雪が降る

綿引つぐみ

雪が降る



      その一


 わたしは雪が降り積もった風景を一度も見たことがない。街や山野、家々の屋根や公園の芝生、それに休田や神社の境内の銀杏の巨木が等しく雪に埋もれる光景を。

 わたしは南九州の小さな島で生まれた。その島で高校卒業までを過ごし、大学は宮崎の公立大に進んだ。島でもかつては何年かに一度くらいは、雪の積もることがあったという。しかしわたしが物心ついてからは積もるほどの雪を目にすることは一度もなかった。大学に入ってからも近辺では雪のない年が続き、とうとう九州で雪には出会えなかった。

 大学を卒業すると就職で東京に出て来た。東京では何度か舞い落ちる雪を目撃したことがある。だが積もることはなく東京でもとうとう白一色の世界を見ないままに五年が過ぎてしまった。

 もちろん写真や映像では何度も見たことがある。それもおそらくは選りすぐられた美しい光景ばかりを。でも直接目にしたことはなく、現実感をもってその光景を想像することはわたしには出来なかった。

 ──よほど雪とは縁がないのだな

 そんなことを思いながらもわたしはかなりの淋しさを感じていた。

 初めのうちは雪のことなど全く気にもしていなかった。だが大学を出て東京に住み始めたころからは、冬が廻って来るたびに今年こそはという期待感とともに何度も空を見上げるようになった。他の季節にはさほど気にしない天気予報に敏感になり、まるで芸能アイドルを気にするように沿岸低気圧に親しみを抱いた。

 しかし見上げても見上げても雪は降らず、ようやく降ったかと思えばそれはアスファルトの黒い表面に接する間もあるかないかのうちに儚く消えた。

 輝く白一面の、こともなげに世界を異化してゆく魔法にはいつまで経っても出会えなかった。

 スキーや冬山登山でもする人間ならとっくに出会っていただろう。だがわたしにはそういう趣味もなく、また観光や出張でそのような地を訪れることもなかった。

 いっそのこと、機会を待つのではなくこちらから積極的に雪に会いに行こうか。雪を見にゆくためだけの旅行。もちろんそんなふうに考えたこともあるのだが、なぜだかそれをしてしまうのが悔しいというような気持ちが込み上げてきて、実行できずにいた。


 きっかけは妻だった。彼女が身籠ったのだ。大学時代に文芸サークルで知り合った彼女と、わたしはすぐに同居を始めてずっと東京で一緒に暮らしていた。サークル誌に掲載されていた彼女の詩を読んで、途端にわたしは彼女のことを好きになってしまった。直ぐにわたしは彼女に告白し、一緒に住むようになるまで一週間とかからなかった。そしてひと月後には婚姻届を出していた。

 その彼女が子供を産むのなら郷里に帰り、その地で子育てをしたいと言い出したのだ。妻は鷹揚で、あまり細かなことには頓着しないタイプだったのでその提案にわたしは意外な思いがした。

 繰り返し何度も東京は疲れる、帰りたいと言い、それはしつこいほどだった。わたしは妊娠という出来事が人をこれほどに変えるのか、あるいは妻の性質の本当の部分はこういうところにあって、迂闊にもわたしがそれに気づいていなかっただけなのかなどと思いを巡らした。それほどに彼女の帰郷の思いは強かった。

 それで結局、わたしは妻の意見を受け入れた。わたしは子供のころに両親を亡くしていて、そのせいか自分の生まれた故郷への思いもあまり強くはないが、だからかえって妻の願いを大切にしてやりたいという気持ちになったのだ。

 そのころのわたしは会社を辞め、大学時代の仲間の紹介でマンガの原作という仕事をしていた。ちょうど最初にもらった連載が終わったところで、また田舎にいては出来ない仕事でもないので、この際思い切って妻の田舎に引っ越すことにした。子供が生まれて、その後のことはまたその時に考えることにして、わたしたちはとりあえず妻の実家に世話になるという決断をしたのだった。


