第9話
「それじゃ、朋香ちゃんは五年生になっても元気に学校に通っているんですね」
「クラス替えで、仲の良い子と離れずに済んだらしい。よかったよ」
四月の半ば。花見シーズンも終わって、GW前のつかの間の一時。
「それにしても、想像以上に盛大なパーティだったな」
『だけこん』メンバー有志による水沼と佐伯の結婚祝賀パーティはホテルのバンケットを借り切って華やかに執り行われた。
当初は、いつものコーヒーショップで地味にお茶会を、という話だったが、いつの間にか計画が膨らみ、結果的には本番の披露宴よりも大がかりな饗宴となっていた。
「康本さんも幹事、お疲れ様」「わたしはなにもしていませんけどね」
圭人に労われ、麻衣は苦笑した。
「途中からはもう、完全に岸田さんの仕切りで……こんなに沢山、OBの方がお見えになるとは思っても見ませんでした」
「凄かったね。俺にも、半分以上顔が判らなかった」
「水沼さんたちと、直接の面識がない方も多かったようです。でも、皆さん嬉しそうにお二人を祝福して……やっぱり連帯感ですかね。『だけこん』の」
「全員、婚活の苦労を身にしみて味わっている人たちだからな。もっとも、後半には単なるOB会のノリになってたけど」
圭人はその様子を思いだして笑った。
岸田の顔の広さは誰もが予想した以上だった。驚くほどのOBが、会場にはおしかけた。苦労の末に結ばれた伴侶を伴っての参加者も多かった。
そしてその場では、当然ながら昔話に花が咲いた。
「なんだ、それじゃ最近は、単なる情報交換と交流の場なの?」
五十代の世話役の男性と共に、『だけこん』創成期のメンバーらしい女性は、水沼たちの馴れ初めを聞いて驚いていた。
「ええ。そうですけど……最初は違ったんですか?」
「もちろんよ。流行りの『街コン』とか『合コン』と同じノリでわたしが名づけたんだもの。『だけコン』って」
初期の『だけこん』は、その名のとおり一筋縄ではいかない結婚願望を持つ男女を対象とした、あくまで出会いの場だったらしい。
けれど、その条件で集まるのは必然的に個性的な変わり者ばかりだ。そして都合良く互いの条件が一致する例は限られている。結果、代替わりが進むにつれ、次第に、出会いの場から同じ悩みを持つ者の交流の場へと変わっていった。
「それじゃ、水沼さんたちが結ばれたのは、むしろ設立の主旨に沿う結果なんですね」
「そうよ。あなたもしっかり頑張りなさい。最近の男性メンバーは洒落た良い男ばかりじゃない。誰か眼鏡に適う相手はいなかったの? わたしの頃は、服装に無頓着で冴えない外見の野郎ばっかりだったのに」
そんな台詞と共に勢いよく背中を叩かれ、麻衣は噎せた。
答えに詰まったまま、曖昧に笑うと、逃げるようにその場を立ち去る。その後ろ姿を眺めながら女性は軽く手を振った。
まるで、何かを察したかのように。
「でも、康本さんとこうして会えてよかったよ」
華やかなパーティが終わり、現役は二次会へと流れ、OBは三々五々に散っていった。
佐伯たちの結婚の触発され、今夜の二次会は出会いの場としてかなり盛りあがるだろう。圭人はだが、その誘いを断っていた。
いまさら、新たな出会いは必要ない。むしろ他に優先すべき事があった。
「宇渡さん、二次会は良かったんですか?」
麻衣は圭人にたずねた。その口調はやや素っ気なかった。
「まあね。どうせ康本さんは行かないだろろうと予想していたから」
圭人は麻衣との初めて出会った時を思いだしていた。
「でも、逃げ出すのが想像以上に素早かったから、姿を見失った時は焦ったよ」
