第七章
第七章
しばらくたって、杉三と正美は、天童先生のサロンで、ノロを講師に箏のレッスンを受け始めた。
「それではまず、荒城の月のような簡単な曲で体験してみましょうか。まず初めに絃の番号名をお教えいたしましょう。」
「は、はい。」
正美は、緊張して返答するが、そんなに緊張しなくてもいいですよ。と言いたげにノロは笑った。
「それではまず、向かって一番遠くの絃が壱、その次が弐。その次が参。一寸、指で追いかけてみてくれませんかね。」
「へえ、古筝は手前から壱なんだが、それと真逆なんだねえ。」
言われた通り、二人は、一番遠くの絃を指さした。
「はい、そして、それから順に、四、五、六、七、八、九、十、残りの三本は斗、為、巾と呼びます。十一、十二、十三と書いてしまうと、縦書き表記をしたときに、ほかの番号と間違えてしまうので、斗、為、巾と呼ぶようになったようです。」
「はあ、わかりました。十三という数は縁起が悪いから嫌だというだけじゃないんですか。」
「もう杉ちゃん、それは外国の話。日本ではそういうことはしないわよ。」
杉三の発言を聞いて、正美は思わず笑いだしてしまった。師匠のノロも、それを止めずに笑わせてくれるのがうれしい。
「それでは、絃を覚えていただきましたから、今度は箏の基本的な調弦である、平調子を合わせてみましょうか。」
再び、ノロはそう切り出した。
「ではまずですね。一の絃を基準である壱越の音に合わせましょう。壱越は西洋で言うところのレに相当する音です。音は、この琴柱というものを立てて、それを動かして作ります。壱越の音は、この辺りに琴柱を持っていくと作れます。」
そういわれて、ノロの指定した位置に、琴柱を置き、絃を琴柱にある溝の上に置く。ちょっと弾いてみてごらんなさいと言われて、二人が弾いてみると、杉三の音は正確にレとなっていたが、正美のそれは、ファであった。
「少し高すぎたようですね。では、琴柱を、左側へ少しずらしてみてください。はいそうです。それをしながら弾いて音を出していただきますと、ミ、レと少しずつ下がってくるのがわかると思いますので、レの音がした位置で止めて下さい。」
その通りに動かしてみると、しっかりその通りに音は変化していった。レの音が聞き取れたので、そこでよいということが分かった。
「では弐の絃を調弦してみましょう。弐は、一から四つ上の音、つまりソになります。レ、ミ、ファ、ソとあげていけば、作ることができます。基本的に琴柱を適当な位置に置き、音を出しながら、指定された音にむかって琴柱を左右に動かせばいいのです。左へ動かせば下がりますし、右へ動かせば上がります。」
「へえなるほど。そこのあたりは、古筝と同じなんだな。」
二人は、その通りにした。
「じゃあ、次は参をやってみましょうね。参は、一から五つ上の音、つまりラです。同じように琴柱を入れて作ってみましょう。」
またその通りにすると、しっかりその音が鳴った。
「続きまして、四をやってみましょう。ラに対して理論的に言ったら短二度の音程を作ってください。つまり、西洋音名で言ったら、シのフラットということになります。これが一番作るのに難しいと言われるのですが、調弦のためですから頑張りましょうね。」
「こ、こうか。」
正美は、杉ちゃんは覚えが早くていいなあと、羨ましく思った。自分も、音大へ行くからと言って、音楽理論を習ったことがあったが、もう単二度とか、そういうことは、すっかり忘れていた。
「そうですそうです。はい、次は五の音を作りましょう。五は壱の一オクターブ上のレとしてください。」
「はい。」
この音は比較的作るのは簡単だった。オクターブ上は比較的楽に聞き取れる。
「よし、じゃあ、次は六をやってみましょう。再び、五の短二度の音程です。西洋音名で言えば、ミのフラットです。ちょっと難しいですが頑張って作ってみてください。」
四と六は一苦労するが、使えない頭を一生懸命ひねって音を作った。
「では、次は七以降ですね。ここから先は比較的簡単に作れます。七は弐の壱オクターブ上、八は参の壱オクターブ上、九は四、十は五、斗は六、為は七、巾は八のそれぞれ一オクターブ上の音とすればいいのです。」
確かに七以降は比較的作りやすいが、結構平調子を作るのでさえも、難しいんだなとわかった。
どうにかして、二人とも平調子を作ることができたとき、ノロはよくできましたと言って、笑ってくれた。
