はじまりの笛

茅田真尋

はじまりの笛

 ティルカの心を奪い去ったのは甘やかな笛の音だった。その音色には、かごに揺られる赤子をあやすような温かさと耳にした者を虜にする魅惑的な響きがあった。

耳を澄まして首を巡らし、音の主を探るが、それらしき人影は見当たらない。旋律はまるで頭の中に直接流れ込んできているみたいだった。不思議な笛の音に誘われるように少女はさまよいだした。

 どこからともなく雪煙のような霧が立ち込めてきて、視界はどんどん悪くなった。それでも彼女の足が止まることはなかった。

 笛の音は唐突に止んだ。そこでティルカもようやく足を止めた。気づけば、霧に覆われた広大な草原にたった一人で立ち尽くしていた。

ここはいったいどこなの。周囲に目をこらすが、濃霧にはばまれ何も見えない。呆然とするティルカの目の前には真っ白な空間が無情に広がっていた。

 ティルカは、膝に届くほどに長い雑草をかき分けてひとまず歩を進めた。

霧の奥から、ちょうどプリンのような形の奇妙な岩が顔を出した。ティルカはその岩に腰かけて息をついた。霧は冷たかったが、彼女は体中に汗をかいていた。ウェーブがかかった彼女の茶色い髪が額に張りついている。

彼女は夢を見ているのだと思った。都会の街路を走るうちに、民家一つすらない草原に迷い込むなどふつうではありえない。しかし、体を包む霧の寒さや、汗で張り付いた衣服の感触は、ここが現実の世界なのだと彼女に強く実感させた。

 休息した少女は突然、強い睡魔に襲われた。まどろんだ頭で、やっぱりこれは夢じゃないんだとティルカは思った。



 目を覚ますと霧は既に晴れていた。今は真夜中のようだ。少女は寝ぼけ眼で辺りを眺めて、息をのんだ。

周囲の地形は一変していた。彼女は月明かりを浴びて光る、群青色の海のただなかにいた。

ティルカは反射的に立ち上がって空を見上げた。夜空は大小さまざまな星々に満ちて、宇宙の全容が明け広げになったかのようだった。あまりに壮大な光景に、ティルカはしばし見とれた。

寝床とした岩からは砂洲の道が伸びていた。おそらく干潮によるものだろう。

砂洲をたどった先には、妙な形の植物が青々と茂る小島がひっそりと浮かんでいた。ヤシのような木もあれば、幹の先端にだけ葉が茂る見慣れない形の木もあった。それは痩せこけたブロッコリーのようだとティルカは思った。

海の真ん中でじっとしていても仕方がないので、ひとまず砂洲の道を通って、異形の樹木が茂った不可思議な小島を目指すことにした。島に村などがあれば、帰り道を教えてもらえるかもしれない。唐突な地形の変容には戸惑うが、誰とも会えそうにない霧の草原を抜けられたことは幸運だった。

 島の海岸にはごみも海藻も一切落ちていなかった。穢れのない白い砂浜が島の外周を取り囲んでいるようだった。ここまで整然とした海岸は今まで見たことがなかった。

しかし、ティルカはこのさっぱりとした浜辺がどうにも好きになれなかった。いつもは、砂浜に放棄されたごみには眉をひそめ、浜に打ち付けられた海藻には一種の気味悪さを感じていたが、殺風景なこの海岸と比べれば、そういうのもなぜか悪くないものに思えた。

ヤシの木の陰から微かに漏れる淡い光が目に入った。マッチの火のように温かみのある灯りだ。

光源は古めかしいランプだった。ちょうどチェスのポーンのような形で、ヘッドの内部に蝋燭が立っている。周囲の木々の葉は蛍火に照らされているみたいだった。

ランプは木々の間を縫う道に沿って等間隔に並んでいた。道の左右から伸びる枝にはランタンがぶら下がっていて、夜祭のように明るかった。よかった、ここにはちゃんと人が住んでるんだ。帰り道も教えてもらえるかな。ティルカは朱色の灯りに満たされた森を歩きだした。

 彼女が歩く道は、自然豊かな島の景観に似合わず、白い石畳で舗装されていて歩きやすかった。ティルカは軽い足取りで曲がりくねった道を進んだ。

静寂に包まれた森に少女の軽やかな足音が響く。それに混ざる雑音は何一つない。虫や鳥などの気配が全く感じられず、風も吹かなければ、木々の葉のこすれ合う音もしない。次第に島全体が、おもちゃのジオラマのように思えはじめた。こんなへんてこな森に住む人となんてまともに会話できるのかしら。ティルカの足取りは若干重くなった。

 道中、樹木の隙間から木造の小屋が見え隠れしていた。石畳の道はどうやらあの小屋に通じているようだ。

小屋は丸太を組んで建てられたログハウスのようなもので、栗の実のような形でかわいらしかった。入り口の横には十字に区切られた丸窓があり、蜂蜜のような光が煌々と漏れている。

ティルカは一瞬ためらってから、入り口の扉をたたいてみた。しかし返事はない。丸窓から覗きこむも、光がまぶしくて何も見えなかった。

もう一度強くドアをノックした。小屋の主が出てくる気配はやはりない。でも、引き返したところでどうにもならないわ。ティルカは力いっぱいドアを押しこんでみた。すると、扉は何の抵抗もなく開き、彼女はそのまま小屋のなかに倒れこんだ。

体がひんやりと冷たい。探検家のような手つきで床をさすると、おそらく鉄製であるらしいとわかった。

 丸窓からあふれる光とは裏腹に、小屋のなかは薄暗かった。あの光は何だったのよ。ティルカは心の内で文句を言った。

彼女の目の前には手すりのついた一本道が伸びていた。手すりよりも外側では、底も見えぬほどに深い穴が大きく口を開けている。だが幸い、地面と手すりの間には鉄の棒が幾本もあてがわれていて、落下防止のためのフェンスの役割を果たしていた。まっすぐに伸びる鉄の道は、山奥の渓谷にかかったつり橋みたいだった。道の終点にはもう一枚の扉があった。ティルカは、傍らの手すりをしかと握って前に進んだ。



