第四章
第四章
杉三とカールさんが展示会に行った翌日の事。その日は、暖かいという言葉は、どこかへ行ってしまうのではないかと言えるほど寒かった。よく晴れて雪が降る可能性は少ないが、とにかく風が吹いていて、風がことごとく冷たく当たった。
とはいえ、標高の高い場所にある製鉄所では、良く晴れてというよりも、山特有のきりが濃くて、何となく重たい空気の日だったような気がする。
そんな中、恵子さんの作ってくれた蕎麦がゆを食して、水穂はいつも通り布団に横になって寝ていた。
でもそのうち、重たい空気のせいで、何回か咳き込むようになった。こういう重たい空調は、呼吸器の弱っていたものには堪えた。
その日の午後。製鉄所の玄関先に、一匹の犬を連れたすらりと背の高い金髪の女性がやってきた。サングラスをした彼女は、電車の富士駅では日差しが強かったが、ここではそうでもないなと思って、サングラスをとった。インターフォンを探したが、それに該当するものがなかった。仕方なく、玄関の戸を三度たたくがこれでも反応がない。どうなっているんだと思いながら、玄関の戸に手をかけて、静かに開けようとすると、引き戸はガラガラとけたたましい音を立てて開いた。
「はい、どうぞ、開いてますよ。」
青柳先生の声がして彼女はほっとした。よかった。この住所で間違いはないんだな、と思った。
「グーテンターク。」
「違うでしょ。こっちへ来たら、ちゃんと日本式の挨拶してくださいよ。」
半分笑いながら、青柳先生が顔を出した。
「あ、ああ、ごめんなさい。こんにちは。でしたっけ。」
と、彼女も下手な日本語でそうあいさつした。青柳先生の姿を見て、一緒にいた全身真っ黒なグレイハウンドが、思わずワン!と声を上げる。
「よく帰ってきましたね。半年もドイツに滞在すると、僕の顔なんか忘れてしまったのではないかと思いましたよ。」
「きっと何よりも日本に帰りたかったんだと思いますよ。寝る時も、お風呂に入る時も、赤い首輪を離そうとはしませんでした。検査なんかで首輪とはずさなきゃならない時は、本当に困りましたよ、たま君は。」
「あ、そうなんですか。すみません。意思が強くて困りますね。犬は飼い主に似ると言いますが、変なところでこだわりがあって、頑固なところは、本当に水穂さんにそっくりです。」
懍は、子どもを説明するように言った。ちなみに犬の首輪には、ボロボロになった首輪がしっかりついていた。
「まあいいじゃないですか。そんなに飼い主さんに対して愛情をもっているなんて、犬は犬でもなかなかいませんよ。特に、グレイハウンドは独立心の強い子が大勢いますからね。ドイツでは今でもレースをやっている地域も多いですからね。あんまり人懐っこい子は多くないんですよ。」
そういえば、ヨーロッパでは今でも競馬によく似たドッグレースが盛んにおこなわれていて、グレイハウンドはその代表的なレース犬である。最近ではほかの犬種が登場することもあるが、まだまだレースと言えばグレイハウンドと思っている人が多い。
ただ、名前の通り、体の真っ黒という犬はあまり例がない。
「いえいえ、愛情というか、たまの頑固ぶりは相当なものです。もうよくドイツの先生に懐いてくれたなあと、感心していたところです。エラ先生から、定期的に手紙をいただいていましたので、回復の様子はしっかり伺っていました。けれど、良い点ばかり書かれていましたが、負の面も相当あったのではないですか?」
エラ先生と呼ばれた女性は、懍にそう聞かれてにこやかに笑った。
「いいえ、問題は何も在りませんでした。たま君、確かに首輪を離そうとはしませんでしたが、それ以外では、しっかりスタッフの指示にも従ってくれましたよ。それに悪いところばっかり書いてしまうと、変に心配されるのではありませんの?」
日本人によくあることを指摘されてしまったようで、
「そうかもしれませんね。」
と、懍は苦笑いして答えた。
「一つ、疑問に思ったこともありましたよ。日本に旅行したことのあるスタッフがびっくりしていましたけど、たまというのは、日本語ではよくある名前だそうですが、それは雌の猫に付けることが多い名前だそうですね。それを雄のグレイハウンドに付けてしまうなんて、ちゃんと餌をもらっていられる環境にいたのかしら?」
「あ、はい。まあよく言われるんですが、水穂さんが、拾ってきたとき勝手につけてしまったようで、
