episode・58 武者修行
「新八さん、あわてて戻らなくてもいいじゃねえか。今夜も泊まっていきなよ。明日には、彦五郎さんも帰ってくるんだしさあ」
帰り支度をはじめた新八に、いい歳をした松五郎が、駄々っ子のように言った。
「松五郎さんの好意はありがたいけど、いまは蔵六師匠の道場の居候だし、まあ、今日のところは、いったん戻らないと……」
「そうかい。まあ、ならしかたねえか……なあ、また遊びに来てくれよな」
「わかりました。また寄らせてもらいます。兼助さんや信蔵にも、よろしく言っといてください」
「約束だぜ。じゃあ、道中気をつけて……と言っても、横山宿までは、たった一里二十七町だけどな」
松五郎のつまらない冗談に、新八が笑った。
「松五郎さん。お達者で」
新八は、松五郎夫妻とおつるに見送られ、井上家をあとにする。
井上家の裏手を流れる日野用水の分水・しじみ堀を越え、和泉屋の脇から甲州道中に出る。しじみ堀は、日野用水の細い支流だが、しじみが採れたことからその名がつけられた。
新八が八坂神社の前にさしかかったとき、目の前を、商人姿の捨五郎が通りすぎた。
捨五郎から少し遅れて、峯吉がやってくるが、お互いに気づかず、新八は、急ぎ足で甲州道中を西に向かった。
半刻あまりで八王子に入ると、新八は、八幡宿にある荒物屋『引又屋』に立ち寄る。
引又屋は、八幡の伊之助が女房にやらせている店で、立地がよいため繁盛していた。店の名前は、伊之助の出身地である新河岸川の川湊、引又河岸に由来している。
狭い店に入ると、愛嬌のある丸顔の中年女が店番をしていた。
「いらっしゃいませ」
「ごめんください。永倉という者ですが、八幡の親分さんは、いらっしゃいますか?」
「あらまあ、すいません。せっかくいらしてくださったのに、うちの宿六は、大横町まで喧嘩の仲裁に行ってて、いま留守なんですよ」
大横町は、津久井道沿いにある町だ。八日市宿と八幡宿のあいだを抜けて、日光道に続いている。
「はあ、そうですか……では戻ってきたら、増田道場の食客の永倉が訪ねてきた。と、お伝えください」
「承知いたしました。永倉さまでございますね」
新八が、引又屋を訪ねる少し前。山口は、千人町の増田道場の前に佇んでいた。
山口は、平田との勝負のあと、いまだに高揚した気持ちを、もて余している。
勝負の余韻は、激しい剣気となって、身内に燻り続けていた。
この高揚した気持ちを鎮めるには、剣を振るう以外に方法はない。
そこで、八王子にある剣術道場で試合を、と考えたが……北辰一刀流の横川道場は、個人宅に併設された小さなもので、試合を申込むような雰囲気ではなかった。
甲源一刀流の比留間道場は、高麗郡梅原が本拠地で、横山宿の道場に比留間半造が指導に来るのは、月に数回しかなく、覗いてみたが道場主は不在で、山口の相手になるような使い手がいない。
大平心鏡流は、千人同心組頭の塩野摘斎の息子が師範をつとめており、千人同心の専用みたいなものだし、残ったのは、天然理心流・増田道場のみ。
しかし蔵六の道場は、無用な遺恨を残さないように、もう何年も前から、他流試合を禁じていた。
(ならば……)
いろいろな流派をわたり歩くほど剣技に貪欲な山口は、前澤に、天然理心流の中伝の技までは教わっていた。
(他流試合ではなく、同じ流派だと偽るしかなさそうだな)
そう決心すると、山口は玄関をくぐり、訪いを入れた。
「たのもう! ――拙者、天然理心流・桑原永助の門弟、小阪隆之介と申す修行者でござる。
増田蔵六師範に、ご教導いただきたく、お取り次ぎ、お願い申し上げます」
道場で稽古していた門弟たちが、一斉に山口を見る。
小阪隆之介というのは、前澤(本名は小阪)と同い年の従兄弟で、前澤が桑原に入門した十歳のとき、同時に入門していた。