「わざわざ追いかけてきたんですか? ストーカーですよ、それ」
麻衣は憎まれ口を叩いた。無論、本心から不愉快だったわけではない。
地下鉄の駅までの帰り道。早足で歩きながら、麻衣は一度だけ振り返った。そして姿が見あたらなくて、理不尽に失望した。
だから改札前で声をかけられて……やっぱり、心が動いた。
「そう怒らないでよ。……もっと、静かな店を探せばよかったね」
ギリギリで麻衣を呼び止めた圭人が、そのまま誘ったのは改札横のドリンクスタンドだった。健康的なフルーツジュースを選べるが、風情はまったくない。それに騒々しかった。
仕事帰りの人々が急ぐ地下道の傍らで、立ったまま、並んでストローをくわえる。
立ち飲みのスタンドには入れ替わり立ち替わり、客が現れ、なかなか、ゆっくり話ができそうな雰囲気にはならなかった。
「別に、こういうのも悪くないです。だけど……何故ですか?」
しばらく、黙って流れる人の波を眺めていた麻衣は、やがて圭人に訊ねた。
「朋香ちゃんの状況は気がかりでしたけど、メールで簡単な近況は知ってます。用件がそれだけなら、もう帰りますけど」
「待って。もちろん、話があるから追いかけてきたんだよ」
圭人は、一息にジュースを飲み干して立ち去ろうとする麻衣を、慌てて止めた。
「俺は」
そして、何かを告げようとする。
だが、
……ヤダ。
麻衣は圭人と向かいあったまま、決定的な一言を聞くのが怖くて……だから、先手をうって、深々と頭を下げた。
「そうですか。でしたら……宇渡様も、ご成婚、おめでとうございます」
「バカヤロウ!」
ホテルのラウンジにあるカフェに、場違いな怒号が響く。
圭人は立ちあがり、深々と頭を下げた。
「貴様、わしの娘になんの不満がある! 沙耶子がわしになんと」
「不満など一切ございません。ただ、自分にはあまりにも過ぎたお嬢様かと」
「そんな通り一遍の」「お父様!」
腰を浮かせ、なおも圭人を怒鳴りつけようとする父親を、沙耶子は静かな、だが鋭い声で一喝した。
「まだ宇渡様のお話の途中です。余計な口を挟まず、黙って座っていてください」
「しかし、おまえ」「宇渡様はわたくしのお相手です。お父様のではありません」
その気迫に気圧されたのか、渋々と引き下がる父親を横目に、沙耶子は冷静に圭人に話の続きを促した。
「それでは、宇渡様のご意向としては、今回はご縁が無かったことにしていただきたい、と。それでよろしいのですね」
「はい。……自分には過ぎた女性、というのは決してお世辞や口実ではありません。事実、沙耶子さんに不満はありません。おそらく俺は、沙耶子さんと結婚したらとても幸せになれると思います。朋香もです」
「宇渡様のお言葉を疑ってはいません。けれど、でしたら何故ですの?」
「だって、自分が幸せになるために結婚するなんて、人生がつまらないでしょう?」
圭人は顔をあげ、一途に見つめてくる沙耶子に微笑みかけた。
父親が呆気にとられる横で、沙耶子は一瞬だけ、その笑顔に見とれた。
「そんなの、単なる動物的な打算じゃないですか。それでは沙耶子さんに失礼だ」
「……動物的、というのはつまりもっとも生き物として自然な感情では?」
沙耶子は問いかえしながら、大きく一度、息を吸った。
それをゆっくりと吐き出しながら、数秒、瞼を閉じる。
そして再び目を開くと、穏やかに笑んだ。
「けれど、宇渡様のご結論は承知いたしました。一方が望むだけで、幸せな家庭は成立いたしませんものね。残念ですが、確かにご縁がなかったようですからわたくしも諦めることにいたします」
