考えるあたま

春日東風

考えるあたま

 その日、オレは、返された理科のテストの点数を見て、がっかりした。

 

 70点。

 

 100点満点中の7割だからってことで、じいちゃんなんかは褒めてくれるかもしれないけど、うちの鬼ババ……あ、今のナシ、美しいお母様からは絶対にお説教をされるに決まっている点数。平均点は81点。


「みんな80点以上取っているんだから、トールもそのくらい取れるでしょう」


 っていうのが、お母様の言い分になるだろうと推測。みんながどうとか関係あるか? とオレなんか思うけど、でも、口ごたえはしない。言い返したら、その倍は返ってくるもんね。父さんがよく言っていること。


「女の人とは言い争っちゃいけないよ」


 と。男の子は父親の背中を見て育つって言うだろ。オレも、父さんが母さんに言い負かされて、しょんぼりした背中を見て、


「女とは言い争わないようにしよう」


 と父さんの言うことを守ることにしたんだ。


 まあ、母さんの冷たい視線に耐える覚悟を決めたとしても、納得の行かない気持ちが残る。だって、前のテストでは、自慢じゃないけど、95点だったんだぜ。で、今回も同じくらい勉強したわけだから、同じように取れなきゃおかしいじゃないか。


 なんでだろう。


 オレが答案用紙を見ながら、うんうんうんうん、うなっていると、


「どうしたんだよ?」


 隣から声がした。


 今はお昼休み中。みんなほとんど外に遊びに行ってるんだけど、オレは理科の答案とにらめっこしてたわけ。そんなオレをすぐ隣の席から見ていたのが、


「そんなにうなって腹でも痛いのか?」


 西宮スグルだった。


 オレはスグルを見た。読んでいた本にしおりを挟んでこっちを見た眼鏡の男子は、線が細くて何だか女みたいなヤツ。言うと怒るから、たまにしか言わない。


 オレは事情を話した。なんで理科の点数が下がってしまったのか分からないことについて。


 スグルはなるほど、とうなずいてから、


「トール、それは全然不思議なことじゃないよ。むしろ自然なことだよ」


 言い切った。


「自然なこと?」


「ああ」


 オレは納得が行かない。もちろん、前に受けたテストと今回受けたテストは、別のテストなわけだから、別の結果が出るのは当たり前だけど、でも、それにしたって95点と70点だぜ。勉強サボったなら分かるけど、サボってないわけだからさ。


「トールは理科のテストでいつも何点くらい取ってる?」


 スグルはちょっと笑いながら言った。


「60点くらいかな」


「もうちょっと勉強した方がいいな」


「だから、やったんだよ。前のテストで! それで取れたからさ、あ、理科って結構簡単だなと思って……もしかして、今回は油断したのかな」


「それもあるだろうな」


「他に何があるんだよ」


「それはな――」


 スグルが何か言おうとしたところで、キンコンカンコン、と授業が始まるベルが鳴った。


 スグルは、またあとでな、と言って、文庫本を机の下にしまった。


 なんだよ、とオレは思って、スグルをにらみつけるようにしたけど、スグルは全然気にしない顔で、


「変な顔」


 と言って笑った。


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 五時間目は、「総合」の時間だ。


 言い忘れてたけど、オレは、加賀見トール、小6な。ヨロシク。


 今回の「総合」の時間は、この前の「総合」の時間の続きだった。


「この頃、みなさんの気持ちはたるみ切ってます!」


 この前の「総合」の時間のとき、唐突にそう担任がキレ始めて、何のことだろうかとみんなぽかんとしたところが、授業中におしゃべりしたり、学校にトレーディングカードを持ってきたりだとか、そういう風に平気で規則を破るようになっているということがケシカランということらしかった。そこで、そういう規則をちゃんと守らなければいけないってことをみんなで確認したわけ。