「結構大変なんだねえ。古筝と違って、ドレミソラの五音階だけ作っておけば、何でもいいわけじゃないんだなあ。結構厳しいなあ。」
「まあそういうことになりますな。しかし、平調子の基準音は、壱越だけではありませんよ。今回は、覚えやすいようにそうしましたが、ほかにも音はいろいろあるわけですから、基準にする音を変えれば、何十通りの平調子を作ることができます。つまり、基準をミにすればまた違う平調子ができますし、ファにすればまた変わります。そういうわけで、同じ平調子の曲であっても、基準を変えれば全く雰囲気の違う曲を作ることができるわけです。」
「へえ、そういうところは、意外に寛大なのね。そういえば古筝もそうだったよ。一応ドレミソラとなっているが、21の音を変えれば、また違う音で調弦が作れる。」
「はい。そうですね。古筝というのは、お箏が成立する前の楽器ですから、その時代はまだ、ドレミソラの五音しか、音として認識されていなかったんですよ。お箏として改良されたときに、新たに七音追加されて、いわゆる十二律となりました。この辺りは少しづつ説明していきますが、古筝から、お箏へ進化したことにより、音が増えてよりいろいろな調弦が作れるようになったんです。音色も、非常にあいまいな音から、キチンとした音になるように改造されて。」
「へえ、なるほどね。でも僕はきっちりしすぎというのはちょっと、苦手だなあ。あの、いくら直そうとしても正確に取れない古筝の音はいいなあ。」
「まあ、時代が古すぎたんでしょうね。古筝と言えば、古墳時代か奈良時代の楽器ですからな。そのあと、徐々に改造されていったんでしょう。」
「でも、何の音で平調子を作ってもよかったとしても、作曲者がこの音で平調子を作るようにと、指示したりしなかったんですか?」
杉三とノロがこんな会話をしているのを聞いて、正美は思った疑問を述べた。確かに西洋の楽曲であれば、「ピアノソナタ一番ヘ長調」などというような感じで、明確に調弦を指定してあるはずだ。
「はい、そういう習慣は、古典箏曲ではありませんでした。弾く人の好みで何でもよかったようです。もちろん、三味線や尺八などと合わせる場合は、ほかの楽器に合わせる必要はありますが、それも、必ずこの音にしなければならないという規定はありませんでしたので、演奏する人たち同士で話し合って決めていたそうですよ。それは、杉ちゃんの古筝のころから、変わっていなと思いますよ。」
にこやかに答える、ノロの話を聞いて、正美はあまりにも意外だった。日本の音楽は、西洋以上に、調弦とか、音程に厳格だったのではないだろうか、と思っていたのだ。
「い、意外に自由だったんですね。基準を変えてもいいってことは、何調で演奏してもいいっていうことだから。人によっては、高い方が明るくて好きだという人もいるでしょうし、低い方が落ち着いていていいという人だっているかもしれない。西洋の音楽は、必ず、ヘ長調ならヘ長調で通さなければなりませんが、古典箏曲では、誰が弾いてもヘ長調でなくてもいいということでしょう?つまり、同じタイトルの曲でも、人によって、ヘ長調の人もいるし、ニ長調で演奏する人もいるということですね。」
「はい。例えば六段の調べだって、其れこそ、弾く人の好みにより、いろんな調で演奏されますので、中には全く違う曲のように感じたとおっしゃる方も少なくありませんよ。」
「それが、法的にというか、文化的に認められていたなんて、その人の個性が出て面白いじゃないですか。やっぱり、何調が好きかで、ある程度性格も分かったりしますでしょ。例えば、イ長調が好きな人は、明るくて無邪気な人が多いし、変ホ長調が好きな人は、落ち着いていて穏やかな人が多いですよね。それを、演奏にも表せるなんて、日本の音楽って、意外に面白いですね!」
正美が、楽しそうにそう語ると、ノロはずいぶん感心した様子で、にこやかに笑った。
「はい、そうです。ですから、日本の音楽は、一人ひとりの個性を大事にしていたと言えますね。最も、それは、おそらく江戸時代くらいまでのことだと思いますが、今の歴史家なんかは、江戸時代をよくないとする人が多いですけど、こういう音楽を通すと、個性を大切にしようという動きも、少なからずあったということが見て取れますよ。」
「そうだねえ。偉い人に、回れ右と言ったら嫌でもそうする文化と、バカにされることも多かったが、意外にそうでもなかっただなあ。」
