第八章

第八章

箏がやってくるのは、配達時間指定で、二時から四時となっていた。といっても、最近の宅急便は、予定時間より早く到着してしまうことが多いので、お昼ご飯を食べ終えた正美は、その場で待っていることにした。

母も、最近の宅急便は、二時に来るなんてあてにならないし、一時前に来ちゃうことだってよくあるから、そうした方がいいわよ、と言っていた。

一応値段は着払いで、4500円ということになっていた。そのお金は、正美がもらっている小遣いで十分用意することができた。

しかし、一時を過ぎても宅急便は来なかった。

「あら、今日の宅急便はまじめなのかしら?いつもはこのくらいの時間に平気で持ってきちゃうんだけどな?」

母がそうからかうが、正美も、この時間ではまだ早すぎるので、気にしなかった。

そうしている間に二時になった。まだ宅急便は来ない。

まあ、ぴったりに来るということもないか、というわけで、母と一緒に、洗濯物をたたんだりするのを手伝っていた。

「あんたが、お箏習い始めてくれるなんて、お母さんはとてもうれしいわ。」

洗濯物をたたみながら母が言う。

「やっぱり、お母さんは、心のどこかで音楽を続けてもらいたいなと思っていたのよ。ああいう形であきらめてしまうのは、やっぱり悔しかったでしょうしね。お母さん、何もできなくて申し訳なかったね。」

そうか、お母さんはやっぱり私のことを見ていてくれていたのね。私のこと、完璧に見捨てたわけじゃなかったんだ。

「そりゃ、確かに、おじいちゃんや、学校の先生のいう、実用的でない学問というのは、そうなのかもしれないけど、でも今は、いい大学を出れたからと言って、必ずいい企業にはいれるとは限らない時代になっているんだし、お母さんは、それでいいと思ってるわ。もう、どこの大学なんて、関係なく、能力さえあれば、ちゃんとやれる時代になっていると思うの。確かに、お母さんのころは、出身大学でどこの企業にはいれるかは自動的に決まるっていうのは、本当によく言われていたけど、あんたはそうじゃないと思うから、あんたのすきな大学に行けばそれでよかったのよ。」

そういうセリフを、高校時代に、しっかり言ってくれればよかったのになあと、正美は思ったが、今は言わないことにしておいた。高校時代の母は、ほかの保育士との軋轢がひどかったことで、精神状態が不安定だったから、とても教師たちに対抗なんてできるはずがなかった。教師たちは、それをお前が高い学費を必要とする音楽学校を目指すからだ、と罵って、何とか音楽から遠ざけようと試みていた。

「結局ね、あんたがおかしくなって、学校をやめることになって、大学へ行くどころか卒業すらできなくて、ずいぶん悔しい思いをしただろうけど、お母さんは、かえってそれでいいと思ってるのよ。そりゃ、あんたにとっては、ずいぶんつらかったと思うけど、でも、そうでもしなきゃ、あんな悪い先生から逃れることはできなかったでしょ。お父さんもお母さんも、あの時は毎日やっていくのに精一杯で、あんたのことなんか、まるで見てやれなかったからね。それで、あんたがおかしくなっちゃって、本当に申し訳ないなと思ったけれど、原因を作ったのは、あたしたちでもあるから、あんたが回復するのを待つことにした。だから、できる限り、あんたの意思に従おうと思ったわ。」

ああなるほど、それで無理して働けと怒鳴ることもしなかったのか。本当のところ、家が逼迫しているから、働けと怒鳴られるのが当たり前だ、親は期限付きなのに、そんな風に暮らして何をしているんだ、と福祉関係者に言われたこともあったので、自分の親は、甘やかしすぎているというか、そんな気がして、余計に自分がだめだと思ってしまったこともあったのだ。

「だからね、あたしたちは、あんたが何かやりたいって言い出す時を待とうねって決めてたの。それを自然に芽生えてくれるように、一切手を出さなかったんだけど、あんたが最近犬を飼い始めて、ちょっと変わってきたのかなって、期待してたのよ。そうしたら、今度はお琴教室に通いたいって言い出したから、お母さん、やっと変わってきたのかって、すごくうれしかった。習いだしたからには、しっかりやってね。先生の言われたことは、しっかり覚えられるように、よく練習するのよ。まあもちろん、ピアノとはぜんぜん違う世界なんでしょうけどね、そういう、まったく違うところに行ったほうが、かえって楽になるかもしれないわよ。」