 扉をくぐってまず目に飛び込んできたのは、色鮮やかな果実と野菜だった。それらは部屋の中央の長机に山と積まれていた。ティルカは試しに一つ、その中からマスカットを手に取って鼻に近づけてみた。見た目にたがわず、かぐわしい香りが鼻をつき新鮮さがうかがえた。よく見ると机には青果のほかにも、脱ぎ捨てられた洋服や木彫りのおもちゃなどが散乱していた。周囲を見渡すと部屋の四面にそって書架が立ち並んでいて、さまざまな書物が雑多に詰め込まれている。だが一か所だけ本棚のないスペースがあった。興味をひかれたティルカはその空白のスペースへ近づいていくと、奥の部屋につづく通路が伸びていた。

物置みたいな部屋ね。そう感じたとき、きいっ、きいと木材のきしむような音がわずかに聞こえた。奥の部屋で鳴っているようだ。

 音の主は古風なロッキングチェアだった。椅子を揺らしていたのは小柄な女の子だった。年は十三歳くらいであろうか。自分より二つほど年下だとティルカは思った。髪は長く霧のように白い。頭にはモノトーンのリボンをこしらえたヘッドドレスをつけていて、首からは金の懐中時計を下げている。晴れ渡った青空のような色調のドレスは、綿雲のように白いレースで飾られていて、清潔な印象を与える。瞳の色はほのかに緑がかっていて、蘆會の葉を連想させた。

 白い髪の少女のひざにはクマのぬいぐるみがちょこんと乗っかっていた。手に縫い針を持っているところを見るとちょうど制作中であったようだ。今は裁縫を中断して、突然部屋に現れた珍客に視線を投げていた。緑の瞳でじっと見つめられたティルカは、しどろもどろに弁解した。

「ごめんなさい、勝手に上がり込んでしまって。でも、何度もノックはしたのよ? だからって勝手に入っていいわけではないでしょうけど……」

緑の瞳の少女は焦点の定まらない目でティルカを見続けている。

 ティルカは続けた。

「私は泥棒とかじゃないから安心して。ただの道に迷った女の子よ。ここがどこなのか教えてほしいの」

白い髪の少女はクマのぬいぐるみにそっと腕を回し、困った顔をティルカに向けた。

「どこと言われても」少女は一瞬言葉に詰まった。「ここはわたしの家。あなたはこの島のどこに住んでいたの? わたしたち会うのは初めてだよね?」

「私は、この島の住民なんかじゃないわ。だから、私たちは会ったことがなくて当然」

「では、あなたは島の外からやってきたというの?」

ティルカはうなずいた。少女はぬいぐるみに回していた腕をほどき、縫い針を机に置いた。

「島の外に人間がいるなんて思わなかった」

「あなたは島の外に出たことがないのかしら」

少女はこっくりとうなずいた。

「でも、島にこもりきりで生活できるようには思えないわ。食べ物や飲み水なんかはどうしてるのよ」

「それは大丈夫なの。必要な物はぜんぶ井戸から拾ってこられるから」少女は淡々と告げた。

「井戸?」ティルカは眉をひそめた。

この子は何を言っているの? ティルカは目の前の少女を少し気味悪く感じた。彼女がそれ以上は何も言わずにいると少女が言った。

「わたし、ここで誰かと知り合うのは初めて。すごく驚いている」

ティルカは訳が分からなくなって叫んだ。

「この島にはあなた以外に誰もいないというの。家族とか、お友達は?」

「誰もいない」少女は簡潔に答えた。

この子は私をからかっているのかと思う反面、もし少女の言葉が真実だったらと考えるとティルカは不安で仕方がなかった。少女は島の外を知らないと言っていた。おそらく島を出る方法も知らないのだろう。そして彼女以外に住人はいないとなるとティルカに家に帰るすべはないことになってしまう。

「船に乗れる場所くらいはあるのよね?」

それでもティルカは祈るような気持ちで少女に尋ねた。しかし、少女は静かに首を振っただけだった。

「ほかに別の島に行く方法は?」

「外からやってきたあなたが知らないのだもの。わたしには見当もつかないよ」

 ティルカは舌打ちして、少女に背を向けた。

 外へ続く扉に手をかけた時、後ろから声をかけられた。

「待って。他に行く場所なんてあるの。ここにいたらどう? わたしも、もっとあなたの話を聞いてみたいし」

少女はよどみなく言った。しかし、ティルカは彼女に一瞥もくれずに部屋を出ていった。



 ティルカは再び海岸に戻った。この島にはあの子一人だけなんて嘘よ。どこかに村なんかがあるに違いない。ティルカは心の中で何度も言い張った。

 左手に森を見ながら、島の外周をたどり始めた。あいかわらず、風は吹いておらず木々は身じろぎ一つしない。空を見上げると、こちらも変わらず満天の星空で雲ひとつない。

 当然ながら、ティルカはたった一人で孤島に放り出される状況など想像したこともなかった。

 彼女の家は比較的裕福であり、食料や寝床に困ったことはない。きちんと帰る家があって、そこでは母親が温かい食事を用意して待っている。余暇を過ごす趣味にだって事欠かなかった。たとえば以前には楽器を習っていたこともある。安定した日々を送る彼女には、今の状況は耐えがたいものだった。

 淡い炎のような光が目に届いた。あれは最初に見たランプの灯りだ。ティルカは全身から力が抜け、草木がしおれるようにへたり込んだ。あの子の言うとおり、この島には誰もいない。脱出する方法さえないのだ。

 まるで獲物を捕縛する蛸の腕のように、不吉な予感がティルカを捕らえはじめたとき、機関車の汽笛のように鋭い音がかすかに耳に届いた。汽笛は島の静寂を破るとともに、彼女の意識を現実に連れ戻した。ティルカは音の鳴るほうへ駆けださずにはいられなかった。

 汽笛は断続的に鳴りつづけていた。吸い寄せられるように孤独な少女はひた走る。

これは楽器の音だ。ティルカは気づいた。音の大きさや高低がときおり変化している。しかし、それらは歩き始めた幼児の歩調のように不安定な旋律だった。

 つたない演奏は、星々がまたたく夜空から降ってきているように感じられる。演奏者はかなりの高所にいると思われた。

ティルカは足を止め、息を少し整えてから間近にそびえる木を見上げた。

汽笛の主は、あの白い髪の少女だった。彼女は枝に座り、目をつぶって縦笛を咥えていた。ティルカの気配に気づいたのか少女は目を開け、首をすぼめるようにして笛から唇を離した。