ノロがそういうと、杉三がからからと笑った。
「へえ、いいわねえ。なんか私、古い時代にそういう音楽があったなんて、いま初めて知ったわ。なんだか、そういう過去の音楽を、もっと学んでみたくなりました。」
そう、古い時代にあった自由に、もっと触れてみたくなった。
「よろしかったら、この教室に来てみませんか?わたくしは、普段は都内に住んでいますが、週に一度は、天童先生の施術を受けるため、こちらへ来させてもらっているので、その日に、このサロンで教えたりもしていますよ。ほかにも天童先生のクライエントさんが何人かいらしてますから、その時に。」
「ぜひやってみたいです。でも、そうなると、用意するものがいろいろありますよね。」
「大体のものは教室でお貸しできますよ。ただ、楽譜は書き込んだりすることもありますので、個人で用意していただきたいですね。山田流の古典箏曲は、博信堂という出版社が独占していましたが、倒産してしまったので、現在はほかの出版社で代用しているんです。そうなると、多少の間違いが出てしまうこともあるので、持ってきてくださったとき、拝見させていただければ、訂正させていただきます。」
「へえ、倒産ですか?」
「はい。後継者がなかったんでしょうな。ですから、もう手に入らないので、時には生田流の楽譜を貸してもらうことさえあるんですよ。」
ノロはちょっと寂しそうに言った。確かに、ほかの流派から借りてしまうなんて、山田流に誇りを持っているような人は、すごい屈辱であるに違いない。
「楽譜だけではなく、楽器も用意しなければいけませんよね。それは、何十万もしてしまうんですか?」
正美は、学生の時にもらっていた、仕送り金がまだ残っていることを思い出しながら言った。
「いえ、それは心配いりません。ヤフーとか、メルカリとかいう、古いものを処分するためのアプリを使えば、大体千円程度で入手できます。運が良ければ五百円で入手できたという、話も聞いたことがありますよ。ただ、生田流と山田流では、楽器の大きさが多少違いますので、ちゃんと山田流用と明記している物を買うようにしてください。琴柱なんかは、その楽器を買うときに、一緒にくっついてくることが多いです。爪も同様ですが、指の太い人も、細い人もいますので、そこはお箏屋さんで直してもらってくださいね。このあたりですと、静岡市に、曾根田さんという和楽器屋さんがありますよ。」
そうか、そうなれば、久しぶりに静岡の街へ行くことができるきっかけも持てるな、と正美はうれしくなった。やっぱり静岡の街は若い人を引き付ける魅力的なものがたくさんあることを知っていた。
「ありがとうございます。そうか、そういうやり方でやれば、比較的安く入手できるんですね。家に帰ったらすぐ、メルカリを開いて試してみます。メルカリで服を買ったことはよくありましたが、そんなものが買えるなんて、知りませんでした。」
「はい。時には、信じられないほど高級なものが出品されていて、わたくしも驚いてしまったことがありました。できれば、そういう物は宝物として持っていてほしいのですが、本当にお箏を愛している人にわたったほうが、よりお箏も喜ぶだろうと考えなおしました。」
と、いうことは、伝統品を習っていく人にとって、メルカリは究極の入手方法になっていくだろうなということが予測できた。それは新たな時代に向けて、世の中が変わりつつあるということなのかもしれない。
「そうだねえ。そういう物があれば、気軽に古いものに触れられるし、やってみたいという人も増えてくれるかもしれないもんな。しかも安く買えるってのが、何よりもうれしいよな。」
杉ちゃんの言う通り、やってみたい意欲を阻むのは大体金がかかるということであるが、これがあればそういう偏見も消えてくれるかもしれないと思った。
「わかりました。ありがとうございます。野村先生、これからどうぞ、よろしくお願いします。」
正美は、にこやかに笑って頭を下げた。自分の意思で動くということが、こんなに楽しいものだったと改めて感じることができたのだった。
自宅へ帰った正美は、急いでスマートフォンを開いて、メルカリアプリを立ち上げた。このアプリの会員になっていることは、家族にはまだ知らせていない。まだ、一度や二度、洋服を買った程度しか使ったことはなかった。
