第8話


「なぁ、朋香」「なあに、おじさん」

 最寄りの駅ビルには、朋香と暮らし始めて以降、頻繁に利用するようになったファミレスがある。

 有り体にいって、流行っていない店だ。あまり耳にしないマイナーな系列のチェーン店で、料理にさしたる特徴はない。内装もどこか薄汚れたあか抜けない印象だ。

 しかし、だからこそ子供が騒いでも、さほど肩身を狭くする必要がない。つまりまだ幼く、いま以上に活発だった朋香を連れて入るのには適当で、それ以来ズルズルと、二人きりで外食するときはなんとなくこの店を選ぶことが多い。

「やっぱり、妹か弟が欲しいか?」

 三月末、駅前の桜並木を散策したあとに入ったその店で、注意深く圭人はたずねた。

「え? またその話? ……そりゃ、二人きりよりは、もっと家族が居たら楽しいかなぁ、って思うけど。でも冷静に考えてみると、その子が今のあたしの歳になる時、あたしはもう成人式だよね。無邪気に懐いてくれるか、微妙だから。そういう意味ではどうかなぁ」

 そのわりにはずいぶんと、歳の差など関係なしに懐いていたじゃないか。

 つい反論しそうになって、圭人は自重した。それを口にしたら、麻衣についての話題に移らざるをえなくなる。

「でも、おじさんに奥さんは居て欲しいな」

 圭人の内心など知らぬままに、朋香は無邪気に笑う。

「そりゃまたどうして? 欲しいのは妹か弟じゃなかったのか?」

「まさか。そんなのただの口実だよ。わたしみたいな立場の子供が、そう世間にいるわけないんだし。おじさんを結婚させるために決まってるじゃない。あたしの為の結婚なんてあり得ないよ」

 なんだって?

 驚く圭人に、まだ気づいてなかったの? と朋香は呆れる。

「おじさんが結婚しなきゃ、弟も妹もない。そうでしょ」

「確かにそうだけど、ならどうしてそんなに突然、俺を結婚させようと考えたんだ?」

 おもわぬ返事に動揺を隠しきれない圭人は、続けてたずねた。

「家で最近、なにか不満なことがあったか?」

「全然突然じゃないってば。今の生活に不満なんてないよ。……ただ、けっこう前からずっと不思議だったの。おじさんはどうして結婚しないんだろう、って」

 朋香は妙にふて腐れたような、不本意そうな態度でこたえた。

「それなりには格好いいしお金も稼いでいるし、きちんと家事もする。きっと普通の女の人にとっては理想の旦那さんでしょ。それなのに……もし、おじさんが独り身なのはあたしの存在が理由だったらイヤじゃない。自分がおじさんの結婚の邪魔をしてたら……あんまり甘えたらいけないんじゃないか、って」

「なんだ。その話はもう何度もしたよな。余計な心配はいらない、って」

 圭人が少し不機嫌そうに問い質すと、朋香は身をすくめながら、細い声をだした。

「でも、やっぱり気になるよ。あたしはおじさんの子供じゃない。本当は一人で生きていかなきゃいけない立場なのに。だから、もし新しくおじさんの奥さんになる人が望むなら、あたしは家を」

 朋香は一端言葉を切ってから、不安そうに圭人を見あげた。

「それに、今すぐじゃないにしても、いずれはそうなるかもしれないし」

「……なんだって?」

「だって、今はこうして二人で一緒にいれば楽しいけど、将来、あたしはお嫁に行くかもしれないんだよ。そうしたら、おじさんは一人きりになっちゃうじゃない」

 突然、突きつけられた将来像に、圭人は呆気にとられて黙りこんだ。

 朋香が……嫁に行く、か。

「たとえ結婚しなくたって、普通に仕事で海外勤務とかあるかもしれない。そうして、あたしが居なくなってから、新たに奥さんを探すのは大変かなぁ、って。おじさん、禿げる家系かもしれないし。……本当にどうしようもなくなったら、最後はあたしが面倒みてもいいけどさぁ」

「それは……朋香が一人前になって、いい相手と巡りあえたならそれで充分だよ。俺の老後の心配まですることはない」

「まったく同じことを、あたしもこれまで繰りかえし言ってきたよね。あたしはもう一人で生きていけるから、心配しないで、って。でも、おじさんは一向に心配するのをやめない」

 朋香は、まっすぐに圭人を見た。

「同じように、自分を育ててくれた人を見捨てられるわけない。おじさんはあたしにそんな薄情な人間になれっていうの? そうすれば、あたしが幸せな人生を送れると本気で思ってるの?」