「この前みなさんで確認したおかげで、今週は、みなさんの行動があらたまったと思います。先生は嬉しいわ」


 チナツ先生がにこにこしている。


 そうしているとなかなか可愛いのに、怒るとモンスター化する。つまり、やっぱり女なんだよな。うちの、ほっそりと美しいお母たまと同じ。


 オレがちらりと横を見ると、スグルが、ふっと笑っていた。


 オレはその顔を見て、あ、こいつ何か変なこと考えてるな、と思った。


 スグルはちょっと変わったヤツで、オレとかクラスのみんなとか、時には先生だって考えもしないことを考えてるんだ。


「おい、なに考えてんだよ」


 オレは、隣に向かってこそこそと言った。


 スグルの考えはちょっと面白い。ちょっと聞いただけだとそんなのおかしいだろ、と思うんだけど、よくよく聞くと、もしかしたらそうなのかもと思うようになって、考え方が変わるんだ。


 この前なんか、みんなで、廊下で転ばない方法を考えてたんだ。これは、この頃廊下で転んでけがをする人が多いから、それを防ぐためにはどうすればいいのかっていうことで、それもまた「総合」の時間に話し合ったんだよ。普通はさ、


「廊下を走らないようにする」


 とか、


「ふざけながら歩かないようにする」


 とか言うだろ? でもスグルは、


「廊下の床の材質を転びにくいものに変えればいい」


 とか、


「転んでも怪我をしないような材質にすればいい」


 とか言い出したんだぜ。


 みんな初めは冗談かと思った。ていうか、オレも思った。でも、スグルは本気みたいで、


「廊下で転んでけがをするってことは、責任は廊下と人間にあるわけです。人間の方に変わることを要求するより、廊下の方を変えた方が確実だと思います」


 そんなことを理由として言った。


 オレは、それを聞いて、あ、それもそうか、と思ったんだ。人間が変わるって結構難しい。ふざけているヤツがふざけないようにするとか、これまで走ってたヤツが走らなくなるとか。でも、廊下を変えるのは簡単だ。そういう技術とお金さえあれば、だけど。


「人は、あることが起こったときに、目に見えるものの方に心が奪われやすいんだ。廊下で人が転んだとき、人が転ぶ様子はよく見える。でも、普通は廊下が人を転ばせる状況だったなんていうふうには思わないんだよ。油でもこぼれててつるつるの場合は別だけどね」