「恐縮です。断っておいてなんですが、自分も、とても残念です」
圭人は立ちあがり、もう一度、大きく一礼した。
沙耶子も目礼する。所長は、もうなにも言わず、ただ不愉快そうに鼻を鳴らしただけだった。
主な話が済むと、沙耶子に促され、所長は立ちあがった。
「……辞表、用意してきたのですが」
圭人がおずおずと申し出ると、所長は冷たく圭人を一瞥した。
「いい加減にしろ。いくら娘が可愛くても、公私混同するほど親馬鹿じゃない。僅かなりとも申し訳ないと感じているなら、さっさと成果をあげろ」
「承知いたしました。……ありがとうございます」
礼を告げる圭人には目もくれず、所長は無言で去っていった。
父親が去ると、沙耶子は僅かに姿勢を崩し、改めて圭人へと向き直った。
「でも、多少の期間であれ、親しく接させていただいた者として、どうせなら最後に宇渡様の本心をお聞かせ願いたいですわ」
さきほどまでとは異なった口調で、茶目っ気たっぷりにたずねる。
「過ぎた女性だ、などと決まり文句を仰っていただくより……つまりは、わたくしより気に入ったお相手と巡り会った。そうでいらっしゃいますよね?」
一見、冗談めかした軽い態度だったが、その気迫に思わず圭人は身震いした。
この人には、全てを隠さず語るのが、せめてもの誠意か。
「ええ、まぁ。……結婚はないと思いますけど、想う相手はいます」
「あら、なぜ結婚はできませんの?」
「そういう形を、恐らく望んではいないので」
圭人は笑った。
「おそらく俺と同じに不器用で、子供で、困った
「……幸せにしてみたい、ですか」
圭人の笑顔をしばらく見つめたあと、沙耶子はポツリと呟いた。
「それでは本当に……そうなのですね」
そして沙耶子は、空になっていたコーヒーのお代わりを二人分、通りすがりのウェイターに頼むと、勢いよく息を一つついた。
本心を語った圭人の一言に、ようやく沙耶子の中で、何か決着がついたらしい。
「でしたら、今度こそ潔く諦めなければなりませんね。わたくしもそうだったのですから。……ねぇ、これまで見合いを断り続けてきたわたくしが、どうして宇渡様を選んだか、わかりますか?」
「いえ、まったく」
「これまで、何人もの方とお見合いして……皆様とても素晴らしい、人として尊敬できる方ばかりでしたわ。少なくとも、わたくしの前では……経済的な条件にも恵まれていましたし」
それは、圭人がまだ一度も見たことのなかった沙耶子の口調と態度だった。
つまり、本当の素の沙耶子だった。
「けれど、皆様、お見合いの最後には必ず決まってこう仰いました。君を幸せにする、と」
語りながら、沙耶子は、テーブルにのせた白くて細い手を強く握りしめる。
「果たして、それはいったい、どのような意味なのでしょう。わたくしは、そんなにもつらない、ちっぽけな人間ですか? 誰かに幸せにしてもらわなければならないほど、無力で愚かですか? 子供なのですか?」
沙耶子の問いかけに、圭人は無言で、小さく首を横に振った。
「自分が優れた人間だなどと自惚れては居ません。でも、己一人、幸せにするくらいならわたくしの力でもどうにかなります。それを……一方的に、幸せにする、だなんて。無礼じゃないですか。余計なお世話です」
そう悔しそうに呟く沙耶子に、圭人は心底、美しいな、と見とれた。
もし、今の姿をもっと以前に目の当たりにしていたら、結論は変わっていたかもしれない。そう感じるほどだった。
「つまり宇渡様だけだったんです。わたくしに向かって、一度もそう仰らなかったのは。だから……もしかしたら、これが初恋だったのかもしれません」