「はい、わかったわ。この前体験入門に行ってきたけど、なかなかついていけなくて、困っちゃった。でも、先生は、それを悪いとも何とも言わなかったわ。高校の先生みたいに、何だ、こんな問題もできないのか、なんていうセリフは一切言わなかったわよ。」

「へえ、いいじゃない。どんな感じの先生なのか、教えてよ。」

正美がそういうと、母は、いたずらっぽく笑った。やっぱりどんな先生なのかは、知りたくなるのだろうか。

「うん、結構お年を召している、おじいさんだったわ。威厳のある人だけど、決して怒鳴ったりすることはなく、上品な感じの方だった。」

「いいわねえ。お箏の先生というと、確かにお年寄りが多くて、一寸若い人は入りづらいなあというイメージあるけど、最近はそうでもなくなっているのかしら?」

「ああ、それとはぜんぜん違うわ。言葉遣いなんかは確かに違うけど、でも、変に気取っているようなところはないし。」

「そう。伝統の世界も変わってきているのねえ。」

「ええ、楽器をメルカリで買えばいいといってくださったのも、先生なのよ。」

正美がそういうと、母はさらに驚いた顔をした。大体伝統楽器の先生は、平気で高いものを買わせるというイメージがあるからだ。

丁度そこへ、インターフォンが鳴る。

「諸星さん、宅急便です。あて先は、諸星正美さんで、着払いになっております。」

威勢のいい、配達員の声。

「あ、やっと来た。ちょっと取りに行ってくる。」

正美は、財布をもって、玄関先に行った。ドアを開けると、配達員が、大きな段ボール箱をよいしょと掲げて入ってきた。

「はい、こちらです。すみません、甲府の営業所から持ってきたのですが、途中大雪が降っていまして、一時間以上も遅れてしまいました。えーと、着払いで、4500円ですねえ。」

「気にしないでかまいませんよ。確かに、山梨は、日ごろから雪の多いところですから、多少遅れてしまっても、仕方ありません。五千円でおつりくれる?」

正美は、財布から、五千円札を出して、配達員に渡した。

「はい、おつりは500円ですね。すみません、ちょっと500円玉がないので、100円玉五個でも大丈夫ですか?」

律儀に聞いてくる配達員。

「ええ、かまいません。本当に完璧主義なんですね。なんでも500円玉でなければだめということはないのに。」

「いや、そうなんですけどねえ、最近はそうもいかないのですよ。こういう細かいことに文句をいうお客さんがとても多くて。全く、どうしたらいいのだろうと思われることを平気でいうお客さんも少なくないのです。持ってき方が悪いだとか、配達の時の態度が悪いだとか、そういうこと、平気で言われてしまうものですから、、、。」

なんとも気苦労な話だが、最近の宅急便はそうなってしまっているようである。なんだか、単に荷物を運べばいいという商売でもなくなっているようだ。

「あたしは、かまいませんよ。そんな完璧主義を要求するような、変な客ではありませんから。」

正美は笑って、配達員に言った。

「あ、ありがとうございます。いやあ、たすかりました。そういう親切なお客さんもたまにはいてくれるものですな。しかしお客さん、こんなに大きなもの、一体何に使うつもりなんですか?こんな時期にサーフボード?あ、それとも、もしかして、スキーを始めたとかでしょうか?スキーの板もこのくらいの大きさがありますよね。静岡では、雪が積もることは少ないので、東北とか、北海道に旅行の予定があるとか、そういうことかな?」

おつりを渡しながら、そう聞いてくる配達員。

「これは楽器なんです。和楽器の箏なんですよ。」

正美は、にこやかにそう答えると、

「あ、こ、箏ですか!そうか、そう考えてみると、そのくらいの大きさがありますよね。そうかそうか、そう考えると納得できます。びっくりしました。ちょうどサーフボードと同じくらいの大きさだったから、こんなに寒いときにサーフボードを何に使うのかなあと、不思議な気持ちで運搬しておりました。ではですね、ここに印鑑か、サインをいただけますでしょうか?」

