恋豆
堀河竜
第1話 路地裏の喫茶店
このコーヒーかい? 確かにこれはコーヒーだが、普通じゃない。
とりあえず隣に掛けてくれないか。
話したいことがあるんだ。
この飲み物を飲み始めたのは一年前だ。
昔から俺はコーヒーが好きで、ちょっと寂れて年季の入った喫茶店なんて見付けるとわくわくして、ふらっと入ってしまう癖があるだろう?
そうやって良い店を見付けては友達を連れて行く。
お前にもたくさん店を紹介してきたけど今回教える店は特に変わってるんだ。
店を見つけたその日は失恋して酷く落ち込んでいて、ふらふら歩きながら暗い道を歩いてた。
宛てもなくただ気を晴らすみたいに一人歩いてると、気が付けばその店の前に立ってたんだ。
俺は微かに漂ってくるコーヒーの香りを嗅ぎ付けた。
ふらふらと歩いて喉が渇いていて、コーヒーで癒やされたかった俺は何かに引っ張られるみたいに入っていったんだ。
黒めの漆が塗られた木材と、クリーム色の塗り壁を基調とした、誰もいない小さな店だった。
バックグラウンドで小さくジャズが鳴っていて、しっとりと落ち着いた雰囲気がある。
初老のマスターが一人で経営してるようだった。
俺が入ってくるのを見ると白いカップを磨いたまま、いらっしゃいませと落ち着いた声で迎えた。
「初めての方ですね。うちはコーヒーしかお出しできませんが構いませんか」
その言葉に驚いたけど、俺が同意するとマスターはカウンターの席に進めてくれた。
コーヒー専門の店なのだから豊富な種類の豆があるのだろうと思った。
期待してメニューを開いたけど、そこでまた驚いた。
一種類のコーヒー豆しか置かれていなかったんだ。
俺が怪訝な顔をしてメニューを見ていたらマスターが見兼ねて言った。
「うちでは特別な製法で淹れたコーヒーをお出ししているんです。初めての方はだいたい驚かれるのですが、誰もが満足していってくださるのですよ」
誰もが満足するという言葉に俺は半信半疑になる。
そこまで言うのなら自信があるということかもしれないが、飲んだ誰もが満足するということはよっぽどの美味しさじゃなければ有り得ないだろう。
用心深い人だったら怪しんだまま何も飲まずに帰ってしまうかもしれない。
でも、どんなコーヒーを出すのか気になった俺は一杯だけでも飲んでみることにした。
注文してから呆けながら待っているとコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきた。
カウンター越しに覗いてみると、ちょうど豆の粉末にフィルターの上からお湯を通しているところだった。
フィルターに溜まったお湯が粉を膨らませてからゆっくりサーバーへ落ちていく。
淹れ終えたマスターが微笑みながらカウンターに出した。
一見普通のコーヒーだった。
淹れ立ての白い湯気が上がっていて、カップとソーサーの白さとは対照に深い黒色をした飲み物が豊かな香りを漂わせている。
ミルクを入れるとコーヒーの黒に白いとぐろができる。
そのコーヒーがどんな味のするのか、本当に誰もが満足できるものなのかばかり俺は考えていた。
いざカップに口を付けようとした時、はっと目を見張った。
コーヒーに浮かんで揺れていたミルクが女性の顔を描いていたんだ。
「気が付きましたか? このコーヒーは飲んだ人にとって特別な人を映し出してくれます。あなたの思い出に残っている人を絵にしてくれるのです」
自然に現れたそのラテアートは今まで見たものよりずっと緻密で、陰影までつけられていて、まるで魔法で描かれた絵みたいだった。
どうやってこんなリアリティあるアートができているか、考えてもまた不思議だった。
「ただ映し出すだけではございません。どうぞ口に含んでください」
マスターに言われて俺はようやく恐る恐るそのコーヒーを飲んだ。
苦味と酸味がちょうどいいコーヒーを味わいながら何が起きるか待っていると、背後で扉の開く音がした。
振り向くとそこには女の人が立っている。
でもどこか見覚えがあって全くの他人という訳じゃなかった。
実際女の人がこっちに来たら俺に面識があるみたいで挨拶された。
確かめてみると俺が初めて恋をした相手だとわかったんだ。
うろたえる俺にマスターが優しく声を掛ける。
「これが私の出すコーヒーです。今お飲みいただいているコーヒーは初恋の人との会話ができるものです。コーヒーが冷めるか飲み干すまでその時の恋を蘇らせられるんですよ」
俺は呆気に取られて答えることができない。
言葉を失った俺にマスターは話を続ける。
「私は昔からコーヒーが大好きでしてね。若い頃は珍しい豆やコーヒーメーカーを見付けては買ってきて試したものです。美味しいコーヒーを追い求めて研究しているうちに、この不思議な豆に出会ったんです。もしかしたらすごい発見かもしれませんが、私は望んでこの小さな店でお客様にお出ししているのです。初めての恋だけでなく、どんな時の恋もコーヒーで蘇らせますよ」
