華燭に棲む
淡島ほたる
1.ゆめからさめて
舗装された道は朝方降った雨に濡れ、きらきらと光っている。待ち合わせ場所の喫茶店に着いて扉を開けると、そこは十年前とかわらず清潔で穏やかだった。コーヒーの匂いと、パンの焼けるあたたかな空気で満ちている。
お好きな席にどうぞ、と言われて迷ってしまう。出勤前とおぼしきサラリーマンや年配の夫婦がまばらにいるだけで、店内はだいぶ空いていた。
どこにしようかと辺りを見まわしてから、結局、むかし
『逢えないかな。あの喫茶店でお茶して、それから、昔みたいにあなたと歩きたいの』
一週間まえの真夜中、唐突にその電話はきた。
携帯電話越しにきこえる祝の、すこし掠れた声が懐かしかった。
「
わたしがためらいがちに訊くと、祝が不思議そうに『え、間?』と訊きかえした。間ちゃんは祝のだんなさんで、陽汰くんはふたりのあいだに産まれた子どもだ。彼女らが遠くへ引っ越す以前は、間ちゃんと祝と、もうひとりの仲間である花の四人でよく遊んだ。花はいま、東京にあるアパレルショップで働いている。
『間もさ、私やあなた--
祝がくすくすと笑う。頭のなかで祝の人さし指がこちらに向いて、ああそうか、わたしはもう三十なのか、と思う。
三十なんて、まだずっと遠くのように感じていた。歳をとれば勝手に大人になると思い込んでいた。それが間違いなのだと気づいたのは、いつだったのだろう。
わたしが祝をすきで仕方がなかったころ。あの当時は大切なことを顧みる余裕もなくて、いつだって手からこぼれそうになる感情を扱うのに苦心していた。なにをするにもせいいっぱいだった。
善、気をつけてきてね。私の運転どうしたって荒いから、ちゃんと酔いどめも持ってきなよ。
わたしに連絡事項を伝えると、じゃあまた七日に、とすばやく電話が切られた。
むかしから、電話で話すのは得意じゃない。どんなに好意をもっている人でも、声だけになると途端に話せなくなるのだ。それを分かってくれている祝にはいつも事の収束を委ねてしまう。きっと、だからだめなんだ。
は、と目の奥に閃光が走った。きらきらした陽射しのなかにたたずむ彼女は、まちがいなく、
「善、おぼえてる?」
-ー祝だった。
ゆったりとほほえむ彼女が瞳のなかに映った瞬間、わたしの心はかたかたと音をたてて揺れていた。五月のさわやかな風のような彼女に、わたしはいつだって戸惑ってしまう。
「……いわう?」
「ふふ。そう、祝だよ。善、あのころと一緒だね。かあわいい」
ぺちん、と額を軽くたたかれて、わたしはようやく夢からさめた。
「どうしたの。なんか、
彼女の声が、鼓膜をやさしくふるわせる。
「ちょっと、驚いちゃって。祝が、ここにいることに」
「私も……じつはいまね、すごくほっとしてるの」
頬杖をついてふっと息を吐いた祝があんまり美しくて、わたしはもう、どうすればいいのか分からない。
「なんにしようか」
わたしがつるつるとしたメニューをひろげると、彼女はほんの少しはにかんで「クリームソーダ」と言った。ちらりとのぞく八重歯が、彼女の柔らかな雰囲気を強調していた。ふわりと花のひらくような笑顔だ。むかしはあんなにも激しく、強い女性だったのがうそのようで、不思議な思いにとらわれる。
おなじものを注文してから、わたしたちはそわそわと落ち着かなかった。たのしみだね、と言いあった。
静かにジャズの流れる店内に、わたしたちは取りのこされていた。もっとも、それはわたし自身の願望だったのかもしれない。
透きとおった緑色のクリームソーダが伝票とともに置かれたあと、わたしと祝はひとしきりはしゃいだ。もくもくとアイスを崩していると、やけにまじめな表情で、彼女がわたしを見つめていた。なあに、と訊こうとした刹那だった。
祝の細く白い指が、すっと目の前に伸ばされ、わたしの手の上にかさねられる。心臓は壊れてしまいそうなほどにはやく動く。
ざあっと窓の外で風が鳴って、ごうごうと遠くの
「善。きいてくれる? 私ね、かれらから、逃げてきたの」
困ったような、それでいて決意をたたえた瞳。嵐がきた、と、わたしは途方もなく遠い彼方に思いを馳せた。
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