 結局、スグルの意見は取り入れられたりはしなかった。


 スグルは全部が全部そんな調子で、みんなから変なヤツ扱いされてて、オレだって変なヤツだなあって思うんだけど、なんでか、ウマが合うんだよな、オレとは。


「トールはバカだけど、人の意見を聞く耳を持ってる、それってすごいことだよ」


 スグルは前にそんなことを言った。バカはよけいだろ。


 それで、今も何か考えてるんだろうな、と思って、ひそひそやってると、チナツ先生にバレたみたいだ。


「トールくん、スグルくん、スタンダップ」


 なぜだか英語で、チナツ先生は言った。


 オレたちは席を立った。


「『授業中は無駄話をしない』って、この前決めたでしょう」


 クラスのみんながオレたちを見てクスクス笑っている。


 その中に、清川マスミの顔を見つけたオレは、首筋が火照るのを感じた。


 隣のスグルは平然とした声で、


「先生」


 と言ってから、


「大変悲しいお知らせがあります」


 と切り出したので、クラス中がなんだなんだ、と注目した。


「悲しいお知らせってなんのこと?」


 きょとんとしたチナツ先生に、スグルは、


「多分ですけど、今週は先週ほどは、みんなの行動はよくないと思います」


 そんなことを言ったもんだから、先生はびっくりした。


「どうしてそんなことを言うの?」


 ちょっと批難しているような声だ。それもそうだろう。せっかく今週うまくいったのにそういうことを言うんだから。そういうのを確か「水を差す」って言うんだ。


「簡単なことです。だって、今回とてもよかったわけだから、次もとてもよくなるなんてことはないでしょう」


「どうして? 前より努力すれば、もっと良くなるかもしれないじゃない」


「先生は、100点満点のテストで、100点より上の点数を取ることができますか?」


 まるで、なぞかけのようなことをスグルは言った。


 言っておくけど、こんなこと先生に向かって言えるのは、クラスの中で、いや学年の中だけでも、こいつだけだ。


「スグルくん、なにが言いたいの?」


「言いたいことはもう言いました」


 そう言って、スグルは、席に着いた。


 教室中がざわめいた。


「静かに!」


 チナツ先生は大きな声で言うと、スグルに放課後職員室に来るように言った。変なことを先生に向かって言ったことへのお説教だ。分かりました、と答えたスグルは全然気にも留めてないみたいだった。真似したくはないけど、尊敬はする。


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 五時間目が終わって、それで今日の授業は終わりだった。スグルはすぐに職員室に行かなくてはならなくて、五時間目のときの話や、お昼休みのオレの理科の点数の話を聞きたかったが、無理だった。


 仕方ないなあ、と思って教室で待っていると、


「トールくん」


 と話しかけて来たのは、清川マスミだった。


 簡単に紹介すると、このクラスで一番可愛い女の子だ。髪が長くて、目が大きくて、きゃらきゃらとよく笑うし、なんか太陽みたいな女の子。オレの太陽じゃないけどね。クラスみんなの太陽的な。


「な、なに?」


 オレは、ちょっと緊張しながら答えた。女子と話すからっていって別に緊張することとかないけど、マスミちゃんだけは別だ。


「トールくんって、スグルくんと仲いいよね」


 まさか、とオレは思った。


 マスミちゃんの目がきらきらしている。


 うそだろ、ともオレは思った。


 でも、スグルは女子に人気があるんだよなあ。


「わたし、スグルくんに聞いてもらいたいことがあるんだけど、大丈夫かなあ」


 しらねーよ、とオレは思った。


 ショックでそんなことどうでもいい気分だ。


 でも、マスミちゃんの言うことを無視するわけにもいかなくて、


「大丈夫だと思うよ」


 とか適当なこと言った。


「本当かなあ。トールくんも一緒にいてくれる?」


「え、オレ?」


「お願い」


「いいけど……」


「ありがとう、トールくん優しい!」


 そう言って、マスミちゃんはオレの手を取った。


 マスミちゃんの手はひんやりとして滑らかで柔らかくて、オレは、ぼーっとした。


 その手を取られてるときに、スグルが帰ってきた。


 マスミちゃんはオレの手をさらりと離して、オレは、あーあ、と思った。


 近づいて来たスグルは、マスミちゃんを見ると、なんでいんの、と言いたげにちょっと目を細めたけど、オレからしたら、スグルの方がなんで帰って来たんだよ、というくらいのもんだった。まあ、帰って来るしかないんだけど。


「スグルくんに相談したいことがあるんだぁ」


 マスミちゃんは、オレと話している時と違って、甘えた声で言った。


 そんな声を聞けるなら、オレなら何でもするけど、スグルは、特に感動したようでもない。


 スグルは基本的に女嫌いなんだ。


「女は論理的な思考ができないからな」


 なんてことを前に言っていた。


 女だったらみんなそうだっていう決めつけは、論理的思考って言えるのかなあ、とオレなんか思うけど、まあ、嫌いっていうのは多分そういうことで、オレだって、グリーンピースが嫌いな理由を言えって言われても、マズいからとしか言いようがないもんな。