「やっと会えた。きっと来てくれると思ったわ。待っていて、今降りていくから」

 少女は縦笛をわきに抱えて指笛を吹いた。途端に森がざわついた。だが風は全く吹いていない。ティルカは身を固くして頭上を見つめた。樹上の少女を、固唾をのんで見守っていると、とつぜん葉陰から樹木の蔓が伸びて少女の体に絡みついた。蔓はやさしく少女を持ち上げ、静かに地上におろした。ティルカは無表情に一連の様子をながめていた。

「私の笛は調子外れだから、よく耳についたでしょう」

蔓から解放された少女は苦笑した。ティルカは少女の言葉を無視して

「あなたが言うとおり、この島には誰もいないのね」と震え声でつぶやいた。

しばしの沈黙の後、少女は言った。

「ごめんなさい、何も力になってあげられそうになくて。でもね、食べ物と寝る場所くらいならわたしでも用意してあげられる。だから、わたしの家に来ればいいと思うの。わたしはあなたを迎えに来たのだから」

そして、少女は親しげに手を差し出してきた。しかしティルカは思わず目の前の少女から視線をそらした。

自分を気にかけてくれる人がいるのはうれしかったが、先ほどの少女の誘いを無下に拒否したのは自分だった。だからなおさら少女の手を取ることはためらわれた。

 ティルカがうつむいて立ち尽くしていると、少女は強引に彼女の手を取った。

「わたしがあなたにうちに来てほしいの。別にかまわないよね」

ティルカは何も答えなかったが、少女はそれを了承の合図と取った。



 小屋に着くと、少女はすぐに食事の支度を始めた。道中で鳴ったティルカの腹の音を聞いていたのだろう。

 給仕された食事は決して豪華とは言えないものだった。

トーストパンは硬いうえに、きめが粗くて満足に腹は膨らまなかった。野菜のスープも塩気が少なく、非常に薄味で、葡萄酒は渋みが強烈な安酒であり、口にしたティルカは思わず顔をしかめた。しかし家に招かれ、食事までふるまわれている手前、ティルカに不満は言えない。

目の前の少女は黙々と料理を口に運んでいた。この粗末な食事も彼女の口には合うのだろうか。

 食後には、少女が二人分のコーヒーを出してくれた。コーヒー本来の苦みが強く感じられると同時に、口内では粉っぽい感触が広がるという、不思議な口当たりのコーヒーだった。

 白い髪の少女が言った。

「わたしはチェチリアというの。あなたは?」

「ティルカよ」彼女は少しぶっきらぼうに答えた。

 ひとたびの沈黙が下りた。このチェチリアという少女はあまり会話が得意ではないようだ。すぐに話題が尽きてしまう。沈黙に耐えかねて結局ティルカは口を開いた。

「あなたのチェチリアって名前、どこかで聞いたことがあるような。聖書にそんな名前の人がいた気がするわ」

チェチリアは一口コーヒーをすすってから、力強くうなずいた。

「ええ、盲目の音楽聖人チェチリア。音楽好きの父が彼女にあやかって名付けてくれたの」

誇らしげにチェチリアは言い、すぐに自嘲気味にくすくすと笑って

「でもそれなら、もう少し縦笛の才もあっていいと思うのにな」と口をとがらせて不満をぼやいた。

「別にうまく吹けなくてもいいんじゃないの? 好きなんでしょ、縦笛が。音楽に関しては好きってことはとても大事だと思うわ。逆に上手に演奏できたとしても、楽しめなかったとしたら、それはきっと寂しいことよ」とティルカは言って「私には音楽のことなんてよく分からないけれどね」と付け加えた。

「ありがとう、励ましてくれて。優しいんだね」

「そんなつもりじゃないわ。思ってることを言っただけよ」なんだか照れくさくて、ティルカは口早に答えた。

「ところで、」とティルカが切り出した。「さっき、チェチリアって名前はあなたのお父さんがつけてくれたって言ったわよね。それなら、お父さんもこの島にいるんじゃないの?」

チェチリアは首を横に振った。

「いいえ、父はだいぶ前に他界したから」

「そうだったの、ごめんなさい」

「ううん、いいの。本当にずっと前の話だから。もう気にしてない」

チェチリアはこともなげに答えた。しかし、彼女の顔には、憂いの感情がかすかににじんでいるように見えた。それに、とチェチリアは続けた。

「ここでなら一人でも暮らしていけるもの。両親や友達がいないからといって困ることもない。なにより自由なものよ」

「なら、どうして私を連れてきたの?」

ティルカが聞くと、チェチリアは頬に手を当てて考え込んでしまった。

「改まって聞かれると……なんでだろう? その場の勢いかなぁ」

チェチリアの返事を聞くと、ティルカは不思議と笑みがこぼれた。ありがとう、と彼女は心の内でつぶやいた。

 コーヒーを飲み終わると、チェチリアはすっと立ち上がりティルカに言った。

「そろそろお風呂に入ろうよ。森の奥にいい場所があるの」

チェチリアの提案に、ティルカは少し驚いて首をかしげた。

「この島に風呂なんてあるの? まさか、川で水浴びとかいうんじゃないでしょうね」

「そんなことないよ、ちゃんと暖かいお湯に浸かるの」

「もしかして、温泉?」

ティルカが浮ついた声で聞くと、チェチリアはいたずらっぽく笑った。

「温泉ではないけれど、きっと満足してもらえると思うよ」



 チェチリアの家には裏口があった。チェチリアの言う浴場は、その裏口からまっすぐに行った突き当たりにあるそうだ。

 二人は今、太陽が燦然と輝くなかを歩いている。路肩の樹木は、その身に日光をたっぷりと浴びて、心なしか幸せそうだ。

 さっきまで夜だったのにと、ティルカは額の汗をぬぐいながら思ったが、この世界には理屈など通じないのだと割り切って考えた。

 歩いた先では赤茶けた岩でできた、円柱形の建物が待っていた。正面にはアーチ形の穴が穿たれていて、それが唯一の入口であるようだ。チェチリアは無言のまま、その建物に入っていく。

