2.ひかりに潜む

「逃げてきたの」

 弱くほほえむ彼女は、あまりに痛々しかった。

 喫茶店のなかは変わらずしずかで、換気扇の音だけがからからと虚しく鳴っている。

 言葉を見つけられずに放心するわたしに、祝は「なんでもないの」と、散らばったものをあつめるみたいに言った。

「ごめんね、善に心配かけるつもりはなかったのに。私、どうしようもないなあ」

 眉をさげて笑う彼女は、どこか遠くの深い森の中にいるようで、わたしは声のかけ方さえ見つからない。なさけない、と思う。


「化粧室いってくるね」

 祝はむらさきのポーチを掴んで席を立った。肩で切り揃えられた薄茶色の髪から、ふわりと甘いシャンプーが香る。

 彼女の後ろ姿を見届けると、わたしはかばんからスマートフォンを取り出した。迷わず電話帳をひらいて、五十音順のいちばん上に表示された『あい』という文字を見つめる。すうと息をすいこんだ。だいじょうぶ、と気持ちを奮いたたせる。言える。わたしは、ちゃんと話せる。

 いわうのためなら。

 無意識にそう浮かんだ言葉が、我ながらおそろしかった。

「祝の、ため」

 口に出すと、よけいにそれは軽く響いた。彼女のためなんて殊勝なものではない。これからしようとしていることは、ただのわたしの身勝手だ。わたしが勝手に祝を思いつづけ、報われなかった過去へのなぐさめだ。

 それでも、指はあんがいすんなりと通話ボタンを押した。耳に携帯電話を押しあてて聞きなれた呼び出し音を待つあいだ、なぜだか手が震えた。なかなか通じない。

 焦るうちに、化粧室から出てくる祝のすがたが見えて、あわてて電話を切った。タイミングがわるかったと思いながら、どこかほっとしている自分がいた。


「おかえりなさい。そろそろ、外にでる?」

 わたしが訊くと、彼女は安心したように笑った。少しでも外の空気を吸ったほうがいいと、祝のほうも感じていたのかもしれない。

 近くのパーキングエリアに車を駐めてきたという彼女の話を聞きながら、わたしたちはあのころと同じように、半分ずつ勘定してお店を出た。大きなゴールデンレトリーバーを散歩させているご婦人に「ちょうどさっきからお天気ですよ、行楽日和ですねえ」と声をかけられ、わたしと祝はあいまいに笑い返した。


 あたたかく日の射す並木道にも、風は強く吹く。遠ざかる冬と、すぐそこまでせまってくる春の気配を感じながら、わたしは目をほそめた。歩道と車道を区切る白線はあたらしく塗られたばかりのようで、まぶしく光っている。

「十年のあいだに、なにがあったの」

 抽象的すぎるわたしの質問に、彼女はぐん空を見上げたあと「変わっちゃったのかも」とひと言つぶやいた。あかるく、どこかすがすがしい表情で彼女はつづけた。

「私は、変わりたくなかったの。たとえ無知だとしても強いままで、弱さを知らないままでいたかった」

 いまさら遅いよね、とはにかんだように笑う祝を、いますぐに抱きしめたいと思った。後ろで、耳ざわりなベルの音がする。わたしたちのあいだを縫うように、自転車に乗った男性が舌打ちをして通り過ぎてゆく。

「きちんと間をすきなままでいたかった。陽汰はるたはすこやかにうまれてくれて、彼のご両親は優しいひとたちで、みんなに祝福されて。なのに、彼のことをまっすぐすきでいられない自分が、どうしようもなく嫌で。でもね、だから、ほんとうに逃げるつもりはないの。逃げたら、だめだから」

 彼女の瞳からぽたぽたと落ちる涙で、わたしの胸のなかは不穏に揺れた。

「祝は、つらかったんでしょう」

 ハンカチを差しだすと、ありがとう、と言って彼女は涙を拭いた。あたりまえだ。つらかったにきまっている。悩みを打ちあけられないのは、抱えたままでいるのは、どうしようもなく苦しいことだ。