沙耶子は可愛らしく肩をすくめた。
「だって、男の方に心底対等に扱っていただいたのは生まれて初めてだったんですもの。わたくしに気配りするより先に、自分の娘の心配をして。あげくはその面倒まで見させて。……まったく、自分でも呆れるほど奥手ですけど」
「そうですか。せめて、自分と一緒に幸せになろう、と申し出る男の一人もいませんでしたか」
「居ません。ゼロです。女性に対する心根がまったくなっていません」
「そりゃ、確かに断り続けるしかないですね」
圭人と沙耶子は、互いに顔を見合わせて笑った。
沙耶子さんは、めったに巡り会えないほどの良縁だ。だからこそ、みんな余計に意気込んで……玉砕続きになった、ってわけか。
これまで見合いを沙耶子が断り続けていた動機、そして自分が認められた訳。知ってみればごく平凡な理由だった。
「ご承知のとおり、俺は最近まで婚活をしていたんですが、以前、その最中にできた知人と議論したテーマがあります」
圭人は沙耶子に訊ねた。
「結局のところ、婚活とは何なのか。自分を幸せにしてくれる人捜しか……それとも、幸せにしたい人捜しか」
「幸せにしたい人捜しです」
沙耶子は即答した。
「少なくともわたくしにとっては。自分の力で、幸せにして差し上げたい方を……それは朋香さんと圭人さん……宇渡様がそうでした」
「ありがとうございます。大変光栄です」
圭人は大きく頭を下げた。
沙耶子は悔しげな、でも微かに嬉しげな、感情の入り交じった複雑な表情を浮かべる。
「でも、宇渡様にとって、わたくしは違うのですね。僭越ながら、お二人まとめて面倒を見られる女性など、自分くらいしか存在しないと、多少自惚れていたのですが」
「残念ながら。……もちろん、彼女に沙耶子さんと同じ真似は期待できないでしょう。でも、どうやら親心と同じで、駄目な子ほど心配で可愛いみたいです」
「その理由、なんか納得がいきません」
「そうですか? てっきりご理解いただけるかと……沙耶子さんが俺を選んでくださった理由も、まったく同じだとばかり予想していたのですが」
「そんな、宇渡様が駄目な子だなんて……でも、そうですね。これまでお見合いした他の方と比べると、確かに……」
困ったように俯く沙耶子を見て、圭人は苦笑いした。ここまで素直に認められると、それはそれで微妙な気分だった。
世間的には、破談と決まった見合い相手と、長々と話などするものではない。頃合いを見計らって、二人はどちらともなく立ちあがった。
「もう、お会いする機会もありませんでしょうが、末永くご壮健にお過ごしください。意中の方との幸せをお祈りいたしております」
「ありがとうございます。沙耶子さんもお元気で。それに、短い間でしたがすっかり朋香がお世話になりました。本当に感謝しています」
「そういえば、朋香さんについては今回の件とは、また別に」
思いだしたように、沙耶子は言葉にしかけて、ふと、口ごもる。
まるで、張りつめていたなにかが、その瞬間にプッツリと切れたかのように。
やがて沙耶子は俯くと、絞りだすような声で、ゆっくりと圭人に告げた。
「もし、今後わたくしの母校への入寮等をお考えでしたら、気兼ねなくご相談を。とても良い子だから、僅かにでも、力に……」
そう口にしたきり、沙耶子の言葉が乱れる。
「重ね重ね、ありがとうございます。その時は、お言葉に甘えさせていただきます」
圭人は、沙耶子の変調に気づかぬ態度で、淡々と礼を述べた。
うつむいた奥から、微かに漏れ聞こえる嗚咽を、ありったけの気力を振り絞って無視する。