配達員はやっと謎が解けたという顔をして、サイン枠を示した。

「いやですね。夏でもないのに、サーフボードは使いませんよ。それに、もともとあたしは、運動音痴で知られていたんですから、スキーもできないですよ。」

正美は、配達員が示した枠にサインをしてそういった。

「わかりました。しかし、箏を運んだのは初めての経験でした。では、ありがとうございます。これからも、佐川急便を利用してくださいませね。」

深々と頭を下げて、配達員は家を出ていく。確かに、箏なんてそう頻繁に運搬される楽器ではないし、初めての経験というのも、あり得ない話ではないだろう。正美は笑いながら、配達員が出ていくのを見送った。

「お箏来た?ちょっと見せて頂戴よ。どんな感じなのか見てみたいわ。」

母が、玄関先にやってくる。とりあえず段ボールを部屋へもっていって、カッターナイフで梱包用のテープを切った。開けてみると、ほぼ新品に近いと思われる立派なお箏が一面出てきた。

「だいぶ古いものだけど、絃も切れてないし、琴柱も爪もついているから、すぐ弾けるわ。最も、まだ調弦の仕方を習ってきただけで、何も弾けないけど。」

そういいながら、段ボールを綺麗にたたんだ。確かに琴柱が入った箱もあるし、爪も爪箱にしっかり入っている。はめてみると、若干ぶかぶかな印象があるが、調整してもらえばすぐに治りそうだった。

「次のおけいこまでに、爪を治してもらってくるわ。静岡に有名なお箏屋さんがあるみたい。電話番号なんかは、スマートフォンで調べれば出てくるって、先生が言ってた。」

「へえ、そうなの。もしよかったら、お母さんもお箏屋さんに行ってみたいわね。どんな感じのお店なのか、覗いてみたいわ。」

「いいじゃない。行きましょうよ。静岡なら、電車ですぐいけるじゃない。わざわざ新幹線を使わなくても、30分くらいでいけるでしょ。」

「そうねえ。でも、お箏屋さんは駅から近いのかしら?」

「あ、そうか、歩くと腰に大変か。そのあたりは、先生に聞けばいいわ。もし、少し遠いんだったら、バスかタクシーで行ってもいいものね。」

二人がそんな話をしていると、

「バカ者!」

と、雷のような怒鳴り声が聞こえてきた。

「ただでさえ金がないのに、さらに金を出させるような真似をして、何を考えている!」

丁度祖父が、外出先から戻ってきたのだ。

「あ、ごめんなさい。正美がお箏教室に通い始めるそうで、練習用の楽器を買ったのよ。あとで爪の調整にも行ってきますからね。」

一応母は、初めの部分だけは、こうして反抗できるのだが、、、。

「そんな贅沢な真似をして、その金は誰が払う?それに、箏なんて、先生に出す謝礼は高いし、衣装は高いし、それぞれの部品だって、高いことぐらい知っているじゃないか。全く、俺が金を出しているのをいいことに、お前たちはそういう余分なことをするような真似をして!」

「余分じゃありませんよ。正美だって、こうして久々に外へ出ようという気になってきているじゃありませんか。それなら、こうして応援してあげてもいいんじゃありませんの?」

「そういうことなら、すぐに職業安定所に連れていけ!そうしなければならない年であることくらい、わかっているだろうに!もう、そういうわがままが許されるのは、子どもの時だけで、正美くらいの年ならば、まず第一に働くことを最優先させることを教えていかなければならん!」

「そうですけど、いきなりそんなところへ連れていけば、また傷つくといけません。初めは、正美がやりたいと言ったことから初めて、外の世界へ慣れさせることから始めないといけないんですよ。お父さんもわかるだろうけど、心が傷つくって大変なんです。病院の先生もそういってますけれど、こういう病気になったときは、今までやってきたこととかそういうものは、すべてリセットして考えなければだめだと言われたじゃないですか。だから、一からやり直すことから始めなきゃいけないんです!」

「何馬鹿なことを言っている!三十年以上生きていて、世の中のことはすでにわかりきっているはずなのに、今更やり直すなんて必要ない。それよりも、金を稼いで家族に渡すことが何よりも大事だということを、お前たちはなんで教えていかないんだ!それが一番大事なことなのに、お前たちはそれから遠ざけて、ただ甘やかしているようにしか見えない。お前もな、腰を痛めて、それだけ苦労しているのに、なんで、それをもとに金の大切さを教育しなかったんだ!それだって、絶好のいい機会だと思っていたのに、さらにこいつを甘やかすような真似をする!お前たちは、自分を犠牲にして娘のために尽くしているように見えるが、俺から見たら、もっと社会の厳しさを教えていかないとだめだと思う。人間は、社会の中で生きていく動物なんだから、そこから遠ざけて、音楽という役にたたないものの中へ逃がすような真似は、ただ、こいつを一層悪くしているだけに過ぎないと思う!すぐにこれを処分させて、職業安定所に連れていくように仕向けろ!でなければ、お前たちに二度と金なんか出さんぞ!」