 そしてその田舎というのが北関東のとある山間の村で、わたしはそこでとうとう世界を覆い尽くす雪に出会うことになったのだ。



      その二


 村の名は烏頭女村といった。数十世帯ばかりの小さな集落だった。烏頭女は埋めの転だという。文字通りの豪雪地域だ。わたしたちが越して来たのは五月の末頃で、さすがに雪の気配は残っていなかった。軽トラックをもうそろそろ日本海に抜けてしまうのではないかと思うくらい走らせて、わたしたちはやっと目的地のその村に辿り着いた。昔ながらの古い木造家屋の前では、健在な妻の両親が出迎えてくれた。

「まあま、よく来てくださいました」

 無口な義父の横ですこし他人行儀に、義母がわたしに向かって頭を下げる。

「いえ。こちらこそお世話になります」

 そういって頭を上げると、いつの間にか向う側にまわった妻と父母の三人が並んで、わたしのことを笑みながらじっと見ている。ひとしきり沈黙が流れ、堪えかねたかのように五月のきらきらとした風が吹き過ぎてゆく。こうして見ると親子だなと思う。三人は同じ空気をまとっている。

「さ。荷物はあとでいいから。まずはお茶でもあがってください」

 義母はそういうと家の中へと入っていった。義父も後に続いた。

 わたしもついてゆこうとすると、その手を妻がつかんだ。ずいぶんお腹の大きくなった妻が、そのお腹の前でわたしの手をぎゅっと握った。

「ねえ」

「うん?」

「きてくれてありがとう」

 妻は心底安らいだ様子でそう言った。

 やはり来て良かったのだ。わたしはそう思った。


 妻は夏の初めに女の子を出産した。彼女の両親との同居も滞りなく、仕事のほうも邪魔の入らない環境で至って順調だった。村の人びとはみんな大らかで、妻の鷹揚さは彼女の両親も含めたこの地の特質なのだなと思った。生まれた娘は可愛く、元気だった。村には水田が僅かしかなかったが、その僅かな田んぼの稲が刈り入れられ、大根が干される頃になるともう冬だった。


 ある夜。キーボードを打つ手を止めると、音が消えていた。不思議な雰囲気に辺りは満ちていた。それは初めて感じる感覚だった。

 雪が降っていた。

 窓を振り返ると居間の外の庭はすでに薄らと雪に覆われ始めていた。椅子を窓際に移動させると、わたしはしばらく雪を眺めていた。見る間にもそれは降り積もるようだった。すべてを等しく隠し込む雪。わくわくした。それは三十年近く生きてきて始めて目の当たりにする雪の風景だった。


 気がつくと朝になっていた。うつらうつらとしているうちに、椅子に凭れて眠ってしまったらしい。外界は一面雪に覆われていた。数十センチは積もっているだろうか。不思議なことにこうなってしまうと雪に覆われる前の、昨日までの見慣れた庭の造作がもうおぼろげにしか思い出せない。半年ばかりとはいえ、ここに越して来て毎日見ていた景色が、ただ雪に覆われてしまったというだけでこうも簡単に失われてしまうとは。人の記憶というものはなんて頼りないものなんだろう。朝の、よく晴れた空を見上げながら、わたしは暢気にそんな感慨に耽っていた。しかし暢気でいられたのはつかの間のことだった。


 午後からまた雪になった。

 ──これはどうやらほんかくてきにつもっつぉ

 義父がそう言うと雪は間もなく吹雪になった。明け方、義父が雪を掻きに出て行った。わたしも後を追った。

「手伝いましょうか」

「なら裏からスコップ持って来」

「はい」

「おまえさんが来てくれてよかったよ」

 裏の離れへとわたしは向かう。向かおうとして愕然とした。離れの場所が分からない。記憶が消えている。母屋に隣接して建っているはずの、その建物の記憶がなくなっていた。そのようなものが確かに存在していたことは憶えている。しかしどこにあったのか、どのような建物だったのか、それが全く分からない。わたしが思い出そうとするその場所への道筋は、すべてが雪に埋もれていた。裏庭も、すべてが厚い雪の下だった。

 いや庭だけでなく、記憶の中の風景のすべてに雪が降っていた。そして雪に覆われた記憶の中の風景は、今まで知っていたはずの雪に覆われる前の、現実の情景を上書きするようにすべて書き換えてしまっていた。