 すぐに通路は左右に分かれた。チェチリアは迷わず左を選んだ。建物の外周を取り巻いて、らせん階段が地下に向かって伸びているようだ。

 らせん階段は長く、深くつづいていた。ときおり右手の壁に開けられた、窓のような穴を覗くと陽光に照らされた、向かいの壁が見えた。あちらの壁にも同様に穴が穿たれている。建物の中央は空洞になっているようだ。建物の底からは冷気が立ちのぼっていて肌寒かった。

 長い階段が終わり、二人は建物の底にたどり着いた。中央には水が満ちており、以前写真で見た鍾乳洞の地底湖をみたいだとティルカは思った。

「少し待ってて、ティルカ」

チェチリアが水に手を差し入れ、なにごとかをぶつぶつと呟くと、寒々しかった空気がぬくもりを帯び、朝靄のように湯気が立ち始めた。

「へぇー、あなた魔法使いみたいね」

岩壁にもたれて、水際にたたずむチェチリアを見ていたティルカが感心したように言うと

「わたしは魔法使いなんかじゃないよ。あえて言うなら、魔法使いはこの井戸そのものだよ。欲しい物はなんでも生み出してくれるの」

「じゃあここが、あなたが最初に言ってた井戸だったのね。自分自身が潜り込めるほど大きなものだとは思わなかったわ」

「わたしもここを井戸と呼ぶにふさわしい場所かはわからないけれど、呼び名がないのは不便だからね。さあ、早く入りましょう」

そう言って、チェチリアはリボンのついたヘッドドレスを外した。

「ちょっと待って」

ティルカの声を聞いてチェチリアは服を脱ぐ手を止め、彼女を見た。

「井戸からシャワーなんて出せないかしら。湯船に入る前に一度体を流したいんだけど」

「しゃわー?」

首をかしげたチェチリアは、初めて耳にした外国の言葉を反復するかのように言った。ティルカが彼女の反応に驚き、何も言えずにいると、何かを思い出したようにチェチリアが手をたたいた。

「小説で読んだことある。細い水の束がたくさん飛び出す噴水みたいなものだよね。あれっていったいどこから水を汲んできているの。あれこそ魔法の道具みたいだわ。ティルカのいた街には、あのシャワーがあるの?」

チェチリアがたかだかシャワーを神話の武具か何かみたいに言うのを聞いて、ティルカは半笑いで答えた。

「ええ、そんなのどこにでもあると思うんだけど」

「島の外にはいろいろなものがあるんだね。でも、ごめんなさい。わたしが具体的にイメージできない物は、この井戸でも取り出せないの。だからシャワーは我慢してもらうしか……」

「そう、仕方ないわね。気にしないで、お風呂に入れるだけでもありがたいわ」

ティルカは笑って答えて、入浴の準備を始めた。

「そうだ、」とチェチリアが突然うれしそうな声を上げた。

「ティルカがやってみればどうだろう」

「なによ、急に。どうしたの」

ティルカが困惑しているうちに、チェチリアは彼女の手首をつかんで水際にひっぱった。

「やり方は簡単だよ。欲しい物をイメージしながら手を入れて、あとはゆっくり引き抜くだけ。ティルカならシャワーも取り出せるかもよ」

確かに、ティルカには具体的なシャワーのイメージがある。理屈ではうまくいきそうに思われた。

 ティルカは持てる限りのイメージを脳内に広げ、静かに手を湯に差し入れた。そして、ゆっくりと手を引き上げたが、その手は何も握っていなかった。何度か繰り返してみたが、結果はすべて同じだった。

「ここは、やっぱりあなたの世界なのね。迷い込んできた私は相手にされてないみたい」

「うーん、なんだかごめんなさい」チェチリアは目を伏せた。

「謝ることないわ。あなたが悪いわけじゃないんだからさ」

今度はティルカのほうが、チェチリアの手首をつかんだ。

「さっ、早く入りましょ。風邪ひいちゃうわ」

 湯水の温かさは、優しく体を包み、目の前の現実を少し忘れさせてくれた。だからだろう、

「ティルカのいた街はどんなところだったの?」

チェチリアが元の世界について聞いてきたとき、ティルカは思い出話を語るときのような穏やかな気持ちで話すことができた。

「そうだなぁ、こことは正反対の場所ね。たくさん人はいるけど、この島みたいに森なんかは全然ない。ビルがまるで木の代わりみたいににょきにょき生えてるわ」

「びる?」チェチリアが隣のティルカを見つめた。

「あー、とても背の高い建物のことよ」ティルカは極めて簡単に説明した。

「聖書に書かれているバベルの塔みたいな?」

「そんな立派なものじゃないよ。でも、あなたが見たらそう思うのかもね」

「ティルカの街には塔の森があるの?」

「少し語弊がある気もするけど…そういうことになるのかな」

「全然想像できないわ。すごい場所から来たね」チェチリアが圧倒されたように言うと

「私からすれば、この島のほうがよほど凄いと思うけど……」

ティルカは乾いた笑いとともに答えて、横目でチェチリアを見た。

 次に、チェチリアはティルカの家に興味を示した。

「部屋は、きっとあなたのほうが広いと思うわ。あんなにいっぱい本も持っていないしね。あ、でも私も前にぬいぐるみを作ったよ。クマじゃなくてイヌだけどね」

「ティルカはイヌが好きなの?」

「ええ、嫌いじゃないわ」

「素直に好きと言えばいいのに」

すねるようにぼやくチェチリアの様子がなんだかおかしくてティルカは笑ってしまった。

 ティルカはぼんやりと明日からの予定を考えた。別の島や大きな陸地に向かうすべはないのだから、この島から元いた世界に直接つながる道を見つけるしか帰る方法はなさそうだ。そのような道が存在するとは常識的には信じられなかったが、今いる世界自体が非常識である手前、希望を捨てることもないだろう。幸いチェチリアの部屋にはたくさんの本がある。隅から隅まで探せば何か役に立つ情報も得られるかもしれない。明日からはあの書物たちを読ませてもらおう。ティルカはそう決めた。