「では、本日はこれで、失礼させていただきます」
そして、深々と一礼すると、その場に沙耶子を残したまま、圭人は支払いを済ませ、静かにカフェを立ち去った。
圭人に、これ以上沙耶子に関わる資格はもはや存在しなかった。
「ご成婚、おめでとうございます」
深々と頭を下げた麻衣に、結婚を祝われ、圭人は愕然とした。
「佐伯さんに続けてのおめでたい話、なによりです」
「ちょ、ちょっと待って! 一体誰の? まさか康本さん、もう結婚しちゃったの!?」
「なんでわたしがありもしない自分の結婚を祝うんです。宇渡さんの結婚に決まってるじゃないですか」
何故……どうして、そうなるんだ。
あまりに想定外の話の展開に、頭痛のようなものを感じて、圭人は頭を抱えた。
「お見合い。上手くいったんですよね?」
「……誰から、どこからそんな話を?」
「誰からも。でもお見合いをしたのは知っていましたし……宇渡さんがわざわざわたしに話をする理由なんて、その結果を報告するため、以外にないじゃないですか」
賢いでしょう、とばかりに、麻衣はかすかに潤んだ瞳で、圭人を見あげる。
「だから……おめでとうございます。じゃ、わたしはこれで」
「違うってば! 誤解! それ盛大に勘違い!」
駆けだそうとする麻衣の腕を、圭人は必死に握りしめた。
「見合いはとっくに断ったから! ……俺は、康本さんがいいから!」
……
無我夢中で叫んだ圭人は、一瞬、周囲の時が止まった気がした。
「どうしてもそれを伝えたくて。なのにまったく『だけこん』に来ないし。このタイミングで水沼さんたちが結婚してくれて、本当に助かったよ」
「嘘です。そんなの……冗談ですよ。だって、そんな話があるなら、朋香ちゃんはわたしのメアドを知ってるんだし、いつだって」
「たとえ俺にでも、勝手に知り合いのメアドを漏らすような奴じゃないよ、朋香は。なにより結果がどう転ぶか判らないのに、朋香を巻き込めないだろ」
「でも、わたしは……あり得ませんよ、そんな都合の良い話」
圭人に腕を握りしめられたまま、麻衣は大きく上半身を横に振った。髪が流れる。
「わたしは全然、宇渡さんの求める条件に一致してないじゃないですか」
「前の条件はもうどうでもよくて。……そりゃ、俺にとって一方的に都合のいい話で、申し訳ないけど」
「都合が良いのはわたしにとってです! わたしだって、あれからずっと!」
そう大声で反論しかけて、麻衣はハッと口ごもる。
それから声を潜めて、圭人に訊ねた。
「どうしてです。何故、わたしなんです。……そうか、やっぱり朋香ちゃんが将来の奥さん候補の本命で、それまで何年間かのつなぎだから、見合いをした良家のお嬢さんでは都合が悪くて、余り者のわたしに……」
「なんてそんなネガティブな発想するんだよ。しかも俺はそこまで鬼畜か?」
圭人は呆れた。そして、周囲の目が明らかに自分たちに集まっているのに気づき、麻衣を多少でも自分の身体で隠そうとする。
「妙な想像をしないでくれ。あれから、俺も色々考えて……素直に、康本さんがいいな、って純粋に思ったんだよ」
「でも、わたしは宇渡さんにとって最も大切な条件を満たしていません」
「だからそれはもういいんだってば。俺、確か康本さんには話したよな。幼い頃から血縁のない親子に憧れていた、って」
「はい。それは聞きましたけど」
何故、その話をここで? と不思議そうに見あげる麻衣に、圭人は微笑んだ。
「ようやく気づいたんだ。……妻も、血の繋がらない娘も、結局は似たようなものじゃないか、って」
「……はい?」
どちらも、これまで赤の他人だったのが、家族になる。