 記憶の中に雪が降る。

 それは異常事態だった。雪が、人の記憶の中の風景を侵食する。侵食された記憶は失われる。思い出せない。

 わたしの記憶の中で雪は、屋外だけでなく家の中にも降り積もっていた。庭や、大根や雪菜の植わっている畑同様、家の中も降る雪に覆い隠され、そこに何があってどのような場所であったか、その様子も思い出せなくなっていた。記憶の中の映像はすべてが雪に覆われていた。その場所を思い出そうとしても、頭に浮かんでくるのは一面の雪の原だけだった。はっきり認識できるのは今実際に見ている、目の届く範囲、そこだけだった。

 わたしは恐怖を感じた。わたしは光を反射するもののない暗黒の闇の中を、手にカンテラを一つ提げ、呆然と佇んでいるようなものだった。


「どうかした?」

 娘を寝かしつけて寝室に戻ってきた妻は、めずらしく早い時間にわたしが布団に入っているのを見てそう尋ねた。もしかしたらわたしの様子が相当におかしく見えたのかもしれない。

「いやなんでもない」

 わたしは自分に起こっている事態については話さなかった。まず自分自身の中で整理をつけたかった。それに記憶の混乱は一過性のもので、すぐに元に戻るのではないかという漠然とした期待もあった。さらにいえばこの事態を楽しむような気分もまだ少しはあったのだ。あまりに雪に囚われて、このような状況に陥っている自分がおかしかった。


 記憶の消失は、現実世界に降り積もる雪の速度で進行した。

 年が明けるころになると雪囲いの外の雪壁は、はるかに人の背丈を超えるほどになっていた。

 初めは日常の風景の中だけに止まっていた雪の異変は、そのころになるとわたしの記憶の中で範囲を拡げ、村の景色だけでなく、東京のビルや宮崎の大学のキャンパス、そして生まれ故郷の島までをも覆い尽くすようになっていた。そして一度雪に覆われてしまうと、そこにあった風景は二度と記憶の中に甦ることはなかった。

 原稿を書く上ではいまだ問題は起きていなかった。それは雪に覆われる記憶が、実際に自分の目で見た現実の風景に限られているためだった。写真や映画、テレビなどで蓄えられた記憶のライブラリは無事だった。それは自分で考えた空想でも同じで、描写しているその世界がフィクションである限り、言葉を綴るのに支障はなかった。

 しかし雪の降る範囲は拡大を続けた。目の届く範囲は見通せたものが、今では半径十メートルほどにまで縮小していた。その外側にはしんしんと雪が降り、その幻想の白いフィールドはなおも中心にいるわたしにむかって静かにその歩みを進める気配だった。


 この期に及んでわたしはまだ、このことを誰にも相談せずにいた。自分は奇妙な記憶障害に侵されている。さすがに楽しむ気持ちなどは消え、不安や恐怖は徐々に募ってきた。ただ、自体が深刻さを増せば増すほど、今度は家族に自分のことで心配をかけたくないという気持ちが高まり、簡単には言い出せなくなっていたのだ。群れに病気や怪我などで自分の体調がおかしいことを覚らせてはいけない。知られるのは恥ずかしいことだ。群れを生きる哺乳類であればみなが持っているような、そんな動物的な古い感情がわたしを強固に従わせていた。


 記憶の消失は拡大する。

 一週間前は十メートルだったものが、今は半径三メートルほどを残すだけで、それ以外、わたしの周りはすべて雪に包まれた。こうなってしまうと円筒状に残されたわたしのいる空間がかえって何かの特異点のようだった。世界の条理に抗うもの。間違っているのはわたしの存在のほうなのか。そんな疑念が湧き上がってくる。もちろんそんなわけはない。わたしは必死に耐えていた。

 だが雪は、ついに実際には行ったことのないイメージにまで及んだ。ドキュメンタリで観たであろうブラジルの熱帯雨林や、好きな映画に出てくるアメリカの田舎の町並みまでもがやわらかなそれに覆われた。映画の内容を思い出そうとしても、そこには真っ白な雪原が広がるばかりで、好きという思いのみが中空を彷徨った。