しかし、剣術の才能に恵まれた前澤とは異なり、病弱のため、その五年後には、道場をやめている。
だからもし蔵六の門弟に、桑原道場に知り合いがいたとしても、山口が隆之介ではない、と、見抜ける者がいる可能性は、ほとんどないであろう。
「ほう、桑原殿の門弟か。まあ、こちらへ……」
弟子に稽古をつけていた蔵六が、奥の居間に、山口を誘った。
「桑原殿の門弟というからには、お手前は、直参でござろうか?」
「はい。以前は勘定方でしたが、ゆえあって禄を離れ、ただいま、浪々の身の上でございます」
「さようか。それでは、直参の門弟ばかりの桑原道場では、肩身が狭かろうな」
「仰せのとおり……禄を離れたあとは、あちこちの道場をわたり歩き、糊口をしのいでおります」
山口は挨拶が済むと、さっそく蔵六の門弟たちと試合をはじめた。
蔵六は、師範代の原と試合の行方を見守っている。山口は、すでに五人をくだしていた。
「師匠、あの男の剣は、かなり癖が強いですね……平晴眼からの変化は、とても同じ理心流とは思えません」
「あちこちの道場をわたり歩いた。と、言っておったからの……
いまの切り返しは、浅山一伝流。先ほどの平晴眼からの合わせは、一刀流の手じゃ」
さすがに蔵六は、山口の修めた流派を、的確に見抜いていた。
「それにしても強い。うちの門弟では、歯が立たないでしょう。しかたない……次は、わたしが出ますか」
「まあ、待て」
腰を上げかけた原を、蔵六が制した。
「ふふふ。どれ、わしが相手をしようか」
愉しそうに笑い、蔵六が山口の前にすすみ出た。
(ようやく御大のお出ましか)
増田道場の門弟のレベルは高かったが、山口の相手ではない。いささか退屈していたので、蔵六の登場は、のぞむところであった。
「さて……では、わしが相手になろう」
蔵六は、袋竹刀をだらりと下げたまま言った。
「よろしくお願いいたします」
山口が一礼する。
「おぬし、強いな……あの太刀筋、道場剣術では、決して身につかぬたぐいのものじゃ。いままでに何人斬った?」
蔵六が、ずばりと言った。
「九人」
「ふふふ。わしが思っていたよりも、だいぶ多いな」
「好きで斬ったわけでは、ごさらぬ」
山口が憮然とした表情でこたえると、蔵六が嬉しそうに笑った。
「よいこたえじゃ。遠慮しないで、わしを斬るつもりで、本気で来なさい」
言われなくてもそのつもりだ、とばかりに、竹刀を平晴眼につけた山口の身体から、凄まじい殺気が吹きあがる。
蔵六は、相変わらず竹刀をだらりと右手に持ったまま、表情も変えず、いかなる構えもみせない。
無造作に佇むその姿は、隠居じみた年寄りにしか見えないようでいて、うちこむ隙が何処にもなかった。
相手と対峙すれば、正中線の厳しさ、構え、目付、足の運びから、おおよその力量は看て取れる。
看て取れないならば、それは自分と同じか、自分より上位の実力、あるいは力量を隠しているということだ。
向かいあった瞬間に、山口は自分が格下であることを覚った。
蔵六には、かつて、手も足も出ず敗れた男谷の品格や、数えきれないほどひとを斬ってきた平田の持つ、妖気じみた殺気とは、異なった威厳があり、山口は攻めあぐねた。
(何を臆しておる。平田とやったときのように、我が身を捨てれば、必ず道は拓けるはず)
山口は気息を整え、臍下丹田に気を沈める。
蔵六は構えない。このだらりと竹刀をぶら下げた姿は、天然理心流では無構えという、立派な構えである。
(おもしろい。ここにも俺が越えねばならぬ壁があったか……)
蔵六の竹刀が、ゆっくりと下段晴眼の位置に動いた。
その刹那、蔵六の身体が、何倍にも膨れあがったかのように見え、山口に向かって激しい殺気が叩きつけられた。
それは、まるで実際に、熱風が吹きつけたかのような圧力を伴う殺気であった。
「うぬっ!」
