩だけは、実行しなければならなかった。犬だけではなく、人間を育てる時も同様だが、別の人格を持っている動物は、時として、容赦なく、やりたくないことを要求してくる時もある。それとどう付き合うのか考えるのも、人間的な成長なのだろう。人間同士でそれを学ぶというのは、非常に苦痛を伴うので、まず犬や猫などを教材として与えられるのかもしれない。

そう思いながら、正美はサリーを連れて、例の公園に行った。

とにかく寒い日だったから、公園にいる人通りも少なかった。今日は薄着で来るべきではなかったなあ、と思いつつ、正美は公園を歩いていると、不意にサリーが変な方向へ歩き始めた。サリーちゃんどうしたのと声をかけると、向こうにブッチャーがたまを散歩させているのが見えた。

「あ、どうも。諸星さん。今日は寒いですねえ。そんな薄着で大丈夫ですか?」

ブッチャーが挨拶すると、サリーは真っ先にたまのところへ駆け寄って、その顔をなめた。まるで愛する男を久しぶりにみつけ、自分の存在をアピールしているようだ。

「全く、たまがもうちょっと返答を返してくれるといいんですけどね。犬は飼い主に似ると言いますが、一生懸命愛情を向けている人に、無反応なままなのは、ほんと、水穂さんにそっくりですねえ。」

そういうブッチャーだったが、その飼い主である、水穂さんの姿はそこにはなかった。なぜか、ブッチャーだけが一人でたまを散歩させていた。

「あの、水穂さんはどうしたんですか?」

思わず聞いてみると、

「はい。今朝、いつも通りに起きてはくれたんですけどね、お昼前に、猛烈にせき込んじゃって、仕方なく今日は俺がたまの散歩に行くことになったんですよ。」

と、答えが返ってきた。大丈夫かな、と正美は思わず口にしてしまうが、ブッチャーのその顔は、ひどくがっかりしているようだ。ブッチャーは自分では隠そうとしているが、それはへたくそすぎて、かえって無謀だ。

「あ、すみません。俺、こうなってしまうことはしょうがないと思っていたんですけどね。そうなったら、がっかりしないで受け入れようと思っていたけれど、俺は、ダメですねえ。なんで口に出さなくても、顔に出ちゃうのかなあ。」

素直に、そうやって自分のことをだめだなあと言えるブッチャーさんは、なんだか好感の持てる人だなと思った。同時に、水穂さんがそこまで悩ませるほど深刻なのかということも気が付いた。

ふいに、ブッチャーのスマートフォンが鳴る。

「もしもし、あ、恵子さん?はい。わかりました。じゃあ、帰りに寄っていきますから、ちょっと待っててくださいね。水穂さん、大丈夫ですかねえ。あ、そうですか。じゃあ、豆腐食べても大丈夫そうですかね。すぐに買ってきます。」

たぶん電話の内容は大体想像がついた。

「じゃあ、俺、ちょっと豆腐屋さんによって行きますんで、これで失礼します。」

と、軽く一礼して帰ろうとするブッチャーだったが、

「すぐ別れさせちゃうのは、この子たちがかわいそうですから、ブッチャーさんいま行ってきてください。あたしが、たま君とサリーちゃんを見てます。」」

と、正美は言った。ブッチャーは、それもそうだなと思い、あ、ありがとうございます、とだけ言って、急いで豆腐屋に向かって走っていった。

その間にも、サリーとたまは楽しそうに体をすり寄って遊んでいるのだった。犬は、体をわざとかみついたり、尻尾を引っ張ったり、直接体を使って遊べるのだから、ある意味いいなと思う。人間は、親しくなりたいなと思ったら、どうしても共通のものを持たなければならない。そして、そのためには金が要る。

羨ましいなと思いながら、たまとサリーが遊んでいるのを眺めていた。

「すみません。遅くなりました。あー、まったく。あのお豆腐屋さんは、種類が多すぎて困ります。豆腐なんて、木綿と絹と二種類だけにすればいいのに、なんであんなに種類があるんだか。結局、一番温かいと言われる島豆腐というのを買わされる羽目になった。」

戻ってきたブッチャーは、ビニール袋に入った不格好な形をしている豆腐を持っていた。

そういわれて、どこの豆腐屋さんに行ったのか大体検討が付いた。あそこのお豆腐屋さんで売っている豆腐は、木綿と絹ばかりではなく、堅豆腐から、高野豆腐まで、バラエティに富んでいる。主婦には重宝するが、確かに豆腐を詳しく知らないと、わけのわからない店となってしまうのだろう。