説明されてもまだ信じられない俺は試しにコーヒーを飲み干す。
すると初恋の相手はマスターの言う通り、白い湯気になって消えてしまった。
唖然としてもう一度コーヒーに目を移すと、ただ底にコーヒーの粉が残ったカップがあるだけだった。
「……かおり……今日別れた相手との恋は蘇るのですか」
俺は思わず口走っていた。
失恋した悲しみのあまりに思わず口走っていたんだ。
ああ、そうだよ。
かおりというのはおまえのことさ。
別れなくちゃいけなくなったのにどうしても受け止めきれなくて、俺はもう一度おまえに会おうとしてしまったんだ。
「お待たせしました。ご注文のコーヒーです」
出てきたコーヒーはさきほどよりも濃ゆくて表面はコーヒーの油分で少し光っていた。
覗きこむとさっきと同じように、かおりの顔が反射しているように見える。
飲んでみると酸味のない深い味わいがゆっくりとフェードアウトしていく、上品なコーヒーだった。
優しくて静かだけど話し始めると笑顔になって明るくなる。
まるでかおりみたいなコーヒーだった。
そして気が付くと、俺の隣の席には忘れもしないかおりが座っていた。
コーヒーの湯気が姿を現しているみたいに儚げなかおりが側にいたんだ。
話してみると別れ話なんてなかったみたいに、かつてのまま話してくれた。
俺はそれが嬉しくて尊くて、まるで懺悔するみたいにコーヒーが冷め切るまで話してた。
それからというもの俺はそのコーヒーを飲み続けた。
どうやらマスターはその不思議な豆を恋豆だなんて名前を付けているらしい。
コーヒーを縮めてこひ。
「ひ」を昔の読み方をして恋豆だそうだ。
マスターもキザな名前の付け方するよな。
でも俺はその恋豆で淹れたコーヒーにどんどんハマっていったんだ。
何度も店に足を運んでは同じコーヒーを注文する。
不思議なコーヒーを飲んで、埋まらない傷を埋めるみたいにおまえと会ってたんだ。
何度も飲んでいるうちにコーヒーの淹れ方でかおりの機嫌が変わることに気付いた。
機嫌が変わるどころか、嫉妬して怒っているのかおりだったり、俺の誕生日を祝ってくれるかおりだったりする。
サイフォンで淹れると付き合い初めた頃のかおりが現れたし、エスプレッソで淹れた時なんか喧嘩している最中のかおりが現れたんだ。
あの時は大変だったけど仲直りできた時は本当に嬉しかったよ。
でもそうやって何度も恋豆のコーヒーを飲んでいるうちに、俺は心が虚しくなっていくような気がした。
恋豆で現れるかおりで本物のかおりの代わりにしようとしている。
そんな自分が酷く惨めで悲しくなってきていたんだ。
そんな俺の心情を察したのか、ある日マスターが言った。
「まるで悪いことのようにコーヒーを注文なさるのですね」
「……気にしないでください。ただ悲しいだけです」
傷が塞がらないままの俺はマスターの心配もよそに冷たく答えてしまっていた。
恋豆のコーヒーだけ淹れてくれればいい。
そんな返し方だった。
それまで何度も店に通ってマスターとは親しくなっていたけど、それでもあんまりだったと思う。
それでもマスターは相変わらず優しい口調で言った。
「ターキッシュというコーヒーの淹れ方を知ってますか?」
俺がかぶりを振るとマスターは続けた。
「ターキッシュはイブリックという小さい鍋に、ごく細挽きしたコーヒー豆、そして砂糖と水を入れてゆっくり煮ます。カップに注いだら少し置いて粉が沈んでから上澄みだけを飲みます。深いコクと甘みが段々強烈な甘みに変わっていくのです」
「……まるで恋みたいなコーヒーだ」
「恋豆の一番美味しい飲み方だと思います。ですが気を付けてください。最後まで飲まないのがポイントなんです」
俺はマスターが注意して言ったことを繰り返す。
最後まで飲まない。
それが美味しい飲み方なんだと自分に言い聞かせるようにひとりごちていた。
「ターキッシュを注文なさいますか?」
「そうだな。頼むよマスター」
俺は笑ってるとも悲しんでいるとも言えないような顔で注文した。
ここまで話せば、もしかしたらこのコーヒーが何かわかるかもしれないな。
ああそうさ。
今、俺が飲んでいるのがターキッシュのコーヒーさ。
このコーヒーをマスターに教えてもらったのも、さっきの話だったんだよ。
俺もそろそろ受け入れなきゃいけない時がきたのさ。
さて、随分話し込んでしまったからそろそろコーヒーが冷める頃だよ。
名残惜しいけどもう時間になってしまう。
なんだかおり、泣いているのか。
離れたくないだって?
夢を叶えるために引っ越すからって、別れることを決心したのは君じゃないか。
俺のことは忘れて、向こうで幸せになってくれ。
ターキッシュコーヒーか。
確かにコクと甘さが強くなるコーヒーだったよ。
しまった。
重要なことを忘れるところだった。
ターキッシュを飲むポイントは最後まで飲まない。
恋豆 堀河竜 @tom_and_jetli
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