襲いかかる暴風のような殺気に対して、山口は、思わず竹刀を突きだした。しかし、そこに蔵六の竹刀はない。
蔵六は、山口に叩きつけた殺気よりも、わずかに遅れて竹刀を跳ね上げていた。
結果、防御したはずの山口の攻撃が先に、蔵六の竹刀は、後の先のタイミングで山口の突きを弾きとばし、そのままピシリと籠手をうった。
「それ、籠手1本じゃ」
蔵六がにやりと笑い、山口は呆然と立ち尽くす。
「信じられぬ……いまのは、いったい……」
「ふふふ、ちょっと遊ばせてもらった。いまのが、気合術じゃ」
「ばかな……三術以外は、先師(近藤三助)の代で失伝したはず」
「そのとおり。わしのできる気合術は、これが精一杯じゃ。我が師のように、気合いで相手を倒すことなどできぬ」
「もう一本、お願いします」
山口が頭を下げる。その眼には、激しい闘志が宿っていた。
ふたりは、再び向かいあう。
山口は、仕掛けない。先ほどの気合術を警戒しているのだ。
「そう身構えんでもよいぞ。同じ手は二度とつかわぬから安心せい」
蔵六が竹刀を、平晴眼につけた。表立った殺気は見せず、穏やかな表情である。
それに合わせたように、山口も竹刀を平晴眼につける。意識したわけではなく、自然とそうなったのだ。
(まともにやりあったら、俺に勝ち目はあるまい……ならば、どうする?)
山口は、男谷に敗れるまでは、一番ではないにしろ、江戸では十指に入るぐらいの実力はあると自負していた。
もちろん、遅れを取ったことは、一度や二度ではない。何年か前に、この八王子横山宿においても、比留間半造と試合をして負けている。
だがその負けは、わずかの差にすぎず、自分の努力次第で、いずれ雪辱をはたすことができる。と、確信していた。
ところが男谷との差は、努力でどうにかなるものではなかった。どのような努力をすれば、あの高みにゆけるのか、まるで見当がつかなかったのだ。
山口の生活が荒れたのは、そのことがきっかけであった。
そして昨日は、暗殺者・平田に勝つことができたが、それは実力で勝ったのではなく、運がよかったにすぎない。
(その上、この増田蔵六に、手も足も出ない……だが、ここで負けるわけにはゆかぬ!)
山口の身体から、陽炎のように剣気が迸る。
「ほう、たいした気組じゃ。身を捨てる覚悟ができたか。わしの弟子なら、免許を与えてもよいぐらいじゃ……」
愉しそうに蔵六が笑った。
「が……指南免許までは、まだまだ遠い」
平晴眼に構えていた蔵六の竹刀が、わずかに位置を下げた。それまですっぽりと竹刀の陰に隠れていた全身から、蔵六の顔だけが浮きあがる。
それは、あからさまな誘いであった。しかし、攻撃しろと言わんばかりのその顔以外に、うちこむ隙は、何処にもない。
「どうした? 来ないなら、わしからゆくぞ」
蔵六の口が、にいっと吊りあがると、山口は吸い込まれれるように、竹刀をうち下ろした。
その起こりを捉え、蔵六は竹刀をしっかりとは握らずに腕を振り上げた。竹刀は腕の動きに置いてきぼりを喰らったように、切っ先が下を向いたままである。
蔵六の腕が真上にきた瞬間、その竹刀が山口の攻撃を捉えた。
山口の竹刀は、蔵六の竹刀に沿って軌道を外される。刹那、蔵六の腕が振り下ろされ、下を向いていた竹刀がくるりと廻り、山口の肩に、うちこまれた。
香取神道流では羽合(はあい)、新陰流では廻し打ち、などと呼ばれる技法である。
「それ、1本じゃ」
蔵六が顔を晒し、隙を作ったのが誘いであることは、わかりきっていた。それなのに、誘いに乗ってしまったことに、山口は呆然としていた。
「ほかにどのような選択肢があったのか、考えておるな。答えを教えてやろう――選択肢などない」
「……?」
「納得できぬか? 選択肢は別のところにあったのじゃ。