 まったく……

 もう、この四月で五年生か。あっという間だな、本当に。

 朋香の成長を実感しながら、圭人は降参、とばかりに小さく両手をあげた。

「わかった。せいぜい、周囲にあまり迷惑をかけない老人になるよ」

「だからその前に、素晴らしい奥さんときちんと結ばれて。格好よくて禿げないうちに、あたしが心配せずとも済むような素敵な女性と……あんなダメな奴のことはさっさと忘れるの。いい人は、世の中に沢山いるんだから」

 でなきゃ、いつまでもあたしが心配して、ずっと面倒みなきゃならなくなっちゃうでしょう、と朋香はまんざらでもない表情で呟いた。

 それからふと、真顔になる。

「それに今すぐ結婚してくれたら、もしかすると可能性があるかもしれないじゃない」

「可能性? なんの?」

「もしも生まれてくるのが弟だったら、十歳差? もう十一歳差か……でも今どき、充分に許容範囲だよね」

 なにを言いだすつもりか、と唖然とする圭人の前で、朋香は楽しそうに微笑む。

「姉さん女房で一回りは少しアレかもしれないけど……つきっきりで、最初っから自分好みに育てて、他の女になんか目が向かないよう徹底的にすり込めばいいんだし。そしたらおじさんは、晴れてあたしの本当のおとうさん、になるんだよね」

「まだ生まれる予定もない息子の人生を、勝手にそこまで決められると困るんだが」

 さっきは、一回り離れていたら懐いてもらえないかも、と不安がっていなかったか?

 ややげんなりとした気分になりつつ、圭人は沙耶子の指摘を思いだす。

 確かに。この年頃の女の子は、そこまで将来像を思い描ける程度には大人なんだな。

 ならば、自分が直接圭人と結ばれる状況を想像していないわけがない。

 そして同時に、自分の未来予想がどれほど幼いかを気づけない程度には子供である。でなければ、世の女性の大半は幸せな花嫁さんになっているはずだ。

「まぁ、いろいろと判ったよ」

 圭人は頷くと、家族についての話はひとまずそこで打ち切った。

 そして、五年生になるにあたって、何か用意が必要なのかを訊ねる。それは単に話を逸らす口実ではなく、その準備もこうして駅前にでてきた理由の一つだった。



 牡蠣フライを食べつつ朋香と雑談しながら、圭人は脳裏で改めて考えた。

 それにしても、自分が去った後に、俺が一人残されるのは困る、か。道理だな。

 確かに、将来朋香の負担になるのは圭人の本意ではない。しかし、そんな理由で朋香が結婚を望んでいるのかも、と想像したことはなかった。まだまだ、子供だとばかり思っていたのだ。

 つまり、朋香は単に弟妹が欲しいわけじゃなかった。むしろ、自覚していなかっただけで、新たな家族を欲していたのは最初から自分かもしれない。朋香一人でもこんなに生活が愉快になるのだ。もっと沢山子供がいたら、更に人生は楽しいに違いない。脳天気かもしれないが、婚活をはじめてから、そんな家庭を幾度も想像した。

 だから、結婚しようと本気で望んで、婚活をした。もっとも望んでいる、血の繋がらない子供を得るには特別な幸運が必要だから。

 家族が増えたら、朋香もより幸せだろう。自分だって、子供か妻かは問わず、誰かが側に居てくれたら嬉しい。

 自分が結婚したかった理由は、大体そんなところだ。

 けれど、

 ……それだけなら、必ずしも結婚でなくてもいいんじゃないか?

 親と、彼らから引き継いだ遺伝子は嫌悪していたから、そもそも血縁に執着はなかった。考えが及んでいなかったけれど、新たな家族が欲しいだけなら、それが子供である必要はないのかもしれない。そうなれば妻という形式の女性も不要になる。

 なにより、婚活を続けている最中、新たな家庭を望む多くの男女と出会い圭人は実感してもいた。結婚はしたい。もっと沢山の誰かと暮らしたい。でもそれはあくまで生活の潤いが増えて日々が楽しい、という素朴な欲求が発端だ。