 それなら、十年前から捨てきれない重さを抱えているわたしは、どうなるのだろう。そう感じた瞬間、「だったら」とわたしは口を開いた。

「だったら、一週間だけ、そのあいだだけ、わたしと過ごそう?」

 気づけばそう提案していた。なにを言っているんだろうと思った。逃げられないのだと涙ぐんで話す彼女を前に、わたしは、どうして。

 祝の瞳の内側は星が迷い込んだように、きらきらと光って濡れている。

「間に、わたしから電話する。それでいい?」

 彼女はこくりと頷いた。手足がふるえそうになる。ほんとうに、これでよかったのだろうか。判断能力のない、年端のいかない子どもみたいな顔で笑う祝。いまの彼女に対して、わたしのやりかたはあまりにも強引な気がした。けれど、この方法しかないのだという妙に確信めいた思いもあった。


 広々とした公園に着くと、中学生たちがサッカーをして遊んでいた。わたしと祝は、塗装の剥げた遊具に腰かけたあと、なんとなく気が抜けたように笑った。わたしたちにも、

あんな時代があったのだ。


 彼女はみずからのスマートフォンをこちらに手渡すと、「お願い」と手をあわせて拝んだ。だいじょうぶだよ、と声をかける。見慣れた通信アプリの画面。そこに表示された彼のプロフィール画像には、陽汰君の寝顔がうつっている。電話をかける。わたしはまた、ちいさく息をすった。

「もしもし。間?」

 ざざ、と電波の乱れる音がしたあと、久しぶり、と想像していたよりもずっと明朗な声がした。

『もしかして、善かな。さっきは電話をくれたのにごめん。はるがぐずっちゃって』

 ほんとうにこれは間なのだろうか、とびっくりする。

 記憶の中の--へまをして祝に叱られるたびしょんぼりしていた--間のすがたといまの声はどうにも一致しなくて、その変化をつくりあげた年月の流れに眩暈がした。

「ひさしぶり。もう、ふたりの結婚式以来だね」

 彼は、どうしたのよそよそしい、とうれしそうに笑った。

『懐かしいな。善は元気だった?』

「うん。わたしはなにも、変わりないよ」

 変われなかったのだ、と思いながら、笑みをつくってそう返す。

『よかった、なによりだよ。さっそくで悪いんだけど、要件はなにかな』

「相談が--というか、提案があって」

『それは、祝のこと?』

「うん。これから一週間、彼女と過ごさせてほしいの」

 そうか、と彼はまるで予想していたように深く息を吐いた。

『もう、僕にも分からないんだ。彼女がどうして、そんなふうになっているのか』

「ねえ、無責任だよ」

 わずかに躊躇いながら、それでも彼を責める言葉は止まらなかった。

「十年前、わたしはあなたに、祝を託したのに」 

 息ができなくなる。手足におもりをつけられたみたいに身体が重い。地底に沈んでゆく感覚に襲われて、頭に手をあてた。となりにいる祝が、不安げにわたしの袖を引っぱった。だいじょうぶだから、となかば自分に言いきかせるように言葉を吐いた。

『きみも、いまの祝に会って分かったろ。おかしいんだ。ずっと、夜みたいなんだよ、彼女』

 冷え切った声に、胸がざわめいた。

「間、それってどういう」

 その刹那、うわあんと赤んぼうの泣き声がきこえて、すっと現実に引き戻される。

「陽汰君のところに行ってあげて。忙しいときにごめん」

『いや、ありがとう。彼女を頼むよ。陽のことは、心配しないでって言っておいてくれたら』

「分かった。伝えておく」

 じゃあ、と切ろうとした直後、間がふっと自嘲するように笑った。

『僕、だめなんだ。きみの言うことみんな、あたってるしさ』

 妙にあっけらかんとした口調で言われて拍子ぬけする。でも、違和感はいまだ、紅茶の底で溶けきらなかった砂糖のようにざらざらと残っている。

 なんだか、間も祝も、へんだよ。

 そう言ってしまえばもっと遠くにふたりが行ってしまうような気がして、「じゃあ、切るね。また」とだけ告げた。

『うん。なにかあったら、すぐきみに連絡する』

 数秒後、彼のほうから電話は切られた。

 たった数分間のできごとが、いやに長く感じられる。つかれた、とひとりごとのように息を吐くと、祝が泣きそうな目をして「ごめんね」と言った。

 風がやんで、小雨が降りはじめた。このままではだめだ、と思った。

 遠くへ行こう。まっすぐに彼女のほうを見つめて、わたしはそう呟いた。

 

