第五章

第五章

「水穂さん、お願いですから、たまの散歩にいってやってくれませんかね。もちろん、体の良いときで結構ですから。このままだと、たまがかわいそうですよ。」

布団に寝たままでいる水穂に、ブッチャーは懇願するように言った。水穂は、疲れた顔をして、ブッチャーの反対方向へ寝返りを打った。

「毎日俺が散歩に連れ出しても、行く気にならないようで、つまらない顔をしてすぐに帰ってきてしまうんですよ。ちょっと出ただけでは、エラ先生の、足を鍛えるようにという指示も守れませんよ。俺がいくらもっと行こうなんて言っても言うこと聞きませんし。無理やり引っ張れば、座り込んでしまって、俺が無理やり歩かせているような顔をするもんですから。だから、正式な飼い主でなければだめなんです。連れ出してやってください。」

たまの散歩に関しては、ブッチャーも恵子さんもほかの利用者も担当したことがなく、水穂にまかせっきりだったということもあるだろう。それによってたまは、水穂だけに信頼を置くようになってしまったのかもしれなかった。

でもブッチャーは、それが理由であるとは思わなかった。

「このままだと、たまが努力してきたのが、全部水の泡になって消えちゃいますよ。たまがドイツで半年間リハビリに励んだのは、水穂さんに会いたかったからでしょう?それがやっとかなってかえって来たのに、この有様ではたまがかわいそうすぎます。水穂さんも寝てばかりいないで、たまの散歩に出てやってください。」

「そうですが、もうかったるくて、、、。」

水穂はやっとそれだけ反論した。

「かったるいなんて理由にはなりませんよ。もちろん体の調子がよくないのは仕方ないですけど、かったるいだけでは理由になりません。ほんとにたまがかわいそうですから、一度だけでも散歩に出てやってください。」

ブッチャーは、もう一度お願いした。たまはその間にも主人の布団すぐ近くに腹ばいになって座り、

変わってしまった主人を悲しそうに眺めているのだった。この顔を見ると、人間よりも表情豊かで悲しそうだった。もしかしたら半年間西洋で暮らしたせいか、より表情が豊かになったのかもしれない。

いくら真っ黒でも表情がわかるのは、そういうことかも。

「水穂さん、これは須藤さんの勝ちですよ。たまがこんなに寂しがっているんですから、一度は一緒に出てやらないと。それに、寝てばかりいるより、たまには立つ練習もしないといけませんよ。あなたも、衰弱を遅らせるために、歩くきっかけを作らないと。寝ているより、立っていたほうが、進行が遅れることだってあるんですよ。」

ブッチャーの話を聞きつけて、懍が四畳半にやってきた。

「昔の医療では、一日中ゴロゴロしているということはまれで、通常では簡単な家事程度ならぎりぎりまでやらせたりしていましたよ。今だって、途上国の原住民では、相当弱りさえしなければ、必ず何か役割をもらって、家族行事に参加していることが多いですよ。そのほうが、社会と切り離されることがないから、使命感を持てるので、回復が早まることが多いです。一日中寝ているなんて、先進国の一部の人たちだけしかしないでしょう。」

やっぱりさすが青柳先生だ。文明化していない人たちの良いところをたくさん知っている。年長者ということもあり、説得力もあった。

「もし、途中で疲れたりするのが不安だったら、誰かについていってもらえばいいのですよ。一人で全部やるなんて、無理なことなんですし、体のことはみなさんご存じなんですから、遠慮なく発言すれば、誰か立候補してくれますよ。」

「よし、それなら、まず第一候補として、俺が立候補します!」

懍がそういうとブッチャーはすぐ言った。こうなったら、水穂も降参したらしく、

「わかりました、行ってきます。」

と、疲れた顔で言った。

そういうわけで、たまの散歩の実行者は、水穂が担うことになった。ただもちろん、一人で行かせるには危険すぎるので、必ず誰かひとり補助者が付くことになった。有力候補としてブッチャーが付き添ったが、ブッチャーのインターネットショップに注文が入った場合は杉三が担当することもあった。

時には、たまの様子を観察にやってきた、エラ先生が、一緒に付き添うことも多かった。不思議なもので、水穂が担当すると、たまはそれまでとは打って変わって、公園を一周したり、エラ先生とフリスビーをして遊んだりなど、活発な一面をみせるようになった。