「なに?」


 スグルは、早く言えよって感じで、冷たく言った。


 オレは、スグルのそのさらさらした前髪をくしゃくしゃにしてやりたくなった。


 マスミちゃんは、冷たくされても気にした様子もなく続けた。


「スグルくんっていろいろなこと知ってるでしょ。だから、どうすればいいか聞きたくて」


「用件を言えよ」


「うん」


 マスミちゃんが話したのはこういうことだった。


 駅前に流行りの占い師がいる。


 占い師っていうか、本当はスピリチュアルカウンセラーとかって言うんだけど、まあ、占い師って感じでいいらしい。


 その占い師が、幸運のペンダント、を売っていて、そのペンダントを身につけると幸福になれるらしい。一つ10万円。


 それをマスミちゃんのお母さんが買いたいと言っているらしい。なんでも不幸のどん底にいる友達が確かにそのペンダントを買って幸運が舞い込んで来たというんだって。


 マスミちゃんのお母さんが、それを口にしたところ、お父さんとの夫婦げんかになってしまったとか。


「それで、喧嘩になって二日経つの。どうすればいい?」


 なるほど、隣で聞いていたオレは、これはお母さんが悪いだろうと思った。だって、そんなのインチキに決まってるじゃないか。占い師が売る幸運のペンダントだって? 小学生だってうそだって分かるよ。


 スグルも、同じことを思ってるのか、全然興味無い顔だった。


「でもね、効果が無かったら返金することになってるし、あと、本当にたくさんの人がさ、それで幸福になったっていうわけだから」


 それを聞いてスグルはちょっと興味を持ったようだった。


「確認するけど、事実としてみんな幸福になってるんだね?」


 スグルは言った。


「うん、そうみたいだよ。お母さんの知り合いも何人か買ってるんだけど、買ったあとにいいことがあったの」


「悪いことがあった人は?」


「分からないけど、お母さんの知り合いにはいないみたい」


「なるほどね。お母さんは、占い受けにいくんだろ?」


「うん、予約取ってあるみたい」


「オレも一緒に連れて行ってもらえないかな。実際にその占い師に会ってみないと何とも言えないから」


「えっ! スグルくんも一緒に来てくれるの?」


 マスミちゃんの目がきらきら輝いている。


 あーあ、もう勝手にやってくれよ、とオレは思った。


「トールも一緒でいいか?」


「もちろん、いいよ」


 勝手に決めるなよ、とオレは思った。マスミちゃんがスグルのことをアツイまなざしで見ている様子なんか見たくもない。


「お前のテストの疑問とも関係あることなんだけど」


 スグルが言う。


 そういうことを言われると行かなければいけなくなる。


 オレたちは、マスミちゃんに、お母さんの予約の日時を確認してもらうことにした。


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 で、その日が来た。


 日時は、その週の土曜日の1時だった。


 オレは、マスミちゃんに会うわけだからできるだけカッコつけたくて、何を着て行けばいいのか迷いに迷って分からなくて、結局いつも学校に行くときと大して変わらない格好になった。情けないね、全く。マスミちゃんの家には行ったことがあったので、途中でスグルと合流して、家まで行く。天気はよし。


