第六章
第六章
家に帰ると、普通の家にはない、重々しい雰囲気があった。玄関のドアを開けると、母がまた歌の練習をしていた。
とりあえず、サリーの四本足を拭いて部屋に入った。本来は二階にピアノがあるのだが、夜勤から戻ってくる父に考慮して、一階のキーボードを弾きながら練習している。
母の歌はとても下手だ。本人は頑張ってイタリア歌曲をマスターすると張り切っていたが、それをするにはものすごい大声で歌う必要があった。でも、それをすると、祖父によるお咎めがやって来るからできないのだ。中途半端な歌いかたしかできないのだから、下手なのはあたりまえ。でも、本人はそれをしないといられないような生活になっている。
正美が、居間に入って、ただいまと一声かけると、
「あ、お帰んなさい。ちょっと、音がとれているか、確認したいから、そこで聞いててよ。」
母は、キーボードを弾きながら声を張り上げて歌い始めた。
曲はイタリア歌曲の中でも特に人気のある私を泣かせてください、という曲であったが、いずれにしても母の歌は下手だった。きちんと発声のための訓練を受けたわけではないから、歌うというより、単に叫んでいるだけのように見える。
そこへ、ガチャンとドアが開いて、口をへの字型に結んだ不機嫌そのものの祖父がやってきた。
「おい、うるさいぞ!静かにしろ!」
雷みたいに怒鳴り付ける。
「なによ、今練習しているんだから、邪魔しないでちょうだいよ!」
ただ、母の反抗もここまでだ。
「うるさい!ご近所に迷惑がかかったらどうするんだ!文句言われるのは俺なんだからな、これ以上恥を描かせるのなら、もう金など出さんぞ!」
これを言われたら、母もおしまいだ。すぐにキーボードを片付けて、ごめんなさいと最敬礼し、すごすごご飯の支度に戻る。祖父はそうなった母をよろしい!という顔で見つめる。
私のせいなんだ。
この有り様をみて正美はいつも思う、
というか、そうしなければ、いずれも円滑にはいかない。
母が、仕事そっちのけで声楽にはまっていき、祖父から借金をして生活費を賄っているのはとっくに知っている。それに証文が伴わないのは、母と祖父が親子関係にあるからだ。だから、消費者金融にいく必要がないだけだ。本来であれば、私が働いて家にお金を入れる必要があるけれど、私がそうしていないから、母は祖父から借金をしなければならないのだ。本当は私さえいなかったらよかったなと、今思えばそう考えている。
母も、正美も音楽が好きだった。ただ、母は大学へいくことを許されなかった。この家の正当な後継者であるのだから、金にならない学問にはまるなと、こっぴどくしかられたらしい。一度内緒で声楽の先生にならいにいったことがあったようだが、祖父が娘にてを出すなと先生を脅し、教室から追い出すように仕向けたのだと聞かされたことがあったそうだ。その後、母は保育士の資格をとり、保育園に勤務したが、ある日大ケガをしてフルタイムで働けなくなり、半日勤務しかできなくなった。その開いた時間で、ふたたび声楽をならい始めたのだ。
それはそれでよいのだけれど、母が大ケガをしたのは、自分のせいだと散々言われてきた正美は、母がふたたび音楽にはまり始めたのをみてなんだか嫌な気持ちというか、不思議な気持ちになる。
元々、正美も母に進められて、ピアノをはじめた。学校の勉強は苦手であったが、ピアノは好きだった。中学校に入り、なんでもテストの点数だけで決められてしまうようになると、ピアノが自分を癒してくれるような気がした。そうなると、ピアノをもう少し本格的に学んでもよいような気がした。なので、音楽学校にいくことに決めた。母も、存在感の乏しい父も、賛成してくれた。多分、勉強ができなかったということもあるだろうが。
ただ、祖父は激しく反対した。昔のひとらしく役に立たない学問を学んでも意味がないと、怒鳴り散らした。このときは、母も必死になって自分を擁護してくれた。でも、近隣に音楽高校はまだなかった。あの有名な立花高校は、まだ建設されていなかったし、他にも音楽高校はあっても、県立高校至上主義の静岡では、私立はバカにされていた。だから、勉強ができないことで、結局正美は地元の公立高校に進学したが、そこはまさしく、高校生というより幼児に近い生徒しかおらず、彼らを統制するために、先生は毎日怒鳴っていて、まるで地獄のような有り様であった。ここでも彼女は真面目な生徒であったが、これが行けなかった。先生たちは、彼女を国公立大学に行かせるために、音楽から切りはなそうとあらゆるひどいことをした。時には授業中に自殺の物真似をさせられたこともある。そんなわけで正美は、精神疾患のため入院し、大学は受験せず高校も中退した。