それで定着してしまったんですよね。かといってほかの名前も思いつきませんでしたし。少なくとも、餌はしっかりあげていましたし、天気が悪くない限り、散歩にもしっかり連れ出していました。だから、虐待と言われるようなことは何も在りません。」
エラ先生が、よく言われる素朴な疑問を発言すると、懍はすぐに否定した。確かに犬らしくない名前だが、そこを虐待と結び付けてほしくはなかった。
エラ先生は、隣で座っているたまの頭を静かに撫でてやった。その間にもたまはおとなしく、隣に座っていたのだが、、、。
突然、何か思い立ったらしく、急に立ち上がり、足を拭くのも忘れて製鉄所の中に入ってしまった。エラ先生が、たま君、どこ行くの、なんて聞いていたのも聞こえていないようだった。懍はたぶん飼い主にどうしても会いたくなったのだと解説した。
四畳半では、水穂がせき込みながら、横になっていた。いきなり急にふすまの外から、犬が遠吠えをする声がして、野良犬でも入ってきたのかな?と、動かない体を無理やり動かし、ふすまを開ける。
すると、かつての愛犬、たまが、飼い主に飛びついてきて、顔をべろべろと舐めた。
「ど、どうしてここへ!」
たまはそんなことどうでもいいじゃないか、とでもいいたげに水穂の顔に体をこすりつけた。水穂もそれ以上追及するのはやめることにして、
「よく帰ってきたね。お帰り。」
と、愛犬をぎゅっと抱きしめたのである。
「水穂さん、良かったじゃないですか。確か、足の手術をするためにドイツへ行ったんでしたよね。日本の獣医さんには、もう立って歩くのも無理じゃないかと言われて、、、。」
庭を箒で掃いていたブッチャーが水穂に声をかけた。実を言うと、そういうことなのである。半年前に近所の神社に散歩に行ったとき、たまは、誤って石段から転落し、急いで富士市内の獣医さんに見せたのだが、たぶん歩けないと言われてしまった。それではいけない、まだ犬としても若いのに、寝たきりの生活をさせるのはかわいそうだと懍が宣言して、ドイツの専門的な動物病院で、たまを治療してもらうことにしたのである。手配は、懍がドイツに滞在していた時に付き合っていた、動物学者の人を通して行った。その担当医が、今、たまをここへ連れてきた、あのエラ先生だ。エラ先生が、ドイツで面倒をみるためたまを引き取りに来たときは、日本の獣医というか、お医者さんとは、全くかけ離れた服装だったので、ブッチャーは、本当に預けて大丈夫かと、疑問に思ったくらいである。
「まあそうですよね。ドイツですと、ペットブームが長いですから、犬の医療も、日本よりずっと優れているのかなあ。なんだか、ほとんどのホテルで犬と一緒に泊ってよい部屋があるようですし。」
思わず、うらやましくなった。
「たま。」
水穂も、感激しすぎて、それ以外何も言えなくなってしまったようだ。それ以外に言葉はなかった。たまのほうが、何を言いたいのかわかってしまったようで、それにこたえるかのように、顔を擦り付けた。ただ、たまの真っ黒い頭が濡れてくる。それと同時に、疲れてしまったのか、咳き込み始めてしまったので、
「水穂さん、歓迎してやるのはいいんですが、たまの顔まで汚したりしないでくださいよ。そんなことしたら、たまがかわいそうですからね。」
ブッチャーは、咳き込んでいる水穂をたまから離して、その背中をさすった。この時は、内容物が詰まることなくうまく外へ出てくれた。結果として畳は少し汚れたが、たまの顔を汚さないでよかったと思った。この、変わり果てた飼い主を、たまはどこか悲しそうな顔をして見つめていた。
「本当に、ありがとうございました。ちゃんと、歩けるようにまでしてくださいまして。」
応接室に通したエラ先生に、懍は改めて頭を下げる。
「いいえ、私はただ、やり方を教えただけです。すべてはたま君の意思の強さですよ。きっといつかは日本に帰るんだとずっと思っていたんでしょう。だからこそ従順だったのかもしれないし。歩く練習もすぐに慣れて、熱心にやっていました。本当に一生懸命という日本語がぴったりでしたよ。」
エラ先生は、静かに言った。
「本当に、たま君の回復力の速さにはびっくりしましたよ。一応手術はしましたけど、たま君、後ろ足の骨が折れたどころか神経も切れてましたからね。これでは立つことはできたとしても、長時間の散歩は無理かなあとか、私も、ほかのスタッフも心配で仕方ありませんでした。一応訓練はするけれど、歩けるかどうかは、本人の意思に任せるしかないとか、そんなことをしょっちゅう話していたんです。」