今日も、杉三とエラ先生に付き添ってもらって、水穂はたまを連れて散歩に出かけた。

一行が公園に入って、もうすぐ梅の花が咲きそうだな、なんて話をしていると、まだ花の咲いていないバラ園の近くで、一匹の灰色の犬を連れた女性の姿が見えた。

「おう、姉ちゃん。お前さんも、犬の散歩か。」

杉三が思わず声をかけると、

「あ、あら。こないだの、杉三さんじゃないの。」

と、彼女も杉三が誰だかわかったようだ。

「杉三さんなんて、改まった言い方はしなくていい。杉ちゃんと呼んでくれ、杉ちゃんと。そういう言い方をされるのは苦手だからよ。確か、お前さんの名前は、諸星正美さん、だったよな?」

「ええ、間違いなく。不思議ねえ、また会うなんて。」

杉三がそういうと、彼女は再会したのを驚いたのか、そんな言い方をした。

「おう、この二人はな、エラ先生と、親友の磯野水穂さんだ。」

後の二人も、軽く頭を下げる。エラ先生は、西洋人らしくにこやかに微笑みかけた。諸星正美は、水穂の名を聞いて、一寸たじろいだが、エラ先生の微笑みで、それは消えてしまった。

「それより、お前さんは、どうしてこんな中途半端な位置で止まっているんだ?ここはベンチがあるわけでもないし、自動販売機があるわけでもないだろう?」

と、杉三が、そもそもの素朴な疑問を投げかける。確かにそこは、今の季節であればよほどの植物マニアでなければ、通り過ぎてしまうはずの場所だった。バラ園のバラも全く咲いていない。

「いえ、本当は通り過ぎる場所であることはわかっているんですが、このサリーちゃんが、急に止まってしまって。」

「サリーちゃん?ああ、この灰色ワンちゃんのことね。」

杉三がそういうと、サリーちゃんと呼ばれた灰色の犬が申し訳なさそうに、クウンとあいさつした。

「ちょっと見てあげようか?」

エラ先生が、サリーの体を注意深く観察して、

「ああ、この子、後ろ足にやけどがあるわねえ。たぶん消えかけたたばこの吸い殻を間違えてふんじゃったのよ。ちょっとさ、どこかに動物病院でもない?消毒したほうがいいなあ。」

と、言った。この西洋人の女性が、獣医さんだったとは、正美も想像できなかったらしい。それほどエラ先生は、日本の獣医さんとはかけ離れた雰囲気を持っていた。

「はい、動物病院なら、この公園を出た道路を渡って、右側にあります。ただ動物病院という名ではなく、家畜診療所と名乗っていますが。」

正美が返答に困っていると、水穂が代わりに答えた。

「わかったわ。今すぐそこへ連れて行こう。」

と言ってエラ先生は、サリーをよいしょと持ち上げた。やっぱり獣医さんだけあって、大きなグレイハウンドでも軽々だ。

「私、はっきり道を知らないから、案内してくれる?」

「おう、任しとけ。井上先生はすぐ近くだから、簡単にたどり着ける。」

杉三が、先頭を切った。水穂はたまを連れて、製鉄所に帰ろうかと言ったが、

「水穂さんも一緒に来てよ。僕はお金の勘定も読み書きもできないし、エラ先生もそうだろう?諸星さんだって、犬の診療は初めてだろうからよ、通訳してやってくれ。」

と言われてしまったので、だるい体に鞭打って、一緒に行くことになった。

幸い、水穂が知っていた動物病院はすぐ近くにあった。ただ、看板には井口家畜診療所と書いてあったが。

「すみませーん。このワンちゃん、えーとサリーちゃんだったよな。ちょっと見てやってくれよ。」

「はいはい、待っててくださいね。」

杉三が玄関扉を開けてそういうと、年をとった老獣医師がどうしたのかな?と言いながらやってきた。

ちゃんと聴診器も持って、お医者さんらしい恰好をしているので、エラ先生とは全く違う雰囲気だ。

「えーと、どうしたのかな?」

「あ、はい。この子なんですけど、散歩をしている時に、たばこの吸い殻を踏んでしまったようで、私が見たところ、後ろ足の裏にやけどがあったんです。」

「ハイハイ、じゃあこの診察台の上にのせてやって。」

老獣医師は、杉三たちには部屋を出るように促した。水穂がそうしようと言ったため杉三と正美も部屋を出る。エラ先生はそこに残った。

「その節は、本当にすみませんでした。」

待合室で待っている間、正美は改めて杉三に謝罪する。

「いいってことよ。何回も言うけど、悪いのはお前さんじゃないんだから。それよりも、僕がお願いしたこと、守ってくれたようだな。あのワンちゃん。」

「そうなのよ。ペットショップではお金がかかりすぎるから、保健所に行って探してきたのよ。」

「で、名前をサリーちゃんとしたわけね。しゃれた名前だな。たまなんて名前より、よほど似合うな。」

杉三がそういうと、水穂が杉ちゃんそれどういうことだと苦笑いした。

「それにしても、たまに比べると、ずいぶん痩せているようだが?」

そういわれて正美は初めて気が付いた。大きな体のたまに比べて、サリーは体が細かった。もともとグレイハウンドのサイズをしっかり知らなかったので、あのサイズで普通なのかと思っていた。