せめて、音楽学校の先生には師事し続けようとおもったが、精神がおかしなひとをおいてはおけない、として破門された。もう、こうなれば、生きていたってしかたないと思った。もう一度取り組もうという気にもならない。だから、いまのいままで、学校に行き直す気にもならず、働く気にもなれないのだ。
そんな彼女を母も父も、無理しなくてよいからといって家に置いてくれたが、今度は母が腰の手術をする大ケガをおい、父が会社を首になるという事件がおき、祖父が一家の支配者として君臨することになった。つまりどういうことかというと、通常の家であれば、母や父が金を持つが、祖父が家の中でもっともたくさんの金を持っていることになるのだ。基本的に家族の順位は、持っている金の多さで順位が決まるから、自動的に正美はいてもいなくてもよい存在と見なされた。そうなると、口に出してそういったわけではないけれど、あることなすことが、正美が食べるだけでなにもしないことによって起きているとされ、家の中は普通の家族にあるような幸せは、何一つ起こらなかった。
その時も、祖父のいう通りに音楽を中断して、いつも通りの家庭に戻らなければ、家を出ていけと言われるかもしれない。母も、祖父の言うことには逆らえないし、自分だって、パニックを起こして暴れたら、家族の秩序をこわす疫病神として、また精神病院にぶち込まれること請け合い。なので、こういう時はすぐ逃げるのがもっともな策だった。それでも、祖父のすきを狙って母は声楽の練習を再開し、正美はベルカントが取得できないという、母の叶うことなどない悩みを、笑顔のままで聞かされることになるのだった。
結局、私なんて、家族とか、学校とか地域とか、そういうところが用意してくれた人生を歩いていくしか、幸せになることはできないんだ。自分の意思なんて持っても仕方ない。それよりも、お金を稼ぐ方がはるかに大事だし、夢を持てなんて言葉は、無意味に過ぎない。人生の中で一番大事なものは、お金を確実に稼ぐこと、嫌な影響を与える偉い人から素早く逃げること、自分の感情をできるだけ持たないこと。この三つが何より大切である。
そんなことを考えながら、布団に潜り込んで寝てしまう彼女を、サリーは心配そうに眺めているのだった。
翌日、今日も正美はサリーを連れて公園に散歩に出かけた。後ろ足のやけどは、思ったより軽度だったようで、サリーはすぐに歩いてくれるようになった。犬は回復力が速いなと、正美はある意味羨ましいのだった。
また、花の咲いていないバラ園を通り越して、梅園の近くを通りかかったときのことである。
「こんにちは。」
ふいに、梅園のほうから声がした。
「やっほ。元気か?」
よく見ると、杉三と水穂がたまを連れて、梅園を歩いていた。サリーは、たまの顔を見ると、すぐに紐を振りほどいてたまのほうへ駆け寄った。さすが世界最速と言われるだけあって、あっという間にたまのもとへ駆け寄り、二匹はそのままじゃれあって遊び始めてしまった。初めは、たまのほうが、ハイハイと言ったところだったが、サリーの猛烈なアタックにたまも心動かされたのだろう。
「はあ、やっと追いつけました。犬はほんとに、速いですね。気に入ったものを見つけると、あっという間に追いついちゃう。」
たまたちが遊んでいる間に、正美は水穂達のいる方へ到着した。意外に人間にとって距離は離れていた。
「それにしても、サリーちゃんのアタックぶりはすごいもんだな。犬って、気に入った異性を見つけると、ああして猪突猛進に告白してしまうもんなんだろうか。」
杉三がいうように、人間であれば、ああいう直接的なアタックは、よほどのことがない限りしないと思われた。
「ほら見ろよ。あんなふうに顔舐めて。たま、なんだか迷惑そうな顔だなあ。人間の言葉で言ったら、すきです、すきです、すきですって、何回もうるさいぐらい聞かせているんじゃないのか?あんなアピールする女は人間で言ったら、誰かなあ、スカーレット・オハラみたいな、見栄っ張りで気性の荒っぽい女だぜ。」
「たまが、もうちょっとかっこいいといいんだけどね。そうなると。」
水穂は杉三の発言を聞いて苦笑いする。確かに、ボロボロの首輪をつけたたまは、可愛い女性にアピールされるとはとても思えない、素朴な男、という感じだった。