 夜が明けて、部屋の本を見せてほしいと頼むとチェチリアは意外そうな顔をしたが、快く了承してくれた。

「……手伝ってくれなくても結構よ? これは私の問題だし。縫物の続きでもしてたら」

ティルカは、懸命に本に目を走らせるチェチリアを横目で見た。

「一人でこれだけの本を読むつもり? 二人でも骨が折れると思うな」チェチリアは目を上げずに答えた。

 熱心に読みつづけるチェチリアとは対照的に、ティルカはすでに疲労の色を見せ始めていた。平時から読書習慣がないのが仇となった。読んでも、読んでも終わりが見えない。これから読むことになる頁の厚み、質感にうんざりする。まだこんなにあるよ……。それに分厚い書物を読んでいると話のテーマすら曖昧になってくる。文章はただ視界を抜けていき、内容は脳をすり抜けていく。そして次第に頭がぼんやりしてきて、眠たくなって、意識が遠のいていく……

「眠ってはだめよ、ティルカ!」

チェチリアがばしばしと背中をたたく。いけない、いけない。

 再び文面に目を向けた。黒々とした文字列に思わずため息が出る。しかし、やめるわけにもいかない。他でもなく自分のためなのだから。ティルカは両手で顔をはたいて眠気を払った。

 ようやく一冊読み終わると、すぐにチェチリアが次の一冊を勧めてきた。しぶしぶ受け取りつつ彼女のほうを見ると、チェチリアは既に五、六冊読み終えていた。あんた、なんでそんなに元気なのよ。

 この日から数日は、このようなやり取りの繰り返しとなった。そして、一日の読書が終了した後には食事をとった。しかしそれらは初日に出たような粗末なものばかりで、ティルカにとっては幼いころに無理やり食べさせられた学校給食とそう変わりなかった。もう少しましなものはないのかしら。ティルカは食事のたびにいつも心の内で不満を言っていた。そして、食後にはあの井戸に行き、左側の階段から風呂へと向かうのだった。

 どれだけ異質な環境に放り込まれても、人間は一週間もすれば慣れてしまうものだ。実際、ティルカも不可思議な島の環境には適応しつつあった。しかし、どうしても受け入れることのできなかったのは、不味い飯もそうだが、苦痛な読書を来る日も来る日もすること、そして何より、島には娯楽と呼べるものが何一つとしてないことだった。息抜きをすることもできない。チェチリアに娯楽品をいろいろ注文してみても、彼女はそのどれも知らず、井戸から取り出すことはできなかった。ついにティルカは

「あんた、どんだけ道具ってものを知らないのよ。まるで原始人じゃない」などとチェチリアを怒鳴りつけてしまった。

チェチリアは彼女の言いように強くショックを受けていたが言い返しはしなかった。ティルカの元の世界への恋しさはますます募っていった。



 予想どおり、大した収穫もなく数日が過ぎたある日、日課の資料調べが終わるとチェチリアが突然言った。

「ティルカ、わたし、このあとまた縦笛を吹きに行こうと思っているの。よかったら一緒に行かない?」

縦笛はチェチリアの持つ唯一の娯楽品だった。少しでもティルカの気を紛らわせてあげたかったのだろう。ティルカもそれは何となくわかったので断りはしなかった。

 二人はランプの道を通って海岸へ向かった。初日に出会ったあの場所だ。チェチリアがティルカの笛も用意しようとしたが、それは断った。楽器に触れたい気分ではなかったのだ。

いま、ティルカは夕日の下で海水浴をしている。運動しているほうが日々の不満も晴れそうな気がしたのだ。水の抵抗に逆らって手足を動かすと、凝り固まった筋肉が、繊維の一本一本からほぐれていくようで気持ちが良かった。

 チェチリアはこの前と同じ木の上で、同じように調子はずれな旋律を奏でていた。ティルカは海面を海月のように漂いながら笛の音を聞いていた。こうして聞き直すと、下手ではあるのだが、聞くものに寄り添うような優しさ、もしくは甘えてくるような愛らしさがあるようにティルカには思えた。だが同時になぜかむずがゆさにも似た苛立ちも感じた。

 ティルカは岸に上がり、必死な顔で笛を鳴らす少女に声をかけた。

「私もそこに上げてくれない? ちょっと一休みしたいな」

チェチリアはティルカの声に気付くと、演奏を中断して指笛をさっと吹いた。すぐに樹木の蔓がティルカをそっと持ち上げ、チェチリアの隣に連れて行ってくれた。

「笛の調子はどう」ティルカは何気なく聞いてみた。

「聞いての通りだよ」と言ってチェチリアは苦笑し、でも、と彼女は続けた。

「楽器は楽しく演奏するのが大事だってティルカは言っていたものね。なら、今はいい調子なのかな」

チェチリアは楽しげに緑色の瞳を細めた。そしてふたたび縦笛を吹き始めた。海岸には波と笛の音だけが響きわたる。

「ちょっと待って」ティルカが言うと、チェチリアは笛を下ろして彼女を見た。

「どうしたの」

「楽しく吹くのが大事だって確かに言ったわ。でもやっぱり、上手に演奏できたらもっと楽しいわよ。私もさ、今はもうやってないけど、前に少しだけ習ってみたことあるのよ、縦笛。最初は全然できなかったけれど、先生と一緒に練習してたらちょっとずつましになって、初めのころより気持ちよく吹けるようになったの。ねぇ、もしあなたが嫌じゃなかったら少し教えようか」

ティルカは自分でもなぜこんなことを言い出したのか分からなかった。でも一人でつたない演奏を続けるこの少女を無性に放っておけなくなっていた。

「うん、教えて、教えて」チェチリアは弾んだ声で即答した。

 チェチリアの使う縦笛はかなり古い形の物だった。これはティルカが以前習ったものと同じだった。

「まずあなたはちょっと力みすぎてるのよ。はたから見ててもわかるわ」

とティルカが言ってくすりと笑うと、チェチリアは頬を赤らめた。

「ごめん、ごめん。馬鹿にしたわけではないのよ。でももっと肩の力を抜いてもいいんじゃない。もう少し柔らかく吹いてごらん」

「こうかな?」

チェチリアがしゃぼん玉を膨らませるときのように息を吹くと、笛の音は芯のないなんとも情けない音になってしまった。ティルカは苦笑して

「今度は力を抜きすぎよ」

恥ずかしそうにちぢこまるチェチリアの肩をたたいた。

「でも、適度な具合にやるのが一番難しいのかもね。ちょっといい?」

ティルカはチェチリアからリコーダーを受け取った。演奏の感覚を思い出すために簡単な音型を吹いてみた。

「きれいなおと」チェチリアが少し羨ましそうに言った。

「口をすぼめて、細く息を入れるのがコツかもね。もう一回やってみて」

チェチリアはリコーダーを受け取ると、言われたことを意識して吹きなおした。

「うん、前より良くなってるよ、チェチリア。それでさっきまでの曲、吹いてみなよ」

チェチリアは口をつけたままうなずいて、演奏を始めた。

 彼女の音楽は、以前より音の一つ一つがはっきりとして、全体的に整った印象を持つようになった。少し意識を変えただけでもその結果は大きく変わるものだ。だが、わずかでも自分の意識を変えるというのは案外難しい。誰かが隣にいて一言なにか言ってあげられれば、それは大きな助けとなるのだろうが、一人でいてはその助言も受けられない。だから、チェチリアがうまくリコーダーを吹けないのも仕方がないかもしれないとティルカは思った。