「このままどっか遊びに行くか、トール」


「おい、何言ってんだよ。マスミちゃんとの約束破るのか」


 びっくりしてオレが言うと、スグルはニヤニヤして、


「お前、清川のこと好きなのか?」


 訊いて来たので、オレは、当たり前だろ、と開き直ってやった。


「嫌いなヤツなんているか?」


 いるわけないね。


 スグルは肩をすくめるような動作をした。


 この頃、気に入っている動作らしい。


「そんなことより、オレの理科の点数が良くなかった理由を教えてくれよ」


 オレが話を変えると、スグルは、それは今日の終わりに教えてやると、と答えるばかりだ。


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 マスミちゃんの家に着くと、


「いらっしゃーい」


 とマスミちゃんが笑顔で迎えてくれた。今日も輝くばかりに可愛い。


「いらっしゃい」


 落ち着いた声が聞こえて、マスミちゃんのお母さんがやってくる。


 お母さんも美人。


 マスミちゃんが大きくなったらそんな風になるのかもしれない。よく似ていた。


 お母さんが運転するハイブリッド車に、四人で乗り込む。


 オレは、スグルと後ろに乗った。


 マスミちゃんは、オレたちを連れて行くことをどうやって、お母さんに話したのだろうと思ったけれど、


「トールくんとスグルくんのお母さんも占いに興味あるなんてねえ」


 マスミちゃんのお母さんの言葉で、よく分かった。


「そうなんです、それで、母に話すと、ぜひ、マスミさんのお母さんにお話を聞いて来いって言われて」


 スグルが調子よく話を合わせるので、オレは呆れた。よくもまあ、そんな口から出まかせを言えるもんだ。オレがスグルを見ると、スグルは、にやりと笑った。


 車を駅にあるコインパーキングに停めると、まだちょっと時間があって、みんな朝ごはんを食べてないようだからということで、ご飯を食べることになった。ハンバーガーショップに入ると、スグルは、お茶しか頼まない。おいおい、なんだよ普通に頼んだオレだけ厚かましいと思われるだろうと思ったけど、


「空腹の方が頭が回転するんだよ」


 そんなことをスグルは言って笑っている。それをマスミちゃんは感心したような目で見ている。オレは、ハンバーガーをバクバク食べた。それから、予約の時間になったということで、四人でその占い師のところへと向かう。占い師っていうから、どんなアヤシゲな雰囲気の店なんだろうと思っていたけれど、着いてみると、なんていうことはないデパートの地下のブースの一角だった。薄暗い部屋で、でっかい水晶とかがあったりするんだろうなんていうイメージだったんだけど、全然そんなことないので、ちょっとがっかりした。


 でも、占い師の女は、随分とほっそりしてて、身長もオレたちと変わらないので、まるで子どもみたいだった。ただし、ローブっていうのか、あれで全身を覆っていて、顔にも覆面をしているので、どんなヤツか分からない。目のところだけ、開いていた。


「清川様ですね」


「はい」


「ようこそ、いらっしゃいました」


「よろしくお願いします」


 マスミちゃんのお母さんが頭を下げると、そいつはいきなり、


「あなたには不安は無いようですね」


 そう言った。


「え?」


「不安をお持ちではないでしょう」


「いいえ、いいえ、そんなことありません。だからこそこうしてご相談に伺ったわけですので」


「しかし、その不安で夜も眠れないということはないでしょう。つまり、不幸ではない」


「それは……まあ、不幸というほどではありません」


「むしろ、幸せなのではありませんか? 今の生活に満足していらっしゃる」


「え、ええ、まあ……」


「であれば、わたくしが力になれることはないように思います。幸せな方をより幸せにする力はわたくしにはありませんので」


 占い師の女が簡単に言う。


 何だか、占う気とかゼロみたいだ。


「あのう、わたしのお友達がこちらでペンダントを購入されて、それで、わたしも是非いただきたいのですが」


「ママ」


「いいじゃない、ちゃんとママのお小遣いから出すから」


 やっぱり諦めていなかったわけだ。


 止めようとするマスミちゃん。


 でも、マスミちゃんのお母さんは、どうしても買いたいらしい。バカらしい。


「申し訳ありませんが、できません」


「え?」


「お売りしているペンダントは、不幸な方を幸せにする助けになるものです。幸せな方にお売りするわけにはいかないのです。もしも幸せな方がお持ちになると、逆に不幸になります」


 逆に不幸になるなんて言われたら、それはもう買うわけにはいかない。


 諦めたように肩をがっくりさせたマスミちゃんのお母さん。


「あの、一つ質問があるんだけど」


 そんなとき、これまでじっと様子を見ていたスグルが手を挙げた。


「どうぞ」


「そのペンダントって、不幸な人の中でも本当に不幸な人にしか売らないんじゃない?」


「……その通りです」


「不幸な人っていっても、大した不幸じゃない人、恋人に振られたとか、試験に落ちたとか、そんな程度の不幸な人には売らないんでしょ?」


「それがそんな程度と言えるかどうかは、人によって違います」


「ふーん……平均方向への回帰」


 スグルがぼそっと言った。


「……今、何と?」


「いや、何でもないよ」


 そう言うと、スグルは立ち上がって、そのブースからすたすた離れた。


 オレは、慌ててスグルの後を追った。


「おい、どういうことだよ、さっきの」


「車の中で説明するさ」


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 しばらくして現れたマスミちゃんのお母さんに車を運転してもらいながら、スグルは語り出した。