そう考えれば、実態にさほど違いはない。
「つまりさ。養女をもう一人増やすのは難しいけど、子供を作らない結婚なら話は簡単そうだから」
「そっ、そんな理由で! わたしはもっと……」
麻衣は再び声を張り上げたが……続く反論の言葉が思い浮かばず、それきり黙りこんだ。
「康本さん」
そうして黙りこんだ麻衣に、子供を諭すかのように、圭人は穏やかな声で語りかけた。
「俺の、子供だけが欲しい、っていう気持ちの底にはさ、自分の親のような人間になりたくない、って願いとか、様々な理由や感情があって……その一つには、平凡な結婚をしたら、そのまま自分は平凡な人生を送るんじゃないか、って恐怖があったんだ。康本さんにも、心当たりない?」
「それは……確かに、少しはあるかもしれません」
黙って自問自答した後、麻衣は、渋々うなずいた。
「わたしは弱い人間なので、もし結婚が幸せだったら、研究を続けず、家庭を大事にする平凡な女性になってしまうんじゃ、という一抹の不安はぬぐえません」
「だよね。でも大丈夫だよ、心配いらないよ。結婚したって、子供がいたって、人生はなにも変わらない。目指すものは必ず目指せる。子育てなんて一瞬だし、特別な人生に、結婚しているか否かは関係ないんだよ。それはある大切な先輩が教えてくれた」
圭人は、見あげる麻衣の、目尻の涙をそっとぬぐった。
「それと、もう一人の困った先輩や、俺の親に対して、母性など存在しなくても立派に家庭は成立すると証明したかったんだけど……そんなつまらない意地を張るのは愚かだ、って気づいたし。この四年間でもう充分証明できた気もするし」
「昔、憧れていたというあの人に対してですか?」
「そうだ、康本さんは会っていたっけ。……うん、朋香の父親を捨ててまで選んだ男の元で、今は穏やかに平凡に暮らしてる。研究からはすっかり足を洗い、趣味で科学を教えているとか。それは決して悪い生活ではないけど、わたしはこれでも科学に貢献しているんだ、って自分に言い訳が必要な人生は淋しいよね」
「そうですね。そんな人をもうこれ以上、意識しない方がいいと思います。……そしてたとえ研究に限らずとも、まだ見ぬ未来にときめく人生を、わたしは送りたいです」
「その通りだ。だから」
圭人は頷くと、麻衣を改めて見つめた。
「よかったら俺と結婚しない? 養子縁組でもいいけど」
「だから、そこから……どうしてそんな結論になるんです! わたしなんです!」
麻衣は再び圭人を問い質した。けれど、その言葉にはもう勢いはなかった。
「宇渡さんには、もっとお似合いの方がいるじゃないですか。お見合い相手、とっても素晴らしい才色兼備の女性だって、朋香ちゃんから聞きましたよ」
「確かに沙耶子さんは素晴らしい人だよ。でも、俺が幸せにしてみたいのは君なんだ」
圭人は無邪気に笑った。
「だって、面白そうで、毎日が刺激的で楽しそうだから」
「……絶対、絶対に後悔しますよ」
「しないね。不器用でどうしようもない娘をもう一人、養子にもらう気分だもの。覚悟はできてるよ」
「そこまでですか!? わたし!」
目を剥く麻衣の頭を、宥めるように圭人が撫でる。
「いや、半分は冗談だけど……幼い頃からずっとさ、普通が嫌だった。平凡な幸せなんてクソ食らえと思ってた。血の繋がらない朋香と暮らして、幼い日に読んだ物語のような、特別な人生に一歩近づけた気分でいた。でも、そんなのは全て幻想だったんだ」
穏やかな、だが真剣な圭人の声に、麻衣は顔を上げた。