 そしてそれはわたしの頭の中にしかない、架空の世界にもとうとう姿を現した。原稿の中の国、街、荒野。

 こうなってしまうともう仕事も出来なかった。一切の情景を頭に思い浮かべることが出来ない。登場人物たちは白一色の世界で立ち往生した。


 その夜、わたしはついに覚悟を決め、この身に起きている怪異を妻に打ち明けた。

 こんなことになってしまって申し訳ない。これでは仕事もできないし、世話になって迷惑をかけるばかりだ。そんな気持ちで、わたしは言葉を連ねた。

 黙って聞いていた妻が口を開いた。

「──雪が降る、っていうのはそういうことなのよ」

 妻は娘の寝顔を眺めながら、こともなげに言った。

「べつにおかしなことじゃないわ」

 今度はわたしが黙した。

「そうね。あなたは南国育ちだから知らないかもしれないけど。少なくともこの村ではみんなそう」

 妻は振り向くと、小さな子供を見るような眼差しでわたしを見つめる。

「だいじょうぶ。雪が降り始めてしまえばもう余所に出ることもないし、その場のことはその場でわかるし。それに」

 妻は優しく微笑んだ。

「春になれば、雪はとけるわ」


 そんな……。と、布団の中でわたしは小さく呟いていた。横で妻は寝息を立てている。

 そんなことがあるのだろうか。妻はどれだけ本気なのか。「あなたは南国育ちだから」そんな言葉がとても真実を伝えていえるとは思えない。

 しかしもし本当にここではそんなことがあるのだとしたら、妻の、そして義父母を始めとする村の人たちの鷹揚さを理解できる気がした。ここに越して来てから半年余りの間に出会ったこの土地の人びとは、誰もが本当に大らかでこだわりのない性格だった。


 翌朝、外は吹雪だった。

 そして記憶の中も吹雪いていた。そのせいで場所だけでなく、人の顔まで思い出せなくなっていた。昨夜見たばかりの妻やあんなに可愛いと思っていた娘の顔まで、猛烈な吹雪が隠してしまっていた。

 強い不安に襲われ、わたしは娘の顔を見に行くことにした。

 障子を開けて、寝室を出るとそこは縁側だった。縁側を渡るとそこだけが洋室造りの居間があった。居間を抜けると土間と囲炉裏があり、その向うの襖を開けるとそこに娘がいるはずだった。途中戸を開けるたびに新しい景色が広がり、その戸を閉めると、今いた場所はたちまち失われた。

 襖を開けるとはたして娘がいた。小さな布団で眠っている。寝顔をのぞくと、それは確かに娘の顔だった。赤みを帯びた頬。一重でも大きな瞳。妻に似た口元。そう、これが娘だ。目の前で見れば当たり前のことだった。今の今まで忘れていたというのが不思議だった。

「どうしたの?」

 声がした。妻の声だった。そして部屋に入って来た女は妻だった。

「顔を忘れ始めている」

「だいじょうぶよ」

「ほんとうに?」

「……」

「こんなおかしなことが起こっているのに。本当に大丈夫なのか?」

「──だいじょうぶ。春になれば、すべて良くなるわ」


 トイレの中に雪の気配はなかった。雪の降る範囲よりはまだトイレの個室のほうが狭かった。トイレでわたしは考える。

 はたしてここを、この村を出るべきか。

 しかし妻と娘を置いて?

 それは考えられなかった。妻があんなに強く望んだことを容易く覆せるとも思えなかった。妻は娘とともにここに残るだろう。

 わたしは自分の意思だけを押し通して、何かを選択できる状況にはなかった。もはやこの奇妙な現象に諾諾と身を任せるしかなかった。


 腹を決めてしまえば、それはなかなかに快適な生活に違いなかった。

 何も出来ないことが分かっているから焦る気持ちも湧いてこない。仕事のスケジュールは先延ばしにしてもらった。現在進行中の連載を抱えているわけではないので、頼んでみると簡単に調整がついた。わたしたちは子育てをしながら、冬籠りの熊のように静かな日々を送った。妻がここで子供を産みたがった理由が何となしに知れてくるような時間だった。存在しているのは「今」だけ。今この空間だけ。今この時間だけ。今ここに一緒にいる家族だけが世界に存在している。未来のことも過去のことにもわたしは一切頓着しなくなった。そんなことを気にするのは無駄なことだった。頭の中に蓄えられた記憶こそが時間を作り出していたのだから。