検索欄に、「箏、山田流用」と入れてみた。そうすると出るわ出るわ、沢山の箏が言われた通り、1000円で売られている。ノロの言った通り、琴柱や爪などもしっかりついていて、時には楽譜が何冊か付属しているものもあった。大体が、亡くなった家族が、お箏教室に行っていたが、置き場に困るので出品するというものだ。確かに、ノロが言った通り、高級品が、1000円で出品されている、というのは何かかわいそうなところもあったが、今はそんなことは気にならなかった。取り合えず、比較的汚れの少ない、山田流のお箏を一面選び出して、注文した。
返事はすぐに来てくれた。ご購入ありがとう、それでは明日の朝、佐川急便の着払いで送ります、楽しみに待っていてください。と、親切そうな感じのメッセージだった。出品者の住所は山梨県と書かれていたので、比較的近いところだから、明後日には到着すると思います。とも書かれていた。着払いと言っても、送料含めて五千円を下回るというところも、なんだか皮肉な話だが。
まあいい、そんなことは気にしないで、新しい楽器がやってきてくれるのを、楽しみに待って居よう。
正美は、そういう思いを込めて、ありがとうございます。楽しみに待っています、と返信した。
飼い主の新たな門出を、サリーは祝福するように見つめていたのだった。
そして、明後日がやってきた。
「ねえ、どうしたの?なんだか、楽しそうな顔をしているじゃないの。」
昼ご飯を食べながら、母がそんなことを言った。この時祖父は、用事で出かけていて不在だった。
「あ、お母さん。あたし、黙っていて申し訳なかったんだけど、今年からお琴教室に通うことにしたの。あたしが、サリーの散歩に行っている時に知り合った、影山杉三さんというお友達がいるんだけど、彼の知り合いで、お箏を教えていらっしゃる方がいてね。ちょうどサリーの散歩コースで、ここからもさほど遠くないし、すぐに教室まで行けるから。」
できるだけ重大な出来事だと思わせないように、あっさりと正美は言った。
「へえ、お箏かあ。でも、練習用の楽器も用意しなきゃいけないし、高くないの?」
「いや、それがね。この間、メルカリを見たら、1000円とかで売っていたから、すぐ買っちゃった。ほら、お母さんも知っているでしょ?よくテレビでも宣伝している、いらないものを販売するアプリ。」
「はいはい、知ってるわよ。職場の若い女の子なんか、平気で鞄とか買っているわよ。始めのうちは、壊れたものとかを売りつけられたりされないか、お母さん心配だったけど、ほかの子たちの様子を見れば、そうでもなさそうだしね。その中でお箏が売っているなんて意外ねえ。まあでも、高級な着物なんかをそこで買ったという人もいるし。仕事仲間で日本舞踊を習っている子が、そういう物を、メルカリで買ったという話を聞いたことがあるわ。」
なるほど。母がほんの少しだけだけど、社会から隔絶されていなくて、良かったと思った。
「そうよね、今は何でも買えちゃう時代だし、そうやって気軽に触れちゃうことができるから、いいわよね。そうなると、昔からある、古きよきものに、気軽に習えて、昔の人たちの考えに触れれば、ちょっと考え方も変わってくることができるかもよ。」
散々、暴言を聞かされた母は、もう芸術とかそういうものしか、正美は救われないだろうなと思っていたのだろう。お箏を習うことを、あっけなく承諾してくれた。
「本当?認めてくれるの?あたしが習いに行くこと。」
「いいわよ。というかあんたも、いつまでも家族の許可をもらわないとダメとか、そういうことはないんだから、そんなの気にしないで習いに行っていいのよ。もう、そういう年じゃないの。」
やった!よかった!やっと自分の意思で習いに行ってもいいということになったのか!
「それじゃあ、喜んで迎えてあげられるわね。今日、楽器がこっちへ届くことになっているのよ。メルカリで注文したんだけど、出品者さんからすぐに送ってくれるって、連絡があって。だから、今日の午後くらいには届くと思うわ。」
「あら、そう。最近の宅急便は、一日で届いてしまうのねえ。運送業もずいぶん速く運んでくれるようになったものだわ。昔は一週間くらいかかっていたけれど。」
母は、そんなことに驚いているが、正美は全く気にしなかった。そんな細かいことは気にしない、とかく私の新しい門出なんだからと思っていた。
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