「あ、確かにそうですね。僕から見ても彼女は、体が小さいなと。」

水穂もそう付け加えるのだから、そういうことなのだろう。たまが何を話しているのかな?という顔で、杉三たちの顔を見ていた。

「ごめんなさい。あたし、何も知らなくて、、、。」

「まあ、それは知らなくて当たり前だ。そういうことは事実を知ったらその通りに動くことだけすればいいんだよ。その時変な感情はいらない。劣等感は持つなよ。」

杉三がそういってくれなかったら、たぶんいつもの癖で、また自分はだめだと落ち込んでしまうのではないかと思われた。人に何か言われてしまうと、正美はすぐに落ち込んでしまう癖があった。

丁度その時、診察室の扉が開く。意外に早く終わったようだ。

「ちゃんと、消毒できたわよ。ねえ、先生がちょっと聞きたいそうだけど、サリーちゃんはちゃんとご飯を食べているの?」

エラ先生が、そう聞いた。

「ええ、一応毎日ドッグフードは出しているんですが、あまり食べるのは早くないようです。」

正美はその通りに答える。

「どのドッグフードを食べさせているの?もちろん、日本のドッグフードの種類は私あまり知らないけど?」

「はい。ビタワンですが、、、?」

「あ、あれね。ドイツでは原材料がよくないとして、あまり推奨していないのよ。日本産のドッグフードがたまに輸入されているけれどね。うちの病院に来る子たちはあまり好きではないみたい。」

正直に答えると、エラ先生もそういった。やっぱりビタワンはもはや不人気になっているドッグフードらしい。

「サリーちゃん少し、アレルギーがあるみたいなの。だからちょっと科学物質が多いフードは避けたほうがいいわね。」

エラ先生がそう解説してくれるが、ドッグフードなんて何を買えばいいのか全く分からなかった。ただ、安いからと言ってビタワンを買って食べさせていただけだ。

「それとも、保健所から来たということもあり、良いものは食べてなかったのかもしれませんね。ああいうところは、あまり良いものは出しませんから。」

水穂に言われて、それもそうだと考えなおした。とにかく、杉ちゃんに言われた通り、その通りに動くこと、を言い聞かせていた。

「じゃあ、たまの餌を少し分けてやるか。診察終わったら、製鉄所に連れ出して、食わしてやろう。」

「それがいいわね。」

杉三の提案に、エラ先生も同意してくれた。その間にサリーの診察も終了した様で、老獣医師が、もう大丈夫ですよ、ずいぶんおとなしい子ですな、とにこやかにほめてくれた。

「どうもありがとうな。本当は、おとなしすぎるワンちゃんよりも、わんぱく坊主のほうがいいかもよ?」

杉三がそうからかい半分で口を挟むと、老獣医師は本当はそうだったらいいのになあという顔をした。やっぱり犬や猫も最近は人間の子供と一緒で、あまり吠えない、つまりおとなしい方が、好まれるらしい。

とりあえず、水穂が持っていたクレジットで支払いをして、動物病院を後にした。


エラ先生がサリーをまた抱っこして、一行は製鉄所に移動した。とりあえず、たまとサリーを中庭に連れていく。水穂はこの時点でかなり疲れていたが、横になるのは失礼かと思った。一方、杉三は、縁側に置かれていた、たまのご飯皿に、たまがいつも食べているドッグフードをたんまり盛って、

「ほれ、食べろ。」

サリーの顔の前に置く。

サリーは、こんなごちそう待ってました!とばかりにドッグフードにかぶりついた。

「あら、どうしたんでしょう。いつも食べるときはもっと遅かったんだけど、こんなにがつがつ食べるとは、、、。」

「それが健康的なのよ。今までは栄養価のないフードを食べさせられて、きっと嫌だったのね。確かに、たま君に比べるとかなりやせていたようだから、私も正直、心配だったんだけど、たぶんこれだけ食欲があればサリーちゃんは大丈夫ね。」

