今どきのトイレ事情

茅田真尋

1

 意匠を凝らした室内。隅々まで滅菌された清潔な空間。空港のトイレとはどうしてかくも清浄なのだろう。会社のさびれた便所とは大違いだ。

 だからこそ、こうして飯をほお張れる。会社なんかじゃあ、こんな真似絶対に不可能だ。俺はいま、いわゆる便所飯中なのである。

 だが、決して友達がいないだとか、ぼっちだとかいうわけではない。会社にいるときは常に同僚と昼食を共にしているのだから。

 悪いのはすべて課長なのだ。午後になっていきなり出張命令を繰り出してきやがった。どうして、もっと前々から通達できないのだろうか。おかげで、準備にてこずり、夕飯を食い損ねてしまったのである。

 深夜の空港。俺は九州へ向かう最終便を待っている。その間に飯を済ませようと思ったが、どの店も混んでいた。今日はつくづくついていない。厄日というやつである。

 だから、とっさの判断でコンビニ弁当を購入し、俺は便所の個室に閉じこもったのだ。ここならさすがに席が空いていた。

 便所飯など屈辱的だが、やってみてしまうと、案外これが悪くなかった。いかんせん空港のトイレは衛生管理が行き届いている。下手をすれば、人の垢にまみれた食堂なんかよりもよほどきれいなのではないか。そんな気すらしてくる。

 幸い、用を足し来る人間もいなかった。これまでの不運は俺と便所をめぐり合わせるための伏線だったのではないか? ……さすがにそれはちょっと悲しいか。

 とにかく、俺はこの清潔な便所をたった一人で独占しているのである。それはちょっとした王様気分ともいえるかもしれない。

――ん?

異様な香りが俺の鼻を突いた。

いや、決して糞尿のにおいなどではない。このトイレがそんな不快な臭気を発するわけないじゃないか。もっと優雅で、香ばしい――軽やかな芳香だ。

これは。

――コーヒー?

そんなはずはない。この便所に俺以外の人間がいるはずがない。個室はすべて空いていた。その後入ってきたものもいないはずだ。出入り口の扉は一度たりとも開閉していないのだから。

では。

隣の個室から漏れるこの芳しい香りは――。

「なんだ、誰かいるのか?」

 唐突な肉声に俺は思わず弁当をこぼしそうになる。

 ため息交じりの声。だけど、楽器の音色のように、その透き通る声音は間違いなく子供のものだ。それも、少女である。

 ここは男子便所だぞ? どうして女の子なんかが。俺は途端に狼狽する。

「あー、遠慮する必要ないぞ。男便所か女便所かなんて、私にはどうでもいいんだ。トイレでありさえすれば、住みつけるのだから」

 俺の心境を察したような返答がやってくる。

「あ、ただし、私のコーヒーブレイクの邪魔だけはしてくれるなよ?」

 いったいどんな不幸な境遇の子供だというのか。便所が住処だなんて。

「……もしかしてあんた、ホームレスか?」

「失礼な奴だな!」

 隣室から、水の跳ねる音がした。

「まったく、コーヒーがこぼれてしまったではないか!」

 しかし、便所に住む人間などホームレスくらいのものではないか。

「私は、花子だ。トイレの花子さん。そのくらい知っているだろう?」

 やきもきした怒鳴り声が響く。彼女が本物の花子さんだとしたら、ずいぶん感情豊かな妖怪である。

 私はからかうように問いかける。

「そいつは嘘じゃないか。たとえ、花子さんが実在するにしたって、確かあれは学校のトイレに現れるはずだ。空港なんかには来ないだろう」

 推定花子さんは小ばかにするように嘆息した。

「お前は学校に通ったことがないのかい? あそこの便所は汚いぞ~。私だって、不潔を好むような変態じゃないんだ。ちゃんと綺麗で清潔な場所に住まいたいのだ!」

「引っ越してきたということか?」

「その通りだ。ここの便所はいいな。床に小便がこぼれとることも、便の流し忘れもない。その点、学校というやつは……」

 壁の向こうからぶつぶつと、花子さんの恨み言が聞こえてくる。このシチュエーションは少し怖いかもしれない。

 だが、意外な話だ。花子さんが学校のトイレを嫌っていたなんて。

「お前だって、ここの便所が気に入ったのだろう?」

 花子さんが問いかける。

「まあ、確かにきれいなトイレだよな」

 そう答えると、花子さんは満足そうにくつくつ笑った。

「そうだろう、そうだろう。でなければ、便所なんぞで飯は食えまい」

 ばれていたのか。においを発するような食品はもちこんでいないのに。

「まあ、学校にはいた記憶もあるがな。昼休みになると、一人個室に入ってきて細々と飯を食っている子も。事情は知らんが、なんだかかわいそうだったなあ。あんな汚い場所でせっかくの弁当を食わねばならないなんて」

 いじめや孤独を忌避する傾向により、子供たちの間でも便所飯が行われているという話は聞いたことがある。花子さんが見たのはそういう子供たちなのだろう。

「そういう時、お前はどうしてたんだ? さすがにコーヒーブレイクはできまい」

「黙ってみておったよ。私が現れては悪戯に怖がらせてしまう。あの子たちの居場所を奪うことになってしまうからな」

 冷たい気もするが、賢明な判断であろう。彼女は彼女なりに児童を見守っていたのだ。

「――だが、ここにきてから便所飯を見たのはお前が初めてだ」

 花子さんはころころと笑う。

「そんなに一人が嫌なのか?」

「俺は違う。食事処が確保できなかっただけだ」

 気が付くと、むきになって言い返していた。相手は得体のしれぬ妖怪だというのに。少し気を許してしまっているみたいだ。

「そうかそうか、まあ、何でもいいさね。……お前はこれから、どこかへ旅行か。空港に来た目的が便所ということはあるまい」

 当然である。そこまで俺は変人ではない。

「出張だ、出張。遊びに行くならどんなに良かったことか」

「大人は大変だな」

「あんたは永遠に子供のままか」

「そうだなあ。だが、精神はわりに老けていくものだぞ? 身体だけだ、身体だけ」

 俺は、弁当を平らげ、プラスチックのふたを閉める。

「ごちそうさまでした」

「食い終わってしまったか。……お前との会話、なかなか楽しかったぞ?」

「こちらこそだな。少し頑張る気になれたよ」

 俺は便器から腰を上げ、個室のドアを開錠する。

「気が向いたら、また便所飯をしに来るといい」

 花子さんの少し間抜けなセリフに、俺は乾いた笑いを返す。

「二度とごめんだな」

 そうか、と扉の先から、寂しそうな声が聞こえた。

「――今度は、上質なコーヒーでも持ってきてやるよ。便所コーヒーと行こうじゃないか」

「妙な言葉もあったものだな」

 そう言って、花子さんは再びくつくつと笑い出した。

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今どきのトイレ事情 茅田真尋 @tasogaredaru

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