「いいんじゃないですか。島豆腐って、スープみたいにして食べるから、意外においしいんですよ。」

正美は、ブッチャーに向けてにこやかに言った。

「たぶん、体の弱っている人に向けて、温かい豆腐を出してくれたんですよ。」

「ああ、そうか。そう考えると、確かにそう言えますね。俺、こんな不格好な豆腐なんか出されて、なんの意味があるんだと思いましたが、パック入りの冷たい豆腐より、そう考えると確かにいいかもしれないです。ようし、すぐに戻って冷めないうちに食べさせなくちゃ。あ、あの、たまを見ていただいて、ありがとうございました。すぐに連れて帰ります。」

ブッチャーは、そういって、遊んでいるたまを呼び戻そうとしたが、たまもサリーもお互い楽しそうな顔をしてじゃれあっていた。

「これでは、なんだか呼び戻してしまうのは、かわいそうだなあ。いつもは真面目で、硬そうな顔をしているたまが、あんなに楽しそうに遊んでいるのは見たことがない、、、。」

「あたしも、なんだかここで無理やり引き離してしまうのは、一寸、かわいそうな気がしてしまいます。」

ブッチャーの意見に正美も同意した。それほど、二匹はとても楽しそうなのだ。いつの間に、二匹は仲良しの枠を超えて、互いを忘れられない関係になってしまったようである。

「仕方ありませんね。正美さん、少し時間ありますかね。もし、可能であれば、製鉄所まで来てくれませんか。いきなりここで切り離してしまうのもかわいそうですから、暫く製鉄所の庭で遊ばせましょう。俺は、水穂さんに豆腐を食べさせたりしますけど、正美さんは、恵子さんとお茶でも飲んでいてくれればいいですから。いや、おかしいのはわかってます。でもですね、普段、たまはいつも具合の悪い水穂さんの隣で、悲しそうな顔をしているもんですから、こんなに楽しい気分になったのは、実に久しぶりだと思うので、俺、もうちょっと、味合わせてやりたいなと思いまして、、、。」

ブッチャーはちょっと口ごもりながら言った。確かに他人に来てくれというのは相当勇気がいる。でも、ブッチャーはたまがあまりに楽しそうなので、そうさせてやりたいのだ。と、いうことは、水穂さんも相当悪くなってしまったのだろうか。

「わかりました。行きます。どうせ私だって、家に帰っても、たいしてやることもなくて、退屈なだけですから。」

「あ、ああ、そうですか。でも、お仕事とか、忙しくないですか?勤めていなくても、お家で会社をされているとか、そういうことがあるのではないですか?」

そういわれるとちょっと辛いものがあるが、

「いえ、この時間帯はほかの者がいて、あたしは暇ですし。いいですよ。」

と笑ってごまかし、サリーの紐を持ち上げて、ブッチャーについていった。ブッチャーと並行して歩いている時にも、サリーはたまのそばにくっついて離れず、たまもこの時は迷惑そうな顔をしなかったので、サリーの求愛に答えているということだろうとわかった。


製鉄所に着くと、恵子さんが出迎えたが、ブッチャーがなぜ二人で来たのか事情を話すと、恵子さんもすんなり受け入れてくれた。二人は、二匹の足裏を手早くタオルで拭き、廊下を歩いて中庭に行き、二匹を放してやった。ブッチャーが買ってきた島豆腐は恵子さんが手早く調理してスープにした。正美が言った通り、温かい豆腐なので、すぐに調理することができた。料理が完成すると、ブッチャーはすぐにそれを盆にのせ、四畳半へもっていった。恵子さんがケーキはいかがと正美にすすめてくれたが、それよりも、水穂さんのほうが気になったため、後でもらいますと言って、ブッチャーの後に続いた。恵子さんは、何も言わなかった。

「水穂さん、具合はどうですか。少し休んで、楽になりましたか。豆腐、買ってきましたから、頑張って食べてみましょうかね。ゆっくりでいいですからね、座ってみてくれますかね。」

ブッチャーは、ふすまを開けて、枕元に豆腐のスープをおいた。

「ほら、起きてくれますか。もうかったるいなんて言わないでくださいよ。また食べない生活に逆戻りしたら、それこそ、衰弱してまた悪くなっちゃいますからね。体の調子が悪くても、何とかして食べようという意思は持っててくださいね。」