エラ先生がそう分析してくれた。そういってくれれば、たぶんサリーは大丈夫だろう。それにしてもすごい食いつきの良さだ。

ドッグフードはあっという間になくなってしまった。サリーはまだ食べたいのだろうか、杉三の顔をじっと見る。

「よし、もっと食べろ。」

杉三はまたドッグフードを皿に入れると、サリーはすぐにかぶりついた。それを何度か繰り返したため、

「こんなに食べて、腹をこわさないかなあ?」

と杉三が心配したほどである。五回目にフードを食べ終えて、サリーはやっと満足したのか、もう欲しがらなくなった。隣にいたたまが、大丈夫か?と言っているかのように、サリーにすり寄った。サリーはそれにこたえるように、たまにじゃれ付いた。

「おい、どうしたんだよ。この二匹!いつの間にくっついたんだ?」

「いいのよ杉ちゃん。あれは犬同士でおしゃべりしているんだと思ってよ。人間は言葉でしゃべるけど、犬はそうじゃないから、ああして体を触ってしゃべるのよ。」

杉三が心配すると、エラ先生は訂正した。たぶんそうなのだろう。たまもサリーも本当に楽しそうだ。

「たぶん同じ仲間ができて、うれしいんじゃないの?ほら、日本でなかなかグレイハウンド飼ってるお宅って少ないし。」

「あ、なるほどね。つまり、お互いの自己紹介でもしているんだろうか?」

杉三が、そう推量するように、二匹はじゃれ付いて何かしゃべっているようだ。たまは、新しい友達を製鉄所の庭で遊ばせたいようで、一度、縁側から中庭に飛び降りたが、

「たまよしなさい。サリーさんは、やけどを治してもらったばかりでしょ。」

水穂に言われて、あたまをフリフリ戻ってきた。

「いや、覚えがいいわねえ、たま君は。飼い主さんの命令はすぐ聞くのね。」

「まあよくわかりません。たぶん、拾ってくれたのは水穂さんなので、恩人の命令はよく聞くんじゃないの?」

エラ先生と杉三が、そう話している間、正美は半纏にくるまって、隣に座っているこの人物、つまり水穂を見つめた。

この人が、蘭さんが、何とかして助けなければならないんだ!とさんざん言っていた、磯野水穂さんだったのか。それにしても、ずいぶん美形だ。日本人離れして、どこか西洋の俳優さんに似た人物がいるような気がする。サッカー選手のような強そうな顔ではなく、ラベルのような幻想的な曲を作る音楽家や、ルノワールのような繊細な絵を描く画家のような、華奢な感じのイメージがあった。それは、今同居している家族には絶対ない美しさだった。縁側近くにある四畳半の部屋は、ちゃんと覗いたわけではないけれど、高級なピアノが設置されていると聞いていた。メーカーを聞くと、グロトリアンだと蘭さんは言っていた。少しだけピアノの世界に足を踏み入れたことのある正美は、グロトリアンというと、ステインウェイアンドサンズの血縁者が作った、歴史的なピアノであるということを知っていた。そのグロトリアンを所持しているということは、ピアノを長く体得している人物だろう。蘭さんの話によると、世界一難しいピアノ曲を書いたといわれるレオポルト・ゴドフスキーを得意とする、というが、それは少なくとも、今ここにいる水穂さんでは、無理なのではないかと思われた。ゴドフスキーを弾きこなす人は、ジャイアント馬場みたいな大きな体をしていて、筋肉もりもりの太い腕を持ち、指もソーセージみたいに太い、いわばピアニストというより、格闘家という感じの人が多い。

いや、それほどの体格をした人でないと、ゴドフスキーの曲は弾きこなせない。一度だけ録音された曲を聞いたことがあるが、こんな難しいピアノ曲、弾くのも聞くのも体力が要ると、すぐにやめてしまったことを思い出した。

そういうことを考えると、水穂さんはげっそりとやせていて、体重は大型のシェパードのほうが重そうだし、身長だって正美より低い。手だってさほど大きくはない。ただ、指はところどころ変形しているので、苦労人であることは疑いないとわかった。

杉三がエラ先生と犬についておしゃべりしている間、水穂は座っているのがやっとで、時折せき込んでいた。正美は、声をかけたくてもかけられなかった。

その間に、たまとサリーは、互いの顔をなめあったりして、文字通り、犬同士の話をしているのだった。

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