エピローグ
「なにこれ、可愛い!
GW。この春から通い始めた中学の寮から帰宅した朋香は、部屋に入るなりつかまり立ちしている幼児のもとへと駆けよった。
「もう歩き始めてるの? 早くない? この子天才?」
「まだ歩けないよ。何かに捕まると立ち上がれるようになったのも先週から……朋香、帰るなりいきなり好巳か?」
「はいはい。ただいま、お父さん。……お母さんは?」
「丁度買い物にでてる。朋香が帰ってくるから、今晩はご馳走だとさ」
そう答えながら、圭人は目を細めて、愛娘である好巳を抱き上げる朋香を見つめた。
二年前、すったもんだの末にまとまった圭人と麻衣は、結局一年後に籍を入れた。
自分たちの様々な主義主張はともかく、それを好巳に押しつけるつもりは、二人ともなかったからだ。そして同時に、朋香も正式に圭人たちの養女となった。
『好巳の前で、おじさんとか呼べないじゃない』
そう言って、朋香が自分から娘になると言いだした時、圭人は不思議と嬉しかった。籍を入れ正式に養女とすることに、もう不安はなかった。
そしてそんな圭人たちの家庭の変化を、未だに交流の続いている唯一の親族、義母の田波は実の子供の慶事のように喜んでくれた。
「お母さんは、好巳のこと相変わらず?」
「ああ。というか掴まり立ちをはじめたら、朋香がいた頃以上に溺愛してるよ」
圭人は笑った。それは事実だった。
おそらく子供を望み、身勝手な将来像を思い描いている女性より、人生に育児の予定などなかった女性の方が、妙な思い入れが先行しない分、純粋に子供と向きあえるのだろう。出産直前こそ軽いパニックに陥ったものの、麻衣は子育てに積極的で、本人が考える以上に見事に育児をこなしていた。
「よかった。……まだ入学して一ヶ月なのに、無理にでも帰ってこい、なんてメールが来たから、なにか問題が起きたのかと心配しちゃった」
朋香の選んだ中学は、関東からの日帰りは難しかった。GWくらいでは、帰省しない生徒が大半らしい。
「そっちは心配いらないよ、もう。……そうだ、聞いたぞ」「え、なにを?」
「麻衣と二人で、よりにもよって岸本さんと江藤さんを引き合わせていたんだって?」
「ん、一体なんの……ああ、沙耶子さんにお母さんお勧めの男性を紹介した件?」
見合いが破談した後、圭人は沙耶子と一切関わっていないが、朋香は違った。また沙耶子は変わらず、朋香のよき相談相手であり続けた。最初は麻衣が母親として軽く嫉妬したほどに。
だが、朋香を介して次第に沙耶子の人柄を理解した麻衣は、やがて『だけこん』でも異彩を放っていた東大卒の弁護士、岸本との仲を朋香と共に取り持っていた。
「え? あの話ってまだ生きてたの!? だって紹介したの、好巳が生まれる前だよ?」
一年も以前の出来事を蒸し返され、朋香は驚いた。その前に、圭人が封筒を差しだす。
「ほら、招待状が届いてるぞ。朋香の分も。結婚式の」
「……うわぁ、マジだ。沙耶子さん、プータロー相手によく腹くくったなぁ」
「お前なぁ。岸本さんは癖は強いが頼りになるいい人だぞ。よく知りもしないで言うな」
「お母さんもそう評価してたけどね。あたしはゴメンだなぁ、ああいう駄目人間」
朋香はブルッと身を震わせると、それでも、この日は絶対に帰ってこなきゃ、と嬉しそうに封筒をカバンにしまいこむ。
結論が出るまでに一年以上かかった、ということは、彼らの間にもさぞや紆余曲折があったに違いない。しかし、旧知の二人が結ばれるのは、圭人にとっても嬉しかった。
「じゃ、帰省しろっていうのはこの件? でも結婚式の招待状なら郵送してくれたって」
「違うよ。話は麻衣が帰ってきてから……お、戻ったな」
圭人が答えるのとほぼ同時に、玄関の開く音がする。すぐに、麻衣は二人の元に現れた。
「お帰り、朋香ちゃん。どう、寮生活は順調? 元気にしてる? 嫌になったらすぐに帰ってきていいからね」「ただいま、お母さん。好巳やっぱり可愛いね!」
「……まったく話がかみ合ってないだろ」
呆れる圭人の前で、二人は嬉しそうに抱き合う。その様子は仲むつまじい母娘以外のなにものでもなかった。
「でも好巳、本当に可愛いでしょ」「学校は結構たのしいよ。日頃からみんないろんな国の言葉で雑談してて、とっても新鮮。英語なんかすぐ忘れそう」
互いの好き勝手な、けれど微妙に一致した近況報告が済むと、やおら麻衣は宣言した。
「実はね、この可愛い好巳ちゃんに、もうすぐ新たな兄弟ができるの!」
好巳を抱いた麻衣が嬉しそうに宣言すると、ふーん、と朋香が相づちをうつ。
「そうなんだ。よかったね。……お父さん。もしかして、話ってこれ?」
「ああ。そうだ」
振り向いた朋香に、圭人は頷いた。
「そうだよね。もう一人くらい産んでも全然不思議じゃないし……でも、おじさんって結構むっつりだったんだ。いくら麻衣さんが美人でも、ちょっと二人目が早くない?」
「むっつりじゃねーよ! 大人をからかうな!」
憤慨する圭人の隣で、麻衣が微かに頬を染める。
「それに、単に麻衣に二人目が、ってだけなら、わざわざ帰ってこいなんて言わないさ」