「確かにそうだね。スカーレットが好みそうなイケメンではないよなあ。サリーちゃんが可愛いお嬢さんなら、たまは、家を建て直す武骨な大工という気がする。」
杉三が二匹を強引に例えるが、たまとサリーは、そんなことは一切気にせず楽しそうに遊んでいるのだった。
そんなことをしゃべっていると、水穂がまたせき込み始める。正美は心配そうに彼を見た。
「おい、大丈夫?帰ろうか?」
杉三にそういわれて、咳き込みながら水穂は頷いた。ここで動けなくなったら大変なことになる、とまだ予測ができるほどだったらしい。
たまと、サリーも、主人の異変に気が付いたのか、遊ぶのをやめてすぐに戻ってきた。正美はすぐサリーの紐をとった。
「じゃあ、悪いが今日はここで帰るからな。また会おうな、待ってるよ。」
咳き込んだままでいる水穂の代わりに、杉三がそういった。二人と一匹は、亀より遅いペースで帰っていく。たまも主人の水穂に従順に歩き始めたが、サリーは強引なアピールぶりを発揮して、無理やり紐を引っ張り、たまを追いかけ始めた。な、なに、どうしたの?と正美は彼女を帰らせようとするがサリーはいうことを聞かない。
「なんだ、なんでついてくるんだよ。」
さすがにサリーがいうことを聞かないという理由では、ちょっと恥ずかしかった。そんなことをしたら、もっと犬の飼い方勉強しろ、とか言われて、笑われてしまいそうだ。
「いえ、そうじゃなくて、水穂さん大丈夫かなあと思って。」
表向きはそういったが、杉三はそのままそれを受け取ってしまったようだ。
「あ、そうなのね。まあ、僕にはもし動けなくなったら何もできない事も確かなのでね。じゃ、悪いけど、付き添ってやってくれ。頼むよ。」
そう頼まれて、正美も製鉄所へ同行することになった。この間に、サリーはたまの横にピッタリくっついて離れなかった。
公園から製鉄所までは、さほど長距離ではなく、普通に歩けば五分程度で到着できる距離であるが、水穂の歩くペースが遅いため、何十倍もかかってしまったようであった。やっと製鉄所の正門が見えてきた時には、心からほっとして、ため息が出たほどである。
「おかえりなさい。もっと長く歩いていてもよかったのに、もう帰ってきてしまったんですか?」
製鉄所の玄関の戸を開けると、青柳教授が出迎えた。と、いうことは、さほど歩いていなかったんだろうか?正美には何十分も歩いたように見えたけど。
「悪いねえ、青柳教授。疲れちゃったみたいで、帰ってきちゃったのよ。ほら、道路で動けなくなったら連れて帰れなくなるから。」
杉三がそういうと、懍はため息をつきながら、
「今回は仕方ありませんが、できるだけ休ませるなどして、歩かせるようにしてくださいよ。頼みますね。」
と言った。もしかしたら、懍も多少、期待していたのかもしれない。
「あ、それから、野村先生と天童先生が食堂にいらっしゃるけど、気にしないでくださいね。なんでも、広上さんが、うるさく付きまとって困っているんだそうで、天童先生のお宅から帰るのに、大変なんだそうです。一人で逃げるのも大変なので、天童先生の車でこちらへ来たのだそうですよ。」
懍はそう付け加えた。これには、杉三たちも驚く。
「なんだか、敵をしつこく狙うナチスの警備隊みたいだねえ。広上さんは。そんなに邦楽と洋楽の協演したいかな?変な人と化してしまったようだよ。」
「まあね。それくらい、音楽業界も変わっているんじゃないですか?まあ、とりあえず、ある程度時間が来たら、帰るそうですから、ほんのしばらくこちらにいさせてくれとのことです。」
懍と杉三がそう話していると、疲れ切ってしまったのか、水穂が床に座り込んだ。おい、しっかりせい、と杉三が言っても、反応はない。
「大丈夫か!お前!もうここで座り込んでどうするんだよ。何とかして、立って!」
二匹の犬たちも、彼を心配して見つめていた。正美が、水穂さん大丈夫ですか?なんて言って、水穂を支えてくれた。
「中へ入ってみてください。とりあえず、立てますか?」
「はい。」
何とか立ち上がって、正美に支えてもらいながら、水穂は四畳半に行った。そのせき込む音が結構大きかったようで、食堂にいた、ノロと天童先生も駆けつけてくれた。
「すいませんね。わざわざ助けてもらっちゃって。もうちょっと、水穂さんも体力があればいいのですが。」
杉三が、天童先生に背中をなでてもらって、やっとおちついてくれた水穂を眺めながら言った。ノロも正美も心配そうな様子だ。
「よし、これでたぶん落ち着くと思うから、ゆっくり横になってごらん。」