「お父さん、そんなこと言わないでください。この子だって、大変な目にあったんですよ。だから、もうちょっと、優しくというか、長い目で見てやらないと。」

「うるさい!そんなもの優しさでもなんでもない!本当のやさしさというのは、世の中の厳しさを教えていき、働くことの大切さを教え込んで、鍛えなおしていくことにあるぞ!」

いくら言っても、祖父には勝てないということを知った母は、床の上に突っ伏して泣き始めた。こうなったら、やっぱり、自分が一番悪かったということを正美は知った。知ったというより、感じたという表現のほうが的確かもしれない。そうだよね、本当は母も祖父も、もう年金で悠々自適という言葉がぴったりの年齢だ。無理して働くというのはあり得ない年齢でもある。でも、うちでは、母がまだその年でも働いている。それに、自分だって結婚して当の昔にひ孫を作って、教育者になっていなければならないはずの年齢だ。きっと祖父くらいの年代の人は、例外という言葉なんて絶対あり得ないと信じ切っていて、自分がそれに相当してしまうと、ほかの親戚にそれを指摘されてしまうのが、我慢できない年齢なのだ。

そういう人から、切り離して、生活すればいいのではないか、という考えもあるけれど、祖父から金をもらって生活している以上、それは許されなかった。やっぱり何もかも、自分が悪いんだ。もう、こういう世界にいる以上、家庭的な平和は望めない。やっぱり人間それが一番大事だから。

高校時代、教師がよく言っていた言葉がある。人間にとって何より大切なものは金であり、お前たちはただでさえ身分が低く、経済的に豊かではない。そういう家庭に生まれている以上、確実に金を得られる職業に就くことも難しい。確実にお金を得られる職業につくことができない大学に行くようなやつは、せっかく産んでくださった親を殺すことになり、金を得られなくなって、狂死していく親を見殺しにし、いずれは自身も犯罪者となって、刑務所か、精神病院しか行くところはないだろう。それが嫌なら、国公立大学に行きなさい。それでも嫌で、音楽学校に行くのなら、親御さんに迷惑をかける前に、この教室の窓から飛び降りて死になさい!

そういわれて、よく自殺の練習をさせられていたものだ。母はよく、それは教師が悪いと言っていたが、いま、こうして祖父から借金をして生活している以上、私は、あの時先生のいう通り、教室から飛び降りるべきだったんだ。親を殺すとは、つまりお母さんが腰を手術する大けがをし、お父さんが家に寄り付かなくなることだったのか。そして、確かにお金を提供できなかったら、生きていけないことくらい知っていた。だから、やっぱり先生の言うことは正しかったんですね。わかりました。そうします。

「わかりました。これ、売りに出してお金を作りますから、今日は許してください。」

正美は、祖父に土下座して謝罪し、すぐに箏を段ボールで包み始めた。そして、スマートフォンを取り出して、写真を撮り、売りに出すための宣伝文句を書き始めた。母が、そんなことしなくていいと、涙ながらに訴えるが、

「いいのよ、お母さん。私は間違ったことをしたから、おじいちゃんが直してくれたの。それでいいわ。本当にごめんなさい。」

と、無理やり笑顔を作って、そう答えた。

祖父は、よろしいという顔をして、部屋を出ていく。

「よかった、これで今月分の食費はちゃんともらえるわよ。人間はやっぱり食べていくことが一番だいじだもんね。」

本当は、食事なんかしないでも生きていられたら、どんなに楽だろうか、と思わずにはいられない。

もはや、こういう身分なんだし、上の人の命令を反抗しないで遂行できる能力と、実行するための、腕と手足だけあれば、幸せというものは簡単に得られるのではないかと正美は思った。それ以外のものは、いらないものとして、生まれたときに全部処分してくれるような、医療機関を作ってくれたらいいのにな、なんて考えていた。

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