ブッチャーがそういうと、水穂はずいぶん疲れ切った表情で、よろよろと起き上がり、布団の上に座った。

「はい。これですよ。これ。いいですか、かったるいとか、食べたくないとか、そういうことは言わないで、頑張って完食してください。」

「はい。」

静かに茶碗を受け取って、豆腐を口にしようとする水穂であるが、口に持っていく直前にせき込み、危うく茶碗を落とすところであった。

「これじゃだめじゃないですか。落とさないでくださいよ。しっかりしてください。ほら、頑張って食べて。」

ブッチャーは、急いで茶碗を落とさないように体を支えた。これは大変と思った正美も、反対方向から体を支えてやった。その本来男性にはないはずの、衣紋抜きをして着ているように見える浴衣の首周りから、多数の嚢胞が見えたためさらに驚く。

「あ、もう、大丈夫ですか。頑張って食べてくださいよ。一回食べなくなると、また食べなくなっていくでしょうが。」

「これじゃあ、無理ですよ。ブッチャーさん。少し休ませてあげたほうがいいのでは?また調子がよくなったらゆっくり食べさせてあげればいいじゃないですか。」

ブッチャーの発言に、正美はそういって反対した。一つため息をついたブッチャーは、

「そうですねえ、一度食べないで寝ると、どんどん食べなくなっちゃうから、無理にでも食べさせてやらないと、いけないんですよね。」

と、異論を言った。

「でも、今日はよしましょうよ。かわいそうですよ。」

うーんと考えるブッチャーだが、水穂の口元からぼとぼとと赤い液体が落ちてきたので、

「わかりました。今日は寝かせてあげたほうがいいな。」

と言って、水穂の手から、食器をとり、口元についた血液を綺麗にふき取って、布団に寝かせてやった。寝ていても暫くは咳き込んだが、次第にそれも静かになった。

「これじゃダメじゃないですか。もう、次からはちゃんと食べてくださいね。じゃないと、本当に何も食べなくなって、また悪くなっちゃいますからね。」

ブッチャーは何回も言い聞かせるように言った。でも、すでにうとうと眠ってしまっているらしい。全く返答は返ってこなかった。もう疲れ切ってしまったのだろう。

「あの、ブッチャーさん、どうしてそんなにうるさいくらい食べろと言い聞かせるんですか?ご飯だったら、どんな人でも必ず食べると思うんですが、、、?」

先ほどから感じていた疑問を、正美は思わず口にする。

「そうなんですけどね。水穂さんには悪いくせがありまして、一度食べなくなってしまうと、また食べ始めるのが難しいんですよ。一度その悪い癖が、エスカレートして、餓死寸前まで行ってしまったことがあり、杉ちゃんに叱ってもらってやっと食べてくれたということもありました。あの時は、俺も、本当に餓死してしまうのではないかと、焦りました。」

「そんなに!なんでまた、、、。」

「俺にもわかりません。俺たちは、まだまだ逝ってもらいたくないし、これ以上悪くなってもらいたくないと思っているのですが、なぜか本人には全く通じないので困っております。」

「そ、そうですか、、、。どうしてなんでしょうか。誰だって、治りたいという意思は持つでしょうし。そのためには、無理をしてでも食べるということだって、必要になりますよね。薬だと思って食べようと努力される方だっていますし。特に宗教的な理由ということもないでしょう?まさかと思うけど、ラマダーンに引っかかるとか?」

「違います。正美さん。そんなことは毛頭ありません。まあ確かに顔つきが日本人離れしているので、そういう国の人に見られてしまうこともありましたが、それは一切ありませんよ。そこははっきりしています。」

正美が思わずそう聞くと、ブッチャーははっきりと否定した。確かに西洋とか中東、あるいはその混血者と間違われることは非常に多かった。その中には、民族的、宗教的な理由により、豚肉をたべないとか、イカとかタコを食べないなどの習慣がある人もいるが、決してそんなことはない。それに、そういう習慣のある人であっても、例えば妊婦さんとか、ここまで重度の病人であれば、体力つけのために豚肉を食べてもよい、とされている国家も少なくないとされている。

「それじゃあ余計におかしいわね。食べない理由なんて何もないじゃないの。」

「そうなんですけどねえ、、、。」

ブッチャーは、答えを考え出すのに頭をかじってしまった。ああ、困ったなあ、という顔だ。正美から見ても、ご飯を食べてはいけないという法律はどこにもないので、それを理由なく拒否するなんて、