 車に乗りこむと、まだ顔色のよくない祝を助手席にすわらせて、わたしはキーを回した。ひとの車は緊張するけれど、彼女が横で肩を揺らして笑うたび、わたしの心はじょじょにほぐれていった。

 窓の外には曇り空が広がっていて、いまだ雨のやむ気配はない。ワイパーの規則正しい音につられて眠気が襲ってきたころ、沈黙を守っていた彼女がふいに口を開いた。


「善、変わんないよね。ずっと緊張してるとことかさあ」


 むかしの祝だ、と思った。あのころの、大好きな祝。なんだか目頭が熱くなって、泣きそうになる。

「ねえ、わたし、祝がすきだよ」

 ありがと。そう言って、祝がにやりと笑う。可愛らしい八重歯が覗いた。だいすき、と返すと、「しつこいな、わかってるよ」と笑われる。


 十年経っても祝を忘れられないなんて、自分でも病気だと思っている。


  *

 

 あわただしい夜だった。

 雨はますます激しくなるいっぽうで、なにも予定を組んでいなかったわたしたちは、あわてて近場にあるビジネスホテルに入った。

 ルームキーを貰って狭い部屋に上がったときには、もう日付が変わる一時間前だった。ベッドに倒れ込みそうになりながら「つかれたねえ」とつぶやく。わたしの言葉に、「ほんとに、長い一日だった」と言って彼女もゆるく笑った。


 シャワーをすませて扉をあけると、祝はベッドに腕だけをあずけて眠っていた。よほど疲れたのだろう。起こさないようにそっと彼女の髪を撫でる。すぐそばに視線をうつすと、ひらいたままの手帳があった。濡れた髪を拭いたあと、わたしはそれに吸い寄せられるようにしゃがんだ。ラベンダー色のペンでつづられた文章。彼女の筆跡だ、と思う。懐かしい、右上がりの字だった。


『私はおそらく変わってしまった。昔のような真っ直ぐさも熱も捨ててしまった。からっぽな自分に嫌気がさす。妊娠しているくせにひとりでこっそりお酒を飲んでは吐いて、医者にかかれば自覚が足りないと叱られた。

近頃は、産婦人科と精神科の往復ばかりだ。つわりがひどい。ろくに水分も摂れない生活が続いて、気づけば体重が十キロ減っていた。なにも考えたくないのに、頭の中はいつもいっぱいで、絶えず吐き気がする。私がひとりの人生をあずかるなど、到底なしえないだろう。けれど街中でベビーカーを押す母親を見ると、まもなくだ、という気もした。

そんなさなか、陽がうまれた。陽を抱いたときは震えあがるほどうれしくて、陳腐だが、いのちの重さなんていうものに足がすくんだ。だからだろうか、私はこのごろ、泣いてばかりいる。幼くやさしかった間はすっかり大人になり、歳相応の鷹揚さでもって私と陽を支えてくれている。

陽を身籠もっているあいだ、私はほとんど抜け殻だったように思う。私のからだは、陽以外のなにもかもをうけつけなかった。

彼はいつからか私をまともに見なくなり、日ごとに話さなくなった。結婚したころから殆ど毎日のようにかえていた一輪ざしの花も、今はもう枯れたままになっている。

さいわい、気丈にふるまうのは得意だ。けれど最近、それもつらくなってきた。現実にいるのに、私だけが夢のうちにいるような心細さがつねに絶えない。心の中はうすぼんやりとして靄がかって見えるのに、まわりの景色だけがやけにはっきりと見えて、あんまり鮮明で、ふと恐ろしくなる。近頃の私はおかしいと、気がふれていると、だれかがそう肯定してくれることを、切に願っている。』


 そこまで読んで、わたしは我に返った。

もう彼女は祝であって、祝ではないのだ。乱れる心音が、ひどくうるさい。

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華燭に棲む 淡島ほたる @yoimachi

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