曲に区切りがつくと、チェチリアは満足そうな表情でかすかな波音を立てる海のほうを見て息をついた。

「ありがとう、ティルカ。わたしでもこんなにきれいに曲が吹けるなんて、ちょっとびっくりだよ。ティルカの街には楽器を教えてくれる先生もいるなんてね。わたし、いつかティルカの街に行ってみたいな」

このときのチェチリアは遠い異国の情景を夢想して遊ぶ少女そのものだった。その様子がなんだかかわいらしく思えて、ティルカも上機嫌だった。

「リコーダーだけじゃないわ。バイオリンとかピアノだってやりたいと思えば習えるし、ダンスなんかも教えてもらえるのよ」

頬を上気させて話に耳を傾けるチェチリアを見ていると、つまらなく感じていた自分の住む街も少し誇らしく思えた。

「すごいな、私にもいつかそういう機会は訪れるのかな?」

「チェチリアは私の街に遊びに来るつもりなんでしょ。その時があるじゃない」

「うん、楽しみにしているよ。約束ね」



 それから数日が経っても、手掛かりとなる情報は見つからなかった。ティルカの気力はそろそろ限界だった。文字を追うのに疲れ、体を机に預けて突っ伏したとき、眠い目が書架に刺さった一冊の赤い本をとらえた。

 それは太古から伝わる黒魔術について記したもののようで、見るからにうさん臭かった。しかし、今のティルカにはそのようなちゃちな方法ですらも、やってみる価値はあるのではないかと思えてしまった。

「ごめん、チェチリア。そこの本棚にある赤い本、取ってくれない?」

隣に座っていたチェチリアに頼むと、彼女はすぐにその本を手に取り、しばしその表紙を見つめてからティルカに手渡した。

 そこには、簡易な魔法陣を描くことで異次元への扉を開くすべが記されていた。ますますうさん臭い。だが、大した手間はかからなさそうなので、後で試してみることにした。ただ、今は非常に眠たい。魔術を試すのは仮眠をとってからにしよう。ティルカはそう決めて、再び机に突っ伏した。

 目が覚めると、机にあるはずの赤い本がなくなっていた。眠たかったから確証はないが、そのまま机に置いといたはずだった。

「起きたのね、ティルカ。そろそろ夕ご飯にしようか」

ロッキングチェアで縫物をしていたチェチリアが言った。

「ねぇチェチリア、ここにあった本知らない? なくなってるんだけど」ティルカが聞くと

「えっ、ないの? わたしいじってないよ。ティルカが寝た後は、ここでこの子を縫っていただけだし、あとはさっき夕ご飯を井戸に取りに行っただけだよ」

「そう…私の思い違いかな。後でよく探してみるわ」

そうは言ってみたもののあまり納得がいかない。チェチリアもうつむいて何か考えている様子だった。

「もしかしたら泥棒が入ったのかな」チェチリアが小さな声で言った。

「泥棒? そんなわけないでしょ。この島には私とあなたしかいないんだから」

「でも、ティルカだって数日前まではいなかったんだよ?」チェチリアがおびえた顔で言った。

「じゃ、あなたと私以外の、三人目の誰かがこの島に来てるというの」

「否定できる?」

そういわれるとティルカに返す言葉はなかった。得体のしれない三人目の闖入者がいて、寝ている自分のそばからあの本を盗んだ。ティルカはうっすらと寒気を感じた。もしチェチリアの言うようにティルカたち二人以外の誰かがいるとしたら、それは別の島から来たのだろうか。それともティルカと同様に別の世界から来たのだろうか。いずれにしても不気味であることに変わりはないが、おそらく後者だとティルカは思った。でなければ黒魔術の本などというくだらないものを盗んでいくとは思えなかったからだ。

 ティルカは自分がここにやってきた経緯をはっきり伝えることにした。なぜ謎の人物が突然現れたのか、理由を知れれば、チェチリアの恐怖心も少しは和らぐのではないだろうかと思ったからだ。

「あのね、チェチリア、あなたは私が別の島から海を越えてやってきたと思ってるかもしれない。でも違うの。私は遠い別の世界からここに迷い込んでしまったの。霧に覆われた草原に放り出されて、眠りから覚めたらこの島にいたわ。きっとその泥棒も同じようにしてこの世界に来たんだと思う。帰る方法を探してるのよ。こんな話信じてもらえないとは思うけど、私たちの知らない誰かがいるとしたらそれしか考えられない」

チェチリアは何も言わずにティルカの目を見ていた。そして朗らかに笑った。

「なんとなくわかってたよ。ティルカはこの世界の人じゃないって。だってあまりにもいろいろなものを知っているのだもの。住む島が違うだけでそこまで大きな差があるとは思えないしね」

チェチリアはティルカの手を取った。

「早く帰る方法を見つけよう。きっと何かあるよ」

思っていたよりもずっと素直に受け入れてもらえてティルカはほっとした。チェチリアならもう少し取り乱すのではないかと思っていたが杞憂だったようだ。

 二人は交代で眠りどちらかが部屋を監視するようにした。そして外出する際には必ず二人で行動した。ティルカとしては片方が家に残ることで、泥棒の正体をつかみたいと考えたが、それにはチェチリアが断固反対した。無理にティルカや自分の身を危険にさらす必要はないというのが彼女の意見だった。

 それからもたびたび本が消えた。そのたびにチェチリアはおびえ、ティルカから離れようとしなかった。必死にティルカにしがみついてくるチェチリアは見た目以上に幼く見えた。