 しかし圭人と同様に婚活している人の多くは、もっと結婚に対して真剣、というか人生において家庭の占める比重がはるかに大きかった。

 けれど自分には研究もあれば朋香もいる。こんなにも望んでいるにもかかわらず……新たな家族や妻との関係を、単純に、人生の一番目にはできない。

 そんな自分が結婚を望むのは、やはり我が儘かもしれない。

 婚活中、自分と似たような価値観の相手には、結局、一人しか出会えなかった。もっとも、互いの望む将来像はまったく正反対だったけれど。

 研究が第一、結婚や恋愛はその次だから子供は必要ないと公言した唯一の女性……その人について思いだすと、何故かどうしようもなく、心が鈍く痛む。

 ……あれから、どうしているのかな。

 康本麻衣は宣言どおり、『だけこん』の場も含めてあの日以来一度も、圭人の前に姿をみせていなかった。



 夕食を食べ終え、デザートを頼んでいると、朋香は突然、圭人の脇をつついた。

「おじさん、今日はなんだか心ここにあらずだね。考え事?」

 図星をつかれ、圭人は狼狽えた。

「いや、そんなに」「あたしが今、デラックスパフェ頼んでも止めなかったじゃない」

 朋香はメニューを指さす。圭人は認めざるをえなかった。

「……まあ、少しな。だったら朋香、ちょっと訊ねてもいいか」

 いまさら、朋香相手に言い訳しても始まらない。それに、今日は最初からそれを問うつもりで来たのだ。覚悟を決めるいいきっかけでもあった。

「さっきの話だけどな……本当に、俺が結婚してもいいのか?」

「考え事って、やっぱりそれ?」

「そりゃ、大事だからな」

「もちろんいいに決まってるじゃない。だって最初にそう言いだしたのはあたしだよ」

 朋香は頷くと、突然、無邪気な笑みを浮かべた。

 そして小首をかしげて、涼やかな声で訊ねる。

「でも……誰と?」

 ……えっ?

 圭人は絶句した。

 唐突な朋香の質問に驚いたのもあるが、即答出来なかった自分に、より動揺していた。

 誰と、って勿論……

 だがそれは、禁断の……圭人がずっと意識から逸らし続けていた問いだった。

 しばし、朋香と見つめ合う。

「……あたしは、やっぱり麻衣さんの方が好きかも」

 やがて、朋香はポツリと呟いた。

「でも、沙耶子さんの方が、ずっとお母さんっぽい気はする」

「かもな。でも……つまり、朋香にとってはどちらも悪くないんだな」

 圭人は、急いで朋香の言葉を引き取った。それ以上、朋香の希望を訊ねるのはルール違反な気がした。意見は尊重すべきでも、最後は圭人が決断せねばならない事柄なのだから。

 同時に、強く自覚した。

 さすがに四年間、共に暮らしてきただけのことはある。朋香の指摘はどうしようもなく正しい……自分は、二人のどちらにも、惹かれている。

 沙耶子だけでなく、麻衣にも。

「二人とも俺には勿体ないほど出来た人だ。朋香とも、上手くやれるだろう」

「キャラは見事に正反対だけどね。でも、確かにおじさんの言うとおりだと思うよ」

 朋香はからかうように笑った。

「っていうか、ありえないよね。おじさんがあんなに美人で賢くて素晴らしい女性に二人も巡り会うだなんて。沙耶子さんなんて、完全にその気だし。麻衣さんはもっと脈ありだし」

「いや、康本さんに脈があるかどうかは……しかしまったくだ。本当に俺には分不相応な相手だよ」

「そこまで謙遜しなくていいから。あたしのおじさんなんだよ。もっと堂々としてて」

 圭人が心底同意すると、朋香は不機嫌そうに顔をしかめる。

「本当は、こっちが結婚してやるんだ、くらい強気でいいの」

 どうやら、複雑な娘心らしい。

「でも沙耶子さんはともかく……麻衣さんは最近、あたしがメールしても、返事が微妙に冷たいんだよね」

 ふと朋香は口調を変えると、表情を曇らせた。

「会いたい、って連絡しても、なにかと理由があって結局立ち消えになっちゃうし」

「きっと忙しいんだろ。ちょうど年度末だしな」

「おじさんと、何かあったの?」

 露骨に説明を流して、朋香はじっと圭人を見つめる。圭人は観念した。

「なにもないよ。ただ……俺と沙耶子さんとのお見合いを、康本さんはもう知ってる」

「……そうだったんだ」

 一言呟くと、朋香は黙りこんだ。

「それは……仕方がないね。あたしがしつこくメールして、迷惑だったかなぁ」

「朋香のことは変わらず好きだと思うぞ。ただ、ああいう人だからな。俺たちに気を遣ってくれているんだよ」

「だといいけど。おじさんがこのまま沙耶子さんと結婚したら」

 朋香は淋しそうに肩を落とす。

「二度と、会えないかもね」

 圭人にも返事のしようがなかった。

 本当に……もう会えないのか。

 それは、圭人もまったく同じ想いだったからだ。

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