「むしろ、甘えだったんだよ、俺の。平凡な幸せには背を背けます、普通の生活なんて望んでいません、だから神様、俺にスペシャルな人生を与えてください……代償を支払えば、報酬が得られる。きっとそんな幼い欲求の象徴が、血縁のない親子願望だったんだ」
「……同じような願望は、多分わたしもどこか抱いていました」
「でも、そんな取引は成立しない……だって平凡な喜びとスペシャルな人生、それは両立するものだから。何も捨てる必要なんてない、ただ手を伸ばして、両方をつかみ取ればいいだけなんだ。幸せの向こう側にあるなにかを見てみたい誰かと、一緒に」
圭人は、そっと麻衣を抱きしめた。もう、通行人の視線になど構っていられなかった。
「ただ、そのためには相手を選ぶ必要がある。……俺は麻衣がいい」
圭人は繰り返した。
「俺は麻衣がいいんだ。どうしても」
「……卑怯ですね」
やがて、
全身を抱きしめられたまま、麻衣は呟いた。
「断れない状況でのプロポーズは、反則です」
「駄目ならはっきりそういってくれ。ちゃんと手を離して開放するから」
「そういう意味じゃありません。……余裕ありげに、わたしが、絶対に断れないと見抜いてからのプロポーズは単に卑怯だといっているんです」
「……本当に、面倒な奴だなぁ。ここは空気を読んで素直にウンと頷いておけよ」
「まさかそんな平凡な女が求められているとは、想像だにしていなかったので」
そして麻衣は、
腕の中で突然、身をよじって背伸びをすると、強引に圭人と微かに唇をあわせた。
「ンッ……」
それが麻衣なりの、返答だった。
「……よかった……」
そうして唇が触れあった、その瞬間、
突然、全身から力が抜け……圭人はそのまま、通路脇に力なく座りこむ。
「えっ? あ、あの……宇渡さん?」
驚いた麻衣は、慌てて飛び退いた。周囲の目も構わず、その隣に膝をつく。
「よかった、本当によかった……マジ、緊張した……っていうかもう……」
しゃがみ込んだまま、何度も同じ言葉を繰り返す圭人を見下ろして、麻衣は微笑んだ。
わたしだけが、話も何も、もう訳がわからなくなって、と思ってたけど……
自分一人が、テンパっていたわけではない、と判明して、ただ胸が熱くなる。
「そうなんだ……宇渡さんも、そうだったんですね」
「余裕なんかあるわけないだろ。一滴も……無茶いうなっての」
圭人は途切れ途切れに呟きながら、ぐったりとした表情で、麻衣を見あげる。
「とにかく、この機会を逃したら、下手すればもう二度と……とにかく、無我夢中で」
「じゃ……よくできました」
圭人の隣にしゃがんだ麻衣は、その顔をそっと胸に抱きしめた。
「ありがとう……とっても嬉しい」
そしてシンプルに、気持ちを伝える。
「わたしもいつの間にか……結婚するなら宇渡さんがいいな、って感じてたから」
「……光栄だよ」
呟くと、圭人はフゥ、と大きく息を一つついた。
やがて、自分たちがどこでどんな姿勢で居るのかに思い当たり、慌てて立ちあがる。
そのまま、地下道の壁に寄りかかったまま、圭人と麻衣は、ただ互いを見つめ合った。なにも語らずとも、二人とも、どうしようもなく頬がにやけてくる。
ただ、指先だけが、互いに微かに触れあっていた。
……
それからどれくらい、時間が経ったのか。二人ともよく判らなくなった頃、麻衣はポツリと呟いた。
「で、これからどうします?」
「……どうする、って?」「当然、さっきの話ですよ」
麻衣に問われ、困ったように圭人は俯いた。
「ゴメン。なんのどんな話だっけ? ……もの凄いテンパってて、無我夢中だったから……自分がなにを喋ったか、正直よく覚えてない」
コツン!