 義父母たちの中にも同じように雪が降っているはずなのに、実際に傍目から見る限りは全く変った様子は見えなかった。夏を過ごしているときの彼らと同じ調子、同じ穏やかさで暮しを営んでいた。二人とも村育ちでこれが彼らには冬というものの日常の風景なのだ。

 深い雪に鎖された家は、出入りする人の姿も滅多に見えず、音もなく今を重ねていた。

 集落の外からの通行可能な道路もほとんどなくなり、そもそも村自体が眠るように孤立しているのだ。


 そして数週間が過ぎた。


 わたしは走っていた。夜の雪原を。走る。といっても実際には歩くほどの速さだ。新雪に腰まで埋まり、自分の意識と身体とのずれは一向に修正が利かない。

 夜中に目が覚めて、突然極度な恐怖に襲われた。今までに経験したことのないほどの、底知れぬ不安だった。間違っている。間違っている。間違っている。恐ろしい錯誤に急に気づいてしまった。具体的にそれが何かは分からない。ただそういう感覚だけがあった。いいわけがない。いいわけがない。気がつくと走っていた。家を飛び出していた。

 手足が痺れた。パジャマの上からコートを羽織っただけだった。ふいに風が強く吹いた。雪が舞い上がり地吹雪となって、世界のすべてを覆い隠した。



      その三


 意識が戻るとわたしは布団に寝かされていた。辺りを見回すと寝室ではなくどうやら客間のようだった。

 廊下との仕切り戸が開いていて、廊下の上部にある明り窓から月が見えた。めずらしく雪は止んでいた。

 わたしはすぐにいつもに比べて記憶が戻ってきていることに気づいた。いつもは会っている時だけ思い出し、目の前から去ると忘れてしまう妻の顔も今は脳裡に思い浮かべることが出来る。記憶の中の雪の版図は後退し、幾らか見通しが利くようになっていた。

 ──雪が止んでいるせいか

 廊下を誰かがやって来る足音がする。あれは妻の歩き方だ。

「目がさめたのね」

 仕切り戸の向うに妻の姿が現れる。人の顔かたちやそのまとうイメージをあらかじめ知りながら、誰かを迎えるという感覚は久しぶりだった。過去の記憶が現在を渡って未来に繋がっている感じ。時間が流れている。

「おれはどうしたのかな」

「けさ、雪の中で倒れていたのを父さんが見つけておぶって帰って来たわ」

 妻はわたしの視線を追ってその先の月を見上げる。

「もう夜ね」

 半月だった。


 しばらくそうして月を見ているとやがて妻がぽつりと言った。

「呪いなのよ」

 それは告白だった。

 わたしは妻の顔を見た。

「記憶のことよ。これは呪いなのよ」

 彼女はわたしの傍に寄り添うと、再び月に向き直った。

「昔、わたしたちは雪女を殺したの」

 そうして妻は話し始める。烏頭女の村の話を。


「寺の縁起に書かれている、それによるとこの村が出来たのは今から五百年ほど前のこと。西国から人がやって来て最初の集落が拓かれた。そしてそれが起こったのはそれから間もなくのことよ」

「雪女を殺したのかい」

「そうよ。殺した。

 ──そのころまだ十戸ほどしかない村のいちばんはずれに、八人の男ばかりの兄弟が住んでいたの。その冬は大雪だった。人びとがここに住むようになってからこれほど降るのは初めてのことだったわ。ろくな準備もしないまま冬はいきなり始まってしまったの。彼らはそんな年に食べ物がなくて困っていた。親のいない彼らは若い男らしく自由勝手で、普段から乱暴で村の決まりには従わなかった。それで村の人は兄弟を疎んじて誰も彼らを助けようとしない。彼らのほうから頼みに行けば違ったかもしれないけれど、彼らもそんなことはしなかった。村の決まりを無視している分、借りを作りたくなかったの。でも本当に食べ物はなくてもうどうにもならなくなっていた。八人はどこかの家に押し入ろうかとそんな相談をしていたわ。

