Sense of Memory

茅田真尋

Sence of Memory

 朧げな空に浮かぶ廃墟群。雲一つない黄昏時でありながら、太陽の姿は見当たらない。水彩絵の具で塗りつぶしたような茜色が天球一面に広がっている。

 陰気な森の木々を透かして、白い少女は奇妙な空を仰ぎ見た。だが、既に少女の心に疑問が浮かぶことはない。

 ここはそう言う場所なのだ。自分は生まれたときからこの世界に存在していた。少なくとも少女自身はそう記憶している。

 そのとき、天空の廃墟群が忽然と姿を消した。跡形もない。まるで最初から存在していなかったかのようである。

 ――記憶なんて曖昧な靄のような物。

 少女は湿った地面に視線を下ろした。樹木の籠った臭いが鼻腔をくすぐる。だが、その寸分後には、クリームシチューのような香りに切り替わった。

焦げ茶色一色に見える大地も、凝視すれば多彩な表情を覗かせるものだった。苔の深緑、蟻の黒、樹液の琥珀色。

 ――そして、建造物の屋根を彩る群青色。

こんな豆粒のような場所にも誰かが住んでいるのだろうか。

 少女の脳裏に好奇心が過ぎると、彼女は既にその建物の正面に立っていた。少女は別段驚きはしなかった。これがこの世界の普通なのだから。

 先刻までの建物を見下ろす彼女は既に消滅した。残されたのは記憶だけである。だが、記憶があるからと言って、それは過去を明確に指し示しているわけでもない。記憶と時間は独立した関係。記憶は、何時でもない時、どこでもない場所にあり続ける心像でしかないのであった。

 だから、少女は自らが何者であるのか本当の意味では理解していなかった。自身にまつわる無数の像が、彼女の脳内を駆け回っているにすぎない。

 建物の内部は白一色だった。床も天井も見当たらない。純白の虚空に彼女は身を浸している。

「いらっしゃい、迷い猫さん」

 凛とした音声が、客人たる少女の耳朶を打った。

背後を振り返る。

誰もいない。

 ――確かに今誰かの声が……

 しかし、確認するすべはない。先刻の女声は消滅し、既に少女の脳内イメージでしかなくなっている。この世界では現実と非現実の境界など、かくも曖昧だ。

「うまく、立ち会えないわね」

 今度は隣からだ。少女は瞬時に視線を向ける。

 自分と瓜二つの少女がそこにいた。

 ただし、身に付けた衣装に関しては差異があった。

 眼前の少女は血液のように赤いリボンをあしらった、黒い軍服ワンピースを身に付けている。胴体を縦に走る二行の金ボタンが、なぜだか少女の目を引いた。

 対して、白い少女は流氷のように青いリボンをあしらった、白い軍服ワンピース姿であった。縦に並ぶ二連のボタンは銀色である。

「どこにいたの」

 白い少女が問いかける。

「聞くだけ無駄だと知ってるくせに」

 あざ笑うように黒い少女が答えた。白い少女は意に介さず先を続けた。

「あなたは誰」

「私はあなた、あなたは私。……のように思えるわね。だけど、「私」も「あなた」も遷いゆく意味しか持ち合わせない亡霊のような物。結局のところ、私は誰でもないわ。――もちろん、あなた、もね」

「それなら、私があなたを名付けてあげる。今日からあなたは……」

 白の少女が名を与える前に、黒い少女の耳障りな嘲笑がそれを遮った。

「全くもってナンセンスよ。あなたのくれる名を冠せる私なんて、すぐに消えてしまうもの。意味を有する以前の問題ね」

「名前に意味なんて要らないじゃない。おかしな子」

 白い少女は口をとがらせ抗議する。

「あなたを正しく呼んであげられるなら、それでいいと思うのに」

「正しく呼べないから、意味がないと言ってるのよ。……いいえ、意味がないから正しく呼べない、が正確かしら」

「それならもう、正しく呼べなくてもいいわ。あなたともっとスムーズに会話できればそれで満足よ」

「すると、私はただのエネルギーとなるわけね。はっははははははは……面白いわ」

 ひとしきり笑った後、黒い少女は寂し気な微笑を浮かべた。

「でもいっそのこと、そうしてもらった方が幸せなのかもしれないね。イメージであるより、エネルギーである方がしぶとく生きて行かれそうだもの。そのとき、私はあなたの一部になるのかしら」

「でも、もしそうなれば、あなたは私でなくなってしまうのでは」

「そう言うことになるわね。……寂しいの?」

「そうじゃないけど……。いい加減な名前しか持たないものは、誰かに吸収されてしまうのかなって」

「吸収とは少し違うわ。それは外から内へ向かう場合に用いる言葉よ。不完全な名前を持つ者は内から外へ向かうのよ。……そして直に発散するわ」

「発散って、死んでしまうということ?」

「どうなのかしら。でもイメージの消失に比べれば、ずっと軽いことのような気もするわ」

 白い少女は、ますます自身が何者なのか分からなくなってきていた。そして、この世界の定義すらももろく揺らぐのであった。

「名前を持たない私たちはどうなるの?」

「名前を持たぬ以上、私達は心像。私はあなたの、あなたは私の心像」

 白の少女は訝し気に首をかしげた。

「私達、さっき会ったばかりだよ」

「そんなことはわからないじゃない。もしかしたら私達はずっと一緒だったのかもしれないし。過去は知りようがないのよ」

「なら、私達が別れたら二人とも消滅してしまうのね」

「それも分からない。この世界の、いえ、この世界をも超えたどこかに私達を想像し続ける存在がいる限りは永久に不滅よ」

「ふうん、なんだかこの世界ってややっこしいんだね」

 気づくと、黒の少女の姿はどこにもなかった。まるで最初から存在していなかったかのようである。真っ白な虚空に少女は一人立ち尽くしていた。

 次の瞬間、白の少女は既視感のある都市に放り出されていた。少女はぐるりと周囲を見渡す。記憶の中の廃墟群にそっくりであった。

 今や、あの白い空間も黒の少女も跡形もなく消え去り、まるで全ては夢だったかのように感じられる。だけど、あの黒の少女に言わせれば、夢だからと言って現実でないとも限らないのかもしれない。記憶なんてそう言うものなのかもしれないのだから。

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Sense of Memory 茅田真尋 @tasogaredaru

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