俯いた圭人の後頭部に、麻衣が可愛らしい拳骨を一つ落とす。
「普通……この流れで、なにもかも綺麗さっぱり忘れます?」「いや、もちろんどんな主旨の話をしたかはよく覚えてるけど、ただ細かい内容が」
「どんな条件でも受け入れるから、結婚してくれ、ってわたしに土下座したじゃないですか」
「してねーだろ、土下座は!」
澄まして語る麻衣に、発作的に圭人は突っ込んだ。
そんな圭人を見て、麻衣はクスクスと笑う。
「冗談ですよ。でも……結婚でも養子でも、なんて宇渡さんが提案したのは事実です」
「俺、言った? そんなこと」「口にしましたよ。間違いなく」
麻衣は真顔になると、困ったように首をかしげた。
「そのどちらでも、宇渡さんにとっては似たような関係なのかもしれませんが……わたしから見ると、結構大きく違うんですけど」
「そりゃ俺にだって違うけど、あの時はとにかくまず、気持ちの問題を……どんな形でもいいから自分と一緒に居てほしい、と伝えたくて、そのために」
圭人は困ったように髪をかきあげた。
「そうだ、思いだした。……子供を産んでくれさえすれば後は別れても、なんて昔の俺とは違うんだ、って証明したくて。ただそれだけで」
「それはもう承知してます。でも実際、本心はどっちなのかな、って」
麻衣は探るような視線で、圭人を見た。
「だってその、それでいろいろ、この先の覚悟が違ってくるし」
「……俺が幼い頃に読んだ児童文学、拾われた子供が宿無しの親父と放浪する物語が好きだった、って話は以前にしたよね」
「はい聞きました」
「その話のラストはさ、迫害されながら放浪していた親父が、子供を連れてある家の庭に勝手に入りこむんだ。すると家の中から中年の女性が出てきて、また追い立てられる、って身構えた子供の前で……あら、戻ってきたんだ、お前さん、って親父を招き入れるんだよね」
圭人は麻衣に微笑みかけた。
「つまりその人は奥さんだったんだ、放浪親父の。そして拾われた子供は、二人の家の子として幸せに暮らしました、ってオチで……もの凄く、嬉しかった」
麻衣は黙って腕を伸ばすと、軽く圭人の服の袖を掴む。
その続きに、なにかをせがむかのように。
「だから……康本さんさえ良ければ、俺はやっぱり、結婚がいいな」
「わたし……いま、プロポーズされたと、勘違いしますよ?」「勘違いじゃないから」
控えめに袖を掴んだ麻衣の手を握りなおし、圭人はゆっくりとその身体を引きよせる。
そして、優しく抱きしめ、耳もとでそっと囁く。
「結婚して、三人で、一緒に暮らそう」
「……はい」
麻衣は頷くと、感極まったかのように、圭人の胸元に顔を寄せた。
そのまましばらく、麻衣はじっとしていた。
やがて、浮かんだ涙を、圭人のシャツでぬぐう。
「宇渡さんと……なんだか夢みたい。だって……どうしようもなく、嬉しいです」
「夢じゃないよ。現実だって……俺も感想は同じだけど」
「それに……やっぱり、わたしも結婚がいいです」
圭人に抱きしめられたまま、麻衣は悪戯っぽく呟いた。
「だって、もし養子なら……宇渡さんとああいう真似をしちゃ駄目ですもんね」
「それは、そうか……考えてみたら確かに。じゃ、やっぱり養子はなかったな」
きっぱりと断言してから、露骨すぎたかと、圭人は慌てて言い添える。
「いや、それはもちろん宇渡さんの意思が前提で」「麻衣」
麻衣は、人差し指を伸ばすと、圭人の唇をそっと遮った。
「これからは麻衣、って呼んでください。……お見合い相手は下の名前で呼んでいたくせに」
麻衣は拗ねたように、わたしは朋香ちゃんから沙耶子さんって呼んでるって知らされた時、諦めなきゃって一度は決心したんですから、と抱いていた誤解の源について説明した。
「それに……そういう欲求を抱く相手とでなきゃ、結婚なんてできません」
麻衣の正論に、圭人はただ頷いた。
「ああ、でも子供は」「判ってるって」
続けて口にした麻衣に、圭人はすぐさま反応した。
「三人で、ってさっき言ったろ。俺には康本……麻衣がいれば充分だよ。それで毎日楽しいさ。だから籍みたいな形式は、また別に考えればいいと思ってるし」
「そうですね」
早口で告げた圭人に、麻衣は頷いた。
「きっと充分楽しいと思います。朋香ちゃんと、三人きりでも。それはもう」
それから麻衣は、茶目っ気たっぷりに愛らしく……けれどどこか淋しそうに、小さく肩をすくめた。
「でも最近、圭人の子なら試しに産んでみても面白いかも、なんて感じていたので……それはそれで、ちょっとだけ残念ですけど」
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