だが、圭人が真面目な顔で告げると、朋香の態度が改まった。
「じゃ、他に一体なにがあるの? まさか」
「朋香ちゃん。落ちついて聞いてね」
姿勢を正した朋香に、麻衣が変わらぬ口調で、優しく告げる。
「今度、この子にできるのは、弟じゃなくて、お兄ちゃんの予定なの」
「え? ……どういうこと?」
「詳しい経緯の説明は省くが……俺と麻衣の旧知の知り合いでな、渡久地さん、っていう途上国で医療支援に関わっている女性が居るんだ。その彼女からこの前、久しぶりに連絡があって……」
圭人は邦香に、端的に、だが隠し立てすることなく、事情を全て説明した。
「そういうわけで、結論としては、彼女が面倒をみている戦災孤児を一人、うちの子として養うことにした」
「ふーん。まぁいいんじゃない」
真剣な、少し緊張気味な圭人に、朋香はわざと気楽そうに問いかえす。
「だけど、こうして自分の娘が出来たのに、お父さんちっとも変わらないねぇ。……あたしを引きうけた時と目つきが同じ。きっとまた一からの苦労が待ってるのに、実はワクワクしてるでしょ」
「やっぱり判るか?」
圭人は苦笑した。
同居を始めた当初から、総じて手のかからない子供だった朋香だが、それでも、圭人との衝突はゼロではない。むしろ、回数が少なかった分、一度ぶつかると激しかった。
今度の子供も、最初から自分たちに懐いてくれるだろう、なんて都合のいい予想はしていない。
「どんな子か判ってるの?」
「ええ。とっても面白い子よ。わたし達が新婚旅行で彼女を訪ねた時、随分お世話になった子なの。……その時はまだ孤児じゃなかったけど」
「だから単に、孤児を引きうける、って訳じゃないんだ。新婚旅行以外でも、その子とは妙な縁が幾つかあってな。なんとなく、ウチに来るのが自然かな、って感じたんだ」
圭人はそれから、真剣な表情で朋香を見つめた。
「もっとも、まだむこうには正式に返事をしていない。つまり朋香が嫌なら考え直す。だから」
「それなら、あたしは別に反対はしないよ。……良い子、じゃなくて面白い子、なのも楽しみだし。ひょっとしてイケメン?」
「まだ五歳……今度六歳か。でも苦労しているからかな、歳の割には随分賢いよ」
容姿についての質問は流してから、圭人はふと、思いだしたかのように付け加えた。
「そうだ。昔、おまえが企んでいた計画は、その子にしっかりした判断力がつくまで控えろよ」
「えっ? ……や、やだなぁお父さん。よく覚えてたね。あんなのただの冗談だって」
「だったら何故、真っ先にイケメンかどうか知りたがるんだよ」
圭人の指摘に、朋香は焦ったような愛想笑いを浮かべる。その様子を、話の理解できない麻衣が不思議そうに眺めていた。
「とにかく、呼び戻した理由はこの件について相談がしたかったからだ。まぁ、朋香は反対しないだろうとは思っていたが……快く受け入れてくれて嬉しいよ」
「そりゃ、拒める立場じゃないもの。自分だって同じ……それより、話が終わったなら今日のお夕飯はなに、お母さん」
肝心の話は済んだ、とばかりに朋香はまたくつろいだ態度に戻ると、麻衣から好巳を預かりながら訊ねる。
「三日間は居られるんでしょ。だからいろいろと買ってきたわよ。今夜はなにがいい?」
「もちろん肉! 野菜はいいから、とにかく肉! できれば鶏以外で!」
麻衣の問いに、朋香は欲望丸出しで答えた。育ち盛りの学生ばかりの寮の食堂ではいつも争奪戦だ。それに寮生の宗教事情を考慮してか、鶏肉が圧倒的に多い。
……こいつはまだ当分、色気より食い気、か。
圭人はその姿を眺めながら、内心、ホッと安堵した。
以前、何かと圭人に抱きついていた朋香が、今日、帰宅してからはまだ一度も触れてきていない。制服姿には明らかに小学生の頃にはないメリハリがあったし、つまりはそういう時期になったのだ。
沙耶子さんの心配は、的外れじゃなかったんだな。
その慧眼に敬意を抱きつつ、いずれ、誰かを連れて帰ってくる日への心構えが必要なんだろうが、食い気が優先しているうちは大丈夫だろう、と自分に言い聞かせる。
「はいはい。じゃ、今夜はまずすき焼きね」「やったぁ!」
昭和の子供のように喜ぶ朋香を笑いながら、麻衣は台所へと去っていく。
「それじゃ、食事の準備ができるまでに、朋香の部屋を用意しておくから。好巳の面倒はよろしくな」
「はーい。……でも、そうかぁ」
そうして、
「本当に、お父さん念願の、血の繋がらない男の子がやってくるんだ」
リビングを出ていく圭人を見送りながら、制服姿のまま、朋香は一人、小さく呟いた。
「だったら、養子に入るのはちょっと早まったかなぁ。その子がいればわたしも……でも、きっと好巳も大きくなったらわたしと似たようなこと考えて」
抱き上げた好巳の頬を、小指の先で軽くつつく。
「しかも年下だし……この可愛さは、かなり強敵になるだろうなぁ」
だけこん 早狩武志 @hayakari
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