「今最悪の状態にある人っていうのは、もうそれより下にはいかないわけだから、上に行くしかない。極端のところに達したものが真ん中に帰ろうとする、振り子はさ、どっちかまで振り切れると真ん中に戻るだろう、ああいうのを、『平均方向への回帰』って言うんだ。トールの試験の点数も同じだよ。極端に良くなったから次は下がったんだ」


 オレは、納得がいかなかった。だって、振り子だったら、そりゃ真ん中に戻ろうとするだろうけど、テストの点数だったら、もっと勉強することで良くなるじゃないか。


「人間、『もっと』なんてことはそう簡単にはできないんだよ。そもそも、今回がトールにとって『もっと』だったわけだからさ」


 そう言って、スグルは笑った。


「あの『幸福のペンダント』は、本当に不幸な人にしか売られない。本当に不幸な人っていうのは、それより上に行くしかないんだ。しかも、買った人はみんなこれから幸せになると信じている。すると、これまではそう大して幸せだと思わなかったことも幸せに感じるんだよ。だから、みんな幸せになったのさ」


 なるほど、とオレは思った。


「そんなの詐欺じゃないかな」


 マスミちゃんは言った。「許せないよ」


「詐欺が何を表すかっていうことによると思うけどね」


 トールは言った。


 マスミちゃんは運転している母親に向かって、


「分かった? ママ? あんなペンダント、インチキなんだからね?」


 言ったけれど、


「え? でも、本当に不幸なら幸せになるわけでしょう? だから、インチキではなかったんじゃないの?」


 そう答えたので、マスミちゃんは、声を強くして、


「もう! 何言っているの? ママ! ちゃんとスグルくんの話聞いてなかったの? あんなペンダントがあってもなくても、本当に不幸な人は、これから幸福になるしかないんだって、そうスグルくんは言ったんじゃない!」


 言うと、マスミちゃんのお母さんは、まだ不服そうにしていたけれど、そのうちに、車は停まったので、あれからお母さんが納得したのかどうかは分からない。


★  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


「トールはどう思う?」


 車から降りたあと、スグルが訊いてきた。


「ん?」


「幸福のペンダントについてだよ」


「うーん……オレも母ちゃんが買おうとしていたら止めるだろうな」


「どうして?」


「だって、本当にそのとき不幸な状態から抜け出したとしても、それからまた不幸な状態になったらさ、今度はまた買わなきゃいけなくなるだろ。キリがないよ」


「本当に不幸な人間は、10万円を出すことなんてできないだろ」


「ん?」


「生活費にでも当てるだろうからな」


 そりゃ、確かにそうだ。


「10万円を出すことができる人間は本当に不幸な人間じゃない。ただ、幸福とか不幸とかっていうことに対して、きちんと考えないヤツなんだ。そういうヤツをカモにしているんだよ。その意味では詐欺と言える」


 なるほど。


「そうして、考えないヤツっていうのは、人の言葉に従うだけでさ、あんなものを買って幸せになったとかどうとか、つまりそんな人間の幸せっていうのは、その程度のモンなんだよ」


「じゃあ、スグルの幸せってなんだよ?」


「オレの?」


「ああ」


「オレは……こうやって、トールと話すことかな」


「はあ? お前こそ、そんな程度のことが幸せなのか?」


「そんな程度?」


「だって、そうだろ、オレと話すことが幸せって」


 確かそういうの無欲って言うんだ。違ったっけ?


 スグルは、それに対してはもう笑って答えなかった。


 マスミちゃんのお母さんは、今回は思いとどまったけれど、また別の評判のいい幸福グッズを探しているらしい。何か買おうとしたらまた全力で阻止する、とマスミちゃんは誓っていた。


  (了)

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