と、天童先生が優しく言って、水穂は崩れるように布団に横になった。この時点でやっと、咳き込むことから解放されて、静かにゆっくりと息継ぎができるようになる。
「疲れちゃったら、眠ってもいいよ。」
杉三に言われて、水穂は大きく息をした。たぶんこれが返答だろうなと思われ、そのあとは静かに寝息が聞こえてきた。
「ずいぶん大変ですな。大丈夫なんですかね。」
と、ノロが心配そうに言うが、
「ま、でもな、やれるところまでこっちに置こうと決めたんだ。みんな、そのつもりで毎日苦労しているのさ。ある意味、水穂さんによって役を作ってもらっている奴も少なからずいる。だから、それは、できる限り維持した方がいいだろうから。」
と、杉三が否定する。役割か。あたしは、家でもどこにもそれがないのよ。と、正美の中でそんな気持ちがわいた。
「ああ、それは何となくわかりますよ。病院に任せきりにしていては、身につかないことも、こういう形態ならわかるということも結構ありますよね。」
さすがノロ先生。昔の人らしく、そういう発言もできる。
「そうだよねえ。完璧すぎる家なんて、かえって家の中がカサカサで、住みにくいんじゃないのか。そうじゃなくて、水穂さんみたいな人がいてくれた方が、かえって、楽しい生活ができるってもんよ。」
「そうですそうです。昔はね、家族が一団となって弱い人を守ろうとする能力がありました。たとえ家にとって有利な存在ではないとしても、家の中に入れてやって、一緒に生きようという能力がありました。というのは、わたくしたち自身も、いつか戦争で殺されるかもしれないという危機感が常にあったのかもしれません。それに、医学が発達していませんでしたから、簡単に死んでしまうきっかけが、常にあったということがみんなの中に根付いていたのかもしれません。まあ簡単によくなるというのは、良いことなのかもしれないけど、そういう感動は奪われてしまったかもしれませんな。」
「もう、だから野村先生は、古典箏曲の世界が好きなんですね。そういうところをまだ古典は持っていますからね。」
ノロの話に天童先生が口を挟んだ。この時、正美は、あたまの中で何かが変わったような気がする。
「古典箏曲ですか?箏曲だから、つまりお箏の音楽ということですよね?」
「そうですよ。江戸時代までに伝わっていた、日本の音楽なの。あたしもね、野村先生に歌詞を拝見させてもらったりしたことがあったけど、こんな内容が今の子に伝わったら、もうちょっと楽になるのではないかと思われる個所がいくつもあったの。」
正美がそう聞くと、思わず天童先生が笑いながら言う。
「へえ、どんな内容があるんだ?」
と、杉三が聞くと、
「そうねえ、あたしがね、良く感動したのは組歌かなあ。こんなに不快な季節も、見方を変えればすごい感動的なものになると教えてもらったわ。」
天童先生はにこやかに答えた。そうか。そういう風に考えれば、私の今のつらい生活も少し楽になってくれるかな?昔の音楽に描かれている、日本的な見方に少し触れたら、また別の視点で物事を見られるかもしれない。箏の音なんて、一度や二度しか聞いたことはないが、いずれもちょっと物悲しくて、ゆったりした音であることを記憶している。
「やってみたいですね。」
正美は、思わず、そう口にすると、
「いいじゃない。もしよかったら、野村先生のところで習ってみたら?あのね、あたしのところでヒーリングを受けているクライエントさんたちが、ぜひお箏をやってみたいって言い始めてね、野村先生が施術を受けにこっちに来ている間、教えてもらえないかというので、私のサロンで教室を始めたのよ。一緒に習いにいらっしゃいな。」
天童先生が、それを嬉しそうに言った。
「結果として、広上さんに付きまとわれるきっかけになってしまいましたけどね。」
苦笑いをするノロに、
「まあ、いいじゃないの。洋楽の助けを借りないでしっかり生きてる証明にもなるよ。なんか僕も弾いてみたいなあ。古筝とどう違うのか、比べてみたい。」
杉三までその話に乗り出した。
「しかたありませんね。まあ、何かをつかみ取ってくれれば、それに越したことはありません。いいですよ。簡単な曲からやっていきましょう。」
時代が変わったと思いながら、ノロはそう答えた。
正美は、よろしくお願いします。と座礼しながら、ピアノを始めたとき以来、久しぶりに自分の意思で習い始めることができた、うれしさを味わっていた。
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