 そんなある夜。吹雪の中の兄弟の家をひとりの女が訪れた。女はこう云ったの。

 ──母が先日死んだので、櫛を持たせてやらねばなりません

 まだ若い、十四五の娘だったわ。もちろんそれは見かけだけで実際の歳なんて分からないけど。でもまあ若くて美しい娘だった。八人はどこの家の娘だろうと思った。でも村にはそんな娘はいない」

「それが雪女?」

「そう。兄弟たちは自分の母親の形見の品を持たせてやった。そうしたら次の夜、その日も吹雪だったのだけど女は礼だといって一羽の兎を置いていった。兄弟たちは心底ありがたいと思ったの。

 その後もたびたび女は野草や兎などの獣の肉を持って来るようになったの。いつもいつも吹雪とともに女は現れた。けれど女の運んでくる食べ物では八人の男たちを満足させるには到底足らなかった。だから男たちは女に、もっとたくさんの食べ物を持って来るようにと要求をするようになったの。

 そしてしばらく吹雪かない日が続いた。思い通りにならない天気に兄弟たちは気が立っていたわ。久しぶりに訪れた女がわずかな食べ物しか持って来なかったのを見て、ついに兄弟のうちの一人が女に手をかけたの。一度火がついた暴力は歯止めがきかず、八人の兄弟は女をなぶってもてあそんで殺したの。その瞬間は楽しかった。腹がへっていることなんて忘れたわ。

 でもそんなことをしたって結局飢えはおさまらない。何日かして兄弟は我慢の限界を超え、そして外に放り出したままかたく凍りついていたその女を、食べたのよ」

「……」

「その晩、八人は夢をみたわ。食べた肉が腹の中で語る夢を。女の肉が恨みごとをいう。あれだけ世話してやったのに。良くしてやったのにと。わたしのことは絶対に忘れさせない。おまえたちに自分の罪を忘れることを絶対に許さない」


 にわかには信じられないような話だった。しかし妻は嘘を言っているわけではなかった。それは分かるのだ。

「まるで自分が殺したように話すね」

 わたしは話を聞き終えるとそういった。

「わたしが殺したのよ」

 妻は真剣にわたしを見つめて言う。

「これは本当にあったことなの」

 囁くように、妻は大切なことほど調子を落として小さな声で言うのだ。

「村の全員、あの兄弟の子孫であるわたしたちは、今でも自分が雪女を殺したときの記憶を憶えているわ。呪いは続いているの。雪女は呪いをかけた。それは自分を殺したことを、己が裏切り者の罪人だということをぜったいに忘れさせないこと。それは記憶の共有という方法によって果たされているの。冬の間に記憶は統合され、春になればみんなが同じ記憶を持つようになる。それを毎年繰り返しているの」

 ──だからあなたの記憶の混乱の原因はそれよ

 揺らぐことなくわたしを見つめる妻の瞳から、そんな言葉が響いてくる。

「ひと冬をここで過ごせばみんな家族よ。あなたとわたしや娘のこともみんなに知ってもらえる。なにしろわたしも十年ぶりの冬だから」

 もし本当にそうだとしたら、おそらくその雪女の呪いは呪縛だけでなく恩恵をも村にもたらしてきただろう。

「大丈夫。春になれば雪が解けて記憶も再生されるわ。村の人すべての経験が共有されてね。雪女を殺した記憶がこの村のすべてのわたしたちを強く結び付けているのよ」

 何をするにも不便なこの地で、村は五百年も続いている。


「わたしたちは、ほんとうの家族になるの」

 つかの間照った月はすでに隠れていた。雪の降りしきる、音のない音が響いていた。

 ふたたび記憶の中で雪は勢いを増している。

 ああ。いずれにせよ、わたしにはもう引き返す術は残されていないのだ。

 世界のすべてに雪が降る。

 わたしの中に雪が降る。

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雪が降る 綿引つぐみ @nami

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