なんだか贅沢すぎるというか、そんな気がしてしまうのだ。高校生のころ、食事をするには金が要る、金を作れない人間は食事をするな、と、徹底的に仕込まれたからかもしれない。自分は文字通り、金を作れない人間になったため、食事をとるとき罪悪感をもたなければならないが、ほかの他人であれば、まずその必要はないと思われるので、食べ物を拒否するという行為は、なんだか嫌な人に見えてしまうのである。もちろん、この理論は一般的に言えば、おかしな理論かもしれないが、高校に閉じ込められて、毎日のようにこれを吹き込まれていた正美には、それが当たり前のように見えてしまうのだった。学校の先生から解放されたとしても、祖父がああいう態度をとっていれば、学校の先生が言っていることが、実行されているのだと、簡単に思ってしまうのだった。


「ちょっとブッチャー、もうすぐ利用者さんたち帰ってくるわ。悪いけど、お風呂を洗ってきてくれないかしら。」

食堂から恵子さんの声が聞こえる。現在、鉄を作るために滞在している利用者は一人もおらず、製鉄所に泊って、高校や大学に行くとか、職場へ行くという目的で滞在している人で占められていた。まあ、精神科や、ほかの更生施設が建設されてより選択肢が広がったということが理由なのだろうか、その代わり、また新たな問題も発生してくるだろうなと、青柳先生は言っていた。恵子さんたちは、世の中がよくなったのかと喜んだが、そんなことはありませんよ、そうでなければ、若い人が起こす、凄惨な事件が減るはずなのに、むしろ増えているでしょ、何て、青柳先生は笑っていた。

まあ、そういう風に製鉄所の位置づけも変わっていたが、恵子さんは利用者の食事を作るという仕事内容は変わらないし、ブッチャーも利用者がいない間、風呂掃除や庭掃除をするという役目は変わっておらず、お二方には、まだまだ働いてくださいね、と、青柳先生は言っていた。利用者の人数は今までと変わっていないので、二人の仕事は、減るどころか、まったく変わらないのだった。

「はあい、今行きます。すみません。掃除したら、すぐに戻ってきますんで、すみませんけど、水穂さん、見てやってください。何かあったら、俺はすぐに戻ってきますから、呼び出してください。」

ブッチャーは、食べてもらえなかった食器をもって、四畳半を出て行った。正美は、とりあえず、まだ少しばかり汚れてしまっている口元を拭いてやろうと思いつき、そばに置いてあった濡れタオルを、眠っている水穂の口元へ近づけた。

ところが、そのタオルは、島豆腐よりも冷たくなっていて、口元に触ると、水穂は目を覚ました。

「あ、すみません。起こしてしまって。お顔、拭いて差し上げようと思っただけなのですが。」

「こちらこそごめんなさい。でも、顔位、自分で拭けますから、それ、貸してください。ほんとに、びっくりさせてしまって、申し訳なかったです。」

「謝らなくても結構ですよ。仕方ないことじゃないですか。急に悪くなることはだれでもありますから。」

正美は、何事もなかったかのようにいったが、

「いえ、本来であれば、自身でしなければならないのに、誰かを頼ってはなりませんから。顔位、拭きますよ。」

というので、タオルを貸してやる。そうなると、なぜブッチャーさんがあれほど食べろと言った食事をあんなに拒否したのだろう?

水穂は、起き上がって顔を拭こうと試みたが、起きて布団に座るまでは成功したものの、再びせき込み始めてしまうのだった。それでも、何とかして顔を拭き、口元の汚れを取ることは成功する。

「あたし、おかしいなと思うんですけど、そういう身の回りのことはやろうとするのに、なんであんなに、ご飯を拒否したんですか?そのくらいの意欲があるなら、ご飯だって、頑張れば食べられるのでは?」

思わず、先ほどから持っている疑問をぶつけてしまった。これを聞かれたら、答えが出なくてたじろぐだろうとおもった。そうしたら、わがままを言わないでと、説教してやるつもりでいた。ところが、水穂はすぐ答えを出した。

「決まってるじゃないですか。僕みたいな人は、いつまでもここにいるべきじゃないからです。きっと一昔前でしたら、害虫として、誰にも相手にされないで路上で逝ってもおかしくない身分なんですよ。そういうわけですから、こうして看病してもらえるなんて、僕たちにとっては贅沢極まりないことなんですよ。」

予想していない答えだった。そんな答えが出るなんて、まさか思わなかった。少なくとも、目の前にいる人物は、容姿だって端麗だし、グロトリアンのピアノと一緒に生活していたのだから、よほど優秀だったことは容易に想像できた。そんな人物が、なぜ、野垂れ死んでもおかしくないと、宣言したのだろうか?

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