 ティルカには一つ不思議に思うことがあった。特によく盗られるのはティルカが読み終えた書物ばかりだった。ちょっと役に立ちそうなものを見つけるとすぐになくなってしまう。姿の見えない泥棒はまるで、自分のためではなく、ティルカを元の世界に帰さないために暗躍しているかのようだった。

 夜中、ティルカは妙な物音で目が覚めた。ふとした拍子に何かが落下しただけだとも思ったが、ティルカはいやに胸騒ぎがした。

 枕元にある蝋燭に火をともし、書架のある部屋の様子を見に行った。

「チェチリア?」

暗い室内に呼びかけるが返事はない。辺りを照らすといくつかの本が消えていることに気付いた。また誰か来たんだ。強い不安に駆られて再びチェチリアの名を呼び、明かりをロッキングチェアのほうへ向けた。

そこには肩を刺されて血を流し、ぐったりとしたチェチリアの姿があった。ティルカは一瞬息が止まり、まったく動けなくなった。しかしチェチリアが彼女の名を弱弱しく呼ぶと、ティルカはすぐにチェチリアに駆け寄った。

「ごめんね、ティルカ」

「なんで、謝るのよ、すぐにけがの手当てをしなきゃ」

そうは言ったものの、ここには薬などなさそうだった。

「チェチリア、苦しいとは思うけど少し我慢して。今からあなたをおぶってあの井戸に向かうわ。あそこに行けば傷薬もあるわよね?」

憔悴しきった声でティルカが聞くとチェチリアはうなずいた。



 井戸に向かう途中、チェチリアはずっとぐったりしていたが意識はしっかりとしていた。幸い肩のほかに傷はなさそうだった。きちんと治療をすれば大事には至らないだろう。

 井戸の底に着くと、ティルカはチェチリアを地面におろした。できることならば、ティルカは、自分の世界では当たり前に使われているような、効能の良い薬を出してあげたかった。しかし、チェチリアはそんなものはつゆとも知らないのだろう。彼女は傷薬となるらしい粗末な薬草を取り出した。

 ティルカが薬草をつけようとした際、チェチリアの肩の刃物に目が留まった。その刃物はかなり風変わりなものだった。大きさは包丁やナイフと同じぐらいだが、形状は西洋の騎士がかつて使った剣のようだった。

 手当てをし終えても、二人はすぐに家には戻らなかった。ティルカはチェチリアにことのいきさつを聞いた。

「せっかく起きているのなら、もっと調べ物をしようと思っていつもの部屋で本を読んでいたの。そうしたら突然ドアがばたんと開く音がして。最初は怖いから本棚の隙間に隠れて様子を見ていたんだ。しばらくすると真っ黒な人が部屋に入ってきて。その人が書棚の本を持って行こうとしているのが見えたから、思わず止めに入ってしまったの」

「真っ黒ってどういうこと?」

「暗かったからよく見えなかっただけかもしれない。でもたぶん真っ黒な服を着ていたんじゃないかな。かなり大柄な人だった。たぶん男の人」

「もちろん、見覚えはないのよね?」

「この島で会った人はティルカが初めてだもの」

 これでこの島に三人目の誰かがいるのは間違いないとティルカは確信した。そしてチェチリアの身に危険が迫っている以上、彼女をここにおいてはいけない。早く帰る方法を見つけて、この子と一緒に逃げなきゃ。

 二人は寝泊まりを井戸の底ですることにした。チェチリアを襲った男の目的はあくまで彼女の部屋の本である。ならば、この井戸には足を踏み入れないのではないかとティルカは考えた。チェチリアは何か不満がありそうだったが言葉にはせず、結局その提案を受け入れた。



 井戸の底にたまった冷気はティルカの眠りを妨げた。ティルカはなかなか寝付けず寝具にくるまってじっとしていた。眠気は感じるのだがなかなか眠りに落ちきらない。これなら代わりに私が起きてればいいんじゃないかしら。そう思ってティルカはチェチリアに声をかけた。しかし返事がない。不審に思ったティルカは眠い目を開けた。そこにチェチリアの姿はなかった。

 一気に眠気が吹き飛んだ。

「チェチリア!」

ティルカは焦燥しきって井戸の階段を駆け上がっていった。

 すぐにチェチリアの家を見に行った。しかしどこを探しても生き物の影一つ見つからない。まさか、海岸のほうへ? いや、怖がりのあの子が一人で行くとは思えない。先ほどから嫌な予感が脳裏をよぎっている。しかしティルカはそれを執拗に否定した。もしかしたら、もう井戸に帰ってきてるかもしれないわ。そう心を静めてひとまず井戸の底に戻ってみた。

 チェチリアはいなかった。私のせいだ、ティルカは強くそう思った。自分は深い眠りには落ちていなかった。意識はあったのだ。それにもかかわらず、みすみす彼女を奪われてしまった。井戸は安全だなどと考えた自分が憎らしかった。ティルカは声をあげて泣きだした。そして何度もチェチリアの名を呼びながら、再び階段を上り始めた。まるで親を探し求めて泣き叫ぶ幼い迷い子のように。




 井戸の出入り口に差し掛かったとき、泣きはらした目が、今まで下りたことのなかった右側の階段をとらえた。ティルカの足は無意識のうちにそちらを向いた。

 階段の先には錆びついた鉄の扉があった。しかし、今その扉は開け放たれていた。ティルカは放心したままその奥へと吸い込まれていった。

 そこは書架が林立し雑然とした空間だった。チェチリアの部屋によく似ていた。本棚の陰から淡い光が漏れている。蝋燭の火だとティルカは思った。ティルカは物陰からそこを覗き込んだ。

ティルカは春の温かい陽光を浴びたように安堵した。そこにはチェチリアの小さな背中があった。机に向かって何かの本を読んでいるようだ。でも、なんでわざわざこんな場所で? ティルカは疑問に思った。しかし何はともあれ無事でよかった。背後から彼女に声をかけようとしたとき、ティルカはチェチリアの傍らにある赤い本に気付いた。それは最初に紛失したあの黒魔術の本だった。