「そうですか。どうしても帰りたいという彼の意思に感激してしまいますな。動物は時折、人間以上に強い意志を持つことがありますからね。忠犬ハチ公もそうですし、主人の代わりに車にひかれてしまった盲導犬サーブの話もそうでしょう。犬ではなく馬ですけれども、馬頭琴の由来となった、スーホの白い馬の白馬も、権力者のすきをついて、飼い主のスーホのもとへ帰ってきましたね。」
「そうですね。今回、私も、たま君から強い意志の大切さを教えてもらったような気がしましたわ。人間、動物から、教えてもらうことは本当にたくさんありますよ。」
エラ先生は、いかにも感動したという顔で言った。
「そうですか。先ほども犬は飼い主に似ると言いましたが、今度は飼い主が犬を見習ってほしいものですな。たまが一生懸命歩く練習をしている間、飼い主の水穂さんときたら。」
「まあ、そんなにお悪いのですか?いつ頃からでしょう?」
懍はこまった顔で、そういった。これにはエラ先生も驚いたらしい。
「そうなんですよ。全く、昨年の記録的な猛暑が祟ったのかもしれないですね。あの夏の後、何回も倒れましてね、しまいには全く動けなくなるまで衰弱したほどでした。今は薬品と、ちょっとばかりの栄養食で、やっと動ける状態なんです。もうげっそりとやせて、人間というより割りばしというべきなのかもしれない。先日、体重を計測しましたところ、わずか六貫しかなかったそうです。」
「そうですか、、、。貫とは、日本の重さの単位ですよね。確か、私たちの単位に直しますと、一貫は四キロ。そうなると、私でも、深刻ぶりがわかりますよ。」
来るのが少し遅すぎたかな、という顔をして、エラ先生は返答を考え込んだ。
「でも、もしかしたら、これから変わってくれるかもしれませんよ。たま君は飼い主さんに、どうしても、もう一回会いたかったんだろうし。きっと、その思いだって、しっかり伝えてくれますよ。私はね、獣医という仕事をしていると、いろんな動物を見てるでしょ、だから、心から愛してもらった動物というのが見てわかるようになりましたよ。そういう子たちは、自分が愛されているってこともちゃんと知ってますし、一生懸命応えようと努力してます。それに応じて、飼い主さんたちが、再び前向きになり始めてくれた、という例は、数えきれないほどたくさんありましたし。ほら、よくあるじゃないですか。末期がんの飼い主さんが、飼っている犬のおかげで治療に意欲的になったとか。」
「そうですね。僕もその例は聞いたことありますよ。まあ、それに期待するしかないですかね。犬にしろ馬にしろ、何にしろ、単純な思考を持つ方が、愛情を直接的に表現できますからな。」
懍は、エラ先生の話に、考え込みながらそう応答した。同時に、西洋人は、やっぱり前向きに考える人が多いなあと思うのだった。そこらへんはたぶん、国民性なんだろうが、日本人よりも西洋人のほうが、衝撃的なことに強いような気がする。それは、日常的な態度だけではなくて、建築物を見てもわかるし、音楽や美術などの芸術にも、現れているような気がする。よくその典型例として引き合いに出されるのは、日本の庭に設置される鹿威しと、西洋の庭には欠かせない噴水である。この二つを比べると、日本人と西洋人の持っている国民性の違いが、はっきり表現されていると懍も若いころ、大学の論文などで見たことがあった。
「じゃあ、私、暫くこちらに滞在するつもりですから、何かあったら、連絡くださいね。富士駅の近くにホテルが一軒あって、そこに宿泊してますからね。」
「あ、すぐお帰りになるのではないのですか?」
「いえいえ、それはしませんよ。やっぱりたま君がこちらできちんと生活しているかどうか、確認するまで、何回か訪問させていただきますから。」
用心深いのも西洋人であった。逆を言えばそれだけ動物を大事にしているということだろう。まあ、こういうところは、優れている一面である。
「わかりました。訪問のついでに、日本のシンボルでもある、富士山でも眺めて行ってください。」
「はい。」
懍の応答にエラ先生も笑った。
そのころ。諸星正美は保健所にいた。
動物愛護課に行ってみると、いるわいるわ、犬、猫、鳥など様々な種類の動物たちが、殺処分を待たされていた。当初は雑種とかそういうものばかりなのだろうなと思っていたが、実はそうでもなく、中には今まで見たこともない種類の動物もおり、ある意味では動物園よりバラエティに富んでいた。