わしには、おぬしを攻撃する意思がなかった。したがって、後の先という選択はない。つまり、いまのおぬしの腕前を前提にすると戦わないが、正しい答えじゃ」
納得できないまま、山口は蔵六を睨みつけた。
「おぬしは、勝つことしか考えておらぬ。じゃが、わしは違う。勝たなくとも負けなければよいと、臨んでいた。
ならば、剣をあわせること自体が無意味」
「ばかな……それでは、試合をする意味がない」
「誰が試合をするなどと言った。わしは、おぬしの相手をする……と、言っただけじゃ」
「それは詭弁だ!」
山口が声を荒げると、蔵六が笑った。
「おぬしは、勝ち負けに執着しすぎておる。勝ち負けなどに意味はない。勝負は勝たなくてもよい。負けなければよいのじゃ」
「もしも……これが上意で、俺を討たねばならなくとも、貴殿は、そう言いきれるというのか?」
「そのときは、また違うやりようがあろう。じゃが、いまここで、おぬしを倒すことに、いかほどの意味があろう?」
あらためて問われると、山口は、返す言葉が浮かばなかった。
「わしは、この道場の師範……あたえられた使命は、門人を導くことであって、勝負に勝つことではない。
おぬしは道場に入るとき、ご教導を願うと言ったな。ならば、導くのが筋でござろう」
上手く言いくるめられたような気がして、山口は納得できない表情を浮かべた。
そのとき道場に、ひとりの男が足を踏み入れた。
「永倉新八、ただいま日野より戻りました」
門弟たちの視線が新八に集まった。
(永倉新八! なぜ、やつがここにいる?)
山口は、かろうじて驚きの表情が浮かぶことを抑えた。普段からあまり表情に起伏がないことが幸いし、それに気づいた者はいなかった。
「おお、帰ったか。使いの者にきいた。石坂組の井上さんの世話になったそうじゃな」
「はい。あちらで松崎師範の弟子の、日野信蔵殿に会いましたよ。ところで、この方は……?」
新八が山口を見る。山口は、素知らぬ顔で会釈した。
「江戸の桑原殿の門弟で、小阪殿。いまは、おぬしと同じように武者修行をしておるそうじゃ」
山口は、興味なさげな表情を装い、新八を観察する。正中線はあまり厳しくないが、足の運び、体重移動には、野生の獣のようなしなやかさがある。
(なるほど……前澤が助っ人をたのむわけだ。やつの腕前では、よくて相討ち。まず歯が立つまい)
山口は目を伏せ、闘気が溢れそうになるのを、必死で抑えた。
「へえ、俺と同じ江戸っ子なのか。どこかで会ってるかもな……あっ、俺は、永倉新八と申します。以後お見知りおきを」
「小阪隆之介でござる。よしなに……」
「ところで、俺は修行に出るんで主家を暇乞いしたんだが、桑原師範の門弟ってことは、あんたもその口なのかい?」
新八が慣れなれしくきいた。
桑原永助の門弟は、ほぼ幕臣で占められていた。旗本や御家人が理由もなく江戸を離れることは、禁じられていたので、そう考えるのは当然だった。
「いかさま……訳あって、いまは、浪々の身でござる」
わずか二月ほど前に、前澤と本所亀沢町で見かけたときに比べて、新八の姿から、すっかり隙が消え失せていることに、山口は瞠目していた。
(永倉め。あのときは楽勝に思えたが……この短いあいだに、どれだけ修行を積んだのか……)
山口の身体から、抑えようとしても抑えきれない闘気が吹き出す。
「新八……どうじゃ、小阪殿と試合をしてみるか?」
その闘気に気づいた蔵六が提案すると、新八は山口を見る。ふたりの視線が、見えない火花を散らした。
「ぜひ、お願いします」
嬉しそうに、新八がこたえた。
永倉新八と山口、のちの斎藤一が、初めてお互いを意識した瞬間だった。
新選組外伝 永倉新八剣術日録 橘りゅうせい @808
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