 ティルカが陰から姿を現すと、石壁に写った影でわかったのだろう。チェチリアが首だけで後ろを振り向いた。

「全部あんたの嘘だったの?」

チェチリアはおびえたように身を縮めた。何も答えずにいるのがますますティルカをいらだたせた。ティルカはチェチリアの肩につかみかかって言った。

「どうしてこんなことしたの?」

チェチリアは、目前に迫ったティルカの顔から眼をそらした。ティルカは舌打ちをして、チェチリアの頬を拳で殴り飛ばした。その拍子に彼女の体は椅子から転げ落ちた。チェチリアは声もなく泣いていた。

 ティルカは体から湧き出る怒りを抑えきれなかった。それにはもちろん、だまされていたことへの怒りもある。しかし、最もティルカが許せなかったのは、これだけの心配をかけさせられたことだった。

 ティルカはチェチリアを強引に起こし、再び問い詰めた。すると彼女は泣きじゃくりながら言った。

「ティルカとお別れしたくなかったの……」

ティルカは彼女の言うことがよくわからなかった。

「何を言ってるのよ、私はもし帰る方法がわかったら、あなたも一緒に連れていくつもりだった。置いてくわけないじゃない」

「本当にそのつもりだった? わたしがこうしてあなたをだまさなくても?」

チェチリアは目に涙をたっぷりとためてティルカを睨んだ。ティルカはぐっと言葉に詰まった。何も言えずにいるとチェチリアがふたたび話し出した。

「ティルカが早く、元の世界に帰りたいと思ってるのはよくわかってるよ。でもだからこそ、元の世界に戻れるチャンスが来たら、それがつぶされないうちに、わたしを置き去りにして去ってしまうと思ったの。でも、もしわたしに危険が迫っていたとしたらそんなこと、ティルカはしないって信じてたから……ごめんなさい、自分勝手で。あんなに魅力のある世界にいたのなら、こんな場所はもう嫌だよね。ティルカのいた世界とこの世界はまるで違う。わたしが元々住んでいた世界だって、ティルカのには敵いそうにないよ……」

そう言ってチェチリアは大声で泣き出した。ティルカは彼女の最後の発言が気にかかった。

「ちょっと待ってよ。チェチリアの元々住んでいた世界って?」

チェチリアは嗚咽を押さえながらとつとつと話し出した。

「わたしもティルカと同じ。別の世界からここに来たの」

ティルカは思いもよらない告白に腕の力が抜けていった。

「もともと、わたしはとある下級貴族の娘だったの。不自由なんてなかった。下級とは言っても貴族だもの。朝と夜にはきちんとご飯を食べられたし、文字の読み書きだって習えたわ。それに父が当時、街で人気だった楽曲をたまに縦笛で吹いてくれたりもしたから、退屈することもなかった。わたしとは違ってすごく上手だったんだよ。お友達もちゃんといて、楽しく毎日を過ごしていたわ。でもね、ある時期から街に疫病が流行り出したの。わたしのまわりは召使の人が清潔に保ってくれていたから大丈夫だったけれど、身分の低い人たち、例えば農民たちは次々に死んでいった。ある人は首が巾着袋みたいにふくれあがって死んだ。頭が二つになったみたいだった。ある人は全身がイボだらけになって死んだ。イボからは膿があふれて、大量の卵から蛆が一斉に孵っているみたいだった。わたしの家は農民たちに耕す土地を貸すことで収益を得ていたから、彼らの死は家の財政に打撃を与えたわ。そのうち家が没落して、わたしたちも上級貴族の土地を耕す身分になった。一応住むところも与えられたけれど、そこは本当に汚い場所で、父も母もすぐに病気になった。二人は全身が黒いあざに覆われて、生きながらに肉体が何かに喰われているみたいだった。ほどなくして両親は死んだわ。わたし、二人の墓の前でずっと泣いてた。でも気づいたらわたしは濃い霧に包まれていてね、霧が晴れたらここにいたの。この島には誰もいなかった。でもこの井戸があったから生きるのに苦労はなかった。最初のうち、一人ぼっちでいるのは寂しかったけれど、慣れるのは時間の問題だったの。だから、元の世界に帰りたいと思うことはずっとなかった。あの世界に私の愛した人はもういないのだもの。だけどそこにティルカ、あなたが来た。最初に会ったときは、本当にびっくりしたな。人の形をしたお化けかとも思った。でもわたしと話してくれるティルカはとても生き生きとしていた。誰かとお話しするのは久しぶりだったからとても嬉しかったよ。まるでお姉さんができたみたいで」

チェチリアはいったん言葉を切って言った。

「もう元には戻れないよ、一人ぼっちはいやだよ……」

チェチリアは再び泣き出した。隠し通したかった秘密を親にあらいざらい告白しきった子供のようだった。

 ティルカは黙ってチェチリアを抱きしめた。ティルカには彼女にかける言葉が見つからなかった。チェチリアが、シャワーやビルなどティルカにとって当たり前のものを知らないのも、治療のために薬ではなく薬草を用意したのも、日々の食事がティルカには到底満足のいくものでなかったのも、すべては彼女たち二人の生きる時代に大きな隔たりがあったことが原因だった。チェチリアの過去を知らずにわがままを言っていたティルカは、今までの自分の言動を強く恥じた。彼女は精一杯ティルカの希望をかなえようとしていたのだ。

 ティルカ、とチェチリアが呼んだ。

「きっとこの世界は、一人残されたわたしの身を案じた父と母の思いが作り上げた空間なんだと思う。私はきっと今まで二人に守られていたのよ。でも、そろそろ外に出て自分で生きていきたい。きっと父も母もそれを望んでる。わたしはティルカと一緒に外の世界に戻りたい。ねぇ、わたしはこれからもあなたと一緒にいられるかな」

ティルカはより強く彼女を抱きしめた。

「ええ、一緒に帰りましょう。もうひとりにはしないわ」

どこからか色鮮やかな燐光が現れ、粉雪のように舞いだした。光の粒は鋭い閃光となって二人を包み込んだ。まばゆい光のなかで、ティルカは甘やかな笛の音がかすかに聞こえた気がした。

 ティルカが目を開けると、彼女は既に別の部屋にいた。首を巡らすと何度となく目にしている、お気に入りのイヌのぬいぐるみが視界に入った。彼女の腕の中では、白い髪の少女が静かに寝息を立てていた。




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はじまりの笛 茅田真尋 @tasogaredaru

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