「全くね、最近は変な動物を飼うことがブームになっているせいか、私たちも扱いに困ってしまうような動物が、たくさん持ち込まれてくるんですよ。よく動画サイトで珍しい動物に芸をさせているのに触発されて、飼いたくなってしまうようだけど、それは、一般の人には絵に描いた餅だと思ってもらいたいわね。被害が出るのは、人間だけじゃなくて、動物もそうなんだから。」
保健所の職員は動物たちを困った顔で見た。確かに、被害は人間だけではないというのは、正美にも理解できる。
「で、この中から一匹引き取りたいということだけど、何を引き取ってくれるんですか?」
職員はぜひ連れて行ってやって、という顔で彼女を見た。そのくらい、駆除を頼まれる動物が多くて困っていることが、顔にも態度にも表れていた。でも、その顔は、あくまでも仕事としてやっているだけであって、先ほどのエラ先生のように、動物に感動しているという顔はこれっぽっちもなかった。
「ええ、あたしは、動物を飼うというのは、経験したことがありません。なので、犬とか猫とかありふれた動物になってしまいます。最近は猫が流行っていますが、猫はお高いというか、すぐに外へ出てしまうところもあるそうなので、人間に忠実と言われている、犬を飼ってみたいです。」
そうですか。と職員は頷いた。では、こちらへどうぞ、と正美は別の部屋へ連れていかれた。
その部屋には、何十匹の犬がいたが、やはり雑種は少なく、テレビドラマなどでよく見るかわいらしい種類が多くいた。中でも、ハスキーとか、ゴールデンのような大型種が多いのが気になる。小さな犬は比較的長く買っていられるのだが、大型犬となると、場所をとるとか、運動量が多いとか、そういうことで簡単に手放してしまうことが多いのだろう。
確かにゴールデンやラブラドールのような犬は、盲導犬として活動するくらいだから、非常に飼いやすいことで知られているし、シェパードは忠実な番犬として優秀だ。ハスキーは訓練すれば、農作業の手伝いだってしてくれる。大きな犬は、決して役に立たないことはないけど、日本では、小型犬さえいれば、それで十分としてしまう人が多すぎて、大型犬の役割は失われているらしい。
どの犬たちもみんなかわいらしい表情をしていて、決して魅力的でないわけではないのだが、正美はゴールデンもシェパードもハスキーも、心を惹かれなかった。
しかし、一番最後の檻に入っていた、大きな灰色の犬が目についた。
「あら、珍しい。イングリッシュ・グレイハウンドがいるんですか。」
思わず口にすると、職員が待ってましたとばかりこういい始めた。
「ええ、イギリス原産のレース犬だそうですね。比較的おとなしくて飼いやすいそうなんですが、やっぱり大きな公園でもないと、日本では難しいのかしら。何回か、あなた以外に犬を引き取りたい方が見えましたが、さっぱり人気はないんですよ。」
そういえば、テレビのニュースでやっていたが、ドッグレースの本場とされるイギリスでは、レース犬としては灰色でなければ認められないので、それ以外の色が偶然見つかると、すぐに処分されてしまうのが問題になっているようだ。イギリスでは灰色であればまだ生き延びる可能性があるが、日本では灰色さえもこうして保健所行きになってしまうのか。
「わかりました。この子を連れて帰ります。」
保健所の職員は、やっと厄介者が出て行ってくれるのか、という感じの笑顔を見せた。
「そうですか。ぜひお願いしますよ。かわいがってやってくださいね。」
職員は犬を檻から出してくれた。正美は書類手続きなどを済ませて、予め買っておいた首輪と紐を犬に付けて、連れて帰った。
職員も言っていたが、乳首が見えたので、このグレイハウンドちゃんは雌犬だ、とはっきりわかった。
保健所にいたのだから、彼女は名前がなかった。基本的に保健所では、なんだか囚人みたいだけど、番号で犬を呼んでいた。
「この子、なんて名前にしようかな。」
帰り際の道路で、正美はそう考え始めた。すぐ引き取る子が決まるとは思っていなかったので、まだ決定的な候補はなかった。これまでにペットを飼った経験がないので、それらしい名前が思いつかない。あたまをひねって考えていると、子どものころに、魔法使いサリーというテレビアニメを放送していたことを思い出す。確か、その主人公であるサリーの物まねをして、遊んでいたこともあった。
「サリーちゃん、でいいかな?」
思わず口にすると、OKよ!と示すようにワン!と一声返ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます